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第二章 まやかし
幕間①
しおりを挟むリモン・カーディライトはカレドゥシャの街で生まれた。
物心ついたときから強い正義感を持っていた彼は、「いつも自分が正しい」という傲慢さを持つ一方で、「常に正しくあろう」という高い志を持っていた。
間違ったことを見聞きすれば「間違っている」と臆面なく指摘し、悪いことをしている者がいれば「悪いやつめ」と懲らしめに行く。そんな怖いもの知らずの、まるで正義感の塊のような少年に最初の転機が訪れたのは、彼が6歳のときだった。
リモンは母の目の前で、父の不貞を暴露した。
知らない女と懇意にしている父の姿を見たとき、彼のうちに湧いたのは怒りだった。疑問や不安よりも先にその感情が湧いたのだ。母の信頼を裏切る行為は、幼いリモンから見ても正義ではなく悪であり、指摘せざるを得なかったのだ。
翌日には父は家に居なくなり、数日後から母は酒に溺れ、リモンへ辛く当たるようになった。
浮気をしたのは事実であったし、間違いなく、道徳的にも倫理的にも彼の父は悪だった。彼は間違ったことを言っていない。
なのに何故母が暴れるのか──。
リモンにはそれが分からなかった。
分からなかったが、自分を痛めつける彼女は悪であるというのは分かったので、躊躇なく母のもとを離れ、自らの足で聖イルミネア教会の孤児院に赴き、その門を叩いた。
リモン・カーディライトは9歳で老夫婦のもとへ引き取られ、カレドゥシャ郊外の邸宅で何不自由ない生活を送った。
正義感が強く誠実で真面目。
絵に描いたような優等生。
老夫婦は彼のことをそう評し、周囲の人々に自慢げに話していたそうだ。
この頃になるとリモンの中にも明確な「正義」のものさしが完成していた。道徳と倫理に裏付けられた、おおよそ万人が認める、万人のためになること。そのものさしが彼にとっての正義であり、それにそぐわないものを悪とした。
彼は悪を許せなかったし、許す必要もないと思っていた。罪には罰が必要で、罰を与えられなかった罪人たちはまた罪を犯すに決まっているからだ。彼が両親のことを思い出すのは、「彼らに何の罰も与えられなかった」という後悔を感じるときだけだった。
カレドゥシャ生まれカレドゥシャ育ち。凝り固まったものとはいえ、正義感の塊のような青年であるリモンが、街の治安維持を担うギルド【聖歌隊】を志すのは当然のことだった。
12歳ごろからずば抜けた身体能力の成長を見せはじめ、わずか13歳で冒険者認定試験に合格。これはオリヴィアに塗り替えられるまで、史上最も若い合格年齢だった。
それから暫く老夫婦の生活の手伝いをしていたが、彼らの後押しもあって、15歳で冒険者として巣立ち、同年には【聖歌隊】へ正式に採用されることとなる。
入れて当然だとリモンは思った。彼には学がなかったが、「正義」のものさしを遵守する自分は、常に正しい行いをしているのだから肯定されて然るべきだという自信があった。
「なあ、君」
2度目の転機。
それは【聖歌隊】入隊の日のこと。
「リモン・カーディライトくんだよね」
「……あなたは?」
「アルコ。アルコ・ロードリエス。年が近いのは君だけだから」
「あぁ、確かに若い」
「ははっ、君おもしろいな」
「そうか?」
「よろしく」
「こちらこそ、よろしく」
自分だけが正義の中にあると思っていたリモンにとって、同じ年のアルコとの出会いが人生2度目の転機だった。
彼はリモンと同じく嘘を嫌い、法に忠実で、悪を許さず、いつも誰かのために怒っていた。似た者同士のふたりは同じ空間を共有するうちに、互いが同じ正義の中にあることを理解する。
アルコ・ロードリエスはごくごく一般的な家庭の生まれだったが、とても頭が良かった。
勉学、知識、理論、物覚えの良さはずば抜けており、リモンはその才能に嫉妬すら覚えた。
一方のアルコも、リモンの凄まじい身体能力、戦闘能力に憧れた。またリモンの持つ強い正義感に感化され、もとより高かったアルコの志も、より高いものへと引き上げられた。
互いに語りきれないほどの尊敬があった。ふたりは青春の中で、唯一無二の得難い友を得たのだ。
ギルド加入から3年間。
