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第九話
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「お前っ……!!」
美人の怒り顔程、怖いものはないと思った。
八樺礼音は、とある大学の近くにある喫茶店で働いている。その大学はかなり大規模なものであり、この喫茶店の客の五割、否、六割は大学関係者である。学生とか、教職員とか。たまにゼミの某かで、貸切利用を依頼されることもある。
礼音には学がない、と礼音自身は思っている。だから、学生や教職員が話している内容の三割はわからない。とはいえ、喫茶店の店員は口が固い方が良いので、これは多分需要と供給が合っているということなのだろうと礼音は考えていた。
これはそんな礼音が喫茶店にて出会った人間たちとの話であり、才一の話をしたならその次は「文士」の話をしなければというのが彼の考えであった。
文士とは、物書きとも小説家とも違う概念だと思う。
今日のモーニングセットは、豚汁定食だ。ついにモーニングセットにまでマスターの気紛れが侵食してきたのである。コーヒー好きの才一やアイザックは、モーニングセットを諦めてトーストセットを注文していた。そうして二人が去った後に、彼は来た。
「ボカァね、こう、二日酔いの朝……こんな、しっかりした定食を……チミチミと食べるのが……幸せ、ッてモンなんだろうなァと……」
「お辛いなら無理に話さなくて大丈夫ですよ?」
「それはそれとしてオシャベリはしたいんだ……」
青褪めた顔は、角度によって凄絶な色気を帯びる。とはいえ、その原因は当人の供述通り二日酔いな訳だが。礼音は、伸二の前に置かれた空のコップに水を注いだ。
「何でまたそんなになるまで飲んだんですか?」
「ヤ、お恥ずかしい……自棄酒ッてヤツでね……」
義理で聞いた礼音は、あ、これ長くなりそうだなと思い口を閉ざした。そんな礼音に気づいているのかいないのか、伸二はちらちらと上目遣いで礼音を見ている。聞け、と視線で強いられているような気がして、礼音は渋々口を開いた。
「何でまた自棄酒を?」
「彼女とチットばかり喧嘩してしまってね!」
あ、これ絶対長くなるやつだ、と思った礼音は踵を返したが、伸二によってエプロンの紐を握られてしまう。ほどけてもまた直せばいいが、多分、ほどけても握り締めたままだろう。礼音は諦めて伸二へと向き直った。
「長くなるなら無視しますが」
「無視は止めて……止めて……」
自分の声が頭に響いたらしく、頭を押さえつつ小声で呟く伸二。礼音はそんな伸二を見下ろしつつ溜め息をついた。
元々、この二人は知り合いであることを礼音は知っている。
非常に面倒臭い惚気話を聞かされてから数日後、才一と伸二という珍しい組み合わせが向かい合って座っているのを見た礼音は、うーん、と口の中で唸った。あの日に勝るとも劣らない面倒事になりそうだと思ったのだ。しかし、客に水も出さずに放置する訳にもいかないので、礼音は遅々とした動きでコップを運んだ。
「面倒臭そうだと表情が物語っているね」
「あぁ、この間は面倒をかけてゴメンよ」
「お客様にそんなこと思う訳ないじゃないですか」
礼音は曖昧な笑顔で応じる。そんな礼音の顔を見ていた才一はくつくつと喉を鳴らして笑い、伸二は申し訳なさそうな顔を作った。作ったとしか思えないくらい、わざとらしい顔だった。グーで殴っても許されるかな……と礼音が剣呑な思考を巡らせたことを悟ったのか感じたのか、伸二が防御姿勢を取る。
「顔が怖いよ、今にも暴力に訴えそうな顔だ」
「グーは止めてね、イヤホントに……」
「そんなにわかりやすいですか?」
だとしたら、面倒なやり取りが減っていいなと礼音は笑った。爽やかな笑みだ。何故か伸二は引いているが、この笑みは数多の女性を狂わせてきた。礼音の本意ではないが。と、そこで喫茶店の扉が開いた。
「こんにち……」
は、と抜ける吐息。入店したのは艶やかな黒髪の美女だ。礼音は彼女を見たことがある、テレビの中で、そして直にも。彼女は美し過ぎる整形外科医として、メディアに引っ張りだこになっている。そして、彼女を見て硬直した、伸二の妻でもある。
