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正体のない恐怖

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しかしそのことに龍之介自身はまるで気が付いていない。

自己評価が著しく低いのは、当初龍之介がガリガリに痩せていて不健康そのものの青白い顔をしていたせいもある。
社畜時代の弊害で、龍之介の容姿は見るも無惨な状態だった。髪もパサパサで艶がなく、ろくにカットにも行けていなかった。目の下は寝不足で落ち窪み、黒々としたクマが出来ていた。

その為捕らわれた奴隷商でも散々な言われようだったのだ。それでも人間というその希少性だけで競売にかけられた。自分の容姿にはまったく需要がないことを、龍之介は嫌と言うほど聞かされ続けていたのである。


だが今の龍之介はその時とはまるで別人だった。栄養バランスの良い食事にたっぷりの睡眠、適度な運動(という名のセックス)と筋トレ。すっかり顔色は良くなったし肌も髪も元の艶を取り戻していた。

つまりとても、状態が良かったのだ。


そういった事情もあり、少しばかりモテていた龍之介であったが、本人にはあまりその自覚がなかった。
そもそも周囲にレイノルドやエルヴィン、リーリエなど綺麗な顔をした者が沢山いるのもよくなかった。あのド派手な顔面の中にいると、龍之介は殊更に自分の容姿を卑下する傾向にあったからである。

とは言え、整った顔立ちをしていればモテるというわけでもない。人は完璧なものより、少し欠けたものの方が好ましく思ったりするものである。


そんなわけで、周囲からの熱視線を無自覚ながら感じていた龍之介は、なんとなく我が身の危機を察していたのかもしれない。

だから、一瞬の振動で窓ガラスがパリンと割れ、その窓枠からひとりの大男が姿を見せた時、龍之介は自分の感じていた僅かな違和感が現実のものとなったことを──知った。




「え、ダー…」
「はい、だめ。その名は禁止」

呼ぼうとした名前は、その大きな掌で塞がれてしまった。

「おお、噂通りちいさいな。人間はちいさい。華奢で、すぐに折れてしまう。からだも、こころも」

すぐに壊してしまう。でも困ったことに我は人間が大好きなのじゃ、と
そのダームウェルにそっくりな顔をした男は、ダームウェルとは全く違う顔でそう言った。
そう言って、べろりと龍之介の頬を舐めた。途端にぞっと、背筋が凍る。

(やば、い、)

ぞぞぞっと肌が粟立つ。本能が、忌避する。
未だかつてこんなにも、恐怖を具現化したような存在に出くわしたことがあっただろうか。

(これは、ダメだ、)

それはとてつもない恐怖。腹の底から湧き起こる怖気のようなものに、龍之介は呼吸をするのも忘れて硬直する。

こわい、こわい、こわい、

なのに目が離せない。
ダームウェルと同じ顔なのに、表情が、目の色が、肌の色が全然ちがう。声も話し方も纏う空気も何もかもちがう。それが逆に龍之介の恐怖心を掻き立てた。得体の知れないもの。そう表現するのがぴったりくる──

「五月蝿いのがきた。獣は好かん」

どれ、しるしをつけておこうと、それは言った。

そして次の瞬間、けたたましい音と共にそれは消えた。瞬きの間に、姿を消した。

そこで漸く、龍之介は息を吐いた。
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