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素行調査
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本業で狩野と会う。収入的にはコールセンターと慈善事業のどっちが本業なのか極めて怪しいところだが、本業一本で食っていく必要が無くなった分、顧客一人一人のケアは出来ている。金銭的な余裕が出来たからだ。
先日には何人かのホス狂いたちが無事卒業して、その内一人は別のNPOで働いているという。助けられる側の人間が助ける側へ回る――そういう話を聞くと、俺たちの活動にも何らかの意義があるのだなと思わされる。
今日は顧客の一人にしつこい営業をかけてくるホストをどうかわすかのドリル練習をした。ポイントとしては情にほだされないことや、きっぱりと断ること。この二点を重点的に練習した。
俺が疑似ホストになって、顧客の女性に営業LINEを送り、その返信を送らせる。それが良い回答であればOK。腐れ縁が続くような内容であればやり直しをさせるといった具合だ。コツさえ知っていれば大して難しい練習でもない。
これが終わったら通話の練習だ。俺が同情を引くような作り話をその場でして、彼女はそれに塩対応をキープする。ちょっとでもつけ入る隙があれば不合格。上手くはねつければ合格だ。練習さえすれば、バカなコでも多少はあしらい方が上手くなる。
幸いにして筋の良い顧客だったので、ドリルは早々に合格となった。そのコの業務は終わり。後は今までに診てきた顧客が再び悪質ホストの沼に嵌まっていないか、アフターケアとして連絡を取る。全体的にいいコばかりだったので、大きなトラブルもなく今日の業務を終えた。
仕事後の一服。二人とも喫煙者なので、事務所でプカプカと紫煙を浮かべる。メンバーが増えたら喫煙所でも作らないといけないかもしれない。
一服中、ふいに狩野が口を開いた。
「それで、例のキャバクラはどうなんだ?」
「あ? キャバクラだ?」
「ああ、若い姉ちゃんと楽しくやってんだろ?」
真理ちゃんと梨乃ちゃんのことを言っているようだ。たしかに、四十路にもなると普通はキャバクラでも行かない限りは女の子から相手にしてもらえない。俺は例外的な超絶イケメンだからモテているだけの話だ。
「キャバクラってなあ、お前……。ただの同僚だよ」
「そうか。実際にコレにする気はあるのか?」
狩野は小指を立てる。昭和か。あ、昭和の人間だった。
「どうなんだろうな。まだ会ったばっかりだし、成りゆきにもよるかな」
「となると、付き合う気はあるんだな」
「そりゃ自分を好きでいてくれる若い女ならな」
綺麗ごとは言わない。真理ちゃんも梨乃ちゃんも、四十路になって結婚もしていない俺にとっては身に余るギフトだ。顔ぐらいしか取り柄のない俺にとっては幸運以外の何物でもない。
「しかし、どうなんだ? その……真理ちゃんと梨乃ちゃんか。どっちがヨメ候補なんだ?」
「まだ気が早いぞ。まだ付き合ってすらいないんだからな」
「まあいいじゃねえか。俺にとってもお前が身を固めてくれた方が安心ってもんだ」
「お前は俺の親か」
「それでもいいぜ。どうせ父親の顔もよく憶えていないんだろう?」
狩野の言う通り、俺は父親の顔を知らない。
遊び人の父と付き合っていた母は、妊娠が判明したのをきっかけに父へと結婚を迫った。だが、父親となった男はその知らせを聞いた途端、行方をくらませた。
いつか戻ってくるだろうと一人で俺を生んだ母だったが、父親が戻って来ることはついぞなかった。
片親で育った俺は、被害妄想を抱きがちな母親のもとで育った。
母親の男性に対する憎しみはひどいものだった。俺自身が男だったので、彼女の愚痴を聞かされるたびに、まるで自分がこの世に生まれてきたことが罪のように感じていた。
