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第四章 居場所
三話 選択
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この街は、こんなに暗かっただろうか。一人で外を彷徨いながら、俺はぼんやりと考えた。
手の中にあるのは、壊れてしまったオルゴール、ただひとつだけ。それ以外の物は、全部失くしてしまった。
住む家も、出迎えてくれる人も、大切にしたいと思った物は、なにもかも。
「……これからどうすっかなあ」
雑に巻いたストールの下で呟いてみたが、当然誰も答えてはくれない。ファリス以外に頼れる相手なんてどこにも居ない。この街で一人で生きていく術なんて、持ち合わせている筈がなかった。
分かっている。今のこの状況は、全部これまでの自分が招いた事なのだ。与えられる愛情を利用して、使い捨てにして生きてきた。そして今度は、俺が捨てられる番が来た。
何のことはない。今まで自分がやってきた事が、そのまま返ってきただけなんだ。俺を愛してくれる人を大切にしてこなかったから、俺自身も愛した人に大事にして貰えなかった。本当に欲しいと思った愛情だけは手に入れられないなんて、これが俺という人間に与えられた罰なら相応だと、自分でも思う。
『君には、元いたゴミの山がお似合いですよ』
最後に、ファリスから投げつけられた言葉が頭の中で反響する。ゴミの山、か。確かに俺にはお似合いだ。そんなことを考えていたら、ふと思い出した。
そうだった。あの晩、あの場所に落ちた時、俺はあそこで全部終わっても良いと思ったんだった。だったらもう一度、あの場所に戻って、あの瞬間をやり直そう。それで、今度こそ全部終わらせるんだ。
どこにも行けないのなら、もう、どこにも行かなくて良い。あいつ以外に誰か、愛せる人を、愛してくれる人を探すことなんて、したくなかった。
それから俺は、人目を避けながら夜の街を歩き続けて、大穴の下に辿り着いた。その場所で、何もかも終わりにする……そのつもり、だったのだが。
「…………なんだ、これ」
目の前にそびえる信じ難い光景に、俺はそう呟く事しか出来なかった。
ここに来るまで、裏通りばかり選んで歩いてきたから、気づかないうちに違う場所へ来てしまったのだろうか。だが遙か頭上を見上げてみれば、そこには真っ暗な天井を貫くような、目映いほどの月明かりがまっすぐに射し込んでいる。やはりここは以前リックと訪れたのと同じ、大穴の下だ。こんな奇妙な場所が、この街にふたつとある筈がない。だが、だとしたら、これは一体何だ?
混乱のまま、俺はそこに一歩近づいて、ためらいながら手を伸ばした。そうして、それに触れた瞬間、ひやりとした冷たい石の感触が手のひらに伝わってくるのを感じた。
やはり、幻なんかじゃない。これは確かに、ここに実在している物だ。
スポットライトのような月の光に吸い込まれて、遥か夜空へと無限に続いていく螺旋階段。いつかリックが言っていた、遠い昔に崩れ去ったはずのその階段が、ここにある。しかも、あんなにもうずたかく積み上がって悪臭を放っていたゴミの山は、周囲から跡形も無く消え去っていた。あんなもの、そう簡単に片付けられる筈がないのに。
俺は、夢でも見ているのだろうか。これが夢なら、この階段は、どこに続いているのだろう。噂でしか聞いた事のない、人間達が住む上層の街だろうか。それとも、もっと別の場所か。
もしかしたら……俺が、元々暮らしていた街に、続いているのかもしれない。
「……帰れる、のか?」
そんなこと、考えもしなかった。ここはどこにも続かない行き止まりのゴミ山で、俺は、ここを自分の終着点にするつもりだった。それなのに、想像すらしていなかった選択肢を与えられて、酷く混乱している自分に気づく。
