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第三十五話
小さく、浅い溝
しおりを挟む「はぁ~……。」
マリセウスの過去の一部だけを聞いた翌朝。
ヘルメスは深いため息を吐きながら早朝のトレーニングをしていた。長い砂浜を何往復も歩いているものの、なかなか胸のモヤモヤが晴れない。
夕食のあとはジョナサンから貰った招待を快く承諾するとマリセウスはすぐに使いを頼んで明日の午後に訪問するよう王都にあるポラリス造船所に連絡を入れ、二人でマリセウスの部屋にておおまかな船の設計図を見せてくれた。
水流石は数カ所に入れて……その動線を確保するのに……ポンプというのを設置して……あとはこことかこことか……など熱心に説明してくれた。
夫はイキイキとしているし、ヘルメスも新たな魔法石の可能性を見るのはとても楽しみである。……それでもやはり、少し落ち込んでしまう。
(仕事が好きなのは知っていたのになぁー……。)
それまで気まずい空気にさせてしまった事が未だに申し訳なく思っている。生きがいなのだから仕方ない、私自身よりも付き合いが長いからと……まるで仕事が自分以外の女性に見えてきてしまい、ずっと胸がモヤモヤしてしまっていた。
眠りに落ちる直前でも、「私じゃ彼を癒せない」なんて引け目を感じてしまうほどにだ。そう思うとまた深いため息を吐いてしまうのだ。
大抵の悩みは歩いて解消出来る。不思議と足を踏み締めていると考えが前向きになり、風景を見ながら苛立ちや不安を和らげられるからなのだろうか。
それなのに、ずっとモヤモヤが晴れないでいる。
夫が元気になれて嬉しいはずなのに……私が無力なのがいけないのに……。
浜に足を踏みしめれば踏み締めるほど、ようやく大人になれたと思い込んでいた自分の浅ましさに爪痕を残すように足跡をつけていったのだった。
その朝はマリセウスと会うことはなかった。
汗ばんだ体を湯浴みで流し、髪も綺麗に乾かしてもらって身支度を整える。今日はあまりいい天気とは呼べない、厚い雲が空を覆っており初夏が間近だと言うのに少し肌寒い朝だ。
ヘルメスは朝食までの時間、いつもなら妃教育の復習をしているのだが、今日は珍しく窓の外をぼんやりと見つめていた。……きっとこの後の朝食で、彼はとてもにこやかにしているのだろう。だったら自分も、この気持ちとはすぐに別れるべきだ。
王太子妃ともなれば作り笑いのひとつも完璧に作らないといけない。今は感情を表に出さないことで取り繕う授業だと思わないと。ヘルメスは窓に映った自分の顔を見つめて、頑張って笑顔を作ることに専念した。
*****
「……という事だから、午後から私はヘルメスと造船所に行ってくるよ。」
「わかりました。護衛はこちらで手配しておきます。」
「いや、大丈夫だ。ジオード氏の所は元気が有り余る職人は多いが敵意はないからね。」
今朝の執務室。仕事をする前に朝礼は欠かさない。マリセウスは今日のノルマと他業務の進捗具合を側近たちと話し、作業分担で効率化を図る打ち合わせが終わると執務に取り掛かった。そして今日も妻の実兄であるグレイが見学にやってきていた。
「王都にも造船所があったのですか。」
「ええ。イフリッド領と王都、他に大きな港町がある数カ所に点在してまして。ここ王都は旅客船と交易船がメインですね。」
もし入港の際に何かあればすぐに修繕に取り掛かれる、とマリセウスは続いて言う。
イフリッド領に本社を構えるポラリス造船交易商は海運業や航海をする人々にとっては有難い存在である。船にトラブルが起これば瞬時に対応、完璧な修繕を施してくれて納得のいく仕事をしてくれる。最近の造船所は修繕費が格安の会社が多いが、手際よくやってくれるポラリスのが絶対に安心できると皆が皆、口を揃えてくれるのだ。
グリーングラス商会も外国からの輸入品を取り寄せるためにポラリスの造った船を注文するほどだ。とは言っても、若かりし頃のマリセウスが会頭をしていた当時は格安の造船所が乱立しているある種の群雄割拠時代、値段は高くても品質はそれ以上の船を売っていたとはいえ迷わずにポラリスから買うのは当時の造船部門の会頭も大変驚いたとの事。資金繰りが上手いとは言えなかったが、一括でポンと買ってしまうのはどうかと思ったが「長く使いたいから」とマリセウスは即断したのだ。
それからはポラリス造船交易商はひとつのブランドとして確立し、今では中流家庭向けに船のレンタルなど幅広く事業を展開している。そして今度は海運業の救世主になれるかもしれない船を造っているというのだから信頼は厚さが伺える。
