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第三話
その紳士の名は、
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ヘルメスは叩いた右手を自分の胸に置いて左手でそれを押さえた。じんわりと熱くなり、ところどころビリビリと痺れ始めた。相手とは痛み分けかもしれないが、自分の後ろで泣いている子のがよほど痛いはずだ。自分なりに頑張って睨みつけた。
「……人の叩いたのは、これが初めてよ。」
ヘルメス自身、自分に対する誹謗中傷は最初こそ傷ついたし泣きそうになった事が何度もあり、そして怒りを沸き上がらせた時もあった。でもそれ以上の事はされてはいないし、これは怒るべきなのだろうかと悩んだ事もあった。反撃されない所から小言を言われるだけだと相談したら、「反撃してこない相手を狙っているだけの大したことがない人間」なのだと、兄やメイド達に教わった。それに加えて、「彼らを相手にするだけ無駄なんだよ」と両親からも言われていたので、ヘルメスは何を言われても「今日もカラスがうるさい」「いつか来る懐中時計の人に慰めてもらえるもん」くらいに捉えられるように心を強く辛抱させていたのだ(だがさすがに実害が出たら即報告してくれと強く言われている)。
しかし、今回は我慢がならなかった。自分を慕ってくれて、悪い事は悪いと勇気を出して言い返してくれた子が暴力を振るわれたのだ。
マリスが一種の恐怖による怒りなら、ヘルメスの怒りは純粋な正義感から湧きだしたもの。手を上げるのは正しいとは思ってはいない。それでも叩いたのは、彼女を暴力で押さえつけて解決を図ろうとする、その傲慢な態度を改めさせねばならない義憤からだった。
これで反省してくれれば……などとは思わないほうがいい、なんせ今、相手はまだ怒りの真っ最中。冷静になれるほど大人ではなかろう。
「ッ!俺だって、女に殴られるのは初めてだ!!」
男子生徒が怒り任せにヘルメスの腕を掴んで引っ張り、殴り返そうとしたその時「やめないか!!」とその手を振りほどいて止めに入ってきてくれたおかげで、なんとか難を逃れた。
「父上!離してください!!こいつは俺の事を殴ったのですよ!?」
「お前が自分の婚約者である子爵令嬢に手を上げたのがそもそもの原因であろう!彼女たちのせいにするとは、なんと愚かしい!!恥を知れ、このバカ息子!!」
自分の父親に説教をされた事によって一気に意気消沈したのだろう、うっ、と漏らして途端に落ち着いた。それを見たヘルメスはほっとするも、泣いて倒れている女子生徒をなだめようと彼女に近づく。見ればさっきまでの可愛らしい頬が酷く腫れていて、叩かれたと同時に口を切ったのか小さく血が流れている。
……これは早く保健室へ連れて行かねばなるまいが、ヘルメスは侯爵令息に手を上げてしまった。伯爵令嬢の自分がそんな事をすれば家にとんでもない迷惑をかけてしまうとわかっていたはずだというのに。しかもタイミングよく侯爵もそこに居合わせていたのだ。これは大事になるのは確定された。
「でもどうせ勘当されるのなら、彼女を優先しよう」とヘルメスの考えは至った。ベティベルとレイチェルと共に彼女を保健室に連れて行くことを選ぶと、後ろから声をかけられた。ああ、侯爵に怒られる……と思ったが、その声は聞き覚えがあった。
「ヘルメス嬢!大丈夫かい?」
「ま……マリス様?」
物陰から飛び出した主をやれやれとした顔で追ってきたジークも一緒にいる。これにはヘルメスも大いに驚いた。
それと同時に、もしかしたら侯爵令息に手を上げている自分の姿を見られてしまったのかもしれない。途端にヘルメスの頭は真っ白になり、勘当されるならまだしも、マリスから婚約破棄をされるのではないか……いや仮に見られていなくとも、父を通して彼の耳に入るのは確実。どちらにしろ、彼に嫌われてしまうのだと勝手に結論を出してしまった。