俺はたぶん、この大穴を通じてこの街へやって来た。それは本来ならありえないことだが、今まさに、俺の目の前で、その“ありえないこと”が起きているのだ。それならこの階段を登っていけば、元いた場所に帰れる可能性だって高いんじゃないか。
俺が、元いた街。夜になっても光と喧騒が絶えることの無い、猥雑な街。あそこへ戻る事が出来れば、静かで暗い夜に怯える事もなくなる。
そうしたら、今度こそ真面目に生きてみようか。きっと楽じゃないだろうけど、家と仕事を探して、きちんと働いて、自分の力だけで生きていけるようになったら、今度こそ胸を張って、俺は……
その時、俺は、一体どこへ帰るつもりなのだろうか。
ちゃんと自立して、対等な立場になったら、あいつに受け入れてもらえるんじゃないかって、そんなことを一瞬本気で考えた。
一度ここを出たら、きっと二度とは戻って来られないのに。
「…………っ」
手のひらで触れている冷たい石に、どんどん体温を奪われていく気がして、俺は怖くなって手を離した。その瞬間、引っ込めた手が軽くぶつかったらしく、反対の手に持っていたオルゴールが突然動き始めた。
完全に壊れてしまったと思ったのに、それでもこいつはまだ、途切れ途切れの音でその存在を主張している。床にぶつかって歪んでしまった台座の上では、相棒を失った青い小人が一人きり、ぎこちない動きで同じ場所を回り続けていた。
くるくる、くるくる、いつまでも、どこへも行けないまま回り続ける。たった一人で、ネジが切れるまで、いつまでも、いつまでも。
「……ファリス…………っ」
俺は、どこへ行けばいいんだろう。この先どこへ行ったって、俺はきっと、何度もこの音色を思い出す。そうやって、永遠に失った物に縋り続けて、その果てにどこへ辿り着くというのだろうか。
本当は、帰りたい場所なんて、ひとつしかないのに。
❊
一人とは、こんなに静かなものだっただろうか。
何をするでもなく、ただぼんやりと自室の机に向かいながら、そんな事を考える。作りかけの時計の部品や工具で散らかった机の上には、赤い小人の人形が、一人ぽつんと転がっていた。
つるつるした素材で作られた、簡素なデザインの人形を指先で摘んで、四角い小さなペン立てにそっともたれさせる。相棒の青い小人は、彼がオルゴールと一緒に連れて行ってしまったから、この赤い小人は永遠に一人きりだ。
「……一人、か」
呟いた声はどこにも届かず、眼前の棚に置かれた写真立ての中にある、どこでもない風景に吸い込まれて消えていった。ここしばらくは答えが返ってくるのが当たり前だったから、つい独り言をこぼしてしまう。けれど、この静寂にもじき慣れるだろう。
何のことはない。彼と出会う前に過ごしていた時間が、戻ってきただけの事なのだから。
「…………ふう」
椅子の背もたれに体を預け、深く息を吐いて天井を見上げる。この部屋の中こそが、自分にとって一番安らげる場所だったはずなのに、なぜか今は、酷く空虚に感じた。
この狭い部屋の中、見渡す限り一杯に詰め込んだ、たくさんのガラクタたち。これらは全部、あのゴミ山から拾い集めてきた物だ。
あの場所には、ときおりとても奇妙な物が落ちている事がある。下層にも、上層にも存在するはずのない物。たとえば、見た事の無い生き物を象った陶器の置物や、話にすら聞いた事の無い不可思議な輝きを放つ鉱石。そして、上層でも下層でも使われていない文字で書かれた本。それらがどこから来た物なのか、僕は何も知らない。けれど、暗く淀んだこの街とも、おぞましい人間達が住む上層の街とも、全く違う世界があるという可能性を示すそれらに、僕は夢中になった。どこにも存在しない物に囲まれている間だけは、僕自身も、化け物でも人間でもない何者かになれる気がしたからだ。
そうやって不思議な物を集め続けて、もう十年近く経つ。その中でもとびきりの拾い物が、“彼”だった。
