水曜日の子供たちへ

蓮子

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ep.19 足並みは揃わないが確かな一歩

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 すっかり僕らは、いつも通りの日常に戻っていた。
 2~3日に一度、昼休みにフィン先輩と報告がてらの雑談、授業が終わればルカと話をする。夕食が終わればパオルと勉強をして、点呼前にヨナスが戻ってきたら今日あった話をする。なんとも単調だが、充実した日常だ。

 この日はパオルの勉強時間にフィン先輩が前回の考査の模範解答を教えて暮れに来ている。なんと補講対象から外れたのは喜ばしいことだが、授業で考査の振り返りをやってくれないので、正しい答えがわからないままなのだ。
 本来ならクラスメイト同士で解答を付き合わせるのだが、留年していたり、良い噂がなかったりとそういう輪にまだ入ることができていないそうだ。

「自分でも驚いているから何も言うなよ」
「快挙だと思うよ。全教科補講対象から外れたね」
「聞いちゃいねえ。だからお前はなんでいるんだよ」
「最近来すぎじゃないですか?もういっそ昼休みの報告をこの時間にします?」
「ベンヤミンも冷たくない?」
「いえ、ご無理をされているんじゃないかと思って」
「大丈夫だよ。最近暇なんだよね。各所で問題が起こらなくなったし、今はなんか今まで頑張った分のお休みみたいな感じだよ」
「それなら良いですが、でもあれこれは身に覚えがありすぎて心が痛みます」
「当事者でもないのに、厄介な子だね。でも嬉しい限りだよ。更生に時間と労力と人員を割けばパオルのような生徒も改心するって、役員の評価はうなぎ上りだよ」
「自分の手柄のように言いやがるな」
「でも今のパオルになることができたのは、フィン先輩の影響が一番大きいと思いますよ。素直に僕と同室になったのも、フィン先輩に怪我を負わせたからなんでしょう?僕は今の自分をどうにかしたいと思った、パオルの手助けをしただけですし」
「殊勝だね。そんな君だからこそ任せて良かったよ。年若く悩める君に任せることは少々心配だったけどよくやってくれたね」
「言っちゃあなんだが、反省と気落ちは一過性だからな。ベンヤミンと同室になんなきゃ、きっとすぐ忘れて誰にでもつっかかってたさ」
「そうだよ。彼自分もよく怪我してたけど、入学当初から怪我させてたからね」
「2人揃って僕の手柄にしてくれなくていいですよ。一番はパオルが努力した結果なんですから」
「確かにそうだな。俺頑張ったよ。まさかあの紙に名前が載る日が来るなんて思ってもみなかった」
「そうですよ。すごいですよ。コツコツとここ数ヶ月勉強して来た結果です」

 ようやっと実感できて来たパオルは、先日返却された答案用紙を見ながら喜んだ。暗記ものとそうじゃ無いものの教科の点数の差は大きかったが、それでも補講を受けずに済む点数は取れているのだ。



「まぁ今日来たのは、その回答用紙に模範解答を書きに来たんだけどね。補講を受けるなら、詳しい説明が聞けるけど補講受ける?手続きしておくよ」
「正直今までも補講受けても意味わかんなかったしな。自習の方が効率がいい」
「今回は暗記で乗り切った感が強いからね、おいおい授業に追いつければいいよ」

 そう言いながら、スラスラとパオルの答案用紙に問題用紙を見ながら模範解答を記入していく。それを見ながら、ちょこちょこパオルがそれを質問して、フィン先輩がそれに答えている。丁度、全教科終わったところで、ヨナスとルカが帰ってきた。

「また来てたの?」
「用事があったからね」
「何それ」
「こいつが模範解答書いてくれたんだよ」
「そうなんだ。パオルの勉強もずっと見てくれてたんだよね」
「ん?そうだよ」
「僕も嬉しいからお礼を言いたい、ありがとう」