「あのその、ご、ごめんなさい……私、」
「あ、ああすまない。そうだな、彼女を保健室に連れて行くのを優先した方がいいだろう。呼び止めてすまない。」
「そ、そうですけど……そうじゃなくて。」
嫌われてしまったと思い込んだヘルメスはしどろもどろになってしまっている。
その様子を見たマリスは「驚かせてしまったのだろう」と思い、女子生徒を保健室に連れて行くのを勧めた。同じく女子生徒を介抱しているベティベルも「そうしましょうヘルメス、レイチェル」と声をかけて足を進めようとする。
「あの、マリス様……。」
「……彼とそのお父様になら、私が話し合いをするよ。間違っても伯爵にご迷惑をかけないさ。」
ヘルメスの心配事を察したマリスはそういうと彼女たちを送り出した。そして遅れながら、息子を説教中の侯爵に腰を曲げて挨拶をする。
侯爵も礼をして、息子の非礼を詫びるとともに無理やり令息の頭を下げさせた。しかし、侯爵はマリスの顔を見やると何かを思い出したのか、どんどん顔が青白くなってきたのだ。
令息はそんな父親の変化を目の当たりにしたものの、目の前にいる平民……いや、身なりはそれなりにいいが資産家か何かだろうか?とにかくこの中年は何者なのかさっぱりわからずにいる。すると「何故父はこの男に怯えているのか?」という疑問も湧いて出る。
「……父上、あの方は何者なのです?平民とは思えないのですが。」
「ばっ!ばかもん!!まさかお前、この御方をご存知ないのか!?折角家庭教師も雇って、経済の勉強もさせているというのに……!」
「まぁ、ご存知ないのも無理はありませんよ。……ここで話すのもなんでしょうし、学院長に頼んで応接間でもお借りしましょう。」
令息はなんの事かさっぱりわからず、父と共に学院長室へと歩み出す。勿論、案内しているのは侯爵。
なんで侯爵にわざわざ案内をさせているんだ?そんなにこの資産家は貴族より偉いのか?侯爵令息は、その紳士にだんだんと苛立ってきた。ようやく静まった怒りがまた沸々と煮えかえってきたのだ。
応接間に入ったのならば開口一番に「なんと無礼な男だ」とでも吐いてやろうかと、侯爵令息は思ったが「いいか、絶対に粗相などするなよ。少しでもしたら、お前は勘当だからな!」と釘を刺されてしまった。一体なんでこんなにも怯えているのだ?父の目を盗んで小突いてやろうかとも思ったが、あっさりと学院長と合流してしまい、小さな悪事すら行えなかった。
「これはレッドラン侯爵。……とマリス?君までどうしたんだ?」
「すまない。少しレッドラン侯爵とお話がしたくてね。よかったら君も立ち会ってくれないかい?」
学院長相手にも気さくとは、この男はもしかして平民を装っている公爵か?しかし令息は知らない顔である。サンラン国の自分より格式高い家の当主の顔は覚えている。今後媚を売って生きていくつもりだから。そういった記憶力は自慢なのだが、いくら記憶を掘り返しても男の顔と名前が思い出せない。
うーんうーんと悩んでいると、部屋の扉が閉められた。男の連れは恐らく部屋の外にいるのか、姿が見えない。辺りを見渡して再確認をしようとすると突然、父が跪いたのだ。驚いた令息はさらに状況が読めないで混乱した。
「父上!何をなさっているのです?斯様な得体のしれない男に膝をつくなど!」
「馬鹿者!ご無礼であろう!お前のその態度で、今後の侯爵家の運命が決まるのだぞ!?」
「いえ、構いません。彼は私を知らないのは当然でしょう。どうかお気になさらず……。」
「ははっ、身に余る光栄……なんと寛大なお心遣い、有り難く存じます。」
まるで目の前に王でもいるかのような言葉遣いだった。しかしこの国は王族による政、いや王族自体が存在しない国だというのにどうして?