人間。それも、僕が知っている人間達よりもずっと美しく、不思議な空気を纏った青年だった。こんな所に落とされたくらいだから、この青年もあの街に馴染めなかったはみ出し者なのだろう。そう思った僕は、かつて僕を支配していた人間を征服して、壊して、憂さ晴らしをしてやるつもりで彼を拾った。けれど、彼こそが僕の憧れ続けた“どこでもない世界”から来た人間なのだと知った時、その思いは彼自身への興味へと変わった。だから僕は、彼をこの家に住まわせる事に決めたのだ。いつもと同じように、珍しい物を収集する程度の感覚で。今思えば、なんて浅はかで愚かだったのだろう。
彼は、生きた人間なのだ。その彼を、この街に留めておくのがどれほど危険な事か、口では散々彼を脅かしたくせに、誰よりも僕自身が甘く見積もっていた。……いや、本当は分かっていたのに、気づかないふりをしたのだ。彼をずっと手元に置いておきたくなった。ただそれだけの理由で、僕は彼をこの家に縛り付けた。本当は、彼が元いた世界に帰る方法だって知っていたくせに。
彼に本当の事を告げる機会は、いくらでもあった。たとえば、彼が母親の話題を持ち出した時。あの時、彼が「帰りたい」と言わなかったのを良いことに、僕は口を噤んでしまった。けれど本当はそこで伝えておくべきだったのだ。僕達がこんなにも、お互いの心に踏み入ってしまう前に。
彼が、元いた世界に帰る方法。それはとても簡単だ。あの大穴の上へと続く巨大な螺旋階段を登る、ただそれだけで良い。
もちろん、あの穴の下に階段があったのは遥か昔のことで、今ではうずたかく積み上がった瓦礫の山がその痕跡を残すのみだ。けれど、特定の条件が揃った時だけ、あの場所には、崩れ去ったはずの螺旋階段が現れる。
雲ひとつなく晴れた、満月の晩。月の光がまっすぐに射し込む数刻の間だけ、あの幻の階段は、その姿を見せる。この街の住民達は、ほとんど夜に出歩くということをしないから、おそらく誰もそのことを知らない。もしかすると、あの大穴から落ちた者にしか見えない何かなのかもしれなかった。
いずれにせよひとつ確かなのは、僕が不思議な拾い物をするのは、決まってその階段が現れて消えた後だということだ。彼を見つけた時もそうだった。僕が集めてきた物はみんな、あの奇妙な階段を通じてここにやってきた。あの階段は、上層でも下層でもないどこかへ繋がっている。
僕には、最後まであの階段を登ってみる勇気は持てなかったけれど、元々その向こうから来た彼ならきっと大丈夫だ。彼には他に向かう所なんて無いのだから、今頃は産まれた街に戻れただろう。彼と同じ、“普通”の人間達が暮らす街に。……彼が、その身を危険に晒さなくても生きていける場所に。
二度と会えなくなるのだから、せめてもっときちんと、帰る手段を伝えるべきだったと思う。けれど僕には、彼がこちらへ伸ばしてくる手を無理やり振りほどく事しか出来なかった。そうでもしないと、未練を残してしまうから。
最後まで身勝手だった僕を、彼はさぞかし恨んでいることだろう。僕は、それだけの事を彼にした。
最後に見たのは、母親に拒絶された幼い子供のような、寂しげな顔だった。彼は二度と、僕の元へは帰って来ない。僕も、彼も、本来あるべき場所へ戻ったのだ。
だから僕も、早く一人の暮らしに慣れなくては……
「はあ……」
再びため息を吐き出して、天井を見上げていた視線を前に戻す。自分の手で壊したものに思いを馳せるのはやめて、いい加減寝る支度を整えよう。そう思って椅子から腰を浮かせた時、忙しなく階段を上がってくる足音が、扉の向こうから微かに響いてくるのに気がついた。
驚きに強ばる思考の片隅で、そういえば彼に合鍵を預けたままだったと思い出す。だけど、そんな馬鹿なことがあるものか。彼がここへ戻って来るなんてこと……だって僕は、あんなにも彼を傷つけたのに。
