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薄暮の面影
しおりを挟む『ひなた』
温かい声が私を呼んでいる。
随分と久しぶりに聞いた気がするその声に、私は嬉しくて走り出す。
『こら、転けるだろ。走るんじゃない』
笑って両手を差し出すその人の胸に、私は飛び込む。
自分の名前と同じ、ぽかぽかひなたの香りがするその人の腕の中が私は大好きだった。
『ひなた。可愛いひなた』
彼はいつもそう言って頭を撫でてくれた。
『可愛いひなた。・・・なんで俺を裏切ったの?』
心地良く抱きしめてくれていた腕は、言葉と同時に力が込められる。
まるで逃がさないと言うようにキツく締め付けられ身動きが取れない。
やめて、と声を上げたいのに、いつの間にか口にはタオルが詰め込まれガムテープで塞がれていた。
『ひなた・・・ずっと俺たち一緒だろ?約束したもんな。なぁ、ひなた。だから死ぬときも一緒、だよな?』
怖い――この恐怖を、私は知っている。
彼は歪んだ笑顔を貼り付け、暗く濁った目は異様な光を放っていた。
止めて、来ないで。近寄らないで!
恐怖と息苦しさに目から涙が溢れる。
―――いやだ、誰か助けて!
必死に顔を動かし、何とか逃げ出そうと懸命に身体をねじる。
だが拘束する力は増すばかりで、骨の軋む嫌な音が響く。
『ひなた・・・これでやっと一つになれる』
―――誰か、陽斗くん、陽斗くん、助けてっ!!
――
―
「ひなたちゃん、ひなたちゃん。大丈夫だよ、僕が傍にいるからね」
「はぁ、はぁ、はぁ!」
陽斗君の優しい声に、私はやっと悪夢から目覚めた。
ばくばくと心臓が早鐘を打つ。全身の毛が逆立ち、嫌な汗が肌にべっとりと張り付き気持ち悪い。
目を開けても、まだあのおぞましい記憶が頭から離れない。
朝食べたもの胃から逆流し喉に込み上げ、うっ、と私は前屈みになる。
「吐きそう?トイレ行こうか?ここで吐いてもいいよ?」
さすがにベッドの上では吐きたくない。
首を微かに振ってそう伝えると、彼は私をお姫さまだっこで抱えトイレに連れて行ってくれた。
「・・・う"ぇ、がはっ」
便器を抱えて吐き続ける私の背を、陽斗君はずっと擦ってくれていた。
酸っぱい胃液しか出なくなるまで吐き出すと、気分の悪さも幾分マシになる。
「はぁ、陽斗くん、ありがとう。もう大丈夫・・・」
「今お水持ってくるから、待ってて」
そう言って彼はキッチンに水を取りに行き、タオルと水の入ったカップを私に差し出す。
鼻水と汗と涙とでぐしょぐしょに濡れている私の顔を、陽斗くんは優しくタオルで拭き取ってくれた。
呼吸が落ち着いてくると、彼は私を抱えてリビングのソファへ移動する。
「今お湯を溜めてくるからね。汗かいて気持ち悪いでしょう。お風呂入ってさっぱりしよう」
「うん。ありがとう・・・」
私のカップに水を足すと、彼は頬とおでこに軽くキスし、そのまま浴室へと向かった。
静かになったリビングに、私のまだ少し早い呼吸が響く。
ふと時計を確認してみれば、朝彼が出社してからまだ1時間も経っていない。
「お湯を溜めている間に先にシャワーで身体洗おうか」
「あの、陽斗くん、お仕事は?」
戻ってきた彼に心配になって尋ねると、彼は私を抱き上げながら優しく微笑む。
「急ぎの仕事は終わらせてきたから大丈夫だよ。 朝シーツを替えるのを忘れたからね。冷えて風邪でも引いたらいけないと思って一度帰ってきたんだ。 本当は直ぐに戻る予定だったけど、こんな状態のひなたちゃんを一人には出来ないから今日はもう一緒にいるよ。だから安心して」
「! だ、大丈夫だよ、もう落ち着いたから平気。だから、陽斗くんもお仕事戻って――」
私の言葉を飲み込むように、唇を塞がれる。
ビックリして縮こまっている私の舌先を、彼は優しく吸い出し丁寧に愛撫する。
巧みな彼のキスに翻弄され、口の端からはしたなく涎が溢れる。
その雫を舌先で掬い取り、美味しそうに飲み込むと艶やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫じゃないでしょう? 一人で我慢はしないって、約束したよね。いつでも僕を頼るって。本当は会社なんて今直ぐに辞めたいのに、ひなたちゃんがどうしても辞めないでっていうから仕方無く続けていたけど・・・そんな事言うなら今から辞表届け出してこようかな。そうしたら、ひなたちゃんも心置きなく僕に甘えられるもんね」
彼はさらりととんでもない事を言い出す。
ぎょっとして見上げれば、彼は自分の考えがとても気に入ったようで楽しそうに笑っている。
彼ならやりかねない、というかこのままじゃ間違いなく確実に実行する!
