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■感情
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しおりを挟む気が付くと、光は消え失せ、あたしは地面に座っていた。そこに横たわる、ひとりの男を見つめながら。柔らかく地面に垂れ下がる、長い黒髪。髪の間に、少し先の尖った耳がのぞいている。
「……コルロル……?」、おそるおそる、手を握る。「コルロルなの……?」、コルロルとは思えない、人間の手だ。
これが、コルロルなのか。いや、コルロルだということは、分かる。目の前で変化したんだから、コルロルに決まっている。でも、動かない。
死んでいるのか……そう思った。
思ったとたん、全身が硬直して、嫌な動悸がした。何百メートルも走ったあとみたいな、心臓を圧迫する激しい鼓動だ。
顔が歪む。汗が滲む。ただ座っているだけなのに、体調が著しく変化する。
この現象は、なんだっけ。すごく嫌な感じ。苦しい。呼吸のリズムすらつかめない。そうだ……恐怖。
恐怖と、薄皮一枚向こうに控える、哀しみ。
恐怖と哀しみを覚えたとたん、全身を巡る血管が、鉄線にでもなったみたい。震えるばかりで、コントロールが効かない。自分の体なのに、思い通りに動いてくれない。
苦しい。苦しい。しばらくぶりの感情は、あたしを殺してしまいそうだ。
戻ってこないで。感情なんて、いらない。感情なんてなければ、こんな場面を目の当たりにしても、あたしは冷静でいられたのに。
「……コルロル……?」、かすかな声。自分でも驚くほど弱々しくて、幽霊のつぶやきみたい。
コルロルの手を、強く握る。実際に強い力で握れたかは分からない。でも、そこから生気を送り込むように、あたしは強く願った。
どうか、どうか、目を開けて。どうか、どうか、声をきかせて。伝えたいことがあるの。
見つめていたまつげの先が動く。薄く瞼が開く。変わらない金の目が見えて、熱い塊が腹の底からせり上がってくる。
「コルロル? コルロル……?」
目を開けたコルロルは、「レーニス?」とかすれた声を出す。今まで通りの、変わらない声だ。
体も、顔も、頭も、全身が熱くなった。鼻の奥に痛みがうずいて、すぐに涙が落ちた。この感情の正体は……いや、やめだ。分析なんてしていられない。なんだっていい。どうだっていい。
あたしは思い切りコルロルを抱きしめた。
「よかった……! 生きてた……」
「れ、れーにす……」
「それにコルロル、人間になれたのね!」
「人間?」、コルロルは体を起こし、自分の真新しい手を見つめると、感触を確かめるように何度か握った。
「本当だ、あの爪がない」、その手で自分の頬を包み、顔の形を探るように触った。「どう? 僕、かっこいいかな?」
「そんなことはぜんぜん重要じゃないけど」、彼の顔を眺めてみる。「目を見るだけでときめいちゃう!」
今までずっと、そう感じたことなんてなかったのに、あたしはたまらなくなって、今一度コルロルに飛びついた。胸の辺りが、正体不明の動悸に襲われている。だけど、まったく嫌な気分じゃない。
「れ、れーにす……」、コルロルの頬に赤みがさす。人間の肌だから分かり易い。「本当に? 感情が、戻ったの? 僕に……ときめくって……」
「なんだろうこれ。なんだろうこれ。どうしよう、じっとしていられない感じ」、コルロルにしがみついて足をばたばた動かし、あたしはやりようのない感動を伝えようとした。
「レーニス」、コルロルはあたしの顔をじっと見た。「笑ってる。昔のまんまの笑顔だ」
「え?」、顔を手で抑える。「本当……はは、あはははは、あたし、笑ってる。笑ってるわ。笑わずにはいられないんだもん」
難解な数式の答えを、ようやっと導き出したみたいだ。深い深い宇宙の謎を、ぜんぶ解き明かしたみたいだ。いったん分かってしまうと、なんでこんな簡単なことが今まで出来なかったのか、不思議に思えてしまう。
「ああ、よかった。本当に」、喜びをかみしめる。そうなんだ、あたしの心は今、喜びに満ちている。楽しい、嬉しい、ぜんぶあたしのものだ。どこまでも膨らんで、この胸に収まりきらなくなる。手で触れないし、形もない。こんな透明なものが、あたしの奥底にある正体なんだ。
「次は泣いてるの?」、可笑しそうに言って、コルロルの指が、目の下の雫をすくう。
「なんでだろう」、耳をすませるように、あたしはそっと胸に手を当てた。「胸があったかいのに苦しくて、なんだか笑っちゃうのに涙が出るの」
「きっと、それが愛だね」、コルロルは尖った八重歯を見せて笑った。
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