リモンはアルコとともに、カレドゥシャの街を守る公僕のひとりだった。正義の守り人としての責務を、彼らは彼らに与えられた権限内で完全に全うし、そこで暮らす人々や仲間から厚い信頼を寄せられるようになる。
月日が経つに連れ、リモンの強さもより磨きがかかり、アルコもまたリモンと切磋琢磨することで成長を遂げた。
特にアルコは戦いの腕だけでなく、人の上に立つ素養……カリスマ性とでも呼ぶべきか、不思議と人を引き付ける才能が開花し始めることとなる。
そうしていつの間にか、ふたりは聖イルミネア教における成人──20歳を迎えていた。
アルコは部下を持ち小隊を率いる立場となり、リモンは当時の【聖歌隊】ギルドマスター、サルバトール・ペンスという男の直属の部下となっていた。
そこまで昇進してやっと、彼らは【聖歌隊】の嘘を知ることとなる。
「サルバトールさん、それは」
「ああコレか」
路地裏から出てきたサルバトールは札束をそっと懐に入れ、そのうちの数枚を折り、そっとリモンへ渡そうとする。
「ほら」
「……?」
「この街の裏路地は『吹き溜まり』だ。居ちゃいけないやつも居る。取り締まる必要があるわけだ」
「なら捕まえなくては」
「まあ待てよ。考えろよ」
「何を」
「アイツらはカネヅルになる、と思わないか?」
不快感を表情で示したリモンを見て、サルバトールは
「さすが優等生だな」
と笑ってみせた。
「確かに捕まえるべきだ。悪いやつだからな。だが、今すぐ悪さをするとは限らない。なら少し見逃して、そのお礼を貰う。これを繰り返せば、クズどもから利益が生まれる。どうだ」
リモンはサルバトールが何を言っているのか理解できてしまった。
サルバトールが言っているのは悪に対する罰だ。彼らは悪なのだから、こちらが踏みにじっても、それは当然の酬いなのだ。
しかし一方で、悪人が野放しになっているのも事実だし、サルバトールが受け取った金も汚れているのは目に見えていた。
悪を悪で蹂躙しているように、そのときのリモンには見えた。リモンははじめて、罰を与える側が悪に見えたのだ。
「ほら、受け取れ。これで女と遊べば気も晴れる」
「ふざけるな」
「ん?」
「間違っている」
「はは、知ってるよ」
「それは俺の『正義』ではない……っ」
リモンはサルバトールを殴った。
気絶した彼を持ち合わせていた道具で捕縛すると、リモンは路地裏へと踏み込んだ。
そこに居る「居ちゃいけないやつ」を逮捕し、己の「正義」の正当性を証明したかったのだ。
そうして彼はひとりの男と邂逅する。
これが人生3度目の転機。
そこには黒い外套を纏った男がいた。
白髪をオールバックにした、見る者に威圧的な印象を与える男だ。一見すると老いた印象を受けるが肌は若々しい。
鋭い眼光は獲物を捉えた鷹のようであり、その当時自信に満ち満ちていたリモンですら、恐怖を感じざるを得なかった。
「あなたは──【聖歌隊】の方ですか」
男はリモンを見つめつつ、丁重な物言いで探りに来る。
無論、リモンは嘘などつかず
「そうだ」
と胸を張って答えた。
「リモン・カーディライト。【聖歌隊】最強の騎士だ」
「そのような方が、私に何かご用ですか」
「賄賂を渡しただろう。サルバトールという男に金を渡した。俺は見たぞ」
「…………」
「見逃してもらうつもりだったのだろうが、そうはいかん。俺は見逃さない。悪を絶対に見逃さない」
「悪、ですか」
「そうだ」
「随分と相対的な評価だ」
「正義は絶対だ」
「君は正義を守りたいのですか。それとも、人を守りたいのですか」
「正義を守ることは人を守ることだ」
「その正義は悪を傷つけるのではありませんか。君のやり方なら、悪の人を傷つけるのだから、悪の人から見れば君の正義は悪になりますよ、リモンくん」
「詭弁だ、聞く耳持たん」
剣を引き抜き戦闘の構えを取ったリモンに対し、白髪の男は表情を変えず淡々と告げる。
「人を守りたいのなら、君は一度でもいい、こちら側に身を置くべきだ」
「俺に悪になれと?」
「私はエイハブ。ここに居てはいけないものであることには違いない。私たちはヒトを殺すこともあるし、時にはモノを壊すこともある。場合によってはカネを盗む。世間で言う裏稼業だとか、闇社会の住人だとか、そういうのだよ。だがそれは私たちの正義のための行いであるから」
