残響は夏に消え

村井 彰

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4話 拒絶

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「ただいま!」
  声をかけながら扉を開けて、そのまま部屋にあがる。仕事を終わらせて響の家に帰る生活にも、もはやすっかり慣れたものだった。春弥が暮らすアパートとは同じ沿線にあるから定期も使えるし、さして不便にも感じない。
「おかえり、ハル。仕事お疲れ様」
  部屋に入ると、ダイニングテーブルで本を読んでいた響が顔をあげて微笑んだ。根っからのアウトドア系の響だから、足を怪我してさぞかし暇を持て余すだろうと思っていたが、意外にも毎日大人しく家で過ごしている。
「ハル。簡単なのだけど夕飯作っておいたから、温めて食べて」
  さてひとまず洗濯でもするかと腕を捲った瞬間、響から遠慮がちに言われたその言葉に、春弥は耳を疑った。
「お前が料理?!食べれんの?!」
「し、失礼だな……ほら、家にいる時間が多いから練習したんだよ。大丈夫だって」
  言われて台所を覗いて見ると、コンロには鍋に入った味噌汁、その横の炊飯器には炊き上がった米が用意されていた。そして冷蔵庫の中には、しっかり焼き目のついた塩鮭が二人分入っている。添え物の佃煮はコンビニで売っている物のようだが、それでも十分過ぎだ。
「まともに米が炊けてるだけでもすごいのに、こんなちゃんとした夕飯を、響が……」
  冷蔵庫を開け放ったまま春弥が感動に打ち震えていると、それを見た響が苦笑した。
「まあほら、人間変われるから。……これからは俺が夕飯作るからさ、ハルはゆっくりしてて」
「響……お前の口からそんな台詞が聞ける日が来るなんて……」
  実の所、以前にも響が料理を作ってくれようとした事があるのだが、その時は酷い有様だった。やる気と親切心は嬉しいが、いかんせん響はあまりにも不器用すぎたのだ。
  まずもって食材を等間隔に切るという事が出来ないし、米や水の分量をまともに量る事も出来ない。熱意だけではどうにもならない事があるのだと、春弥はその時に思い知った。
「一緒に住む事になっても料理だけはオレが全部担当するつもりだったけど、これならちゃんと分担出来そうだな」
  そう言って春弥が笑うと、響も同じように微笑みを返してくれる。
  記憶を無くしてからの響は、見違えるように穏やかになった。以前の響はとても行動的で、春弥の方が圧倒される事ばかりだったのに、今は春弥の紡ぐ言葉ひとつひとつに優しく頷いてくれる事が多い。
  登山とショッピングが好きで、休みの日には大抵どこかに出掛けていたのに、今は文句ひとつ言わずに本を読んでいたり、こうして苦手な料理に挑戦したりもする。
  そんな響はなんだか……まるで、別人になってしまったかのようだ。
「……何考えてんだ、オレ」
  そんな事、あるはずが無い。目の前にいるのは間違いなく響だ。
  日本人にしては彫りの深い顔立ちも、笑うと見える八重歯も、ゴツゴツした長い指も。何もかも、見慣れた恋人の物に違いない。
「ハル、どうした?」
「……なんでもない。夕飯、二人分あるって事は、お前もまだ食べてないんだよな?温め直すから一緒に食べよう」
  不安を誤魔化すように言いながら、コンロに火をつける。
  人格を構成するのは今までの経験、すなわち記憶だ。それをほとんど失った響が変わってしまうのは、仕方の無い事なのだろう。それが悪い変化でないのなら、受け入れるべきだ。
  恋人として、響を支えると決めたのだから。

  *

  男二人で寝るには微妙に狭いベッドに、響と並んで横になる。この光景も、ずいぶん当たり前のものになった。
「一緒に住む時はさ、もうちょい大きいベッド買おうな」
「……そうだな」
  響の大きな胸に顔を埋めながら言うと、優しげな声に抱き締められる。最近の響は、またこうして春弥に触れてくれるようになった。……本当は、以前のように押し潰されそうなくらいキツく抱き締められたり、髪がぐしゃぐしゃになるまで頭を撫でられたり、そんな乱暴なくらいのスキンシップが恋しくもあるけれど。
「……ん?」
  そうして触れ合った響の体の一部が、強く昂っているのを感じる。手探りでそこに触れると、響がびくりと体を震わせた。
「え、あ……ご、ごめん……っ」
「別に謝ることないだろ。……長いこと、してないもんな?」
  響が事故に遭って以来、深く触れ合う事は一度もしていない。けれど、本当は春弥だってずっと我慢していた。
  焦った様子の響の頬を両手で挟んで、そのまま少しカサついた唇に口付ける。初めは躊躇うように強ばっていた唇が、やがて柔らかく蕩けて、ひとつに溶け合っていく。
「ん……」
  唇が重なったまま、少し乱暴に肩を掴まれてベッドに押し付けられた。
「こら、ちょっと落ち着けって」
  一瞬唇が離れた隙に頬を撫でて宥めるも、響の吐息に混ざる熱は、一向に引く気配がない。
  両方の手首を掴まれて、ベッドに磔にされる。そうして無防備になった首筋に、熱く昂った唇が触れた。
「あ……っ」
  電流のような甘い痺れが背筋を走り抜ける。春弥自身の体温も、一気に上昇していくのが分かった。
「響……」
  このまま、強引に全部奪われてしまいたいと、恋人の名前を呼んで訴えかける。けれど、
「響?どうしたんだ……?」
  春弥が名前を呼んだ途端、なぜか響は触れ合っていた体を離してしまう。その表情は、痛みを堪えているかのように苦しげで、見ている春弥の方まで辛くなった。
「響……大丈夫か?もしかして傷が痛むのか?」
「……ごめん、ハル」
  答えにならない言葉を返して、響は春弥に背中を向けた。その背中には、はっきりと拒絶の色が浮かんでいる。
「なんでだよ……」
  お互いに求め合っているのだと、同じ気持ちなのだと思ったのに。
「響……」
  春弥がどれだけ名前を呼んでも、響が答えを返してくれる事は、なかった。
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