そうして学院長が彼らの間に立ち入るとこう述べた。
「卒業生ハン・レッドラン君。この御方は我が古い友人でグリーングラス商会のマリス・エバである。
そして彼こそが、マリセウス・ハンクス・エヴァルマー王太子殿下である。」
……その名を聞いた令息は、一気に体が強張った。
神海王国ハンクス、その王子が目の前にいるのだ。
「……人の叩いたのは、これが初めてよ。」
ヘルメス自身、自分に対する誹謗中傷は最初こそ傷ついたし泣きそうになった事が何度もあり、そして怒りを沸き上がらせた時もあった。でもそれ以上の事はされてはいないし、これは怒るべきなのだろうかと悩んだ事もあった。反撃されない所から小言を言われるだけだと相談したら、「反撃してこない相手を狙っているだけの大したことがない人間」なのだと、兄やメイド達に教わった。それに加えて、「彼らを相手にするだけ無駄なんだよ」と両親からも言われていたので、ヘルメスは何を言われても「今日もカラスがうるさい」「いつか来る懐中時計の人に慰めてもらえるもん」くらいに捉えられるように心を強く辛抱させていたのだ(だがさすがに実害が出たら即報告してくれと強く言われている)。
しかし、今回は我慢がならなかった。自分を慕ってくれて、悪い事は悪いと勇気を出して言い返してくれた子が暴力を振るわれたのだ。
マリスが一種の恐怖による怒りなら、ヘルメスの怒りは純粋な正義感から湧きだしたもの。手を上げるのは正しいとは思ってはいない。それでも叩いたのは、彼女を暴力で押さえつけて解決を図ろうとする、その傲慢な態度を改めさせねばならない義憤からだった。
これで反省してくれれば……などとは思わないほうがいい、なんせ今、相手はまだ怒りの真っ最中。冷静になれるほど大人ではなかろう。
「ッ!俺だって、女に殴られるのは初めてだ!!」
男子生徒が怒り任せにヘルメスの腕を掴んで引っ張り、殴り返そうとしたその時「やめないか!!」とその手を振りほどいて止めに入ってきてくれたおかげで、なんとか難を逃れた。
「父上!離してください!!こいつは俺の事を殴ったのですよ!?」
「お前が自分の婚約者である子爵令嬢に手を上げたのがそもそもの原因であろう!彼女たちのせいにするとは、なんと愚かしい!!恥を知れ、このバカ息子!!」
自分の父親に説教をされた事によって一気に意気消沈したのだろう、うっ、と漏らして途端に落ち着いた。それを見たヘルメスはほっとするも、泣いて倒れている女子生徒をなだめようと彼女に近づく。見ればさっきまでの可愛らしい頬が酷く腫れていて、叩かれたと同時に口を切ったのか小さく血が流れている。
……これは早く保健室へ連れて行かねばなるまいが、ヘルメスは侯爵令息に手を上げてしまった。伯爵令嬢の自分がそんな事をすれば家にとんでもない迷惑をかけてしまうとわかっていたはずだというのに。しかもタイミングよく侯爵もそこに居合わせていたのだ。これは大事になるのは確定された。
「でもどうせ勘当されるのなら、彼女を優先しよう」とヘルメスの考えは至った。ベティベルとレイチェルと共に彼女を保健室に連れて行くことを選ぶと、後ろから声をかけられた。ああ、侯爵に怒られる……と思ったが、その声は聞き覚えがあった。
「ヘルメス嬢!大丈夫かい?」
「ま……マリス様?」
物陰から飛び出した主をやれやれとした顔で追ってきたジークも一緒にいる。これにはヘルメスも大いに驚いた。
それと同時に、もしかしたら侯爵令息に手を上げている自分の姿を見られてしまったのかもしれない。途端にヘルメスの頭は真っ白になり、勘当されるならまだしも、マリスから婚約破棄をされるのではないか……いや仮に見られていなくとも、父を通して彼の耳に入るのは確実。どちらにしろ、彼に嫌われてしまうのだと勝手に結論を出してしまった。
「あのその、ご、ごめんなさい……私、」
「あ、ああすまない。そうだな、彼女を保健室に連れて行くのを優先した方がいいだろう。呼び止めてすまない。」
「そ、そうですけど……そうじゃなくて。」