虐待とまではいかないが、母親は今で言うネグレクト気味なところがあった。あまりかわいがられた記憶もないし、勉強が出来なくても怒られたりはしなかったが、夜にテレビを観ていると警告もなく強い力で叩かれるといったことがよくあった。
母は癇癪持ちだったので、何がどう気に障るか分からない。すぐに殴るのと子供にも容赦がなかったので、俺は基本的に怯えて育ってきた。
そのせいで俺は色々と気を遣うようになり、出来るだけ母親の神経を逆撫でしないように生きてきた。
父親に捨てられたせいか、母親は精神的に不安定で、精神薬も摂っていたようだった。時々思い出したように見知らぬ男を呼んできて、挨拶をされたこともあった。きっと再婚相手の候補として、俺との顔合わせをするためだったのだろう。
だが、俺としては連れて来られた男性がどうこうというより、日頃から男という存在への呪詛を吐き続ける母が男性と幸せになれるとは思っていなかった。自然と俺の対応も不愛想になる。
そのせいかは知らないが、結局母親が再婚することはなかった。「あんたは不愛想だから」と散々文句を言われたが、もしかしたら俺が原因でフイになった再婚話もあったのかもしれない。どうせ上手くいったところで長くは続かなかったろうが。
母親は見た目だけは飛び抜けて良かった。他がクソすぎたせいで、男が全く寄り付かなかったが。
そのせいか、母親からは見た目だけは他の人間よりも美しく保つよう言われてきた。おそらくその目測は正しい。カエルの子はなんとやらと言うが、母の遺伝子を継いだ俺は、勉強に関する能力が皆無だった。アメコミではスーパーパワーを持った超人が出てくるが、世の中にはその真逆の人間が存在することを忘れてはいけない。
まず暗記そのものが苦痛でしかない。算数については、九九を覚えられなかった時点であきらめた。運動はそこそこだったが、プロのアスリートを目指すほどの身体能力や才能は明らかになかった。こうなったら、やるべきことは一つしかない。
母に言われた通り、俺は見た目にパラメータを全振りした。おそらく細胞のレベルで。
生まれつきの造形もあったが、俺はモテにモテまくった。人間にとって美しさは一種の武器だ。男だろうが女だろうが、見た目が美しい存在はそこにいるだけで賞賛される。ルッキズムがどれだけ良識派から批判されようが、それは厳然たる事実だ。
見た目だけで人気者となった俺は、高校へも行かずにホストになった。俺はバカだったし、高校なんかに行くより稼げるからだ。
生きるためには金がないといけない。良識派は「金はただの紙屑だ」と言う。それは俺だって否定しない。だけど、その紙屑が原因で破滅を迎える者だっていくらでもいる。
一時期は金を持っていたが、転落以来それも失った。今や顔だけが取り柄のオッサンだ。それでもモテるということは武器になる。
ホスト時代は考えもしなかったが、たしかに家庭を持ったら色々と精神的な余裕が出てくるのかもしれない。このまま行けばきっと貧しいだろうが、人の幸せは金ばかりではない。なんだか禅問答みたいになってはいるが、金はあり過ぎてもなさ過ぎても駄目なんじゃないかとは思う。
知らぬ間に意識が遠くへ行っていた。狩野は俺の思考でも読んでいたのか、ムカつく笑いを浮かべている。エスパーめ。
「とにかくだ。今は昼の仕事にさっさと慣れるよう努める。未来のヨメはその後の話だ。お互いいつ脱落するかも分からないからな」
「そうしておけ。別れなんて案外急に来るからな」
「ああ、様子を見ながらやっていくさ」
「とりあえず、シンママと若過ぎる女はやめておけよ」
思わず指に挟んだタバコを取り落とした。真理ちゃんと梨乃ちゃんが同時に脱落した。
「は? なんでだ?」
時間差で、ややキレ気味に狩野の真意を訊く。動揺を隠しきれていないのが自分でも分かる。やはりこいつ、エスパーだったのか。
「シンママは子供がいるから、金がかかる上に色々厄介な問題が出てくる。それに若過ぎる女は中身がガキだからすぐに『あたしと仕事のどっちが大事なの?』とか抜かしやがる。どっちも気合だけでどうにかなるもんじゃねえ」
