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8章:引退魔王敗れたり

ロリは万病に効く、患部に止まってすぐ溶ける

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 幼い声に顔を上げる。おっと、ついうとうとしていたか。三角座りのままでも眠りそうになるとは、この旅の野宿の賜物だな。

 それにしても、こんなところにも人間がいたのか。誰にも見つからないところまで逃げたと思っていたのに。これだから、どこにでも住まおうとする人間という生き物は。

「……少し休んでいる。迷惑だと言うならすぐにどく」

 見上げた先には、真っ黒で小汚い人間のカタチをしたゴミクズが心配そうに我の顔を覗き込んでいた。

 風呂にもまともに入っていないのだろう。ぼさぼさの髪に隠れた真っ黒な顔の中でぎょろりとした大きな目だけが良く目立った。鼻をつくような汗と磯の臭いに思わず顔をしかめてしまう。その小さき身にまとうずた袋のようなぼろ布は、見るも無残だと思っていた我の着物よりもさらにひどかった。

 かろうじて、その声音から少女だとわかる。我よりもずっと幼い。人間でいうところの6歳くらいではないだろうか。

「ねえ、あたしの家で休んでいきなよ。お姉ちゃんぐあいわるそうだよ」

「……ありがとう」

 どうすることもできなくて、でも、どうにかしなくてはいけなくて、そんな気力はもうどこにもなくて、だから、我はふらふらと少女に付いて行くことにした。特に理由はない、この状況から何かが変わればいいと、そう思っただけ。

「これ、やるよ。我にはもう必要ない。貴様が着ろ」

「わあ、こんなにきれいなきもの、いいの?」

「我の身体はそれだけで至宝。何も恥ずべきことなどないのだ」

 ほとんどパンツ一丁でバ美肉しただけの元男が何言ってるかと思うが、そうでもしてないと屈辱で頭がどうにかなりそうだったのだから仕方ない。

 人間の小娘は我の言葉がよくわからなかったのか、きょとんと首を傾げると、とりあえずそのぼろ布を脱ぎ捨てて、裾が破れてしまった赤い着物を纏った。うむ、あれよりは大分マシだろう。グロリアがいれば、謎の裁縫技術であっという間にこやつ用に仕立て直してくれるのだが、今はこれでいいだろう。

 人間はとても嬉しそうに自身が着るには少し大きめな赤い着物の裾を引きずりながら、ぱたぱたと砂浜を駆ける。

 恩、か。人間にかける慈悲などないが、この弱った心にはこの少女の無邪気な優しさがじんわりと沁みた。人間は駆逐されるべきだとは今でも思っているが、たまにはこういうのも良かろう。

「ようこそ、あたしんちへ!」

 それは、家と呼んでいいものなのかどうか。

 崖に接するように建てられたほとんど崩れかけた木の柱に今にも潰れそうな屋根が辛うじて乗っかり、岩や草が壁の代わりになっているような粗末なものだった。

 入口なんてあってないようなものだ、岩をよじ登るようにして中に入ると、中は崖に空いたほら穴となっていて案外広かった。それでも、光の入らないほら穴には、何に使うのかわからないガラクタや干からびた魚が無造作に置かれていて狭く感じた。

「おい、人間」

「あたしのなまえは、イサナだよ」

「イサナ、他の家族はいないのか? 貴様のような人間の小娘がひとりで暮らしているのは何故だ?」

 人間は弱く、群れて生きるものだ。それが幼きものならなおさら、大人に頼らなくては生きていくことは難しいだろう。

 ここにはイサナ以外の人間の気配がない。このようなほら穴で生きていくにはイサナはあまりにも幼すぎる。

「あたしが赤ちゃんだったときにお父ちゃんとお母ちゃんはリーゼ様にころされたの。お兄ちゃんもいたんだけど、お兄ちゃんも魔物にころされたんだ」

 俯いたイサナの表情は垢だらけでよくわからなかった。

 なんとなくそういうことだろうとは思っていた。

 我はそれに対して憤ることも、共感することもしてはならなかった。

 我こそが諸悪の根源、イサナの両親と兄を殺した魔物の王なのだから。

 ああ、だから、我は人間と交友を深めてはいけなかったのだ。

 必ず後悔する。

 自身の覇道を省みてしまう。

 これで良かったのかと自答してしまう。

「それならば、我は一体どうしたら良かったのだ」

 ため息のような我が言葉は、か細く、だけど、このほら穴ではよく響いてしまった。まるで、波紋のように我が胸の内に広がる後悔のように鬱陶しく反響する。

「イサナ、貴様はここに両親や兄を殺した奴がいたらどうする?」

 イサナは首を傾げてほんの少しだけ考えてから、あっさりとこう言い放った。

「どうもしないよ。あたしは生きていくのにいっぱいいっぱいだから」

 イサナは日々の生活に心も身体もすり減らしながら必死に生きていた。

 こんな質問自体が愚かだった。

 このか弱き少女はもはや自らの運命をそういうものだと受け入れているのだ。

 肉親を殺され、こんなほら穴で魚を獲って生きるだけの自身の運命を。

 それに比べて我はどうだ。

 一瞬でも赦しを請おうと愚かな質問をしただけではないか。我が誇りはこんなにも薄っぺらいものだったのか。

 こやつのような気高き魂を地に堕とそうとした我は、ただの薄汚い売女ではないか。

 それならば、共に抗えぬ運命の者同士、少女の救済を嘯くことすら我はできるのだろう。

「貴様が良ければ、我と共に来ないか?」

 一時は絶望に胸が押し潰されそうだった。もう歩けないと膝を抱えた。

 それを救ってくれたのは確かにイサナだった。

 イサナは何もしていない。この家は我にとって心休まるところではなかった。イサナがしてくれたのはただ、我をここまで導いたことだけだった。

 イサナは目の前に差し出された我の手と、突然の提案に戸惑っているようだった。それもそうだ、さっきまで行き倒れそうだった女が急に自分のことを旅に誘うのだ。過酷な境遇を生きてきた幼き少女にはずいぶんと難しい選択だろう。

 だけど。

 イサナはゆっくりと我の手を取る。自身の選択が正しいのか間違っているのかわからないままに。

 我は、その小さくて今にも折れてしまいそうな真っ黒な手をきゅっと握る。イサナの手はとても小さく、だけど、確かに力強く。

「そうだ、言い忘れていたが、我の真名は、魔王……」
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