上 下
8 / 36
第一章 幸運のヒゲ

4

しおりを挟む
 そのブラックコボルトの体長は、おおよそオリヴィアを2人縦に並べた大きさに等しかった。
 直立二足歩行のために発達した後肢は大木のように太い。印象は犬から大きくかけ離れ、一見すれば豚にも見える。面影といえば尖った顔と耳、それから牙くらいのもの。

 それは涎をだらりと垂らし、気配を殺し、しきりに鼻をひくつかせては辺りのにおいを嗅いでいる。
 ごわごわした黒い体毛に覆われた、よく太った、けれどかなり筋量のある体つき。その手には棍棒のつもりなのか、そこらの木を薙いでこしらえた丸太を掴んでいた。
 虎視眈々、森の暗がりから獲物に目を凝らし──。

「ぜっっっっったい避けてくださいねラッキーさん、じゃないと死にますよっ」
「避け、え、どこに」

 ──襲い来る。
 叫び声も、唸り声もない。
 コボルトは魔物であり、獣だ。
 獣が狩りをするのだから、声を上げずに近づくのは至極当然、理に適っている。

「見た目より速いっ」

 丸太が振りあげられる。
 
「あっむりやばい死ぬ」
「なんで諦めちゃうんですか!」

 オリヴィアが棒立ちになったラッキーを突き飛ばす。
 衝撃、それからバキバキバキと木の裂ける音。
 咄嗟の判断は功を奏し。

「うぶっ」

 結果、ラッキーは多少の泥汚れで協会の制服を汚す代わりに、攻撃を躱すことができた。

「オ、オリヴィアちゃ──」
「ラッキーさん、黙って」

 ブラックコボルトの視線はオリヴィアに向く。
 赤髪に緋色のローブ。嫌でも目につくその外見と服装が、犬との類似点を多々持つコボルトに認識できたかどうかはともかく。
 ブラックコボルトの眼前にはオリヴィアが居て、オリヴィアの眼前にはブラックコボルトが居た。

 互いが互いを捉えて離さない。
 互いが、互いを狙っている。

「そこから動かないでください。コボルトの注意がわたしから逸れないようにしないと」

 上がる息を意図的に抑えつつ、ラッキーは一度呼吸を止め、生唾を飲み込む。
 その後、こくりと頷いてその場で動きを停止させた。一応の冷静さは保っているようだ。

「……………」

 オリヴィアはローブの中に手を忍ばせ、一本の刃物を取り出す。
 その白刃は少女の手に余るほどに大きく、ギラついた、明らかな凶器。
 だが、同時に何の変哲もない、ごく普通の狩猟用の片刃ナイフでもある。
 睨み合い。
 暫しの均衡。
 
「………ッ」

 そして、赤色が舞う。
 不規則だが滑らかな軌道を辿り、軽やかに跳ねる銀色の光。さながらボールルームを彩る一輪の真っ赤な薔薇。
 無駄なく洗練された、それでいてまたたく間も無い素早い動き。見る者に美しいとさえ思わせる見事なまでの身のこなし。
 
 その戦う姿こそ、オリヴィア・ベルナール自身をして「強い」と言わしめる理由の一つ。

 圧倒的なほどの前衛職としての才覚。
 攻めのスキルとでも言うべきか、彼女にはそれがある。わずか14歳にして彼女が武器とするのは、天性の戦闘センス。治癒術師という後衛にしておくには惜しいほどの、類まれなる才能。
 ブラックコボルトとオリヴィアの戦闘を客観的に見ていたラッキーは目を見開き、その才能に歓喜するような表情を見せるほど。

 小さく俊敏なオリヴィアの動きを、多少の機敏さを備えている程度のブラックコボルトでは追えていない。
 オリヴィアが背後を取る。
 薔薇はその鋭い棘をもってして、外敵を退ける。

「治癒術──」

 腰裏の毛むくじゃらの皮膚がぱっくり、切り取られていた。
 ブラックコボルトは動じない。
 愚鈍なのか。それとも本当に痛くも痒くも無いのか。
 そしてその直後。

「──『即時回復リカバリー』」

 ……切り取られた部分の皮膚が再生した。
 オリヴィアは再度ブラックコボルトの皮膚の切り取りを試みる。
 ヒットアンドアウェイ。
 大きく削り取るように、ときには少しだけ切り傷を作るように。
 魔物の豪腕と健脚から繰り出される大ぶりの攻撃を紙一重で回避しつつ、彼女のナイフは大小様々な傷を次から次へ生んでいく。
 生んでいくのだが。

「『即時回復リカバリー』ッ」

 どれだけ傷を与えても。
 オリヴィアはその傷を、瞬時に治癒させてしまう。
 これでは倒せない。そう思ったラッキーはオリヴィアを見つめ、首を振った。
 このままでは駄目だ、どうして治癒術を使うんだ。はやく倒してくれ。そんな意味を込めた、小さなジェスチャー。
 それに気づいたオリヴィアは答える。