狩野は忌々しげに紫煙と吐き出して続ける。
「どっちも大体がろくなもんじゃねえ。あいつら全員が全員そうとは言わねえが、地雷原であるのは間違いない。そんなものを一つ一つ吟味しているほど俺たちはヒマじゃない。分かるか?」
「ああ」
「まさかお前、今言った女と付き合おうとしてるんじゃないだろうな?」
狩野の顔がふいに険しくなる。そこにかつてのチャラいホストだった面影はない。
「言っただろ? ただの同僚だよ」
「そうか。手を出すなとは言わないけどよ。女たちの不幸話にほだされるなよ」
「おいおい、冗談はやめてくれよ。俺たちはホス狂いの女を助けているんだぞ。そんな俺が、シンママの口車に乗せられると思うか?」
後半は自分にも言い聞かせていた。たしかに俺が同情で沼に嵌まったらいいお笑いぐさだろう。
「そうか。お前の狙いはシンママの方か」
語るに落ちた。誘導尋問だったか、この野郎。
「言っただろ? まだ付き合ってはいない。ただの同僚だ」
「まだ、な。つまり付き合えるなら付き合いたいと」
「見た目はかわいいさ。だけど、色々と複雑な家庭で育ってきたみたいだからな。手に余るようだったらさっさと引くつもりだ」
「甘いな。甘いんだよ童夢君」
狩野がアメコミのヒーローみたいに腕組みしながら眉間にシワを寄せる。なんだか腹の立つ見た目だった。
「そうやって様子見をしている間に逃げ道を潰しているのがヤバい女たちのやり口だ。危なくなったら逃げる? ご冗談を。そう思った時には蟻地獄のど真ん中だ」
「お前はカイジに出てくる詐欺師かよ」
俺の野次にも動じず、狩野は持論を展開していく。
「シンママは大抵が不幸だ。ろくでもない男に振り回され、自分の人生は滅茶苦茶になったと主張する。彼女たちは言う。自分は被害者だったと。あんな男だと知っていれば結婚などしなかったと」
狩野は頼んでもいないのに、全宇宙のシンママを敵へ回すような論理を展開していく。
「それも事実なんだろう。だけどな、そこには自分でそのような相手を選び、そして他ならぬ自分がそいつと一緒でいることに耐えられなかったという厳然たる事実が欠如しているんだ。違うか」
「いや、それを言ったらDVの場合もあるしな」
俺は冷静に反論する。事実として結婚を機に暴力を振るいはじめる男だっているし、それが原因でホス狂いに走る人妻だっている。
狩野はシンママからひどい目にでも遭わされた経験があるのだろうか。ここまでシンママを目の敵にしているということは、過去に何かあったのは間違いなさそうだ。だが、彼の目的は論争ではなかった。
「そうか。たしかにそれもそうだな」
狩野の顔に冷静さが戻る。なぜここまで興奮したのか。だんだん話していて面倒臭くなってくる。
「どうしたんだ、一体」
「お前がどれだけそのシンママに惚れているのか確かめたくてな」
やはり一杯食わされていた。俺といくらか議論を交わして反応を見ていただけらしい。試合巧者め。
「それで、その鑑定の結果は?」
「重症だ。お前はそのシンママにすっかり惚れ込んでいる」
「まだそんな段階じゃない。見た目がかわいいと思っているだけだ」
「やかましい。お前は既に沼へと嵌まりつつあるくせに、その自覚がないだけだ」
狩野はタバコを灰皿に押し付けると、新しい一本に火を点ける。
紫煙を吐き出し、しばらく虚空を眺めてから口を開く。
「そうだな。じゃあお前の惚れている女が大丈夫な奴かどうか、俺が調べてやる」
「は?」
「素行調査は得意なんだよ。ホス狂いでも救いようがあるかないかは事前に調査するからな」
そう言って狩野は口角を上げる。
「ヒマなのか」
「ヒマじゃねえよ。ただ、仕事のツレがたった一人だからな。そんな大事なパートナーをシンママごときが原因で失うのも癪なんでな」
「おい、俺はそんな……」
「分かった分かった。お前の弁明はいい。時間の無駄だ。後は俺に任せておけ」
俺の反論は容赦なく打ち切られる。この男は何を考えている?
