63 / 73
恐るべきもの
しおりを挟む
「殺した」
その単語が耳に飛び込んできたとき黒曜はしばらくかたまっていた。
黒曜は軍人の娘だ。子供のころから家に出入りしているうちのかなりの数の人間が、殺人の経験があるはずだ。
いまさら人を殺した経験のある人間が現れてもどうってことないと思っていた。
だが、その対象が、自分と敵対関係になるかもしれないとなると話は違う。
黒曜と翡翠は皇帝の寵愛を争う敵対関係だ。
事実上絶対的な戦力差があり、それは成立していないが。
そして、たおやかなどこか寂しげな顔をしたその女が人を殺せるその事実が理解できなかった。
珊瑚は、人を殺せと命じることはできるだろう。しかし、自ら武器をとって、人の心身を傷つけ死に至らしめることができるかどうかはどうだろう。
だが翡翠はやったのだ。
翡翠は煮えたぎるような憎悪の視線を受け、それを何の感情も交えない冴え冴えとした目で見返していた。
凍り付いたように二人の男女は見つめ合っている。
二人の間にあるものは片やふつふつと吹き上がらんばかりの憎悪。方や凍てついた沈黙。
あんな目でにらまれたら自分ならその場で泣いてしまう。しかし、翡翠は悠然と相手を見返している。
「あの方を殺めた罪を償ってもらう」
その時翡翠は目を伏せた。
「そうね、あの時のことを、私はずっと悔やんでいたわ」
「だがもう遅い」
男は一歩踏み出した。
その背後に翡翠についていた妓女がいた。
あの妓女は翡翠にずいぶんと信頼されていたはずなのに。翡翠を裏切ったのかと黒曜は呻く。
そして、このままでは翡翠が殺される。そして、どうしてこんな場所に自分がいるのかということに非常に説明が難しいことに気づいた。
下手すれば、翡翠殺害の濡れ衣を着せられてしまうかもしれない。
妓女も一歩進む。そして、笄を引き抜くと男の足首めがけて投げた。
踵に深々と突き刺さる笄に男は体を傾ける。
次に翡翠が自分の笄を引き抜き男に向かって投げた。
今度は左目に刺さる。
悲鳴は上がらなかった。恐るべき精神力でそれだけはこらえる。そして立ち上がろうとしたときまた誰かが入ってきた。
「こいつの仲間は片付いたぞ」
見覚えがある、黒曜の父がつかっていた配下の男達だ。
「そうよ、ずっと悔やんでいたわ、あの男を殺した時、たった一撃で頭をたたき割っておしまいだった、そのことをどれほど私が悔やんだかわかる?」
聞いていた黒曜は冷たい汗が背筋を流れるのを感じた。
薄々、翡翠の話している内容が理解できたのだ。
首都を襲った反乱軍の顛末だ。
首謀者は民衆の反撃にあって死んだと伝えられた。黒曜は軍人の娘ではあったが、深窓の令嬢として、屋敷の奥深くで、そうしたことは伝聞でのみ聞いていた。
「そこにいる女は、お前達が殺した男の娘。お前達が殺した女の娘。お前達が殺した女の妹。お前達が殺した子供の姉。それがどうすれお前達の味方をすると思うのかしら」
翡翠はいつも寂しげで微笑みすら憂いを帯びていた。もし晴れ晴れと微笑めばどれほど美しいかと思っていた。
しかし今晴れやかに笑うその笑顔は、美しいのに、とてつもなく恐ろしく映った。
とてつもなく恐ろしいものがそこにいた。
その単語が耳に飛び込んできたとき黒曜はしばらくかたまっていた。
黒曜は軍人の娘だ。子供のころから家に出入りしているうちのかなりの数の人間が、殺人の経験があるはずだ。
いまさら人を殺した経験のある人間が現れてもどうってことないと思っていた。
だが、その対象が、自分と敵対関係になるかもしれないとなると話は違う。
黒曜と翡翠は皇帝の寵愛を争う敵対関係だ。
事実上絶対的な戦力差があり、それは成立していないが。
そして、たおやかなどこか寂しげな顔をしたその女が人を殺せるその事実が理解できなかった。
珊瑚は、人を殺せと命じることはできるだろう。しかし、自ら武器をとって、人の心身を傷つけ死に至らしめることができるかどうかはどうだろう。
だが翡翠はやったのだ。
翡翠は煮えたぎるような憎悪の視線を受け、それを何の感情も交えない冴え冴えとした目で見返していた。
凍り付いたように二人の男女は見つめ合っている。
二人の間にあるものは片やふつふつと吹き上がらんばかりの憎悪。方や凍てついた沈黙。
あんな目でにらまれたら自分ならその場で泣いてしまう。しかし、翡翠は悠然と相手を見返している。
「あの方を殺めた罪を償ってもらう」
その時翡翠は目を伏せた。
「そうね、あの時のことを、私はずっと悔やんでいたわ」
「だがもう遅い」
男は一歩踏み出した。
その背後に翡翠についていた妓女がいた。
あの妓女は翡翠にずいぶんと信頼されていたはずなのに。翡翠を裏切ったのかと黒曜は呻く。
そして、このままでは翡翠が殺される。そして、どうしてこんな場所に自分がいるのかということに非常に説明が難しいことに気づいた。
下手すれば、翡翠殺害の濡れ衣を着せられてしまうかもしれない。
妓女も一歩進む。そして、笄を引き抜くと男の足首めがけて投げた。
