水曜日の子供たちへ

蓮子

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ep.14 そばにあるその手を離さないように

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 僕らにとってソールという日は特別な日になっていた。
 まず授業が終わればヨナスはまっすぐ寮に帰ってきて、夕飯まで仮眠を取る。なのでソールのルカとの談話は別室で行うか、そもそもやらない日もあった。確かにヨナスは一度寝たら定時まで起きないという、特殊技能を持ち合わせていたが、いつも寝る時間ではないため気を使う事にしたのだ。
 別室とは言っても、隣の空室を使っている。間取りは完全に一緒だが、誰も使っていなかったため、はじめは埃っぽかった。初日はあれこれ話をしたとはいえ、2人で掃除をして終わった。



 ルカといえば、あれから抱きつき癖が付いたのか、隙を見せるとパオルであれヨナスであれ、抱きついている。初回以来痛いほどという力の強さではなかった。特にそれ以上何をするわけでは無いが、本人が満足するまでいくら文句を言おうと、引き剥がそうと抱きついたままだった。
 なので僕らは持ち回りを暗幕の了解で決め、順番に餌食になっている。

「よくああも横になって数秒で寝れるものだと感心するよ。それに、ここを掃除した日にも言ったけど、少々の話し声じゃ起きないよ?」
「前にも言いましたけど、もし起きていた場合の保険なんです。それにまだ明るい時間、それもいつも眠る時間では無いですからね」
「別に聞かれて困る話では無いけどね」
「こそこそ密談のように寝ている側で会話されるのは、僕はあまりいい気持ちにはなりませんよ。耳の良いヨナスが聞きたくて聞く話ではありませんし」
「そんなもの?」
「そんなものです」

 毎日の時間は、時に読書に費やされたり、時に課題をしたり、こうしてお喋りばかりするときがある。彼は物事をよく知っていたが、対人については時々眉をしかめる発言をすることがある。そんな時は「普通はそうです」が大の禁句で、僕がどう嫌かを説明すると大抵納得する。

「僕はベッドに横になったって、寝るのに時間がかかるんだよね」
「あまり時間がかかるようなら、何か対策立てましょうか?」
「ずっとのことだよ。もう本当に幼い頃から」
「寝るのが怖いんですか?」
「まさか、あのじんわりと常闇に落ちていく感覚はむしろ大好きだよ」
「もしかして、ヨナスを追いかけたあの時も眠れていなかったんですか?」
「まだ寝れていなかったって言った方が正確だし、何かあったら僕も追いかけようと思ってたからね」
「それなら良いですが」

 今日はまだ抱きついてきてはいないが、なぜか両手をしっかり繋がれている。
部屋に入るなり、椅子を向かい合わせにされて、ずっとこれだ。

「手が汗ばんでる」
「嫌なら離してください」
「嫌とは言ってない」
「抱きつくのは飽きたんですか?」
「手を繋ぐと相手のことがわかるって、昨日読んだ本に書いてあったんだよ」
「抱きつくのも本か何かに書いてあったんですか?」
「あれは、なんだろう、なんとなく抱きついたら、なんか良かった」
「良かった?」
「そう、こう、みんなの体温を感じられて、生きてるって思った」
「確かに一番手っ取り早いかもしれませんね。それで、手を繋いで何か分かりましたか?」
「ベンヤミンの手は湿っぽい。それに暖かいし、爪が四角い」
「ルカの手は冷たいですね、爪はスラッとして綺麗な形をしている。それにこうやって見ると、自分の肌の色が際立つ気がします」
「嫌いなの?」
「正直、一生好きになれそうもないです」
「僕は好きだよ、健康そうで、カウラに愛されているような肌の色だと思う」
「褒めてくれているんですか?」
「褒めてるのかな、これ」