それに答えるかのように、狩野が続きを話し出す。
「一応よ、俺もお前には幸せになってもらいたいとは思っているんだよ」
紫煙を吐き出す狩野。煙は空気へ溶けて消えていく。
「だけどな、世の中にはびっくりするほどの食わせ者って奴もいる。俺としてはお前にそんな女に引っかかってほしくない」
「ああ」
「だからだ、その真理ちゃんとやらの身辺を軽く探る。ノウハウは持っているから、大して難しい仕事でもない。それで何にも出て来なければ御の字。心おきなく付き合うなり結婚するなり好きにすればいい。今まで不幸だった分な」
「……」
「だが、不幸な人生を歩んできた女っていうのは大抵そのようになる理由を持っている。それがヤバい理由だった場合、彼女は諦めろ。いいか?」
「……ああ。そもそも付き合ってもいないからな」
よく分からないが、狩野としては真理ちゃんに懸念事項があるらしい。それならば梨乃ちゃんに切り替えればいい話の気もするが、あいにくどちらも現段階では付き合っていない。気の早い話だ。
「別に調べるのはいいが、徒労に終わる可能性が高いと思うぞ」
本音を言った。あの真理ちゃんに何かがあるとは思えない。
狩野が答える。
「ああ、何もないこと願うよ。俺だってお前には幸せになってほしいからな」
詐欺師みたいな顔をしているが、声の響きには信憑性があった。おそらく本気で俺のことを心配しているのだろう。
狩野がどんな方法で真理ちゃんを調べるのかは知らないが、任せておけば逆に上手く付き合える方法も見えてくるかもしれない。そう考えると悪くない話だ。
その時、脳裏を三白眼になった真理ちゃんの顔がよぎった。思えばあの表情は何なのか。
時折見せるあのおっかない顔も、調査の過程で何か分かるかもしれない。出来ればあの顔は調査中にしないでほしいんだけどな。
先日には何人かのホス狂いたちが無事卒業して、その内一人は別のNPOで働いているという。助けられる側の人間が助ける側へ回る――そういう話を聞くと、俺たちの活動にも何らかの意義があるのだなと思わされる。
今日は顧客の一人にしつこい営業をかけてくるホストをどうかわすかのドリル練習をした。ポイントとしては情にほだされないことや、きっぱりと断ること。この二点を重点的に練習した。
俺が疑似ホストになって、顧客の女性に営業LINEを送り、その返信を送らせる。それが良い回答であればOK。腐れ縁が続くような内容であればやり直しをさせるといった具合だ。コツさえ知っていれば大して難しい練習でもない。
これが終わったら通話の練習だ。俺が同情を引くような作り話をその場でして、彼女はそれに塩対応をキープする。ちょっとでもつけ入る隙があれば不合格。上手くはねつければ合格だ。練習さえすれば、バカなコでも多少はあしらい方が上手くなる。
幸いにして筋の良い顧客だったので、ドリルは早々に合格となった。そのコの業務は終わり。後は今までに診てきた顧客が再び悪質ホストの沼に嵌まっていないか、アフターケアとして連絡を取る。全体的にいいコばかりだったので、大きなトラブルもなく今日の業務を終えた。
仕事後の一服。二人とも喫煙者なので、事務所でプカプカと紫煙を浮かべる。メンバーが増えたら喫煙所でも作らないといけないかもしれない。
一服中、ふいに狩野が口を開いた。
「それで、例のキャバクラはどうなんだ?」
「あ? キャバクラだ?」
「ああ、若い姉ちゃんと楽しくやってんだろ?」
真理ちゃんと梨乃ちゃんのことを言っているようだ。たしかに、四十路にもなると普通はキャバクラでも行かない限りは女の子から相手にしてもらえない。俺は例外的な超絶イケメンだからモテているだけの話だ。
「キャバクラってなあ、お前……。ただの同僚だよ」
「そうか。実際にコレにする気はあるのか?」
