因子喰らいと霧の娘

六十月菖菊

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【第1章】太閤王と客人の娘

逃走

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 走る、走る、走る。ただひたすら、前だけを見る。
 その先がどれほど深く、暗い闇に包まれていても構わない。
 いっそのこと、堕ちてしまいたい。

 ────だけど、それすらも許されない。


 × × ×


 息が荒い。自分がどのように呼吸をしているのかさえもわからない。とにかく必死に走った。さながらそれは、捕食者に追い詰められていく獲物のようだった。
 深夜。客室から抜け出したセネットは城内を走っていた。ドレスは脱ぎ、動きやすい寝着姿に着替えている。おかげで走っている間に裾を踏んで転ぶようなことはなかった。
 城の構造を知るはずもないセネットでも、外の景色を見れば大体の推測はできた。城の階段は王族の危機回避を考慮して3ヶ所以上は存在する。そのため彼女は壁沿いに進めば階段に行き当たるだろうと考えた。
 まさしくその読みは当たり、階段へと難なく辿り着くことができた。推測した階数は七階。客室は四階に位置するため、一階へは三階分を降りるのみである。
 階段は上りよりも下りの方が足に負担がかかりやすい上に、セネットの体力はあまりない。二階まで降りたところで、踊り場で足をもつれさせた。

「いっ……!」

 手すりに掴まり、何とか倒れずに済む。少しの間その場で息を整え、そしてまた走り出す。
 雪の降るこの地域は夜が特に冷えるのだが、走っている内に体は温まったらしい。代わりに、息を吐く度に白い気体が視界の隅に流れていく。
 階段を降りきった後も走り続けていたが、ようやくその足が止まった。

 たどり着いたその場所は────外へと繋がる、城の門扉だった。


「…………」

 荒れた息を整え、ゆっくりと扉に近付く。心臓の音が煩くて仕方がない。
 鉄製の閂におそるおそる手を掛けた。


「────眠れないのか」


 後ろからの声。驚いた拍子に、持ち上げかけていた閂が滑り落ちて、甲高い金属音が響き渡った。
 半ば呆然としながら振り返れば、寝着姿のウィルミリアが壁に寄りかかってこちらを見ている。

「…………」

 セネットは扉の前で立ち竦んだ。顔は青白く、走った後の流れ落ちる汗とは別に、冷や汗が背筋を伝っていった。

(どうしてここにいるの? まさか追ってきた?)

 いや、とすぐにその考えを否定する。

(あれだけ走ったのに、すぐに追いつくなんて有り得ない。追ってくる気配なんて少しもしなかった。後ろだって、何度も振り返って確認したもの)

 それならと、自分の中で至った答えにセネットは戦慄する。

(……待ち伏せ、されていた?)

 ウィルミリアが壁から離れ、こちらへと歩いてくる。
 思わず後ろに下がるが、冷たく硬い鉄の門扉に当たった。
 逃げ場はない。脳内は瞬時に白濁し、セネットは軽く目眩を起こした。ウィルミリアの手が伸びてくる。

 ────カタン。

「どうした」

 くらくらと揺れる脳にウィルミリアの声が届く。見ればその手は閂に掛けられていた。

「外に行きたいのだろう」

 するりと閂を抜き、壁際へと立て掛ける。重厚な門扉が大きく開かれ、徐々に広まる隙間からは淡い光が溢れ出た。

「顔色が悪い。外の空気にでも、当たりに行くといい」


 × × ×


 雪は止んでいた。雲の間から白月が見え隠れしている。真夜中の城下町は静まり返っており、ただ雪の踏む音だけが耳に届くのみだ。
 走って火照った体が今更ながら冷えてきたらしい。立ち止まって堪らず身震いすると、後ろから何かを掛けられた。確認してみると、見たことのある黒のコートだった。

「……どうして何も訊かないのですか」

 振り返らずに、投げやりにそう訊いた。口調から丁寧さが欠ける。
 返答は、なかった。

「……ありがとうございます」

 コートの端を握りしめて小さく呟き、再び歩き出す。後ろの気配は消えない。門扉をくぐってからずっとついてきている。

(逃げないように、見張っているのかしら)

 そう考えるも、彼から威圧的なものは感じられない。まさしく影のように、静かにセネットの後ろに居る。

「………」

 振り切るように前を見据える。城下町はあともう少しで抜けられそうだ。国外に通じる門らしきものも見えてきた。出口は近い。

(この人は)
(国の外にまで、ついてくるつもりなのだろうか)

 足がふらつく。城内を走り、城下町を抜けるほどまで長く歩いたセネットの体は、正直に言って限界に近かった。コートを掛けてもらったとはいえ、完全に寒さをしのげるわけでもない。

(ここで倒れてはいけない)

 強く自分に言い聞かせ、足になけなしの力を込める。

(せめて、国の外で死ななければ)

 自分の死後、この体に潜む得体の知れない霧が何をしでかすか分かったものではない。もしも死んだ途端に国に蔓延してしまったらどうなるのだろう。考えただけでも恐ろしい。
 害はないと、彼は言っていた。それでも、不安を拭い去ることなど出来そうにない。何より、今まで多くの人間を死に追いやったこの霧を、そして自分自身を許したくなかった。
 寒さは更に足の感覚を奪っていく。気付けば引きずるようにして歩いていた。視界は霞む。耳鳴りが起きる。口はまともに開かない。

(あの時と、同じ)

 ふと先日のことを思い出し、次いで忌まわしい記憶が起き上がりかけたが、頭を振ってしまいこんだ。
 意識だけは手放さず、彼女はやっと門にたどり着いた。

「……?」

 不審に思い、立ち止まる。

(門兵が居ない?)

 国を外来から守るために常駐しているはずの門兵が、居ない。通常、どの国にも門兵は居る。いついかなる時でも、国の入口を守らねばならない彼らは、深夜であっても交代制で門番をしているものなのだが。

「…………」

 しばらく躊躇った後、結局セネットは前に進んだ。体で扉を押し開け、開いた隙間にその身を滑り込ませて外に出る。

(さあ、あとは力有る限り歩くだけ)

 幸い、天候は穏やかだ。なるべく遠くへ。誰も居ない、孤独な地で果てよう。
 セネット=ジルスの歩みが止まるのに、そう時間はかからなかった。シフィカからほど遠くない場所で彼女の気力と体力は尽き果て、身体は雪原に投げ出された。

「………」

 黒い影がセネットに近づく。傍らに膝をついて仰向けにすれば、その顔色は決して良くはなく、身体は冷えきってしまっている。
 雪に埋もれた彼女を抱き起こし、軽々と持ち上げた。雪道につけられた二人分の足跡を上書きするよう、来た道を戻ろうとする。

「………い、や」

 影は一瞬動きを止め、セネットを見下ろした。

「────……は、いや」

 微かな声ではあったが、影はしかと聞いたらしい。冷えた身体を抱え直し、セネットの目から滑り落ちた一滴を指で掬い取った。

 しんしんと、また雪が降り始める。
 静かな夜はゆっくりと更けていく。
 
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