 繋いだ手はその繋ぎ方をどんどん変えた。握手のような繋ぎ方、指を絡めたり、指だけを握ったり。

「嫌だったら答えなくでいいです。いつもこうやっているんですか?」

 ルカは手元に落としていた視線を一度あげて、再び手元に落とした。

「他の人にもずっとこうやっているってこと?しないよ、気色の悪い」
「僕は気持ち悪く無いんですか?」
「ベンヤミンも、ヨナスも、パオルも気持ち悪く無いよ」
「じゃあ…」

 口から出かけた言葉が寸でのところで出て来なかった。誰が気持ち悪いの?なんて聞いていいのだろうか。きっと聡いルカなら、僕がなんて言おうとしたかわかってしまっているかもしれない。
 僕は血の気が引くのを感じた。

「手が冷たくなってきた。気持ち悪いのは誰かな。僕は誰かに触ることってあまりして来なかったんだよ。いつも”誰か”は僕に触れたがった。僕はその手を払いのけることができるほど、自分自身に興味がなかったんだ。払いのけるほどの力がなかったといえばそれまでだけど」
「それは、ずっと以前の話?今?」
「どうだろう。ずっと最近までそうだった気がする」
「嫌だったんですか?」
「どうだったんだろう。嫌だとか嫌じゃないとか感じることすらなかったんだ。だって、それが普通で、僕が僕であるためにはそうして生きていかないといけなかった。だって、誰も僕を見てくれない。だって、綺麗だねって、可愛いねって、言うのに、誰も、僕を見てくれないんだ」
「僕は見ていますよ」
「だから触れたいと思ったんだ」
「ヨナスも、パオルも?」
「僕を僕として、ちゃんと見てくれているのがわかったんだ」

 ビスクドールのような何を考えているかわからない面持ちは、ここ数日でなぜかすっかり気にならなくなっていた。彼は表情以外の全身全霊でその感情を表している。些細なことのように思えるようになった。

「あの日、僕は嫌だと初めて感じたんだ。それまで僕を構成する全ては僕自身ではなく、誰かから受ける表面的な評価だったんだ。彼らは僕を好きなように蹂躙した。でも僕はそれが僕の価値だと思っていたから、それに甘んじた。そうすることが僕が生きていることへの責務だと思っていたんだ」
「でも違うとわかったんですね」
「そう、わかったんだ」
「だから僕を蹂躙する人たちに言ったんだ。僕自身の価値を決めるのは僕だって。そうしたら、お前は人形なんだからって言われたよ。どれだけ痛い思いしても、表情一つ変わらないって。殴っても、叩いても、打っても。そうなんだって思ったんだ、僕は本当に人形のように表情を作ることができないんだって。パパもママも僕を愛さないんだって思ってた、愛せなかったんだ」
「僕はここ数日ですが、気にならなくなりましたよ。ルカは表情こそ変わりませんが、全身で感情を表してくれているじゃないですか。声だって、態度だって、動きだって、全てでルカの気持ちがわかりますよ」
「本当に?」
「本当ですよ」
「嘘ついてどうするんです。今だって手からルカが嬉しいのが伝わってきます」
「僕もわかるよ。手から伝わってくる。やっと話すことができた僕を、ベンヤミンが喜んでくれているのが」

 僕たちはしっかりと手を握った。ルカが読んだ本を紹介してもらおうと思った。確かに繋いだ手から、相手のことが良くわかる。

「ベンヤミンから抱きしめてもらってもいい?」
「いいですよ」

 僕たちは名残惜しそうに手を放した。体温を感じなくなった手は、どこか物足りない。僕は立ち上がって、正面に座るルカを抱きしめた。小さな頭を胸に抱えるように、優しく、丁寧にルカを抱きしめた。すっぽりと収まる頼りない小ささに、どうしてあんな酷いことができたのだろうかと悔しくなった。僕よりもはるかに薄い体は、これ以上力を入れると折れてしまうのでは無いかと思うほどだ。



