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第6話「知らないこと」

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 慎ましやかなお茶会を終えて、再び旦那様(仮)と手を繋ぐ。
 家に帰るために乗り込んだ馬車の中、隣同士で座っていた。

「……楽しかったか」

 ぶっきらぼうに問う旦那様(仮)。
 少しだけ、手に力が入るのを感じた。

「はい」
「…………そうか」

 更に力が込められる。
 どうしたのだろう。

「なあ」

 呼びかける声に元気が無い。
 いつもとは違う様子に身構えていると、臙脂色の目を不安げに揺らして私に問う。

「お前、俺の名前を知っているか」
「え」

 旦那様(仮)の名前。
 知っているに決まっている。いくら(仮)とは言え、書面上とは言え、私の夫であるひとの名前を知らないなんて────。



「……………………ご、」

 カタカタと身体に震えが走る。

「ご、ごめ、ごめんなさ、申し訳、ありま……っ!」

 ゴチャゴチャと絡まる謝罪の言葉。
 頭の中を隅から隅まで探しても、旦那様(仮)の名前は出てこない。
 そう。

 ────私は旦那様(仮)の名前を知らなかった。
 
「……やっぱりな。俺も名乗った覚えはねぇし、バカ親どもも俺の名前はあまり呼ばねぇし」

 声は凪いでいて、諦観交じりだった。

「俺もお前のこと、何も知らねぇし」

 繋いだ手を、握った手を。
 確かめるように、旦那様(仮)は何度か小さく力を込め直して、私を見る。

「俺はグルナ、グルナ=オラージュだ。お前の名前は?」

 旦那様(仮)、いや、グルナ様に促されて、久し振りに自分の名前を口にする。

「ラシーヌ、です」

 日の目を見ない、根っこのラシーヌ。
 私を侮蔑して付けられた名前。あまり好きではない。
 堂々と名乗れるものではなく、尻すぼみになってしまう。

「ラシーヌ=オラージュ」

 グルナ様がポツリとそう呼んだ。

「え?」
「俺の嫁なんだから、家名も入れろよ」

 ────手が熱い。顔も熱い。

 グルナ様の言葉を解した瞬間、身体のあちこちで熱が生まれる。全身が熱くなっていく。
 言葉を無くして真っ赤になった私をグルナ様が抱き寄せる。

「ラシーヌ」

 甘く爛れた声が耳を犯す。グルナ様のそんな声、初めて聞いた。
 握っていた手が動いて、指を絡め合う形になる。もう片方の手は背中に回されて、しっかりと抱き締められる。

「名前を呼べ」

 短く命じられて、沸騰した頭で言われるがまま、名前を呼ぶ。

「ぐるな、さま」
「……ああ、ラシーヌ」

 猫のような、喉を鳴らす音が聞こえた。
 今までで一番に機嫌が良さそうだった。






 熱い、熱い。
 熱を分け合う、更に熱が上がる。
 痛がるのを経験で知っていたらしい彼は、怪しげな薬を飲ませて私を徹底的に快楽に落とした。
 善がる私を嬉しそうに見つめて、名前を何度も呼んだし、何度も呼ばせた。
 薬のせいで頭がバカになってしまった私は甘く啼きながら、バカみたいに彼の名前を叫んだ。そうすると彼はもっと喜んでくれて、私も死にたくなるほど嬉しかった。
 私たちは夫婦(仮)だから。いつ終わるとも知れない、仮初の夫婦だから。今だけは、存分に甘えようと。




 ────大丈夫、大丈夫。

 バカになりながら、隅っこに追いやられた理性が、ひどく冷めた私が、必死に言い聞かせてくる。

 ────私は使い捨ての消耗品。いつか捨てられる代替品。

 ちゃんと覚悟は決めてる。だから、今だけは幸せを感じていたい。
 身体は燃えるように熱く、心は凍えたように冷めた夜だった。
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