狩野は小指を立てる。昭和か。あ、昭和の人間だった。
「どうなんだろうな。まだ会ったばっかりだし、成りゆきにもよるかな」
「となると、付き合う気はあるんだな」
「そりゃ自分を好きでいてくれる若い女ならな」
綺麗ごとは言わない。真理ちゃんも梨乃ちゃんも、四十路になって結婚もしていない俺にとっては身に余るギフトだ。顔ぐらいしか取り柄のない俺にとっては幸運以外の何物でもない。
「しかし、どうなんだ? その……真理ちゃんと梨乃ちゃんか。どっちがヨメ候補なんだ?」
「まだ気が早いぞ。まだ付き合ってすらいないんだからな」
「まあいいじゃねえか。俺にとってもお前が身を固めてくれた方が安心ってもんだ」
「お前は俺の親か」
「それでもいいぜ。どうせ父親の顔もよく憶えていないんだろう?」
狩野の言う通り、俺は父親の顔を知らない。
遊び人の父と付き合っていた母は、妊娠が判明したのをきっかけに父へと結婚を迫った。だが、父親となった男はその知らせを聞いた途端、行方をくらませた。
いつか戻ってくるだろうと一人で俺を生んだ母だったが、父親が戻って来ることはついぞなかった。
片親で育った俺は、被害妄想を抱きがちな母親のもとで育った。
母親の男性に対する憎しみはひどいものだった。俺自身が男だったので、彼女の愚痴を聞かされるたびに、まるで自分がこの世に生まれてきたことが罪のように感じていた。
虐待とまではいかないが、母親は今で言うネグレクト気味なところがあった。あまりかわいがられた記憶もないし、勉強が出来なくても怒られたりはしなかったが、夜にテレビを観ていると警告もなく強い力で叩かれるといったことがよくあった。
母は癇癪持ちだったので、何がどう気に障るか分からない。すぐに殴るのと子供にも容赦がなかったので、俺は基本的に怯えて育ってきた。
そのせいで俺は色々と気を遣うようになり、出来るだけ母親の神経を逆撫でしないように生きてきた。
父親に捨てられたせいか、母親は精神的に不安定で、精神薬も摂っていたようだった。時々思い出したように見知らぬ男を呼んできて、挨拶をされたこともあった。きっと再婚相手の候補として、俺との顔合わせをするためだったのだろう。
だが、俺としては連れて来られた男性がどうこうというより、日頃から男という存在への呪詛を吐き続ける母が男性と幸せになれるとは思っていなかった。自然と俺の対応も不愛想になる。
そのせいかは知らないが、結局母親が再婚することはなかった。「あんたは不愛想だから」と散々文句を言われたが、もしかしたら俺が原因でフイになった再婚話もあったのかもしれない。どうせ上手くいったところで長くは続かなかったろうが。
母親は見た目だけは飛び抜けて良かった。他がクソすぎたせいで、男が全く寄り付かなかったが。
そのせいか、母親からは見た目だけは他の人間よりも美しく保つよう言われてきた。おそらくその目測は正しい。カエルの子はなんとやらと言うが、母の遺伝子を継いだ俺は、勉強に関する能力が皆無だった。アメコミではスーパーパワーを持った超人が出てくるが、世の中にはその真逆の人間が存在することを忘れてはいけない。
まず暗記そのものが苦痛でしかない。算数については、九九を覚えられなかった時点であきらめた。運動はそこそこだったが、プロのアスリートを目指すほどの身体能力や才能は明らかになかった。こうなったら、やるべきことは一つしかない。
母に言われた通り、俺は見た目にパラメータを全振りした。おそらく細胞のレベルで。
生まれつきの造形もあったが、俺はモテにモテまくった。人間にとって美しさは一種の武器だ。男だろうが女だろうが、見た目が美しい存在はそこにいるだけで賞賛される。ルッキズムがどれだけ良識派から批判されようが、それは厳然たる事実だ。