フィン先輩は驚いた顔をして僕の方を向いた。

「ルカが素直なんだけど」
「彼はずっと素直ですよ。素直すぎるくらいです」
「抱きしめたいって言っていいかな」
「本人目の前にいるんですから、僕に聞かないでください」
「別に構わないけど」



 フィン先輩はルカを抱え込むように抱きしめる。その様子はまるですぐに壊れてしまう泡を抱きしめるようだった。流石に長身のフィン先輩がルカを抱きしめると、まるで大人と子供だ。

「小さい」
「うるさいな。これから伸びるよ」
「嬉しい」
「もう離れて」
「ええ、じゃあ次はヨナス」



 ヨナスはされるがままそれを受け入れている。

「嫌だったら嫌って言えよ。こいつ限度を知らねぇんだから」

 ”これから伸びる”そんなただの一言なのに、胸が締め付けられた。ルカにこれからがあると言うことを彼の口から聞けたと言うことがなんだかとても嬉しい。ああなんたる幸福感。

 その後、フィン先輩は僕も抱きしめて、パオルも抱きしめようとしたが全身全霊で嫌がられて部屋の中を追いかけっこしていた。3周ほど回ってパオルがヨナスを盾にした時に点呼の予鈴が鳴って、渋々フィン先輩は帰って行った。

「もう明日からは来なくなると思いますよ」
「ああ、マユカ祭か。早いな」

 年に一度この時期に学校を挙げてのお祭り、マユカ祭が行われる。学校のお祭りとは言っても、聖歌隊と演劇部の公演がメインで地元のお店も協賛するなかなかに大規模なものだ。
 そうは言っても、僕などの何にも所属していない生徒は暇を持て余すか、演劇部の手伝いに駆り出されるかした。生徒主体とは言っても、どれだけ寄付金が集まるかが勝負なので、教師や神祇官含め学校全体が盛り上がった。

「僕は演劇部の手伝いをすることになったよ、ベンヤミンもするんでしょ?」
「今年は役員の手伝いに駆り出されそうですから、演劇部の方はお手伝いできないんです」
「そうなの?」
「来年は正式に役員になっているでしょうし、このヴィロット寮にいて、役員候補で何もせずに演劇部を手伝うなんてことは顰蹙を買いそうですし」
「そうなんだ」
「残念ですか?」
「一緒にできたらいいなと思ったけど、僕は僕で演劇部に興味があったからね」

 ここ最近、ルカはクラスに溶け込めているらしく、名前が出てくるクラスメイトが数人できた。表面上はその無表情含め取っ付きにくい容貌をしているが、話してみると人懐っこく気取らない性格なので、すぐに仲良くなれるのだろう。
 以前はどうだか知らないが、今のルカはそうなのだ。

「ヨナスはもちろん、聖歌隊でしょ?他に何か歌ったりするの?」
「協賛の、方に…も、協力す、することになった」
「あの格好で歌うの?」
「わから、ない、でも、歌えるなら、なんでもいい」
「楽しみだな」

 ルカはキラリと目を輝かせた。そういうのは学校と店主が話し合って決めることだろうから、下手に心配するのはよくないと老婆心を押さえつけた。でも彼があの格好をするのは一部の生徒しか知らない。どこでどうやってヨナスを歌わせるのだろうか。

「でも、あのドレス、好き、だから、あれを着て、歌いたいの」
「とても似合ってるもんね」
「そういやあ俺見たことねぇな、試着しか」
「あの時間補講でしたからね」
「パオルは何かするの?」
「特に何もしねぇかな。今年は真面目に勉強してんじゃねぇか?」
「パオルはヨナスに付いてるって話を聞いたんですけど」

 自分で言って、”ああ”と合点がいった。ヨナスが歌うのはきっと学外でのことだ。
どのような様子になるのかはわからないが、学外でなら生徒に見られる心配は激減する。

「はあ?誰にだよ」
「フィン先輩に。さっきまでなんの話かわからなかったんですけど、協賛の方の手伝いって意味だったんですね」
「あいつは勝手に…」
「でも適材適所ですよ。僕とパオルはあちらと面識がありますが、僕はそちらのお手伝いは無理ですからね」
「パオル、が、一緒?」
「そうみたいだな」