「しかしどうして今まで魔法石を使わなかったのですか?」
「水流石は水道管などに固定して水の流れる方向を決めているのはご存知でしょう。それを舵で動かすとなると、流れが一定せずに転覆する事が多々ありました。」
ならばと考えられたのは、『船や船底に固定する』のではなく『その都度、流れの決まっている水流石を変えればいい』という奇抜な発想が出たのだ。
例えば直進するのであれば真っ直ぐな水流を発生させる石を船底に浸けておき、方向転換する際は横向きの流れの石に切り替えて、十分に曲がり切ったのならば再び直進の石に戻して進むというものだ。
人力と違って時間のかかる方向転換ではあるが、人手不足の船には十分な機能とも言える。
「それに今まで船に魔法石を使わなかった理由が、神域から抜け出してしまう可能性があったのもありますね。」
「神域?」
「ええ。アスター大陸の海から離れると神秘の恩恵が無くなるのですよ。」
海神ファ・ゼールはアスター大陸のみに恩恵を与えている。魔法石はひとたび大陸に与えている恩恵の領域から出てしまうとただの石となり力を失ってしまう。
しかも魔法石を始めとする神秘を領域外へと持ち出そうとするならば天罰が下るともされている。……恐らく『天罰』のくだりは神秘を持ち出さないよう警告文の役割で広めているかもしれないが、どちらにしろアスター大陸でしか魔法石は使えない。
「意図せず神域外から出てしまうと問答無用で海神に罰せられてしまいますからね。だから今回は調査を重ねた結果、決めたラインよりもずっと陸側を走行して船のテストをすることにしました。」
……天罰を信じる王太子の話を聞いているグレイ。
妹に授けられた加護は信じているが、神の存在そのものは信じてはいなかったりする。
しかし神秘を支えにしている大陸、それも神秘を信仰している王家ならば信じている前提で話しているのだろうと思い、グレイは否定することなく「そうでしたか」と頷くだけに留めておいた。神秘が当たり前になってしまうと、どうも信仰心以前に恩恵を忘れがちになるのは人間の悪い所ではある。
「よろしければ義兄上もご一緒にいかがですか?」
昨日は執務を早々に切り上げて、体調を崩してしまったヘルメスの心配で不安に染まっていた顔色が打って変わって晴れやかなものとなっていた。
あの後、グレイもまたヘルメスを見舞うために足を運んでいたのだが既に義弟はそこにはいなかった。
最も、侍女たちも部屋の外に出されてしまっており二人だけで話しているのだろうとグレイは直ぐに入室するのを諦めて外で待機していたため、目を晴らしたマリセウスを見ることはなかったのだが。
妹に会えたのは暫くしてからだった。いつも元気で満ちているヘルメスは少しばかり沈んでいたが、思っていたよりも顔色はよかったため安堵した。
何かあったかの経緯は大体わかっていたから深くは尋ねような真似はしなかった。だけども、どこか心ここに在らずとした表情を見ると義弟と何かあったのかは気がかりになってしまった。もどかしい気持ちのグレイを察したのか、それとも吐露して胸を軽くしたかったのかヘルメスは溢した。
「好きな人を励ますのって、難しいんだね……。」
その吐露にグレイは何も返さなかった。意図したものなのか、独り言だったのかわからないというのもあったが……なんとなく、反応していけない気がしたのだ。
「……そうですね。折角の機会ですから、ご同行します。」
昨日のことを思い返しながらグレイはご機嫌な義弟から誘いを受けた。
それにしても嬉しそうですね、と思わず尋ねると照れくさそうに答えた。新たな魔法石の活用術が見出せた上にそれが実現したこともそうだが、何よりもと声を強くして答えた。
「魔法石が好きなヘルメスならきっと喜んでくれると思うと……つい頬が緩んでしまって。」
「…………殿下は本当にヘルメスが大切なんですね。」
「はい、大好きですよ!」
眩しい。とんでもなく眩しい笑顔で即答された。
ヘルメスは彼になんて励ましを入れたのだろうか……ここまで元気になっているのだからさぞかし頑張ったのだろうなと、妹に対して少し鼻が高くなった。
しかし元気が有り余っているのか、ものの数十分で執務室は混沌を招かんばかりに忙しさで目まぐるしくなっていったのは言うまでもなく。
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