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1話 おかえり
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男が死んでいる。山道で足を滑らせたのだろう。頭から血を流して、左足はあらぬ方向に曲がっている。開かれたままの目は暗く濁って、そこに命の光が残っていない事は、もはや誰の目にも明らかだった。
最後の力を振り絞って取り出したらしいスマホには、メッセージアプリが開かれている。それまでのやり取りから察するに、相手はおそらく恋人。最後にこの男から送信されたメッセージは、『あいたい』。
けれど、その思いは二度と叶わない。可哀想に。この男には、帰りを待っている人がいる。きっと、まだまだ生きて、やりたい事だってたくさんあっただろうに。
そうだ。僕とは違って──。
*
病院で走ってはいけない。静かにしなくてはならない。
そんな子供でも知っているような当たり前のルールすら吹き飛ぶほど、今の佐々岡春弥は焦っていた。
「響!」
見舞い相手の名前を呼びながら、もどかしく病室の扉を開けて駆け込む。小さな個室の中では、ベッドに横たわった菅野響が……春弥の恋人が、目を丸くしてこちらを見ていた。
「響……このバカ!」
泣きそうになるのを堪えながら、響を怒鳴りつけてその体を抱き締めようとする。その寸前で、春弥はハッとして思い留まった。
健康的に日焼けした体はそのほとんどが真っ白な包帯で覆い尽くされて、左足は大きなギプスで固定されている。かなりの酷い怪我だったという事が、一目見て理解出来たからだった。
「ほんとに……バカだよ、お前は」
「ご、ごめん……」
「謝んなよ」
俯いたまま見舞い客用の椅子を引き寄せて、わざと乱暴に腰を下ろす。そして響の右手に優しく触れた。
「ほんとに、よかった……帰って来てくれて」
そう呟いた瞬間、堪え切れなくなった涙が溢れ出して響の手の甲を濡らす。響はまるで熱いものに触れたかのように、びくりと手を震わせて……そして、春弥の手をそっと握り返した。
「ごめん。本当にごめんな、心配かけて」
「ほんとだよ。突然『あいたい』なんて一言だけ送ってきて、その後どれだけ連絡しても全然返信しないし。オレ、お前がもう二度と帰って来ないんじゃ、ないかって……」
話しながらも、堰を切ったように次々涙が溢れ出してくる。響は戸惑った様子で春弥の頬に触れて、何度も何度もその涙を拭った。
「ハル……」
「……ほっぺた、痛いんだけど」
「あ、ごめん……」
何度目か分からない謝罪の言葉を口にして、響が少し気まずそうに目を逸らす。その気弱そうな態度は、いつもの快活な響とはまるで違っていて、どうにも落ち着かない心地だった。きっと怪我のせいで気分が落ち込んでいるのだろう。無理もない。
「なあ響、オレにして欲しい事あったら何でも言ってくれよ。お前が良くなるまで、オレ何だってするから」
触れ合った手を握り返して必死に告げる。折れた響の足の代わりに己の足を差し出せと言われたのなら、喜んで差し出すつもりだった。
けれど響は、そんな春弥に申し訳なさそうな顔を向けて、ゆるく首を振った。
「いいんだ、ハル……それより聞いてくれ。俺、崖から落ちた時に強く頭を打ったみたいで、記憶が曖昧なんだ。だからその、お前との事も、たぶん全部は覚えてないと思う」
目を逸らしたままで告げられた言葉に、じわじわと絶望が広がっていく。
「覚えてない、って……どれくらい?」
「自分の名前と、ハルと付き合ってたって事と、あと一部の知り合いや友達の名前と……それ以外は、ほとんど全部」
「そんな……」
余程酷い顔をしていたのだろう。青褪める春弥の頬を、長い指が躊躇いがちに撫でた。
「ハル……」
困ったようなその声に、胸がギュッと苦しくなった。駄目だ、不安そうな顔をするな。響の方が、ずっとずっと辛いに決まっているんだから。
「だ、いじょうぶだよ。思い出なんてまた作ればいいし、友達の名前だって会えば思い出せるって。……そうだよ。こうしてお前が無事に帰って来たんだからさ、それで十分だよな」
上手く出来た自信はないが、それでも無理矢理口角をあげて微笑んだ。そうだ、過去の事がなんだ。これから先の未来を共に生きられるのならそれでいいじゃないか。それ以上に望むことなんてありはしない。
そんな春弥に微笑み返した響の表情は、どこか暗く翳ったままで。春弥はそれを傷が痛むせいだと、あるいは記憶の事で不安が拭えないでいるからだと、そう解釈した。