僕が動けないでいるうちに、足音はどんどん近づいてきて、部屋の前で、躊躇うように一瞬足を止めた。そして、痛いほどの静寂の中で、丸い形のドアノブがカチャリと音を立てる。
ゆっくりと、ドアが開いていく。呼吸すらろくに出来ない僕の目の前で、震えるような吐息が、もう聞こえる筈のない声が、僕の名を呼んだ。
「ファリス……」
どうして。なぜ、戻って来たんだ。そんな言葉が溢れそうになって、けれど何も言えなかった。
「ファリス、なあ……俺、なんにも、いらないから……勘違いでも、ただの玩具でも、良いから、だから……」
僕が壊したオルゴールを大事そうに抱えたまま、ふらふらと、けれど迷いのない足取りで、僕の元へと近づいてくる。呆然とする僕の胸に肩がぶつかって、そこでようやく彼は足を止めた。
「俺、他のどこにも行きたくない……ずっと、ここに居たい……ここに、居させて……」
消え入りそうな声で呟いて、躊躇いがちに、僕の背中へ手を回す。シャツを掴んだその手が、小刻みに震えているのが伝わってきた。
どうして。こんな街に居たばっかりに、殺されそうになったくせに。そのうえ僕に、あんなに酷いことをされたのに。
それでも君は、ここに居たいと言うのか。
「……君は本当に、愚か者だ」
小さく呟いて、彼の背中に触れた。夜の街を散々歩き回ったせいだろう。その背中はすっかり冷えきって、頼りなくて、そして……とても愛おしかった。
今度こそ、僕はもう二度と彼を手放せないだろう。誰にも奪われないように、傷つけさせないように、大切にしまい込んで、永遠に僕だけの物にするんだ。
愚かで、可愛い、僕だけの──
手の中にあるのは、壊れてしまったオルゴール、ただひとつだけ。それ以外の物は、全部失くしてしまった。
住む家も、出迎えてくれる人も、大切にしたいと思った物は、なにもかも。
「……これからどうすっかなあ」
雑に巻いたストールの下で呟いてみたが、当然誰も答えてはくれない。ファリス以外に頼れる相手なんてどこにも居ない。この街で一人で生きていく術なんて、持ち合わせている筈がなかった。
分かっている。今のこの状況は、全部これまでの自分が招いた事なのだ。与えられる愛情を利用して、使い捨てにして生きてきた。そして今度は、俺が捨てられる番が来た。
何のことはない。今まで自分がやってきた事が、そのまま返ってきただけなんだ。俺を愛してくれる人を大切にしてこなかったから、俺自身も愛した人に大事にして貰えなかった。本当に欲しいと思った愛情だけは手に入れられないなんて、これが俺という人間に与えられた罰なら相応だと、自分でも思う。
『君には、元いたゴミの山がお似合いですよ』
最後に、ファリスから投げつけられた言葉が頭の中で反響する。ゴミの山、か。確かに俺にはお似合いだ。そんなことを考えていたら、ふと思い出した。
そうだった。あの晩、あの場所に落ちた時、俺はあそこで全部終わっても良いと思ったんだった。だったらもう一度、あの場所に戻って、あの瞬間をやり直そう。それで、今度こそ全部終わらせるんだ。
どこにも行けないのなら、もう、どこにも行かなくて良い。あいつ以外に誰か、愛せる人を、愛してくれる人を探すことなんて、したくなかった。
それから俺は、人目を避けながら夜の街を歩き続けて、大穴の下に辿り着いた。その場所で、何もかも終わりにする……そのつもり、だったのだが。
「…………なんだ、これ」
目の前にそびえる信じ難い光景に、俺はそう呟く事しか出来なかった。
ここに来るまで、裏通りばかり選んで歩いてきたから、気づかないうちに違う場所へ来てしまったのだろうか。だが遙か頭上を見上げてみれば、そこには真っ暗な天井を貫くような、目映いほどの月明かりがまっすぐに射し込んでいる。やはりここは以前リックと訪れたのと同じ、大穴の下だ。こんな奇妙な場所が、この街にふたつとある筈がない。だが、だとしたら、これは一体何だ?