嫌われてしまったと思い込んだヘルメスはしどろもどろになってしまっている。
その様子を見たマリスは「驚かせてしまったのだろう」と思い、女子生徒を保健室に連れて行くのを勧めた。同じく女子生徒を介抱しているベティベルも「そうしましょうヘルメス、レイチェル」と声をかけて足を進めようとする。
「あの、マリス様……。」
「……彼とそのお父様になら、私が話し合いをするよ。間違っても伯爵にご迷惑をかけないさ。」
ヘルメスの心配事を察したマリスはそういうと彼女たちを送り出した。そして遅れながら、息子を説教中の侯爵に腰を曲げて挨拶をする。
侯爵も礼をして、息子の非礼を詫びるとともに無理やり令息の頭を下げさせた。しかし、侯爵はマリスの顔を見やると何かを思い出したのか、どんどん顔が青白くなってきたのだ。
令息はそんな父親の変化を目の当たりにしたものの、目の前にいる平民……いや、身なりはそれなりにいいが資産家か何かだろうか?とにかくこの中年は何者なのかさっぱりわからずにいる。すると「何故父はこの男に怯えているのか?」という疑問も湧いて出る。
「……父上、あの方は何者なのです?平民とは思えないのですが。」
「ばっ!ばかもん!!まさかお前、この御方をご存知ないのか!?折角家庭教師も雇って、経済の勉強もさせているというのに……!」
「まぁ、ご存知ないのも無理はありませんよ。……ここで話すのもなんでしょうし、学院長に頼んで応接間でもお借りしましょう。」
令息はなんの事かさっぱりわからず、父と共に学院長室へと歩み出す。勿論、案内しているのは侯爵。
なんで侯爵にわざわざ案内をさせているんだ?そんなにこの資産家は貴族より偉いのか?侯爵令息は、その紳士にだんだんと苛立ってきた。ようやく静まった怒りがまた沸々と煮えかえってきたのだ。
応接間に入ったのならば開口一番に「なんと無礼な男だ」とでも吐いてやろうかと、侯爵令息は思ったが「いいか、絶対に粗相などするなよ。少しでもしたら、お前は勘当だからな!」と釘を刺されてしまった。一体なんでこんなにも怯えているのだ?父の目を盗んで小突いてやろうかとも思ったが、あっさりと学院長と合流してしまい、小さな悪事すら行えなかった。
「これはレッドラン侯爵。……とマリス?君までどうしたんだ?」
「すまない。少しレッドラン侯爵とお話がしたくてね。よかったら君も立ち会ってくれないかい?」
学院長相手にも気さくとは、この男はもしかして平民を装っている公爵か?しかし令息は知らない顔である。サンラン国の自分より格式高い家の当主の顔は覚えている。今後媚を売って生きていくつもりだから。そういった記憶力は自慢なのだが、いくら記憶を掘り返しても男の顔と名前が思い出せない。
うーんうーんと悩んでいると、部屋の扉が閉められた。男の連れは恐らく部屋の外にいるのか、姿が見えない。辺りを見渡して再確認をしようとすると突然、父が跪いたのだ。驚いた令息はさらに状況が読めないで混乱した。
「父上!何をなさっているのです?斯様な得体のしれない男に膝をつくなど!」
「馬鹿者!ご無礼であろう!お前のその態度で、今後の侯爵家の運命が決まるのだぞ!?」
「いえ、構いません。彼は私を知らないのは当然でしょう。どうかお気になさらず……。」
「ははっ、身に余る光栄……なんと寛大なお心遣い、有り難く存じます。」
まるで目の前に王でもいるかのような言葉遣いだった。しかしこの国は王族による政、いや王族自体が存在しない国だというのにどうして?
そうして学院長が彼らの間に立ち入るとこう述べた。
「卒業生ハン・レッドラン君。この御方は我が古い友人でグリーングラス商会のマリス・エバである。
そして彼こそが、マリセウス・ハンクス・エヴァルマー王太子殿下である。」
……その名を聞いた令息は、一気に体が強張った。
神海王国ハンクス、その王子が目の前にいるのだ。
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