 柔和に笑うヨナスにパオルはとても素直に返事をする。普段なら文句の一つや二つは出てくるところだが、なんだかんだでパオルもヨナスには勝てないのだ。
 顔はにこやかに、怒っている。明日どこかでフィン先輩はパオルに怒鳴られるのかもしれない。

「つっても俺なんもできねぇぞ」
「暴れるのは何をするか聞いてからでいいと思うよ。もしその流れでパオルだけがヨナスの歌を聴けるなんて話だったら、それこそ役得なんだし」
「別に暴れたりはしねぇ。けど、頃合い見て、あのアホには何かしてやる」
「物騒ですよ」

 ユマカ祭か。去年は演劇部の手伝いをしていたなと思い返した。
 物品や衣装の管理作業は今思い出しても頭が痛くなる。毎年午前と午後と2公演、別々の演目を上演する。演者はもちろん毎年小道具から大道具から使いまわせるものは使い回すがそれでも人員は不足しているのだ。演者の一部は掛け持ちで公演を行っているが、主役級はそうもいかない。1日に長丁場の2回公演は、どうしても体力的に難しい。
 もちろん、聖歌隊も大変だ。朝から昼から夕方も歌う。こちらは演劇部の講演ほど長くはないのだが、人員の入れ替えはなく体力勝負もいいところだ。聖歌隊の合間に演劇の公演があると言ってもいいくらいだ。
 そんなことを言ったら、どっちもメインだよと怒られそうだが。しかし、そうなるとヨナスはいつ歌うのだろうか。

「朝と昼だけだよ、夕方は今年はやらないんだ」
「そうなんですか」
「聖歌隊の支援金の話し覚えてる?」
「はい、もちろん」
「あれの流れで、今年は協賛店舗の数が多くなったんだよね。だから学内だけじゃなく学外までこうお祭り騒ぎになるらしくて。そっちも余裕を持って回れるようにってことで、時間を色々と調節することになったんだよ」
「はあ」
「いや、僕もまだ規模というか話が大きくなりすぎてちょっとよくわからないんだけどね。去年10店舗も無かったのが、今年は30店舗超えてるって話だからね」
「木を隠すなら森の中ってことで許可されたんですね」
「ヨナスのこと?学外でならと話が付いたらしいよ。学外に舞台作って朝から晩まで、他にも何人も歌うらしいから紛れるには丁度いいしね」
「生徒は聴きに行けないということですね」
「そう、好都合でしょ。それで、あまりにも数が多いので生徒主体という訳にも行かなくなって、学校の神祇官だけじゃ手が回らないみたいで、アハテの方からも大勢駆り出されるらしいよ。まぁ、毎年のことだけど、あの人たちこういうのさっぱり向いてないね」
「バッサリと」
「のほほんとはんなりしている場合じゃないんだよ。準備に取り掛かれるのは4週間前からだと決まっているのは仕方ないとして、もう残り3週間切ってるんだよ」
「お疲れです」
「役員と聖歌隊の掛け持ち組はすでに疲労困憊なんだよね」
「僕にできることがあればできるだけお手伝いしますから」
「ありがたいけど、まだ正式な役員ではない君に回せる仕事が少ない」
「そこは頑張ってください」

 とは言っても、ガッツリと事務仕事を仰せつかっていた。基本生徒主体ということで、寄付金を一番望んでいる教師、事務職員は今年は特に我関せずを決め込んでいる。自分達だけ良いとこどりで甘い汁を啜るというのは毎年のことのようだが、今年はちょっと事情が違うようだった。

「下手を打ったのは僕たちの失敗だけど、急を要していたし、もともと生徒のことに関して協力的じゃ無いのがいけないんだ。面倒ごとは僕らに全て押し付けるくせに、いざとなったらこの態度だろ?」
「大人の汚さが身に沁みる」
「そう、それ!!」