混乱のまま、俺はそこに一歩近づいて、ためらいながら手を伸ばした。そうして、それに触れた瞬間、ひやりとした冷たい石の感触が手のひらに伝わってくるのを感じた。
やはり、幻なんかじゃない。これは確かに、ここに実在している物だ。
スポットライトのような月の光に吸い込まれて、遥か夜空へと無限に続いていく螺旋階段。いつかリックが言っていた、遠い昔に崩れ去ったはずのその階段が、ここにある。しかも、あんなにもうずたかく積み上がって悪臭を放っていたゴミの山は、周囲から跡形も無く消え去っていた。あんなもの、そう簡単に片付けられる筈がないのに。
俺は、夢でも見ているのだろうか。これが夢なら、この階段は、どこに続いているのだろう。噂でしか聞いた事のない、人間達が住む上層の街だろうか。それとも、もっと別の場所か。
もしかしたら……俺が、元々暮らしていた街に、続いているのかもしれない。
「……帰れる、のか?」
そんなこと、考えもしなかった。ここはどこにも続かない行き止まりのゴミ山で、俺は、ここを自分の終着点にするつもりだった。それなのに、想像すらしていなかった選択肢を与えられて、酷く混乱している自分に気づく。
俺はたぶん、この大穴を通じてこの街へやって来た。それは本来ならありえないことだが、今まさに、俺の目の前で、その“ありえないこと”が起きているのだ。それならこの階段を登っていけば、元いた場所に帰れる可能性だって高いんじゃないか。
俺が、元いた街。夜になっても光と喧騒が絶えることの無い、猥雑な街。あそこへ戻る事が出来れば、静かで暗い夜に怯える事もなくなる。
そうしたら、今度こそ真面目に生きてみようか。きっと楽じゃないだろうけど、家と仕事を探して、きちんと働いて、自分の力だけで生きていけるようになったら、今度こそ胸を張って、俺は……
その時、俺は、一体どこへ帰るつもりなのだろうか。
ちゃんと自立して、対等な立場になったら、あいつに受け入れてもらえるんじゃないかって、そんなことを一瞬本気で考えた。
一度ここを出たら、きっと二度とは戻って来られないのに。
「…………っ」
手のひらで触れている冷たい石に、どんどん体温を奪われていく気がして、俺は怖くなって手を離した。その瞬間、引っ込めた手が軽くぶつかったらしく、反対の手に持っていたオルゴールが突然動き始めた。
完全に壊れてしまったと思ったのに、それでもこいつはまだ、途切れ途切れの音でその存在を主張している。床にぶつかって歪んでしまった台座の上では、相棒を失った青い小人が一人きり、ぎこちない動きで同じ場所を回り続けていた。
くるくる、くるくる、いつまでも、どこへも行けないまま回り続ける。たった一人で、ネジが切れるまで、いつまでも、いつまでも。
「……ファリス…………っ」
俺は、どこへ行けばいいんだろう。この先どこへ行ったって、俺はきっと、何度もこの音色を思い出す。そうやって、永遠に失った物に縋り続けて、その果てにどこへ辿り着くというのだろうか。
本当は、帰りたい場所なんて、ひとつしかないのに。
❊
一人とは、こんなに静かなものだっただろうか。
何をするでもなく、ただぼんやりと自室の机に向かいながら、そんな事を考える。作りかけの時計の部品や工具で散らかった机の上には、赤い小人の人形が、一人ぽつんと転がっていた。
つるつるした素材で作られた、簡素なデザインの人形を指先で摘んで、四角い小さなペン立てにそっともたれさせる。相棒の青い小人は、彼がオルゴールと一緒に連れて行ってしまったから、この赤い小人は永遠に一人きりだ。
