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第三十一話
怒って食べるは難しい
しおりを挟む午前中の妃教育はハンクス国内貴族の名前、その人物がどこの領主であるかの記憶力テストであった。それだけではなく、その領地の特産や主な産業、彼らの表立っている昨今のお家事情もある程度は把握しておかねばなるまい。別に他人の家なのだからそこまで踏み込むことは……と躊躇いがちだが、貴族である。彼らが困っていれば手を貸す。それが領民に影響すれば尚のこと。
ヘルメスは良くも悪くも真っ直ぐで、手を貸すだろう。だからこそ彼らは恩義が出来る。それを使わないのは勿体無い。だからこそ踏み込んで救済し、もし彼女が困り事があれば助けてもらえる。社交界というのは情報のやり取りで物事や繋がりを円滑に進めていくための必須スキルである。
そんな記憶力テストは辛うじて合格したものの、脳みそが疲労困憊のヘルメスを見て、さすがに思うところがあった教育係とターニャは昼食は自由にしていいとご褒美を与えた。……ただし、自由といっても良識の範囲内である。
「それでその、ここの豪快なメニューが前から気になっていたので……節度あるくらいの量ならいいかなと。」
「これだけの量に対して、節度も何もあったもんじゃないだろう。」
「兄さんだってサンドイッチ大盛りじゃない。」
「殿下だってそうだぞ。」
「マリス様はいいの、たくさん動くから。」
マリセウスを持ち出して大盛りであることの正当性を訴えるものの、確かによく動いてよく働く人はエネルギーを多く消費する。妥当な量かもしれないが、だからといってヘルメスもいいとは限らない。
グレイはあれこれ軽い口喧嘩する前に取り皿を三枚とフォーク三本を貰って来て、ヘルメスの眼前にある山のようなスパゲッティを自分達へと分けていく。
見事な山脈であったランチは小さな丘になり、ヘルメスも萎んだように元気がなくなってしまった。「こうやって人間のエゴで自然は無くなっていくんだ……」などと恨めしそうな声が聞こえたが、落ち着いてほしい。山盛りスパゲッティは本当に自然豊かな山ではない、食べ物である。
そんな萎んだヘルメスの隣にいる夫のマリセウスは、少し可哀想に思えたのだろうか自分が買った桃のコンポートをヘルメスにあげようかと手を伸ばしたが、それを見過ごすほどターニャは甘くなかった。咄嗟に「叔父様。」と一言だけで制されてしまい、桃は元の位置に戻された。
「……この後ドレスも着ないといけないからね。あまり食べすぎると、入らなくなるだろうし今日は我慢しようか。」
わかっています……。次がありますからね……。いただきます……。
マリセウスに宥められ、無理やり自分を納得させようと強がるつもりであったが思いの外、言葉に何もこもっていなかった。それだけヘルメスにとっては自由なランチは楽しみでもあったのだ。
時間も限られているし、食べて次のことをやらないと。切り替えるためにもとっとと済ませてしまおうと麺をフォークに一口分巻き、口に入れた。
それと同時に、先程の山盛りカレー(エビフライ三本付き)を運んでいた騎士はため息を吐きながら壁際の一人掛けカウンターテーブルに腰掛けた。
この騎士は近衞騎士に昇格したばかりの、謂わば精鋭の一員になった新人である。今回の挙式で華々しく王太子夫妻を教会で守護する役割を与えられると思っていたのだが、さすがにそれは時期早々だとダイヤー団長は判断し、披露宴会場警護の近衛兵第二班の指揮を担当することとなったのだ。
両親に晴れ姿を見せてあげられるかもと張り切っていただけにショックは大きかった。この後は各班との警備の打ち合わせもしなければいけないというのに、なかなか気持ちが上がらない。
気持ちが少し沈んでる……といえば、この食堂の周囲の先輩後輩、同僚たちも何かピリピリしている。
─で、フレッド団長は当日いないんだろ?ソリスト副団長が婚礼当日に指揮を執るとか。
─仕方ないよ。マリセウス殿下のご友人として出席するんじゃあさ。ソリスト副団長はフレッド団長より厳しいから気が抜けないよ。
─何やら噂では、あの反王太子派の前レイツォ伯爵が何か企んでるみたいでな。
─なるほど……最近、ダイヤー団長が妙に気を張っておられるのはそのせいか。緊張感が皆に伝わって息苦しいと言ったら……。
─それにしても忙しすぎるよな最近。八月のサンラン国への行事の準備だって満足に出来ちゃいないのに。
─なんかそのせいか、妙に苛立って集中出来なくてさ。どうしたもんかねぇ。
……やはり一大行事とだけあって疲労とストレス、それに緊張感も伝わってきている。
騎士自身も適度なガス抜きもしているとしても、周囲の空気に気圧されてしまい負のエネルギーに感染してしまう。王太子の婚礼の日までそう長くはないが、どこで誰が爆発するかわからない不安すらある。
(このまま結婚式まで乗り切れるだろうか……。)
騎士が一段と深いため息を吐くと同時に、遠く離れたテーブルにいるヘルメスは口に入れたスパゲッティを転がした。
(……ん?)