見た目だけで人気者となった俺は、高校へも行かずにホストになった。俺はバカだったし、高校なんかに行くより稼げるからだ。
生きるためには金がないといけない。良識派は「金はただの紙屑だ」と言う。それは俺だって否定しない。だけど、その紙屑が原因で破滅を迎える者だっていくらでもいる。
一時期は金を持っていたが、転落以来それも失った。今や顔だけが取り柄のオッサンだ。それでもモテるということは武器になる。
ホスト時代は考えもしなかったが、たしかに家庭を持ったら色々と精神的な余裕が出てくるのかもしれない。このまま行けばきっと貧しいだろうが、人の幸せは金ばかりではない。なんだか禅問答みたいになってはいるが、金はあり過ぎてもなさ過ぎても駄目なんじゃないかとは思う。
知らぬ間に意識が遠くへ行っていた。狩野は俺の思考でも読んでいたのか、ムカつく笑いを浮かべている。エスパーめ。
「とにかくだ。今は昼の仕事にさっさと慣れるよう努める。未来のヨメはその後の話だ。お互いいつ脱落するかも分からないからな」
「そうしておけ。別れなんて案外急に来るからな」
「ああ、様子を見ながらやっていくさ」
「とりあえず、シンママと若過ぎる女はやめておけよ」
思わず指に挟んだタバコを取り落とした。真理ちゃんと梨乃ちゃんが同時に脱落した。
「は? なんでだ?」
時間差で、ややキレ気味に狩野の真意を訊く。動揺を隠しきれていないのが自分でも分かる。やはりこいつ、エスパーだったのか。
「シンママは子供がいるから、金がかかる上に色々厄介な問題が出てくる。それに若過ぎる女は中身がガキだからすぐに『あたしと仕事のどっちが大事なの?』とか抜かしやがる。どっちも気合だけでどうにかなるもんじゃねえ」
狩野は忌々しげに紫煙と吐き出して続ける。
「どっちも大体がろくなもんじゃねえ。あいつら全員が全員そうとは言わねえが、地雷原であるのは間違いない。そんなものを一つ一つ吟味しているほど俺たちはヒマじゃない。分かるか?」
「ああ」
「まさかお前、今言った女と付き合おうとしてるんじゃないだろうな?」
狩野の顔がふいに険しくなる。そこにかつてのチャラいホストだった面影はない。
「言っただろ? ただの同僚だよ」
「そうか。手を出すなとは言わないけどよ。女たちの不幸話にほだされるなよ」
「おいおい、冗談はやめてくれよ。俺たちはホス狂いの女を助けているんだぞ。そんな俺が、シンママの口車に乗せられると思うか?」
後半は自分にも言い聞かせていた。たしかに俺が同情で沼に嵌まったらいいお笑いぐさだろう。
「そうか。お前の狙いはシンママの方か」
語るに落ちた。誘導尋問だったか、この野郎。
「言っただろ? まだ付き合ってはいない。ただの同僚だ」
「まだ、な。つまり付き合えるなら付き合いたいと」
「見た目はかわいいさ。だけど、色々と複雑な家庭で育ってきたみたいだからな。手に余るようだったらさっさと引くつもりだ」
「甘いな。甘いんだよ童夢君」
狩野がアメコミのヒーローみたいに腕組みしながら眉間にシワを寄せる。なんだか腹の立つ見た目だった。
「そうやって様子見をしている間に逃げ道を潰しているのがヤバい女たちのやり口だ。危なくなったら逃げる? ご冗談を。そう思った時には蟻地獄のど真ん中だ」
「お前はカイジに出てくる詐欺師かよ」
俺の野次にも動じず、狩野は持論を展開していく。
「シンママは大抵が不幸だ。ろくでもない男に振り回され、自分の人生は滅茶苦茶になったと主張する。彼女たちは言う。自分は被害者だったと。あんな男だと知っていれば結婚などしなかったと」
狩野は頼んでもいないのに、全宇宙のシンママを敵へ回すような論理を展開していく。