「……一人、か」
呟いた声はどこにも届かず、眼前の棚に置かれた写真立ての中にある、どこでもない風景に吸い込まれて消えていった。ここしばらくは答えが返ってくるのが当たり前だったから、つい独り言をこぼしてしまう。けれど、この静寂にもじき慣れるだろう。
何のことはない。彼と出会う前に過ごしていた時間が、戻ってきただけの事なのだから。
「…………ふう」
椅子の背もたれに体を預け、深く息を吐いて天井を見上げる。この部屋の中こそが、自分にとって一番安らげる場所だったはずなのに、なぜか今は、酷く空虚に感じた。
この狭い部屋の中、見渡す限り一杯に詰め込んだ、たくさんのガラクタたち。これらは全部、あのゴミ山から拾い集めてきた物だ。
あの場所には、ときおりとても奇妙な物が落ちている事がある。下層にも、上層にも存在するはずのない物。たとえば、見た事の無い生き物を象った陶器の置物や、話にすら聞いた事の無い不可思議な輝きを放つ鉱石。そして、上層でも下層でも使われていない文字で書かれた本。それらがどこから来た物なのか、僕は何も知らない。けれど、暗く淀んだこの街とも、おぞましい人間達が住む上層の街とも、全く違う世界があるという可能性を示すそれらに、僕は夢中になった。どこにも存在しない物に囲まれている間だけは、僕自身も、化け物でも人間でもない何者かになれる気がしたからだ。
そうやって不思議な物を集め続けて、もう十年近く経つ。その中でもとびきりの拾い物が、“彼”だった。
人間。それも、僕が知っている人間達よりもずっと美しく、不思議な空気を纏った青年だった。こんな所に落とされたくらいだから、この青年もあの街に馴染めなかったはみ出し者なのだろう。そう思った僕は、かつて僕を支配していた人間を征服して、壊して、憂さ晴らしをしてやるつもりで彼を拾った。けれど、彼こそが僕の憧れ続けた“どこでもない世界”から来た人間なのだと知った時、その思いは彼自身への興味へと変わった。だから僕は、彼をこの家に住まわせる事に決めたのだ。いつもと同じように、珍しい物を収集する程度の感覚で。今思えば、なんて浅はかで愚かだったのだろう。
彼は、生きた人間なのだ。その彼を、この街に留めておくのがどれほど危険な事か、口では散々彼を脅かしたくせに、誰よりも僕自身が甘く見積もっていた。……いや、本当は分かっていたのに、気づかないふりをしたのだ。彼をずっと手元に置いておきたくなった。ただそれだけの理由で、僕は彼をこの家に縛り付けた。本当は、彼が元いた世界に帰る方法だって知っていたくせに。
彼に本当の事を告げる機会は、いくらでもあった。たとえば、彼が母親の話題を持ち出した時。あの時、彼が「帰りたい」と言わなかったのを良いことに、僕は口を噤んでしまった。けれど本当はそこで伝えておくべきだったのだ。僕達がこんなにも、お互いの心に踏み入ってしまう前に。
彼が、元いた世界に帰る方法。それはとても簡単だ。あの大穴の上へと続く巨大な螺旋階段を登る、ただそれだけで良い。
もちろん、あの穴の下に階段があったのは遥か昔のことで、今ではうずたかく積み上がった瓦礫の山がその痕跡を残すのみだ。けれど、特定の条件が揃った時だけ、あの場所には、崩れ去ったはずの螺旋階段が現れる。
雲ひとつなく晴れた、満月の晩。月の光がまっすぐに射し込む数刻の間だけ、あの幻の階段は、その姿を見せる。この街の住民達は、ほとんど夜に出歩くということをしないから、おそらく誰もそのことを知らない。もしかすると、あの大穴から落ちた者にしか見えない何かなのかもしれなかった。