「ヨナスはふっくらしてて温かいんだ。ミルクのような甘い良い匂いなんだよ。パオルは、あの人は骨ばってて固くて、ちょっと埃っぽい匂いがするよ。ベンヤミンは、一番好きだな、人の体温、湿り気、鼓動、優しい新緑のような匂いも心地良い」
「昼休み、久々にクラスメイトと中庭で球技をしたんです」
「匂いって、その人が何をしたかわかるんだね」
「ルカは本の匂いがします。本が好きなのがわかります」

 ぼんやりと抱きしめていると、あまりの心地よさと温度に眠くなってきてしまった。人肌とはこんなに気持ちがいいものだったのか。触れたところから優しい気持ちが溢れていくようだ。
 この言葉にうまくできない気持ちがルカに伝わっていれば、どれだけ幸せなことかと考えながら、ひと時の多幸感に包まれた。

 夕飯の予鈴が鳴れば僕らはヨナスを起こしにいく。
 普段の起床は、何もなく自発的に起きることができるようだが、違う時間に寝るため、うまく起きることができないらしい。ぼんやりするヨナスに顔を洗わせてから、3人連れだって食堂へ行く。食堂ではクラスごとに場所が決まっていて、あれ以来継続されている点呼をしてクラス長がそれを役員に報告してから食事が始まる。
 入り口でヨナスとルカとは別れて遠くからきちんと食事ができているか眺めるのが常になっていた。どうもこうして中途半端に寝ると食欲が落ちているらしく、あまり食べていないようだ。心配になるが、どのみちこれから長丁場なので、店主が何か食べさせてくれるだろうと毎回しなくても良い心配をしてしまう。

「ヨナスは割とよく食うよな。引き出し菓子でいっぱいだろ」
「上等なお菓子もあるよね。どこから手に入れるんだろう」
「詮索はダメですよ、誰にでも色々あるんですから」
「いや、でも菓子は気になるだろう。特にここ最近増えてるぞ、それに俺の机の中に時々入ってんだよ。気にするなって方がおかしいだろ」
「何それいいなぁ、僕にはそういうの無いよ」
「ルカは直接ヨナスから貰っているじゃないですか。僕もですから、机の中に入ってることはないですね」
「ああ、そうか」
「可哀想みたいな言い方やめろ。ただ単に時間が合わねぇだけだろ」
「そうでしょうね。きっと僕らにくれる流れで机に入れてるんだと思いますし」
「ほれ見ろ」
「ベぇつにぃー、僕は何も言ってないよ!!」
「自分で買ったにしては、最近気前がいいと思うんだよな」
「お店で頂いて来るのかもしれませんしね」

 確かにヨナスの机の横にあるお菓子箱は、以前は一つだったのに今は3つに増えている。よく食べるとは言っても、そうそう食べる時間は無いようで、どんどん溜まっていっていた。
 朝の練習前にでも食べればいいのにと思ったが、どうやらあまり物を食べずにいた方が声が良く出るらしく、首を横に振られた。禁欲的だなと思いながらも、譜面を写す時なんかにボリボリと際限なく食べているので、食べる時と食べない時の区別があるのだろう。

「それよりも普通にヨナスの心配をしてください」
「心配なんかするかよ。もう何回めだ?」
「そうですけど」
「ジャデルシャーゼの店長もよく歌ってたって言ってたんだよね。嫌がらせと閉じ込めの主犯格が放校処分になって、すっかりそういうの無くなってるみたいだし、何を心配するの」

 勧告があってから2週間彼らは反省房で過ごしたが、つい最近教会の受け入れ準備が整い、ご家族との話し合いも終わり、学校を去った。ルカに事の次第を報告した時には、どれだけ怒られるかと思ったが、案外さっぱりしたもので特に何も言ってこなかった。その様子をフィン先輩に伝えると、僕やヨナスを慮ったのだろうと言っていた。

「確かに、聖歌隊の方も軋轢が減ったと聞いていますよ」
「正直どれだけヨナスが上手いか浮き彫りにされた感じだけどね」
「だから持ち回りみたいですよ、3ヶ月で周回できるとか」
「でも俺は嫌いじゃ無いぜ」
「フィンも上手だったしね」