「倒せますから!」

 どうして、とラッキーが尋ねる前に。
 彼女もオリヴィアの狙いを把握する。

 目に見えて、ブラックコボルトの動きが鈍くなっているではないか。
 はじめこそ、遅れながらもオリヴィアを追い回していたにも関わらず。今は息も絶え絶えといった具合、ブラックコボルトだけ数倍の戦闘時間が経過したような状態だ。

 出血量は大したことない。むしろ少ない程である。傷も全て、相対しているオリヴィアに癒やされている。
 
「後ろで仲間の救護だけ、とか。やっぱりわたしには向いてない、本当に」

 ざくり、ナイフが腰部後ろに突き立てられる。
 白刃はそのまま黒い背中を駆け抜ける。
 ブラックコボルトはオリヴィアを掴もうとするが、最早腕を後ろに回す動作すら適わない。
 緋色のローブに付着する血液は、吸い込まれるようにして見えなくなった。

「……『即時回復リカバリー』」
 
 ブラックコボルトの
「キャイン」
 という鳴き声。
 それに続くように、巨体が膝から崩れ落ちた。
 背後から喉元にあてがわれたナイフが綺麗に引き抜かれる。
 盛大な流血とともに、ブラックコボルトは決定的な致命傷を負った。

「『即時回復リカバリー』」

 そしてその首の傷すら消える。
 それがトドメになる。
 明らかな健康体、傷一つない姿で、その魔物は屍となった。




   *

 

 ──治癒術師、それから治癒術。
 治癒術師とは、疾病、怪我を治すことにのみに魔法を使う人々。冒険者にも散見され、その特徴から概して戦闘能力が低いことも特徴である。
 治癒術は魔法の一種。「精霊」と呼ばれる目に見えない正体不明の「何か」を通じて、使用者の体力と引き換えに誰かの傷や病を癒やす。消耗する体力はその治療度合いに比例する。たとえ治癒術でなくとも、魔法を使用する際には体力と引き換えに精霊の力を借りる、というのが魔法使いたちの一般認識である。

 中でも治癒術を用いる者は特別な精霊を通じて魔法を使用しているらしく、消費する体力が異常に多いため、他の動作を行う余裕は全くと言っていいほどない。
 戦闘能力が低いとされるのはそのためで、身体能力を活かし戦うにしても、治癒術という莫大な体力消耗の技と両立は不可能となっている。

「わたしの治癒術には2種類あるんです」

 オリヴィアは木の枝で地面に絵を描いていた。恐らくデフォルメされた彼女自身の絵だ。とてもよく似ている。

「ひとつは、普通の治癒術。精霊の力を借りて傷や病を癒やす、一般的な治癒術です」

 もうひとり、棒人間が書き足される。棒人間の足には大きくバツ印が描かれた。怪我をした、という意味でのバツ印だ。
 さらに棒人間とオリヴィアの間に、もくもくとした雲のような何かが書き足された。
 
「これは?」
「精霊です」
「精霊って?」
「さあ」
「知らないんですか」
「知ってる魔法使いなんていませんよ」

 オリヴィアから精霊に矢印が向く。
 さらに精霊からオリヴィアへの矢印が書き足される。
 そこから更に、太い矢印が精霊を貫き、オリヴィアから棒人間へと向かった。

「これが普通の治癒の場合での力の受け渡し。精霊の力を借りる、っていうのはこういうこと」

───────
 オリヴィア
  ↑↓ ↓
 精霊  ↓
     ↓
 治癒の対象
───────

「わたしを通じて力が往復する感じ」

 棒人間の足にあったバツ印が消される。
 回復した、という意味だろう。

「なるほど、なるほど」

 真剣な面持ちで納得しつつ、ラッキーは無傷のブラックコボルトの死骸をチラチラと横目で盗み見る。
 いつ起きて襲ってくるものかと気が気でない様子だが、確かに事切れているのは確認済だ。

「この方法での治癒は使用者側の体力の消費が激しい。回復専門、後衛に居ないと大変なことになっちゃうんです。敵に狙われたり、自分が怪我して他の人の治癒ができなくなったり」
「ですよね。治癒術師は戦闘しないというのが世間一般における共通認識ですよね」
「でもわたし強いんです。だから後ろにずっといるの、もったいない気がして」

 オリヴィアの自己評価の高さに思わずラッキーは苦笑するも、それが事実であることは認めざるを得なかった。
 
「確かに、圧倒的に強かったです」
「そこで、もうひとつの治癒術を使うんです。というか作りました。それがさっきの『即時回復』」
「リカバリーって仰ってましたね」
「普通の治癒術がさっきの図。わたしから精霊、精霊からわたし、わたしから精霊を介して回復される側……っていう力の受け渡しがあって」