いずれにせよひとつ確かなのは、僕が不思議な拾い物をするのは、決まってその階段が現れて消えた後だということだ。彼を見つけた時もそうだった。僕が集めてきた物はみんな、あの奇妙な階段を通じてここにやってきた。あの階段は、上層でも下層でもないどこかへ繋がっている。
僕には、最後まであの階段を登ってみる勇気は持てなかったけれど、元々その向こうから来た彼ならきっと大丈夫だ。彼には他に向かう所なんて無いのだから、今頃は産まれた街に戻れただろう。彼と同じ、“普通”の人間達が暮らす街に。……彼が、その身を危険に晒さなくても生きていける場所に。
二度と会えなくなるのだから、せめてもっときちんと、帰る手段を伝えるべきだったと思う。けれど僕には、彼がこちらへ伸ばしてくる手を無理やり振りほどく事しか出来なかった。そうでもしないと、未練を残してしまうから。
最後まで身勝手だった僕を、彼はさぞかし恨んでいることだろう。僕は、それだけの事を彼にした。
最後に見たのは、母親に拒絶された幼い子供のような、寂しげな顔だった。彼は二度と、僕の元へは帰って来ない。僕も、彼も、本来あるべき場所へ戻ったのだ。
だから僕も、早く一人の暮らしに慣れなくては……
「はあ……」
再びため息を吐き出して、天井を見上げていた視線を前に戻す。自分の手で壊したものに思いを馳せるのはやめて、いい加減寝る支度を整えよう。そう思って椅子から腰を浮かせた時、忙しなく階段を上がってくる足音が、扉の向こうから微かに響いてくるのに気がついた。
驚きに強ばる思考の片隅で、そういえば彼に合鍵を預けたままだったと思い出す。だけど、そんな馬鹿なことがあるものか。彼がここへ戻って来るなんてこと……だって僕は、あんなにも彼を傷つけたのに。
僕が動けないでいるうちに、足音はどんどん近づいてきて、部屋の前で、躊躇うように一瞬足を止めた。そして、痛いほどの静寂の中で、丸い形のドアノブがカチャリと音を立てる。
ゆっくりと、ドアが開いていく。呼吸すらろくに出来ない僕の目の前で、震えるような吐息が、もう聞こえる筈のない声が、僕の名を呼んだ。
「ファリス……」
どうして。なぜ、戻って来たんだ。そんな言葉が溢れそうになって、けれど何も言えなかった。
「ファリス、なあ……俺、なんにも、いらないから……勘違いでも、ただの玩具でも、良いから、だから……」
僕が壊したオルゴールを大事そうに抱えたまま、ふらふらと、けれど迷いのない足取りで、僕の元へと近づいてくる。呆然とする僕の胸に肩がぶつかって、そこでようやく彼は足を止めた。
「俺、他のどこにも行きたくない……ずっと、ここに居たい……ここに、居させて……」
消え入りそうな声で呟いて、躊躇いがちに、僕の背中へ手を回す。シャツを掴んだその手が、小刻みに震えているのが伝わってきた。
どうして。こんな街に居たばっかりに、殺されそうになったくせに。そのうえ僕に、あんなに酷いことをされたのに。
それでも君は、ここに居たいと言うのか。
「……君は本当に、愚か者だ」
小さく呟いて、彼の背中に触れた。夜の街を散々歩き回ったせいだろう。その背中はすっかり冷えきって、頼りなくて、そして……とても愛おしかった。
今度こそ、僕はもう二度と彼を手放せないだろう。誰にも奪われないように、傷つけさせないように、大切にしまい込んで、永遠に僕だけの物にするんだ。
愚かで、可愛い、僕だけの──
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