 ルカはニヤニヤとした声でパオルをからかった。
 僕としてはフィン先輩を絡めると、二人は似た者同士に見えるので、何だかその様子が微笑ましかった。

「なんであいつが出て来るんだよ」
「共通の知り合いが彼だからかな」
「確かにヨナスとはまた違った綺麗な澄んだ声でしたね。ヨナスがハスルトの恩寵だとしたら、フィン先輩の声はトルアガの萌芽と言いますか」
「パオルが何言ってんだこいつみたいな顔してるよ」
「若干違いますが、大雑把に言うとそうなりますね」
「ベンヤミン、さっきのもう一度行ってくれるか?」
「恩寵と萌芽ですか?」
「おんちょう、と、ほうが、か」

 パオルは辞書を引っ張り出してすぐに調べている。2週目に一度勉強をしなくなってから、水曜日の勉強は休みになってしまっている。気がそぞろでそれどころでは無いのは初回だけだったように思うが、あれからなんとなく3人で膝を突き合わせてあれこれとおしゃべりをしている。
 休息日もずっと勉強しているし、もう聖書を読み始めて2ヶ月が経とうとしている。あまり辞書を使わなくても読むことができるようになっていたし、日常の生活もクラスメイトや教師の言うことが段々と理解できるようになっているようで、いざこざが減っているとフィン先輩から聞いている。

「今頃ヨナスは思い切り好きな歌を歌ってるのかな」
「羨ましいですか?」
「歌うこと?」
「思い切り好きなことができることです」
「どうだろう、そう言うことを考えたことがなかった」
「そんなやついるんだな。物欲が無いってやつか?俺は、やりたいことも欲しいものもいっぱいあるぜ」
「そんなみんな、あるものなの?」
「僕もありますね」
「みんな、そんなもんなの?」
「無いほうが珍しいんじゃねぇの?」

 少しだけ、死にたいなんて言うんじゃ無いかとハラハラした。彼にとって大人にならずに死ぬこと以外はどうでもいいことなのかもしれないと思うと、少しだけ胸が痛んだ。

「そういうパオルのやりたいことってなんだよ」
「金を稼げるようになりてぇな」
「それだけ?」
「お前なぁ、これが一番難しいんだぞ。文字が読めなくちゃなんねぇ、帰る家がなくちゃなんねぇ、何かの技術を持ってなくちゃなんねぇ。だから俺に聖力があって、ここに来れたことは本当に俺にとって良かったことなんだと、最近実感した」
「意味わかんない」
「お前はそうだろうな。俺には無いものだらけだったしな。今となっちゃあ、家族も家もあって無いようなもんだしな」
「そうなんですか?」
「ここに来てから6年間、帰っちゃいねぇしな」
「僕も入学してから帰ってないね」
「僕もですね」
「お前らも帰ってないのかよ。帰る家が無いわけじゃねぇんだろ?」
「どうだろう。物理的にはあるけど、心理的には無いって感じだね」
「僕もルカに同じです。じゃあ、みんな無いだらけですね」
「お前も何か無いのか?」
「え?僕は見たままですよ。どちらかというと、持っててはいけないものを持っているんです。僕はいつだってあなたたちが羨ましいですよ、肌の色も髪の色も目の色も」
「髪の色は俺ら一緒だろ」
「パオルの髪は暗い色ですけど、それは赤茶色とか言うんですよ。僕とは違う」

 羨ましいと口に出しながらも、今はそれほどでは無いことに気がついた。パオルもルカも、ヨナスも誰1人僕の容姿について何か言うことなんてなかった。ただあるがままに受け入れてくれている。ルカはこんな色をしている僕の手に触れてくれさえもしてくれる。