焦った私は首をブンブン振ってどうにか彼の退職を引き留める。
「あ、あのね! やっぱり、大丈夫じゃないから今日は一緒に居てくれたら嬉しいな! でもっ、お仕事は辞めないで」
「どうして?仕事なんて辞めてしまった方が、もっとずっと長くひなたちゃんと一緒にいられるよ? 今日みたいな辛い時も僕がすぐ傍に居てあげられる」
「苦しい時は、必ず言うから、すぐに電話もする! それに、お仕事している陽斗くん、格好良くて好きだし、」
「ほんと? じゃあ家で出来る仕事でもしようかな」
「そ、外で沢山の部下に慕われている陽斗くんが、その、私の旦那様なんだって思えるのが・・・鼻が高いって言うか、誇らしいし、頼りにされてて凄く格好いいし・・・」
言いながら、彼と夫婦となった事実に今更ながら気恥ずかしくなってくる。
まさか幼馴染みの彼と結婚する事になるとは夢にも思わなかった。今でもまだ信じられないくらいだ。
もちろん彼は私のことをとても大事に、それこそ溺れるほどの愛情を注いでくれているし、結婚したことに不満も後悔もない。
だけど時々、何か大事な事を忘れているような気がして、胸が苦しくなる時がある。
それが何なのかは分からないし、一生分からなくても良いような気もする。
惜しみなく深い愛を与えてくれる彼だが、時折窒息しそうになる。
彼がずっと一緒にいると、それこそ24時間彼に見詰められ続け愛の言葉を囁かれるのだ。
いくら結婚した相手だからと言え、一日中誰かに見られているのは息苦しい。
だから私は、何度も会社を辞めようとする彼をなんとか説得して仕事を続けて貰っている。
「だから、えっと・・・そうやって働いてる陽斗くんが好きで・・・そんな陽斗くんを好きで」
同じ言葉をループのように繰り返しそうになってちらと見上げてみれば、彼は笑顔のまま固まっていた。
あれ・・・私なにか変な事言っちゃったかな・・・?
「陽斗くん?」
「・・・もう一度・・・」
「え?」
「もう一度、言って」
「何を?」
「『旦那様』って、僕を呼んで」
「だ、旦那様・・・」
恥ずかしく感じながらもそう呼べば、彼は花が開いたように綺麗な顔をほころばせる。
滅多に見ない心からの嬉しそうな笑顔に、私は顔を赤くしながら彼に見とれてしまう。
「嬉しい。ひなたちゃんに初めて旦那様って呼んで貰えた」
小さい頃から女の子より可愛いと言われてた彼だけど、大人になって色気を纏った彼の微笑みにはどこか冷たさを含んでいた。
けれど今の彼は、頬をゆるめ目尻を下げ、とても素直に笑っているように見える。それは無邪気に遊んでいたあの頃の彼の笑顔だった。
そんな彼の表情に、懐かしく温かい気持ちが心に広がり、思わず私も笑顔になってしまう。
「僕の可愛いお姫様。僕のお嫁さんになってくれて、ありがとう」
そっと私の瞼にキスを落とし、ぎゅっと抱きしめられる。
「そんな可愛い事言われちゃうと、ひなたちゃんのためにもう少し仕事続けなくちゃいけないじゃないか」
困ったように笑いながら、彼は止めていた足を浴室へと歩き出す。
・・・良かった、会社は辞めないでいてくれるみたいだ。
私は彼にバレないよう、そっと息を吐き出した。
浴室で彼に身体の隅々まで洗われ、程よく身体が暖まった頃、私たちは再びリビングへと戻って来た。
「はい。苺と蜂蜜のミルクジュースだよ。お腹空っぽだろうから、もし何か食べれそうなら作ってあげる。何食べたい?」
苺の果肉がたっぷり入った彼お手製のジュースは私の好物の一つ。
冷たいグラスを受け取りながら、これ以上はいらないと首を振って答える。
「そう。お腹が空いたら言ってね。後で苺のムースプリンでも作ってあげるよ」
彼の作るお菓子も、料理と同じように私の口に合わせて作られる。
そんなお菓子が美味しくない訳がない。
それなら食べられるかも、そう思って私は頷いた。
「さっきうなされてたのは、"彼"の夢?」
飲み終わってほっとしていると、陽斗くんが気遣うように聞いてくる。
"彼"が誰を指しているのか直ぐに気付き、私は黙って頷く。
「・・・そう。まだ夢に見るんだ。可哀想に」
そうっと私を抱きしめ、良い子良い子と頭を撫でられる。
「は、陽斗くんが居るから、大丈夫」
「そうだね。でも僕は、"彼"を決して許さない。こんなにひなたちゃんを傷付けて、泣かして・・・夢の中までひなたちゃんを苦しめるなんて・・・本当に、殺してしまいたい」
『殺す』の言葉にビクリと身体が震える。
夢の中で"彼"が言ってた言葉が甦る。
小さく震え出す私の身体を、陽斗くんはぎゅっと抱きしめて慰めるように優しく言う。
「怖がらせてごめんね。嫌な事を思い出させたね。大丈夫、大丈夫だよ・・・」
私の震えが収まるまで、彼は優しく「だいじょうぶ、大丈夫」と声をかけ続けてくれていた。
「嫌な事は、僕が全部忘れさせてあげる。・・・その前に、会社に一本電話入れさせてね。心配しないで、会社は辞めないから。 まだ、ね」
不安そうに見上げる私に、彼は安心させるように笑みを浮かべ書斎へと入っていった。
・・・一人になると、なんだか急に寂しくなってくる。
隣に居た彼の体温が恋しくて、彼が今まで座っていた所に残る熱に無意味に触れてしまう。
なかなか戻って来ない彼に、だんだん落ち着きがなくなってソワソワし始める。
ついに我慢出来なくなった私は、彼が消えた書斎の扉の前まで来た時、中から扉が開いて彼が出てきた。
ほっとした表情の私を、彼は愛おしそうに眺めて言う。
「一人にしてごめんね。もう終わったよ。・・・ベッドに行こうか。 ぐっすり眠れるように、頭が真っ白になるまで気持ちよくしてあげる」
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