それ、あるいはあれの物語

鬼霧宗作

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第二話 お客様狩り

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 小野はぽつりと呟いた。いくら老犬だとはいえ、下手をすれば狂犬病に感染してしまうかもしれないのだ。感情論でものを言われても困る。

『噛まれなきゃ狂犬病には絶対ならないし、その犬が狂犬病だと決まったわけでもない。むやみやたらに殺すのではなく、共存を目指すべき』

『大丈夫。隔離さえしてしまえば、絶対に犬が出てくることはないから』

 小野の中で負の感情が溜まりに溜まっていく。でも、まだ引き金は引かない。辛うじて留まっていた。

「お前らは安全な場所にいるから――。絶対に狂犬病に感染した犬に噛まれないところにいるから、そんなことを言えるんだ! こっちの身にもなってみろ!」

 誰に言うでもなく叫ぶと、老犬がワンテンポ遅れてびくりと体を震わせ、小野に背を向けた。殺すなら今だ。

『でも、その犬――狂犬病じゃないかもしれない。だとしたら、何の罪もない犬をただ殺すだけになるんだぞ。だとしたら、せめて狂犬病かどうかを確認してから殺したほうがいい』
 
 あまりに自分勝手な言い分に、小野は堪忍袋の緒が切れる。

「部外者が好き勝手言うな! 狂犬病になるリスクもないお前達は部外者なんだよ! 関係のない人間が――」

 そこまで言いかけた時、何かしらのスイッチが入れ替わるような音がした。自動読み上げソフトが淡々と喋っていたところから、人間が間近にいるマイクへと切り替わったかのごとく。事実、息遣いのようなものが聞こえた。そして、聞き覚えのある声が響く。黒電話で聞いた、人を小馬鹿にしたような男の声だった。

『あんただって、部外者なのに抗議の電話をしただろ? 秋田県に』

 県名を聞いただけでピンときた。なぜなら、ここ数日、連日のように抗議の電話を入れていたところだったから。

『調べさせてもらったけどよ、あんた熊を保護する活動をしてんだってな? その絡みで秋田県の自治体に抗議の電話を入れている。部外者なのにな』

 こちらの声は、きっと電話など使わずとも伝わるのであろう。こちらの様子を配信しているくらいなのだから。そう考えた小野は、銃を構えたまま怒鳴り散らす。

「部外者ではない! 熊の命だって大切な命だ。だから、この世に生を受けた1人の人間として、大切な命を守るべく活動して――」

『だったら、なんでそこらの産婦人科には抗議しないんだ? 日本のどこかでは、当たり前のように毎日新たな命が中絶という形で失われている。そこには抗議しないで、熊を射殺した自治体にだけは抗議するんだ。ふーん、都合のいい正義だなぁ。それこそ、自分に酔って振り回すにはちょうどいい』
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