「僕は今一等幸福です」
「突然どうしたの」
「僕と言う存在を否定されないことが嬉しいんです。パオルが他人を慮ることが嬉しいんです、ルカが他人に興味を持ったことが嬉しいんです」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟すぎねぇか?」
「ちっとも大袈裟じゃないですよ。多分、いえきっとまたこの幸福感は得られます。もっともっと大きいものになるんです。ルカが未来へ夢を持った時、パオルが聖書を読み終わった時、幸せは小さい幸せの集まりなんです」
「ああ、それはなんかわかるわ」
「オレは調べた文字ノートに書いてるだろ。読み返すと覚えてんだよ、全部。このノートの言葉が俺の言葉を作ってるみたいな積み重ねのことだろ?」
「そうです、幸せも積み重ねて大きくなると思うんです」

 ルカはパオルの机の上に置かれたノートをパラパラとめくって感嘆を漏らす。それもそうだ、みっちりと詰め込まれた文字は綺麗な文字だがそれ故とても窮屈そうに見える。

「これ全部もう覚えてるんだ。案外パオルって記憶力良いよね」
「そうか?」
「僕は本読んでも1週間後にはもう半分も内容を覚えちゃいないもん」
「そりゃあれだ。お前は読む速度が速ぇからだよ。1日1冊くらい読んでるだろ」
「そんなに早く読めないよ。早くて3日に2冊くらいだよ」
「十分早いですよ。でもまあそれだけ読んでいたら、意識が次々新しいものに行くんじゃないですか?」
「俺はまぁ、ゆっくりだからな」
「ルカのように3日2冊とは行きませんが、その内に1週間に1冊くらいは読めるようになりますよ」
「まずは教科書からだがな」
「でも授業が何やってるか、最近わかるようになってきたんですよね」
「言ってることがわからねぇで、むかつくことはなくなったな」

 そろそろ消灯の時間のようで、遠くで寮長がベルを鳴らしながら巡回しているのが聞こえる。あちらではすっかり開店している時間だ。心配でなかなか寝付けないと言うことはなくなっていたが、それでも僕らはそわそわしていた。



「ヨナス大丈夫かな」
「大丈夫です」
「今自分に言い聞かせたでしょ」
「わかりましたか?」

 もう見慣れた光景になっていたが、今日ルカはパオルに抱きついている。ちょこちょこ離れはしたが、ベッドに腰掛けるパオルを後ろからベッドに横たわった状態でしがみついている。数分前までは膝の上に倒れこむ形でパオルにひっついていた。なんともフィン先輩が見たら驚きのあまり卒倒しそうな光景だ。

「僕はもう寝るから!」
「おいこら、ここで寝るな、自分のベッドで寝ろ」
「今日は特別にパオルに貸してあげるよ」

 そう言い切ったと思ったら、すぐさま寝息が聞こえ出す。よほど眠たかったのだろうか、しかし寝つきが悪いと公言するほどなのにと首をひねった。パオルは悪態付きながら、布団をかけた。

「本気にしてルカのベッドで寝たら、文句言われねぇよな」
「起きた時を考えると怖いですけど、案外気にしないのかもしれないですね」
「今日はよく喋ったから寝みぃわ」

 大きなあくびをしながらそう言うとスルスルとルカのベッドに入る。僕もこれ以上灯りをつけていては役員に叱られると、慌てて灯りを消してベッドへ入った。ドア前にある常夜灯に目が慣れてくると、じわりと目頭が熱くなった。
 自分で言いはしたが、あまりの幸福感に気が触れそうだった。誰かと関わることがこんなにも幸せな思いにつながるとは思ってもみなかった。誰の目にも留まらぬように、誰の意識にも入らぬように過ごしてきたが、勿体無かったかもしれないと思えてきた。
 僕の世界は、実はとても丸やかで温かいものだったのかもしれない。

 目が醒めると、ルカはパオルのベッドにはいなかった。もちろん、ルカのベッドにはパオルが一人で寝ていただけだったし、もちろんヨナスのベッドにもいなかった。昨日のあれは何かあったからだと気づいたのは後の祭りで、どうして良いかわからなくなった。

