それ、あるいはあれの物語

鬼霧宗作

文字の大きさ
上 下
42 / 48
第二話 お客様狩り

16

しおりを挟む
「え、さっき……新たな野犬は放たないって言ってたよな?」

 誰に問うでもなく呟く小野。確かに、こちら側にいた犬はさっき殺したはずだ。それなのに、なぜもう1匹いるのか。しかも、さっきとは比べ物にならないくらい屈強な犬だ。犬種などには詳しくないが、だだ強そうなのは間違いない。

 小野は銃を改めて構えた。こちらには飛び道具がある。相手がどれだけ速かろうとも、狂犬病に感染していたとしても、近づけさせさえしなければいい。ここまできたら、何匹殺そうと同じだ。

「噛まれたら確実に死ぬような害獣を放っておくわけにはいかない。そうだ。俺は間違っていない! これは正義だ!」

 狙いを絞って引き金を引いた。それと同時に犬が床を蹴る。その一足飛びは、小野が思っていたよりも長距離だった。

 引いたはずの引き金が引っかかる。どうやら、しっかりと射出できたのは1発目だけだったらしく。引き金がびくともしない。実際に見てみなければ分からないが、中で弾が変な詰まり方をしているのかもしれない。とにかく、これは小野にとって致命的だった。そう、文字通りに――。

 とっさに避けようとするが、まるで尺計ったかののごとく、犬の牙が首元へと迫った。その先は痛みだけ。自分がどうなっているのか分からず、ただただ犬のうなり声と、これまで体験したことのない痛みだけ。死に物狂いで犬を振り解こうと体をよじると、案外簡単に小野の首元から犬は離れた。

 思わず痛む場所へと手を伸ばすと、暖かく、そしてねっとりとしたものが付着した。恐る恐ると手を見てみると、なぜか手は真っ赤に染まっていた。

「あ……あぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 自分のものかと疑うほど情けないうめき声が漏れた。心臓が脈打つのと同時に、首元には痛みが走る。致命傷にはいたっていないはずだ。そう、致命傷には。

 カウンターに寄りかかるようにして座り込むと、一度は小野から離れだはずの犬と目が遭った。

「や、やめてくれ……。悪かった。想像力が欠けていたんだ。自分の正義を貫きたいがために、その地域に生きる人間のことを考えていなかった」

 熊を野に放たれた地域の人間からすれば、ここに狂犬病の犬を放たれるのと同等の恐怖が生じたことだろう。しかも、その犬を処分しようものなら、安全な地域にいる人間から、薄っぺらい、自分が気持ち良くなるだけの正義を振りかざされる。ではなぜ、全く関係のない、それこそ赤の他人がやったことに対して、ここまで浅はかな正義が押し寄せるのか。

 ――きっと、誰もがどこかでお客様のつもりでいるからだ。
しおりを挟む

処理中です...