 神祇官達は協力的だが、フィン先輩のいう通り、あまりこういうことには役に立たない。聖歌隊愛好者達による支援金なるものを役員主体で募ってしまったため、事務職員は完全に役員を敵視しているのが最たる原因だった。それでも寄付金になる協賛店への大人でしかできない対応などはなんとか協力してくれるが、軋轢が埋まらないため僕が事務職員と役員の橋渡しに奔走する羽目になっている。
 僕が一番の主犯なのだが、事務職員はその事を知らないので、僕はうまい具合にコウモリ役に徹しなければならない。若干の胃痛は甘受しなければならない。

「また難儀な」
「体良く丁稚扱いですよ。いいですけどね。それで、パオルはどうです?」
「オレの方は特に何も、店主がそろそろ新しい衣装に変えたいって言ってて、それをお店からって言ってんだが、給金は受け取らないだろ?そういうのって有りか明日聞く。くれぇかな」

 ここ数日協賛店舗は打ち合わせのために学内を出入りしている。パオルはヨナスの立会いだけじゃなく、紆余曲折、協賛店舗の学内案内なんかも引き受けているらしい。

「そういう流れになっちまったんだよ。あの店主口がうまいのなんの」
「これで4人全員忙しくなった訳ですね」
「オレの仕事はあと2日、3日ってとこだろうけどよ。お前は今からが大変そうだな」
「大変じゃないですけど、ちょっと寂しいんです。今みんなそれぞれ頑張っていますけど、バラバラな方向向いているじゃないですか。当たり前のことですけど、卒業したらそうなんだなって。来年部屋替えでバラバラになるのも、ちょっと想像しちゃって」
「考えねぇオレがいうことじゃねぇが、お前は考えすぎだよ」

 パオルは僕の方を向いて、両手を広げた。

「ルカの真似だ」
「ルカとはやりますけど、パオルともヨナスともしたことなかったですね」

 ちょっと照れくさい思いをしながら、その中に飛び込んだ。ルカと全く違う、骨ばってて硬い肌。パオルは埃っぽいとルカは言っていたけど、そんなことはない。同じくらいの体温に体が溶け合ってしまいそうだと感じた。



「ずるい!」

 部屋に入るなり僕らを見つけたルカは、僕らの元に走り込んできた。木屑なんかをつけたルカはよっぽど埃っぽかった。

「今日は何をしたんですか」
「今日は、倉庫の大掃除をしたんだよ」
「なぜまた、今頃?」
「備品のリストにあるはずの物が無くって、神祇官が激怒したんだ」

 演劇部を担当する神祇官は数名いるが、誰も激怒という言葉が似つかわしくない。彼らも怒るのかとあさってな感想を持ってしまった。

「あそこの備品管理は厳重ですからね。それはお疲れ様でした。早くシャワー浴びて着替えてください。木屑とかすごいですよ」
「そうだった」

 すっかり全快したルカは毎日演劇部の手伝いに行っている。そこでも友人もできたようで、すっかり今までのルカはなりを潜めてしまっていた。いいことだけど、でもどこかやはり寂しい気持ちが胸に広がった。

 ヨナスのドレスは役員の許可は降りたが、学校側の許可は降りなかった。ドレスというものが高価なものであることと、それが寄付という善意からなるものではないからだった。給金の代わりというのが店主の主張だったが、そもそも給金という名目が不可とされるため、自ずとドレスという現物支給は許可されない形となった。だからと言って学校に報告せずに受け取ったと露見した日には、元の木阿弥になることは簡単に想像できたので、僕らは悔しくも正規の方法をとるよりほかないのだった。
 フィン先輩とパオルはめんどくさいと怒ってはいたが、どうしたものかと頭を抱える。今度は前回のように演劇部員には頼めない。