「ルカ、いねぇのか?」
「わかりません。今日は何か当番になっていたんでしょうか」

 朝食の配膳当番、教会の掃除の当番、このどちらかに当たっていればこの時間に部屋にいるのは確かにおかしい。だがルカはどちらもここ数週間の間にどちらも当番が回ってきているので、今日にその当番ということはないはずだ。
 誰かの当番を代わったということも考えられるが、ルカとルカのクラスメイトのことを思うと、そういうことも無さそうだった。

「探すか?」
「僕、そんな心配そうな顔してますか?」
「通り越して青いぞ」
「すみません。顔洗って頭冷やしてきます」

 昨日のルカの様子はおかしいといえばおかしかったし、おかしくないといえばおかしくなかった。手に残る感触を確かめながら、昨日のルカを思い出した。今まで言えなかった話を話したからかとも思ったが、その後普通に部屋で過ごした。
 僕は彼に対してまだ何も行動していないし、何も核心をつくことは聞いていない。これからもそれに関して何もする気は無いし、ルカもそれを望んでいるのだと思う。そもそもこの件は役員の総意として、彼の傷の原因を追求すれば各所藪蛇になると確信している。

「昨日のルカの様子、オレにはいつも通りに見えたぞ」
「そうですよね。僕もです。朝食の時に探してみますが、いなかったらフィン先輩に相談しましょう」
「お前1人で動けないのはわかってるけどよ、なんでもかんでもあれに相談するのな」
「当たり前じゃないですか。僕はあなた達と向き合いたいと思う以前に、そういう決まりなんです」
「その割にはそんな顔してんだな。ルカは顔には出ねぇが、お前は顔によく出てるよ。心配なら探しに行けよ。あいつには後で報告するんでいいだろう」

 背中を押されて、僕はルカを探した。
 僕はいつでもルカやヨナスを探している気がする、パオルがそうならないことを祈ろう。手当たり次第も何も見当なんてさっぱりつかなかった。思い当たるのは薪割り小屋だが、あそこはもう鍵が新しくなっているし、この時期は管理人も常駐している。
 気のせいであって欲しくて、まず食堂へ足を向けた。しかし食堂には居ないようで、当番も別のクラスのようだった。礼拝堂は別の学年の生徒が掃除をしていて、ここも違うようだった。

「ルカは居た?」
「フィン先輩、どうして」
「こんな時間に屋上へ上がるパオルを見かけてね、問いただした」
「食堂も礼拝堂も居ませんでした。全く見当がつかなくて」
「本当に?どこか思いつく場所はない?」
「薪割り小屋は今は鍵が新しいですし、今は管理人もいます。演劇部の倉庫はこの時間は施錠されてます。その様子じゃ屋上もいないようですし、他に…」
「君にわからないんじゃ、僕らはわからないよ。敷地外に出た可能性は?」
「ヨナスの所に行くことも考えられますが、ルカはまだ店の場所は知らないはずです」
「とにかく、学内の今上げたところは回ってみよう」

 結局ルカはどこにも居らず、僕らは礼拝も朝食も参加せずに探し回った。神祇官に報告するべきか僕たちは迷ったが、結局朝食と礼拝に参加できない旨だけ伝えるに止まった。
 授業が始まる前に慌てて部屋に戻ると、パオルが待っていてくれた。



「ルカは朝食にも礼拝にもいなかったぞ」
「そうですか」
「これは困ったね、昨日なにかあった?」
「いつもと変わらなかったと思います。ただ、例の怪我の原因を僕に教えてくれました、はっきりしたものではありませんでしたが」
「その時に何かあった?」
「いえ、あの後も普通に過ごしました」
「眠いからって俺のベッドで寝たんだよ。それ以外はいつも通りだ」
「学校に報告するか、ヨナスが戻るまで様子を見たほうがいいのか。でもヨナスは朝食前に帰ってきてるはずだよね」
「確かに」
「ヨナスも見てねぇな」