けれど、そのどちらも事実とはまるで違っていたのだと。
その時の春弥は、まだその事に気づけないでいた。
最後の力を振り絞って取り出したらしいスマホには、メッセージアプリが開かれている。それまでのやり取りから察するに、相手はおそらく恋人。最後にこの男から送信されたメッセージは、『あいたい』。
けれど、その思いは二度と叶わない。可哀想に。この男には、帰りを待っている人がいる。きっと、まだまだ生きて、やりたい事だってたくさんあっただろうに。
そうだ。僕とは違って──。
*
病院で走ってはいけない。静かにしなくてはならない。
そんな子供でも知っているような当たり前のルールすら吹き飛ぶほど、今の佐々岡春弥は焦っていた。
「響!」
見舞い相手の名前を呼びながら、もどかしく病室の扉を開けて駆け込む。小さな個室の中では、ベッドに横たわった菅野響が……春弥の恋人が、目を丸くしてこちらを見ていた。
「響……このバカ!」
泣きそうになるのを堪えながら、響を怒鳴りつけてその体を抱き締めようとする。その寸前で、春弥はハッとして思い留まった。
健康的に日焼けした体はそのほとんどが真っ白な包帯で覆い尽くされて、左足は大きなギプスで固定されている。かなりの酷い怪我だったという事が、一目見て理解出来たからだった。
「ほんとに……バカだよ、お前は」
「ご、ごめん……」
「謝んなよ」
俯いたまま見舞い客用の椅子を引き寄せて、わざと乱暴に腰を下ろす。そして響の右手に優しく触れた。
「ほんとに、よかった……帰って来てくれて」
そう呟いた瞬間、堪え切れなくなった涙が溢れ出して響の手の甲を濡らす。響はまるで熱いものに触れたかのように、びくりと手を震わせて……そして、春弥の手をそっと握り返した。
「ごめん。本当にごめんな、心配かけて」
「ほんとだよ。突然『あいたい』なんて一言だけ送ってきて、その後どれだけ連絡しても全然返信しないし。オレ、お前がもう二度と帰って来ないんじゃ、ないかって……」
話しながらも、堰を切ったように次々涙が溢れ出してくる。響は戸惑った様子で春弥の頬に触れて、何度も何度もその涙を拭った。
「ハル……」
「……ほっぺた、痛いんだけど」
「あ、ごめん……」
何度目か分からない謝罪の言葉を口にして、響が少し気まずそうに目を逸らす。その気弱そうな態度は、いつもの快活な響とはまるで違っていて、どうにも落ち着かない心地だった。きっと怪我のせいで気分が落ち込んでいるのだろう。無理もない。
「なあ響、オレにして欲しい事あったら何でも言ってくれよ。お前が良くなるまで、オレ何だってするから」
触れ合った手を握り返して必死に告げる。折れた響の足の代わりに己の足を差し出せと言われたのなら、喜んで差し出すつもりだった。
けれど響は、そんな春弥に申し訳なさそうな顔を向けて、ゆるく首を振った。
「いいんだ、ハル……それより聞いてくれ。俺、崖から落ちた時に強く頭を打ったみたいで、記憶が曖昧なんだ。だからその、お前との事も、たぶん全部は覚えてないと思う」
目を逸らしたままで告げられた言葉に、じわじわと絶望が広がっていく。
「覚えてない、って……どれくらい?」
「自分の名前と、ハルと付き合ってたって事と、あと一部の知り合いや友達の名前と……それ以外は、ほとんど全部」
「そんな……」
余程酷い顔をしていたのだろう。青褪める春弥の頬を、長い指が躊躇いがちに撫でた。
「ハル……」
困ったようなその声に、胸がギュッと苦しくなった。駄目だ、不安そうな顔をするな。響の方が、ずっとずっと辛いに決まっているんだから。
「だ、いじょうぶだよ。思い出なんてまた作ればいいし、友達の名前だって会えば思い出せるって。……そうだよ。こうしてお前が無事に帰って来たんだからさ、それで十分だよな」
上手く出来た自信はないが、それでも無理矢理口角をあげて微笑んだ。そうだ、過去の事がなんだ。これから先の未来を共に生きられるのならそれでいいじゃないか。それ以上に望むことなんてありはしない。
そんな春弥に微笑み返した響の表情は、どこか暗く翳ったままで。春弥はそれを傷が痛むせいだと、あるいは記憶の事で不安が拭えないでいるからだと、そう解釈した。
けれど、そのどちらも事実とはまるで違っていたのだと。
その時の春弥は、まだその事に気づけないでいた。
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