「そこでジャデルシャーゼに出入りする仕立て屋にお願いしたんだよ。ドレスの縫い方教えてくれって」
「パオルが?縫うんですか?」
「もちろん一からじゃねぇよ。古着のドレスをこう、加工するんだ。よくわからねぇが、古着なら寄付の範囲らしくってな、結婚式用のドレスなんだが買い手が結婚前に別れていらなくなったっつう、縁起の悪いものらしいんだ。代金は貰ってたかなんかで処分に困ってたんだとよ」
「確かにそんなドレスいくら安くても、無料だと言われても縁起が悪すぎて、誰も晴れの日に着たくないでしょうからね」
「だからサイズ直しと、ちょっとしたことぐれぇは出来るんじゃねぇかと思ってよ」
「それって白いドレスですよね」
「そりゃ結婚式用だからな」
「もし見られたら、バレませんか?」
「大丈夫だろう。もうみんな忘れてんじゃねぇか?」

 人の噂は75日と言うが、僕の老婆心を余所に、各所盛り上がりを見せた。
 特に浮かれたのはルカで、現物やパオルの書いた予定図を見て、眷属神みたいと喜んでいる。背中に羽でもつけるかと冗談交じりに言うパオルは、洋裁の本を片っ端から集めて、自主学習をほっぽり出して、夜な夜な勉強していた。
 見よう見まねでサイズ直しとちょっとした事を、ジャデルシャーゼに出入りする仕立て屋に教えてもらいながら進めていた。早くも数日で元が結婚式用のドレスだとは思えないものが出来上がりつつあった。

「なんとも意外な才能だね」
「みんながみんな忙しくあたふたしてるので、1人勉強するのが嫌だったのかもしれません」
「出来はいいの?」
「あまり体型の変わらない小さい方だったみたいで、ほとんどサイズ調整という調整はしなくて済んだみたいです」
「胸とかどうするの?」
「この際だから詰め物でもしたら余計にバレないのではないかってみんなで話をしているんです」
「意外とヨナスもそれに乗り気で、ルカも便乗して楽しんでますよ。眷属神のような羽をつけるとか言ってました」
「仮装大会かな」
「どうでしょう。出入りの仕立て屋から話を聞いているようで、ジャデルシャーゼの店主にも評判がいいみたいなんです。それで、あれこれ半端なものだったり、少しだけ欠けたり色移りして売り物に使えないような材料をもらってるみたいですよ」
「みんな楽しそうで何よりだよ。それで、羽は演劇部から借りるのかい?」
「ルカが話をつけてくれて、公演が終わって間に合えば借りれるそうです」
「それは良かった。僕じゃ、演劇部と交渉できないからね。ルカもあっちで仲の良い子が出来たみたいだし、順調だね」

 なぜかフィン先輩の順調だねの言葉は嫌にズンとお腹に溜まった。別に何か含みがあるわけではないのだろうけど、僕はその言葉にとても違和感を覚えた。

「はい、これ今日の分、出来上がったらいつも通り事務の人に預けてくれれば良いから」

 書類の束を僕に渡すと、大きくあくびと伸びをしながら午後の授業に向かっていった。僕もパラパラと確認してすぐにその後を追う。



「――――で、ランスが言うわけだよ。僕だってそうなんだって」
「お前、そのヨナスに対して独占欲丸出しなのは人としてどうかと思うぞ」
「ヨナスの一番の友達は僕が良いんだもん。アランもサディも羨ましがってるのを見て、こう高揚感を覚えるんだよね」
「こうようかん?ちょっと待てよ、って一番ダメなやつじゃねぇか」
「パオルは辞書引くの早くなりましたよね」
「まぁな、頭文字と大体のスペルに見当がつくようになった」

 ドレスをチクチクと縫うパオルの横で、ルカが様子を眺めている。文化祭の準備が始まってから、ルカは演劇部の手伝いに行っているため、時間の都合上あまりヨナスの自主練習に同行していなかった。そもそも聖歌隊の練習も夕食時にずれ込んだりして、特別措置が図られるなどされていたため、この時間は3人で過ごすことが多くなっていた。
 二人の会話を聞きながら僕は書類仕事に精を出していた。時々その会話の内容は胃にズンと響いた。痛いわけではなかったが、重い確かな不快感と共に、耳の奥でフィン先輩の「順調だね」の言葉が繰り返し響く。