「それも事実なんだろう。だけどな、そこには自分でそのような相手を選び、そして他ならぬ自分がそいつと一緒でいることに耐えられなかったという厳然たる事実が欠如しているんだ。違うか」
「いや、それを言ったらDVの場合もあるしな」
俺は冷静に反論する。事実として結婚を機に暴力を振るいはじめる男だっているし、それが原因でホス狂いに走る人妻だっている。
狩野はシンママからひどい目にでも遭わされた経験があるのだろうか。ここまでシンママを目の敵にしているということは、過去に何かあったのは間違いなさそうだ。だが、彼の目的は論争ではなかった。
「そうか。たしかにそれもそうだな」
狩野の顔に冷静さが戻る。なぜここまで興奮したのか。だんだん話していて面倒臭くなってくる。
「どうしたんだ、一体」
「お前がどれだけそのシンママに惚れているのか確かめたくてな」
やはり一杯食わされていた。俺といくらか議論を交わして反応を見ていただけらしい。試合巧者め。
「それで、その鑑定の結果は?」
「重症だ。お前はそのシンママにすっかり惚れ込んでいる」
「まだそんな段階じゃない。見た目がかわいいと思っているだけだ」
「やかましい。お前は既に沼へと嵌まりつつあるくせに、その自覚がないだけだ」
狩野はタバコを灰皿に押し付けると、新しい一本に火を点ける。
紫煙を吐き出し、しばらく虚空を眺めてから口を開く。
「そうだな。じゃあお前の惚れている女が大丈夫な奴かどうか、俺が調べてやる」
「は?」
「素行調査は得意なんだよ。ホス狂いでも救いようがあるかないかは事前に調査するからな」
そう言って狩野は口角を上げる。
「ヒマなのか」
「ヒマじゃねえよ。ただ、仕事のツレがたった一人だからな。そんな大事なパートナーをシンママごときが原因で失うのも癪なんでな」
「おい、俺はそんな……」
「分かった分かった。お前の弁明はいい。時間の無駄だ。後は俺に任せておけ」
俺の反論は容赦なく打ち切られる。この男は何を考えている?
それに答えるかのように、狩野が続きを話し出す。
「一応よ、俺もお前には幸せになってもらいたいとは思っているんだよ」
紫煙を吐き出す狩野。煙は空気へ溶けて消えていく。
「だけどな、世の中にはびっくりするほどの食わせ者って奴もいる。俺としてはお前にそんな女に引っかかってほしくない」
「ああ」
「だからだ、その真理ちゃんとやらの身辺を軽く探る。ノウハウは持っているから、大して難しい仕事でもない。それで何にも出て来なければ御の字。心おきなく付き合うなり結婚するなり好きにすればいい。今まで不幸だった分な」
「……」
「だが、不幸な人生を歩んできた女っていうのは大抵そのようになる理由を持っている。それがヤバい理由だった場合、彼女は諦めろ。いいか?」
「……ああ。そもそも付き合ってもいないからな」
よく分からないが、狩野としては真理ちゃんに懸念事項があるらしい。それならば梨乃ちゃんに切り替えればいい話の気もするが、あいにくどちらも現段階では付き合っていない。気の早い話だ。
「別に調べるのはいいが、徒労に終わる可能性が高いと思うぞ」
本音を言った。あの真理ちゃんに何かがあるとは思えない。
狩野が答える。
「ああ、何もないこと願うよ。俺だってお前には幸せになってほしいからな」
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狩野がどんな方法で真理ちゃんを調べるのかは知らないが、任せておけば逆に上手く付き合える方法も見えてくるかもしれない。そう考えると悪くない話だ。
その時、脳裏を三白眼になった真理ちゃんの顔がよぎった。思えばあの表情は何なのか。
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