 計3回の力の受け渡し。
 先程の図の通り。

「わたしの『即時回復』は、わたしが精霊に働きかけて、精霊の力をそのまま使われる側に──って、力が私を経由する回数を減らして、負荷を軽減してるんです」

───────
 オリヴィア
  ↓
 精霊  
  ↓
 治癒の対象
───────

 矢印の何本かが消される。
 図解はかなり単純化された。

「細かく説明すると止まらないので、とっても簡単に言ってしまえば、『本来わたしが支払う体力を、代わりに回復される側でまかなう』ものです。つまり、その回復される人とか魔物とかが持ってる回復力を活かす感じ」
「へぇ…すご……」
「わたし自身の力で傷とかを治癒してるわけではないので、普通の治癒術とは全部が全部違います。そもそも治癒術と呼べるかどうか」
「…………むむむ」

 顎を抑えて唸る。
 暫くそれが続き、彼女が『即時回復』をおおよそ理解できたタイミングで唸り声は止んだ。

「なるほど理解」
「できました?」
「自然に回復する──そうですね、ここでは『自然治癒』とでも言いましょうか。どんな傷でも、自然治癒するには時間がかかるわけですけども。これ、いま書いたバツが傷だとして、これが自然治癒するのには一週間かかるとする」

 ラッキーは新たに、棒人間の腕にバツ印をつける。
 全治一週間の傷を負わされた棒人間は、特に文句を言うことはなかった。

「でも、その一週間で完了する自然治癒をオリヴィア様の治癒術……『即時回復リカバリー』で回復力を底上げして、一瞬に縮めた。
 これは回復される側の自然治癒力をベースにしていて、となれば、治癒術師側が消費する体力は通常より抑えられる……」
「そうです、さっきの説明でよくわかりましたね」
「……そして、そんなことをしたら回復される側の身体に負担がかかる。一週間分の自然治癒を一瞬、それは文字通りの荒療治をしているようなものですから」

 棒人間の上から、大きなバツ印が書かれた。

「回復したぶんツケが回ってくると。そういうことですよね」
「はい、そのとおりです」

 オリヴィアが頷く。

「わたしの『即時回復』を受ければ大抵の傷は治ります。病気も毒も、薬や抗体が必須でない限り治療可能です。その代わりに体力を消耗、とても疲れます。結果、大概の生き物は無防備になるか、最悪死んでしまいます」
「割とえげつないですね」
「わたしの場合は傷を沢山作って、それを治してを繰り返して、ちょっとずつ体力を奪うことで、戦闘に応用してるんです」

 ──と、ここまで話したところで。

「あ、これ超重要秘密なので、内緒でお願いします」

 話しすぎたことを反省する。
 オリヴィアとしてはそう語る機会のない話であったため、ついつい熱を持って語ってしまった。

「なんで話しちゃったんだろ、ラッキーさんが話しやすいからかな」
「なるほど、なるほど。これが治癒術師オリヴィア・ベルナールが【ドラゴンスレイヤーズ】に加入できた秘密──」
「どうでしょう」

 また顎を抑え、深く考え込んでいるところで感想を求められたラッキーは──。

「──天才」

 語彙力を失った褒め言葉を、その口から漏らした。
 どうやら独り言のつもりのようだ。

「……?」
「たったの14歳、可憐な少女。しかし圧倒的な戦闘センスと天才的な治癒術の能力を持ってる、これはもう放ってはおけないと言いますか、むしろ拾って持って帰るレベル。いや、持って帰りますけど。本当にすごい、すご過ぎ。相当な技能と技量を持ち合わせてている上、将来性も……これはなかなかな逸材……欲しい、てか運命すぎ、運命の出会い、マジであるんだ」
「……ラッキー、さん?」
「いやはや盾騎士様の申し出を受けて大正解、オリヴィアちゃんを待ってて本当に良かった、来ないかな、来ないかなって。そして来た。これはもうアレ。やっぱり運命。星の導き的な。はじめこそただの子供じゃないかと疑っちゃったけど、しかとこの目でスゴ技を見させてもらったし、理論も聞けば聞くほど興味深い。もうこれは捕まえるしかない……捕獲の一手………誘拐拉致監禁…………」
「──どうしよう。もしかしてわたし、逃げたほうがいい?」

 わきわき。
 人が変わったような饒舌でまくし立て、さらには勝手に結論まで辿り着き、ラッキーはオリヴィアに迫る。

「あの、オリヴィアちゃ──様」
「………」
「あぁ逃げないで」
「ラッキーさん、一応聞くけど……何を考えてます?」
「それはですね、とってもイイことを考えています」
「…………」

 オリヴィアは8歩ほど早足で後退った。

「違いますよ、お互いにとってイイことだと思うんです。ね、距離を置かないで。オリヴィアちゃん……!」
「ち、近寄らないでっ、こわいっ!!」
「オリヴィアちゃん………!!」


 稀代の天才、戦える前衛職系治癒術師オリヴィア・ベルナール。『家』と『家族』を失った彼女に新たな『家』を与え、新たな『家族』となるのが──まさか目の前にいる人物、稀代の変人、ラッキー・クローバーであることなど、今の彼女は知る由もない。

 

しおりを挟む

処理中です...