「どう、したの?」

 心配そうな顔をして覗き込むヨナスにぎょっとしてしまった。いつの間に戻って来ていたのだろうか、気がつかなかった。

「お帰りなさいヨナス。ちょっと疲れてるんですかね。ぼうっとしてました」
「仕事量多いんじゃねぇか?」
「このような仕事に慣れていないだけだと思います」
「それならいいが」
「無理は、だめだよ」
「そうですね」

 そうこう言っていると、点呼当番の役員がやって来た。
 どうやら予鈴も聞こえていなかったのかと、僕は背筋が凍る思いがした。慣れない仕事で疲れているからおかしなことを考えてしまうのだと、今日は早く寝ることにした。目の前にある書類はまだ半分ほどしか片付いていなかったが、急ぐ仕事ではないし、何枚かは明日中に事務員に渡さなければならなかったが、他は今週中に渡せば問題ないものばかりだ。昼休みを使えばどうにかなると考え、書類を丁寧に仕舞う。
 ぐるぐる考えるのはいけない。
 こんな時、暗いところから白い手が伸びているのがわかる、僕を捕まえようとしているのだ。その手に捕まれば僕はきっと何も信じられなくなるし、何も見えなくなるし、何も聞こえなくなる。あの時と同じように。

「こんな疲れた時にも抱きしめるのは有効なんだって本に書いてあったよ」
「ごめんなさい。今はそう言う気分に慣れなくて」
「だからだよ」
「乗った」
「乗らないで良いですよ」
「僕…も」
「ヨナスまで」

 3人が3人腕を広げて僕を待った。



 足が向かったのはルカのところで、触れた彼はいつもと同じ感触だった。変化していく彼にさみしく思ったのは事実だ、案外僕の方がこの3人がいなければ立ち行かなくなってしまっているのかもしれない。
 こういうのを依存と言うのかもしれない。誰かからこんなに必要とされたことがあっただろうか、誰かからこんなに受け入れてもらったことがあっただろうか。しかし、今日はなんだかその細さがただただ心許なかった。

「抱きしめ合うと、心が優しくなれるよね」
「そうですね」

 本当は反対の疑念の言葉が湧き上がってきたが、僕は肯定した。僕は彼らが僕の手から離れていくのを喜べない。

「ルカの熱も下がって良かったです」
「いつの話をしているの」

 触れたところから相手の熱が伝わる。しかし、するべきことを全て反故にして、ずっと3人といたいとすら思って仕舞う僕の心まで、その熱は伝わってこなかった。

「とりゃ」
「えい」



 パオルとヨナスが飛びついてきた。

「ちょっとどうしたんですか」
「元気がないベンヤミンに全員で元気を注入するんだよ」
「元気、を、わける」
「あはははは」

 ルカは声をあげて笑っている。
 もちろん僕らも一緒に笑った。声をあげて笑っているのに、ルカの顔は笑っていない。もうとっくに慣れたものだと思ったが、その違和感に一瞬だけ僕らは引きつってしまった。

「あ…」

 その一瞬を見逃さなかったルカは、おずおずと僕らから離れた。その僅かな時間に、ルカの体温が下がるのを感じで、僕たちはどうしようもない気持ちになった。

「やっぱり奇妙だよね。笑えてなかった?」
「問題ねぇよ。俺たちが悪かった。ちょっとビビっただけだ」
「ごめんなさいルカ。ちょっと驚いただけで…」

 ヨナスも僕らに合わせてこくこくと頷いている。

「別に構わないんだ。ただ、僕が僕自身に引いただけだから。楽しいのに、笑えないんだね。今辛いのに、辛そうな顔もできないんだね」

 その通り、ルカの顔は真顔のまま淡々と発せられる言葉が浮いていた。

「3人も早く寝ましょう。ヨナスも明日は歌う日ですよね」

 気まずいまま僕らは床についた。どんどん自分自身を含め、悩むこと、後悔することが日々増えていくとやるせない気持ちになった。
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