ちょっとだけ芯が残っている麺は食感がとても良く、いつもよりよく噛んで楽しんでしまう。加えて噛めば噛むほど味が口の中に広がり、適度なオリーブと塩気が食欲を加速させる。そのままミートボールをひとつ口に入れると……。
(小さいハンバーグみたい……。)
ほどよく小さなコゲがついている上にデミグラスソースも絡まり、中の玉ねぎも十分炒めているのか甘さもあり肉もジューシー。
こんなに量の少ないものなのに凄く満足感がある。よく噛んで味わい……いつも以上に噛む回数を増やして口内で美味を充満させる。そして味がなくなり飲み込んだ。
(美味しい……。)
感想は口にせずとも、どうやら表情に出ていたらしく隣にいる夫はにこにこと頬を緩ませて見ていた。おまけに自分の分のミートボールもひとつだけ皿に入れてしまうくらいには心が弾んだらしい。いつもなら両親にダメだと強く言うのに、こういう時のマリセウスは本当に甘い。
ヘルメスのたった一口のそれを見ただけで和み、叔父がついつい自分のミートボールを分けてしまう行動に呆れつつもターニャは小さく笑い、グレイもまたほっこりとしてしまう。……うっかり取り分けたはずのスパゲッティをまた妹にあげてしまいそうになる衝動に駆られるが理性が勝って押さえ込んだ。
ほんわか、幸せを感じる……。
(ん?)
カレーを一口した途端、騎士は不思議に思った。
いつも大きな鍋に豪快に作られている食堂のカレーは塩が入っているのかと言うくらいにしょっぱいが、そのしょっぱさが妙に美味く感じる。
エビフライも衣が分厚くて身が小さいのに、それがどういうわけか「これが良いんだよな」と感じるほどに味わえる。
─……ソリスト副団長は責任感強いから厳しくもなるよな。
─当日は負担を背負いがちになるだろうし、俺たちも頑張らないと駄目だな。
─我々の仕事は王族を守ることだ。かえって本領を発揮できる良い機会に恵まれたと思えばいいさ。
─それこそ僥倖。国内外の来賓に近衞騎士の素晴らしさを魅せて差し上げましょうぞ。
─……なんか色々考えると疲れるし、今は目の前のことが出来ればいいよな。
─そうだね。なんでネガティヴなことばっか考えちゃったんだろうね。今日は早く帰れそうだしリフレッシュしよう。
騎士がカレーを美味く感じると同時に周囲のピリピリした空気が途端になくなり、皆が物事を前向きに捉えるようになっていた。
(……焦ったら仕事が満足に出来ないもんな。)
一歩一歩確実に、誠実に。
大盛りのカレーをかき込んだ騎士は皿を返却カウンターに置いて、早めに打ち合わせの準備に取り掛かるために早足で去っていった。
ヘルメスはその間も、昼食をよく味わって幸せな気分に浸かっているのは言うまでもなく。
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