 僕らは慌ててヨナスの一件に関与してくれている神祇官の元へ向かった。神祇官の宿舎は騒然としていて、僕らを見るなり驚いて、ヨナスがまだ戻らないと言った。僕らはジャデルシャーゼへ行きたいのだと事情を話し直談判したが、当然許可は降りなかった。
 その後は学校側でルカを探すと言われ、僕らは授業に行くように指示された。こんなに気が気じゃない授業は初めてで、気もそぞろな僕は何度も教科書を床に落とし、朝から昼まで教師に注意された。

 昼休みにいつもの場所でフィン先輩と落ち合うと朗報が舞い込んできた。

「ヨナスとルカ、戻ってきたよ」
「一緒だったんですか?」
「ヨナスは自室に戻ってるけど、ルカはしばらく反省房行きになったよ」
「何があったんです」
「駅にいるルカを教師が見つけたらしい」
「ヨナスは疲れが出て、すっかり眠ってしまって帰ってこれなかっただけみたい」
「ヨナスについては何か対策を考えないといけませんね。でもルカはどうして駅に、そもそも歩いたんですよね。あの距離を」
「僕も驚いたよ。ネソワの時の間に出て行ったんだろうけど」
「なんのためにかは、聞けたんでしょうか」
「何も言わないそうだ。放課後、面会の許可が降りてるから話を聴きに行ってもらえるかな」
「はい、勿論です」

 そうなると放課後もまた遠く感じた。ルカとヨナスの行方が判明していたので、午前中ほど気がそぞろではなかった。しかし、なぜの疑問符ばかりが頭をよぎり、どうしてもルカの無事を純粋に喜べなかった。

 放課後、フィン先輩ではない役員に案内されて反省房へ行った。反省房は職員棟の最上階にあって、普段は上を見上げない限りは視界に入らない。窓から外を見ると鐘撞き場がほとんど真横に見えた。

「ルカ、体調は大丈夫ですか?」

 反省房に来るのは初めてだった。
 広めの懺悔室のような場所で、日中はそこで聖書の書き写しをすることになっている。夜はまたベッドのある別室で寝ることができるらしい。

「心配しました」

 ルカは何も言わずに、じっと下を向いている。

「パオルも、フィン先輩も、心配していました。どうして……」

 その次の言葉がうまく出てこなかった。
 どうして駅に?
 どうして相談もなしに?
 どうしてネソワの時に?
 どうして1人で?
 どうしてがぐるぐると頭を巡り、何をどう聞いていいかわからなくなった。

「ルカ、ルカの手に触れたい。手を取りたい」

 何かわかる気がしたが、ルカは下を向いたまま何も言わず、手も差し出してはくれなかった。

「ルカ、お願いだから何か言ってください。声を聞かせてください。喋ってくれないと、ルカの気持ちがわかりません。どうして喋ってくれないんですか」

 この格子窓が無ければ直接ルカに触れるのが容易いのに。

「ルカ、僕は今君を抱きしめたいんです。でもそれは出来ません、ですから手だけでも」



 不意に上げられた顔は、まるで本物のビスクドールのようで、ギョロリとした瞳は本物のガラス細工に見えた。
 背筋が凍るのを感じる。今彼は目の前にいる僕を見てはいない。視線は虚空を彷徨い、僕という存在を透過している。

「ルカ、僕です。ベンヤミンです。わかりますか?」

 自分で何を言っているかわからなかった。

「ルカ、早く罰則を終えて部屋に戻って来て下さい。ヨナスもパオルも心配します。ルカ?」

 ゆっくり顔が下へ向き、もう彼は何も聞こえていないし、見えもしていないのだと確信した。彼との信頼関係は大いに築けていたと思ったが、そうではなかったらしい。みぞおちの辺りが絞られるように痛み、目の前がクラクラする。
 その後、僕はどう過ごしたか曖昧だった。いつものように、いつものようにとひたすら唱えていたように思う。パオルもヨナスもとてもルカを心配していたが、僕はどうしても彼らにルカの様子を伝えることはできなかった。
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