しかし、彼女は伸二ではなく才一を凝視していた。す、とその顔から血の気が引く。あ、と礼音が思う間もなく、彼女の顔が紅蓮に染まった。
「お前っ……!!」
美人の怒り顔程、怖いものはないと思った。般若か夜叉か、きりりと吊り上がった眉はそれでも美しかったが、その下の目は血走り、唇が痙攣している。そんな彼女に睨まれている才一は……とても、嬉しそうに笑った。
「お噂は予々、お姿は画面越しに。実物は……うん、美しいと思うよ。世間一般的な美の基準には軽々と到達しているのではないかな?」
「心にもないことをっ……!!」
ぎりりと鳴ったのは彼女の口許、噛み締めた歯が軋む音。もし彼女が男であれば、とっくに手を出していただろう。そこまでの、怒りだ。どうやら、彼女と才一の間には、何かしらの因縁があるようだ。
まぁ、才一は性格が悪いから、どこに敵がいてもおかしくないが。礼音はそんな風に思いつつ、気配をなるべく消そうと試みながらキッチンへと向かおうとする。刃傷沙汰が起きそうな時は、すぐにマスターを呼ぶこと。朝礼擬きで毎朝言われていることであった。が、しかし。
「ねェ」
甘えたような、拗ねたような、小さな声。その声の主は伸二で、向けられているのは彼女だ。彼女は一瞬固まって、それから伸二の方を見た。
「幾ら喧嘩中だからッて、ボクの前で他の男にそんな目を向けられたら……嫉妬、してしまうヨ?」
捨てられたずぶ濡れの老犬みたいな顔と声だな、と礼音は失礼極まりない感想を抱く。が、彼女にとってそれは憐れみを誘う子犬のように見えたらしい。あ、と小さな声を漏らした彼女は、慌てて伸二に駆け寄った。
「違うわ、あれはあの男が悪いのよ。えぇ、全世界の諸悪の根元、何もかもあの男が悪い」
「そこまで言うかい?」
「黙れ極悪人」
「また他の男を構う……」
「ごめんなさい、勿論貴方だけを愛しているわ」
「だったらこの間のことも許してくれる?」
「えぇ、えぇ、勿論!」
何を見せられているのだろう、と礼音は思いながら全世界の諸悪の根元こと才一に目をやった。彼はやれやれと肩を竦めて、唇だけでこう呟いた。下手に動けば馬に蹴られるよ、と。礼音もそう思ったので、同じく肩を竦めて、それはそれとしてマスターを呼びにキッチンへ向かった。このままでは他の客が入りにくいったらないので。
美人の怒り顔程、怖いものはないと思った。
八樺礼音は、とある大学の近くにある喫茶店で働いている。その大学はかなり大規模なものであり、この喫茶店の客の五割、否、六割は大学関係者である。学生とか、教職員とか。たまにゼミの某かで、貸切利用を依頼されることもある。
礼音には学がない、と礼音自身は思っている。だから、学生や教職員が話している内容の三割はわからない。とはいえ、喫茶店の店員は口が固い方が良いので、これは多分需要と供給が合っているということなのだろうと礼音は考えていた。
これはそんな礼音が喫茶店にて出会った人間たちとの話であり、才一の話をしたならその次は「文士」の話をしなければというのが彼の考えであった。
文士とは、物書きとも小説家とも違う概念だと思う。
今日のモーニングセットは、豚汁定食だ。ついにモーニングセットにまでマスターの気紛れが侵食してきたのである。コーヒー好きの才一やアイザックは、モーニングセットを諦めてトーストセットを注文していた。そうして二人が去った後に、彼は来た。
「ボカァね、こう、二日酔いの朝……こんな、しっかりした定食を……チミチミと食べるのが……幸せ、ッてモンなんだろうなァと……」
「お辛いなら無理に話さなくて大丈夫ですよ?」
「それはそれとしてオシャベリはしたいんだ……」
青褪めた顔は、角度によって凄絶な色気を帯びる。とはいえ、その原因は当人の供述通り二日酔いな訳だが。礼音は、伸二の前に置かれた空のコップに水を注いだ。
「何でまたそんなになるまで飲んだんですか?」
「ヤ、お恥ずかしい……自棄酒ッてヤツでね……」
義理で聞いた礼音は、あ、これ長くなりそうだなと思い口を閉ざした。そんな礼音に気づいているのかいないのか、伸二はちらちらと上目遣いで礼音を見ている。聞け、と視線で強いられているような気がして、礼音は渋々口を開いた。
「何でまた自棄酒を?」
「彼女とチットばかり喧嘩してしまってね!」