話半分のリモンだが、男が嘘を言っていないのは不思議と分かった。
「私たちの仲間になるのはどうだ。リモンくん」
即座に否定の言葉が出なかったのは、既にリモンの心がエイハブという男の手の中にあることの表れ。
「私たちは君に違う『正義』を見せることができる。君の中の『正義』が絶対でないことを示すことができる。それはきっと君のためになるし、世のため人のためにもなる……かもしれない」
絶対のものさしがゆがむ。
上司の不正が、彼の揺るぎないはずだった心と高い志を揺さぶる。
思い出すのは父と母の顔だ。
父は悪だった。嘘をついた。
母は。
ならば、その母を苦しめた自分は。
彼が10年以上心にしてきた蓋が、男によって取り払われる。隠していた感情が、ぞわぞわと腹の底から湧いて出て、リモンの「正義」を否定し始める。
「ドラゴンをひとりで倒せるまで強くなったら、おいで」
構えたまま立ち尽くすリモンを一瞥し、男は路地の奥の更に奥へと去っていく。
このエイハブこそ──最強の冒険者ギルド【ドラゴンスレイヤーズ】のギルドマスターであった。
匿名の密告によりサルバトールは弾劾され、【聖歌隊】は新たなギルドマスターを主体に動き始めることとなる。事件の詳細はやがて明るみに出て、後に【聖歌隊】の信用失墜の原因となった【ドラゴンスレイヤーズ】の捜索作戦へと繋がっていく。
そのゴタゴタの最中、リモンはあのとき起こったことをアルコにだけ話した。
アルコはひと通り話を聞き終えると、まず
「なぜエイハブとかいう男を捕まえなかったんだ」
と口にした。
仮に自分がリモンだったら──そう考えたアルコの、心からの疑問だった。
「……分からんのだ、アルコ」
リモンにもそれが分からない。
分からないが。
「彼が悪人に見えなかったから、かもしれない」
と、正直に感想を述べた。
「悪人に見えない? ふざけたことを」
「なあアルコ。【聖歌隊】は絶対の正義なのか。この組織は、どんなときでも正しいのか」
「ああ正しいさ。オレたち【聖歌隊】は聖イルミネアの名の下、人々のために働いてる。誇りだろ、それが」
「この街の人のためならば、路地裏に巣食う悪人どもから賄賂を受け取って見逃すことも平気でやるのか」
「それは悪だ。たまたまサルバトールという男がクズだっただけだ。次は違う。万一次が駄目でも、オレが変える。オレたちがいる。オレたちは正義だ」
「じゃあ、例えばの話だ。お前の父親が浮気をしていたとする。お前はそれを、母に言うか」
「言う。そして父に謝罪させる。それが正義だ」
「──その正義では、母が傷つくんだ」
「……何が言いたい」
「分からなくなった」
「何が分からなんだよッ、お前変だぞッ?!」
「俺は、俺が正しいと思うことの中に居たい。だが俺の知らない正義が、この世の中にはあるのではないか? 俺がその正義を知っていれば、母と父はまだ笑って暮らしていたのではないか!?」
「…………ッ、お前」
「俺は馬鹿だ。馬鹿野郎なんだと今日知った」
アルコは何か言葉をかけようとしたが、適当な語が見つからない。
もし何か伝えられたとしても、リモンは止められなかっただろう。
「すまないアルコ。俺は【聖歌隊】に居られなくなる」
「…………」
「いつかお前が【聖歌隊】の正義を決めてくれ。そしていつか、それを俺に教えてくれ。俺は、俺の正義を──揺るぎない自分だけの正義を探すために、悪の側に踏み入ることも必要なのだと思うんだ」
それから数カ月後。
リモン・カーディライトは竜殺しを為した。
既に彼は人の域を逸脱しはじめていたのだ。彼はその身一つ、剣一本でドラゴンを屠り、呪いを受けた。
常に敵意と殺意に晒される呪いに蝕まれた彼は、それでもエイハブの言葉を頼りにして【ドラゴンスレイヤーズ】へと身を寄せることとなる。
リモンが【聖歌隊】に在籍していた記録は全て抹消された。汚点であるから、という理由だった。
圧倒的な戦力ダウン。
実質的なこの引き抜き行為により、元より険悪だった【聖歌隊】と【ドラゴンスレイヤーズ】の関係は更に悪化の一途を辿り、組織の風土として根付いてしまった……。
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