踵に深々と突き刺さる笄に男は体を傾ける。
次に翡翠が自分の笄を引き抜き男に向かって投げた。
今度は左目に刺さる。
悲鳴は上がらなかった。恐るべき精神力でそれだけはこらえる。そして立ち上がろうとしたときまた誰かが入ってきた。
「こいつの仲間は片付いたぞ」
見覚えがある、黒曜の父がつかっていた配下の男達だ。
「そうよ、ずっと悔やんでいたわ、あの男を殺した時、たった一撃で頭をたたき割っておしまいだった、そのことをどれほど私が悔やんだかわかる?」
聞いていた黒曜は冷たい汗が背筋を流れるのを感じた。
薄々、翡翠の話している内容が理解できたのだ。
首都を襲った反乱軍の顛末だ。
首謀者は民衆の反撃にあって死んだと伝えられた。黒曜は軍人の娘ではあったが、深窓の令嬢として、屋敷の奥深くで、そうしたことは伝聞でのみ聞いていた。
「そこにいる女は、お前達が殺した男の娘。お前達が殺した女の娘。お前達が殺した女の妹。お前達が殺した子供の姉。それがどうすれお前達の味方をすると思うのかしら」
翡翠はいつも寂しげで微笑みすら憂いを帯びていた。もし晴れ晴れと微笑めばどれほど美しいかと思っていた。
しかし今晴れやかに笑うその笑顔は、美しいのに、とてつもなく恐ろしく映った。
とてつもなく恐ろしいものがそこにいた。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
皇太后(おかあ)様におまかせ!〜皇帝陛下の純愛探し〜
菰野るり
キャラ文芸
皇帝陛下はお年頃。
まわりは縁談を持ってくるが、どんな美人にもなびかない。
なんでも、3年前に一度だけ出逢った忘れられない女性がいるのだとか。手がかりはなし。そんな中、皇太后は自ら街に出て息子の嫁探しをすることに!
この物語の皇太后の名は雲泪(ユンレイ)、皇帝の名は堯舜(ヤオシュン)です。つまり【後宮物語〜身代わり宮女は皇帝陛下に溺愛されます⁉︎〜】の続編です。しかし、こちらから読んでも楽しめます‼︎どちらから読んでも違う感覚で楽しめる⁉︎こちらはポジティブなラブコメです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
魔石交換手はひそかに忙しい
押野桜
ファンタジー
メーユ王国の2級文官、イズールは「お年寄り専門」の魔石交換手。
辺境勤務の騎士団第4団団長アドルとの一日一回わずかな時間の定期連絡が楽しみの地味な毎日だ。
しかし、ひょんなことから国一番の「謎の歌姫」をすることになってしまい……?!
後宮の偽物~冷遇妃は皇宮の秘密を暴く~
山咲黒
キャラ文芸
偽物妃×偽物皇帝
大切な人のため、最強の二人が後宮で華麗に暗躍する!
「娘娘(でんか)! どうかお許しください!」
今日もまた、苑祺宮(えんきぐう)で女官の懇願の声が響いた。
苑祺宮の主人の名は、貴妃・高良嫣。皇帝の寵愛を失いながらも皇宮から畏れられる彼女には、何に代えても守りたい存在と一つの秘密があった。
守りたい存在は、息子である第二皇子啓轅だ。
そして秘密とは、本物の貴妃は既に亡くなっている、ということ。
ある時彼女は、忘れ去られた宮で一人の男に遭遇する。目を見張るほど美しい顔立ちを持ったその男は、傲慢なまでの強引さで、後宮に渦巻く陰謀の中に貴妃を引き摺り込もうとする——。
「この二年間、私は啓轅を守る盾でした」
「お前という剣を、俺が、折れて砕けて鉄屑になるまで使い倒してやろう」
3月4日まで随時に3章まで更新、それ以降は毎日8時と18時に更新します。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
転生召喚者は異世界で陰謀を暴く~神獣を従えた白き魔女~
*⋆☾┈羽月┈☽⋆*
ファンタジー
両親を事故で亡くし、叔父夫婦のもとへ引き取られた少女・白銀葵。
遺産目当てだった叔父夫婦からは虐げられ、冷遇されていながらも
”家族として認めてほしい”
”必要な存在になりたい”
という淡い希望を抱き続けていた。
そんなある日、道路へ飛び出した子供を救うため命を散らした。
次に目を覚ました場所は神界。
時空の女神クロノスと出会い、葵は自身の魂に特別な力が宿っていることを知る。
その答えを探すため異世界へ転生することになり、シエル・フェンローズとして新たな人生を歩む事になった。
召喚の儀式中、何者かに妨害されて危険区域「ヴェルグリムの深森」へと飛ばされてしまう。
異世界で次第に明らかになっていくシエルの正体。
彼女の召喚が妨害された背景には、世界を揺るがすほどの陰謀が隠されていた……。
前世で孤独だった少女が異世界で出会った仲間と共に、隠された真実を暴いて少しずつ成長していく光の物語――。
ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活
天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる