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6.IN THE DARK

その名の元に死は履行するか

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「ーーウォアムリタクーシャ」





 その潤んだ赤い唇が紡ぐその名前は。

 全く聞き覚えのない不思議なイントネーション。

 その名があまりにも邪悪な存在のため、人間の舌と唇では発音不可能だったのだろうか。

 その呼び名は、恐怖の深海から響く波の音や、宇宙の黒い混沌の虚無から漂う奇妙な振動のように聞こえた。言葉では表現しがたい不可思議な存在であり、その存在をほんの少しでも思い起こすことは人間の精神に深い傷を残すのだろう。

 実際その名を聞いてしまったオレは狂っちまいそうだった。

 電脳体となった薄っぺらな脳髄に直接侵蝕してくる恐慌と快楽。頭の中身が漆黒の泥と一緒にぐちゃぐちゃ掻き混ぜられている感覚。

「わらわの美しき名に惚れたかや?」

 彼女は至極満足げにふふふんッと鼻を鳴らす。オレの精神汚染なんて気にも留めていない。

 彼女の名前は。

 失われて久しい蠱惑的な契約の物語。

 誰も、そう彼女自身すらもそれを読み解くことを望んでいない。

 名前を呼ぶことすら忌々しい伝説。

 それは、なんと寂しいことだろうか。いや、それすらも彼女の望んだことなのか。

 どんな物語だったのだろうか、こんなやつが主人公の神話なんてロクなもんじゃないだろうけど。

 けどさ。

 何かを言おうとした。何を言おうとしたのかはわからない。とにかく何かをこいつに言ってやりたかった。口を開く、ごぽりと闇に気泡が浮かぶ。

 その瞬間。

「…………は?」

 びしり。身体にヒビが奔る。

 安っぽいエフェクトのノイズに似ている。違うのは、それが激しい痛みを伴うことだけだ。言葉は簡単に壊れて消えた。

 ひび割れは次第に全身へと広がり、苦痛は増幅していく。

 電脳体のクセに身体が傷付いていく。たとえようもない痛み。身悶えようにもこの虚無しかない闇の中ではただじたばたと足掻くことしかできなかった。ひたすら水中を沈んでいくように。

「おほほ、魂魄の損傷は酷く痛いぞ。その傷口は癒えることがないからの」

 無様に喘ぐオレの様子をただ見下ろすだけ。右手の広い袖で口元を隠したその表情は読み取れなかった。まあ、少なくともオレを心配している様子じゃないのは明らかだったけど。

「然して。主はどうするのかや? このままわらわと一緒に久遠の闇におるのかや? うふふ、わらわはそれでも一向に構わぬが」

 アウラは全てを抱擁せんとその両手を広げる。薄い布をふわりと羽織っただけの煽情的な身体がオレを優しく迎え入れようとしている。この身体に無心でむしゃぶりつければどれだけ退廃的に救われようか(あるいは破滅するか)。

 その誘うように甘美な声音はひび割れた脳髄によく染み渡る。酷く透き通ってどろりと浸透するその音は。まるで、媚薬。

 だからこそ、その嬌声を掻き消すようにオレはぽつりぽつりと声を絞り出す。もうすでに身体の半分が闇に塗り潰されていて、だけど、その感覚は消失することなくひたすら癒えない痛みとして刻み込まれる。身体の内側が引き裂かれるような痛み。歯を食いしばっても耐えられないなら、その痛みと和解するしかない。

「……オレはメグリを守りたかった」

 誰にも言ったことのない。それは初めての吐露。

 なんでそんなことをこんなヤツに言おうと思ったのか、きっとこの痛みのせいだ。そうに違いない。

 そう、メグリを守りたかった。それだけがオレの存在定義だった。

 ただの自己満足だ。メグリがそれを望んでいるとは限らない。オレがそうしたい、それだけの自分勝手なエゴだ。

 実際、メグリは十分強い。

 この強いってのは、力が強いってことじゃない。いや、もしかしたらそうかもしれねえけど、そうじゃなくて、メグリは自分自身を律することができる。だから、誰にも負けないし、屈しない。退かないし、媚びないし、省みもしない。

 メグリはずっと強かった。メグリの弱いところなんて見たことなかった。

 だけど、オレにはその姿がなんだかとても不安で。

 だから。

「オレは生まれつき魔力がなかった。異常だった、人間工房で完璧にデザインされたはずなのに」

 この最先端の世界に間違いなんて起きない。そういう世界設定になっている。だけど、それでも。

「1万年に一度のあり得ないエラー」

 ずっと考えていた。

 オレはもしかしたら特別なんじゃないかって。

 でも、それは違った。いや、違ってはいなかった。けど。

 特別は特別でも、何も持たない方の特別だった。劣等上等、オレは何もできなかった。

「それでも、生まれちまったもんは仕方ないだろ? オレは今じゃあ標準搭載されたナノマシン精製器官、魔力炉がないまま、そして、身体改造にもビビっちまったまま、こうしてお前に嘲笑われている」

 魔力がないことで幼少期より抱いていた劣等感を吐き出す。

 もしかしたら、聖遺物を持つことでそれを打ち払えるんじゃないかと幻想を抱いた。魔力なんて後付けのデバイスでどうにかなるんじゃないかって。

 でも、それはもうできない。そんな考えは甘い幻想でしかなかった。

「そんなオレを、メグリはいつだって守ってくれたんだ、オレはどうしてもその恩を返したかった」

 それでも。

 結局オレは魔力を持てないままだった。

 オレはファンタジーに憧れたんじゃない、オレは本物の魔法使いになりたいわけじゃない。今のこの世界に魔法なんて必要あるわけがない。

 それなのに。

 目の前にいる悪魔みてえな女は現実で、それはオレが嫌っている物に他ならない。

 オレは幻想で現実を越えたい。オレを取り巻くこの絶望的な世界を変えたい。

 そうじゃなきゃ、このクソッタレな幻想の意味がない。

「なんじゃ、主も大切な人を守りたい、そんなつまらぬ願いのためにわらわを引き抜いたのか」

 アウラ、いや、ウォアムリタクーシャは小さく吐息。だらり、広げた両手を力なく下げてしまう。

 自分でもつまらない理由だと思う。

 幼なじみを守りたい。

 物語の主人公の動機としてはあまりにもありふれていてつまらない。

 それでも、どんなにそれを否定されても、ダサいって笑われても、それこそお前の物語はつまらないって言われたって、オレはどうやっても揺るがない。オレにはそれしかなかったから。

「なんじゃ、主、どうした? そなた、急にいい目付きになったじゃないか」

「なんだよ、覚悟が出来てんのはオレだけか? お前も契約上心臓に突き刺さってる限りは一心同体だろうが」

「うふふあははいひひ、わらわは主のそういう健気でいじらしいところが大嫌いじゃ」

 その言葉とは裏腹に、目の前の悪魔みたいな女は至極楽し気に口角を吊り上げていた。

「主はこの世界で唯一わらわを扱えるもの。つまり、この世界でただ一人の魔法使いじゃ」

「そんなのはどうでもいいんだ。オレはどうなってもいい、メグリを救い出す力をよこせ」

「良かろう、欲張りな主のために追加の契約を提示してやろうじゃないかえ」

 そして、提示された選択肢は。

 ひとつはオレを肉体の枷から解き放ち、世界を滅ぼす不朽の怪物として再契約する。

 ひとつは大切な物を犠牲にする。そう、たった今まさに救わんとしている幼なじみを犠牲に。

 ひとつは自身の死を肯定する世界の理の方を破滅させる。

 ひとつは物質の概念を超越したものとして別の位階の存在として彷徨うこと。

「……はは、サイアクだ、クソ悪趣味だ」

 思わず乾いた笑みが出てしまう。だってさ、それもそうだろ。

 考えうるありとあらゆる絶望的な選択肢。

「そのどれも享受した者はおらぬがな」

 そいつらは怖じ気づいたのか。いや、こんな契約は理不尽だって拒否したんだ。そして、そのままウォアムリタクーシャに呑み込まれた。それが弱さではなく確かにそいつらが選択した強さだったのだとオレは信じたい。

 それはそうだ、こんなのどれもこれも最悪だ。夢も希望のあったもんじゃない。

 それがウォアムリタクーシャの真の狙いだ。

 ウォアムリタクーシャはこれを望んでいた。

 契約こそが本質。

 破滅、という聖遺物。

 契約者の絶望のみを望むもの。

「はッ、いいぜ、再契約だ、オレの望むものをお前もよこせ」

「あはは、良かろう、契約成立じゃ!」

 オレがなぜこの現実を嫌っていたのか。

 オレはどうして幻想で世界を変えたかったのか。

 それは幼なじみを守ることができなかった自分が嫌いだったから。

「今度こそオレはメグリを救うんだ」

 だから、オレはその選択肢に手を伸ばした。
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