あ、これ絶対長くなるやつだ、と思った礼音は踵を返したが、伸二によってエプロンの紐を握られてしまう。ほどけてもまた直せばいいが、多分、ほどけても握り締めたままだろう。礼音は諦めて伸二へと向き直った。
「長くなるなら無視しますが」
「無視は止めて……止めて……」
自分の声が頭に響いたらしく、頭を押さえつつ小声で呟く伸二。礼音はそんな伸二を見下ろしつつ溜め息をついた。
元々、この二人は知り合いであることを礼音は知っている。
非常に面倒臭い惚気話を聞かされてから数日後、才一と伸二という珍しい組み合わせが向かい合って座っているのを見た礼音は、うーん、と口の中で唸った。あの日に勝るとも劣らない面倒事になりそうだと思ったのだ。しかし、客に水も出さずに放置する訳にもいかないので、礼音は遅々とした動きでコップを運んだ。
「面倒臭そうだと表情が物語っているね」
「あぁ、この間は面倒をかけてゴメンよ」
「お客様にそんなこと思う訳ないじゃないですか」
礼音は曖昧な笑顔で応じる。そんな礼音の顔を見ていた才一はくつくつと喉を鳴らして笑い、伸二は申し訳なさそうな顔を作った。作ったとしか思えないくらい、わざとらしい顔だった。グーで殴っても許されるかな……と礼音が剣呑な思考を巡らせたことを悟ったのか感じたのか、伸二が防御姿勢を取る。
「顔が怖いよ、今にも暴力に訴えそうな顔だ」
「グーは止めてね、イヤホントに……」
「そんなにわかりやすいですか?」
だとしたら、面倒なやり取りが減っていいなと礼音は笑った。爽やかな笑みだ。何故か伸二は引いているが、この笑みは数多の女性を狂わせてきた。礼音の本意ではないが。と、そこで喫茶店の扉が開いた。
「こんにち……」
は、と抜ける吐息。入店したのは艶やかな黒髪の美女だ。礼音は彼女を見たことがある、テレビの中で、そして直にも。彼女は美し過ぎる整形外科医として、メディアに引っ張りだこになっている。そして、彼女を見て硬直した、伸二の妻でもある。
しかし、彼女は伸二ではなく才一を凝視していた。す、とその顔から血の気が引く。あ、と礼音が思う間もなく、彼女の顔が紅蓮に染まった。
「お前っ……!!」
美人の怒り顔程、怖いものはないと思った。般若か夜叉か、きりりと吊り上がった眉はそれでも美しかったが、その下の目は血走り、唇が痙攣している。そんな彼女に睨まれている才一は……とても、嬉しそうに笑った。
「お噂は予々、お姿は画面越しに。実物は……うん、美しいと思うよ。世間一般的な美の基準には軽々と到達しているのではないかな?」
「心にもないことをっ……!!」
ぎりりと鳴ったのは彼女の口許、噛み締めた歯が軋む音。もし彼女が男であれば、とっくに手を出していただろう。そこまでの、怒りだ。どうやら、彼女と才一の間には、何かしらの因縁があるようだ。
まぁ、才一は性格が悪いから、どこに敵がいてもおかしくないが。礼音はそんな風に思いつつ、気配をなるべく消そうと試みながらキッチンへと向かおうとする。刃傷沙汰が起きそうな時は、すぐにマスターを呼ぶこと。朝礼擬きで毎朝言われていることであった。が、しかし。
「ねェ」
甘えたような、拗ねたような、小さな声。その声の主は伸二で、向けられているのは彼女だ。彼女は一瞬固まって、それから伸二の方を見た。
「幾ら喧嘩中だからッて、ボクの前で他の男にそんな目を向けられたら……嫉妬、してしまうヨ?」
捨てられたずぶ濡れの老犬みたいな顔と声だな、と礼音は失礼極まりない感想を抱く。が、彼女にとってそれは憐れみを誘う子犬のように見えたらしい。あ、と小さな声を漏らした彼女は、慌てて伸二に駆け寄った。
「違うわ、あれはあの男が悪いのよ。えぇ、全世界の諸悪の根元、何もかもあの男が悪い」
「そこまで言うかい?」
「黙れ極悪人」
「また他の男を構う……」
「ごめんなさい、勿論貴方だけを愛しているわ」
「だったらこの間のことも許してくれる?」
「えぇ、えぇ、勿論!」
何を見せられているのだろう、と礼音は思いながら全世界の諸悪の根元こと才一に目をやった。彼はやれやれと肩を竦めて、唇だけでこう呟いた。下手に動けば馬に蹴られるよ、と。礼音もそう思ったので、同じく肩を竦めて、それはそれとしてマスターを呼びにキッチンへ向かった。このままでは他の客が入りにくいったらないので。
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