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第一章 異形の街

二話 ゴミ捨て場

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  次に目が覚めた時、俺の視界に入ってきたのは、昨日と同じ天井だった。周囲はまだ薄暗く、夜が明けたばかりなのだろうと思ったが、枕元に置かれた四角いレトロな置時計は、八時前を指している。
「おはようございます」
  ぼんやりと時計を見つめていたら、秒針が回る音を掻き消すクソ野郎の声が耳に入り、一瞬感じた朝の爽やかな空気は跡形もなく消し飛んだ。
  目だけを動かして、ベッドの脇に立つ人影を睨みつける。朝になっても、やはり男の頭部には、白い百合が咲いていた。
「酷い顔色ですね。あまり眠れませんでしたか?」
  あまりにもしれっとした男の言葉を聞いた瞬間、頭にカッと血が昇るのが分かった。
「この、クズ野郎……!」
  俺は頭の横に転がっていた枕を鷲掴みにし、怒りに任せて男に投げつけようとした。しかし、
「う……っ」
  体を起こした瞬間、全身に鈍い痛みが走って、枕を掴んだまま崩れ落ちるハメになった。昨晩クソ野郎に好き放題されたせいで、体がまるで言う事を聞かない。みっともなくベッドの上でのたうち回る俺を見て、男は少し肩をすくめた。
「諦めて大人しく寝ていた方が良いですよ。どのみち君は、ここに居るしかないんですから。何があって下層まで落とされたのかは知りませんが、上層に戻る手段なんて無いのでしょう?」
「……カソウとか、ジョーソーとか、何の話だ」
  男が言う言葉の意味が理解できず、俺は顔を顰めながら口を挟んだ。すると今度は、男の方がピタリと動きを止めて、不思議そうに首を傾げた。正確に言うと、頭の花束が右側にモサッと傾いただけだったのだが。
「君、上層の街から落とされたのではないのですか?」
「だから、そのジョーソーってどこだよ。俺が住んでたのは、日本の東京だ」
「トウキョウ……?」
  花束が、更に右側へ傾く。そして男は、そのまま何やら考え込んでしまった。
「……確かに、ゴミ山に落ちているのを拾っただけで、彼が落下してくる所を見た訳ではない。それに、服装にもどこか違和感がある……けれど、そんな事がありえるのか?」
  一人で何かをぶつぶつ呟きながら、男は昨晩俺から無理やり脱がせたジーンズを拾って目線の高さに持ち上げ、しげしげと観察し始めた。それを見た瞬間、自分が今、下半身剥き出しの情けない格好をしている事に思い至る。
「返せ!」
  壁に手をつきながらベッドを降りて、俺は奴の手からジーンズをひったくった。そのまま急いでそれを身につけようとしたが、その直前、ドロッとした生温かい液体が股の間を流れていくのを感じて、全身に鳥肌が立った。
「……っ、最悪」
  これが何なのか、考えるまでも無い。このクソ野郎の体液だ。
  顔を歪ませる俺に花弁を向けて、クソ野郎は吐息のような笑いを洩らす。
「シャワーを浴びますか? 階段をおりた先の突き当たりです。なんなら僕が洗ってあげますよ」
「ふざけんなっ」
  男を押し退けて、重たい体を引きずりながら、奴が指さした方にジリジリと向かう。雨の中を逃げ回って、ゴミの上に落ちて、挙句にこのクズ野郎に犯されて、体はもうぐちゃぐちゃだ。何でもいいから、今すぐ全部洗い流したかった。
  不格好な動きで立ち去る俺の後ろからは、クスクスという楽しそうな笑い声がずっと聞こえていた。

  ❊

「ずいぶんサッパリしましたね」
  濡れた髪をタオルでわしわしと拭きながら、勝手に肘掛け椅子へと腰を下ろした俺を見て、男はそう言った。
  俺が風呂に入っている間に、ぐちゃぐちゃに乱れていたシーツは綺麗に整えられ、俺が風呂場の前に脱ぎ捨てておいた衣服も新しい物に取り替えられていた。ガリガリに痩せたこいつの服は少々窮屈だったが、着られない程でもない。とはいえ、糊の効いたワイシャツと、ぴっちりしたシルエットのスラックスは、俺には少し堅苦しかった。
「さて、お互い少し落ち着いた所で、君には色々と聞きたい事がありますが……その前に、君の名前を教えて貰えますか? いつまでも『君』では話し辛いので」
「…………」
  こいつに名乗ってやる義理は無いので、俺は男の問いを無視した。
「……困りましたね。君が名前を教えてくれないのなら、適当な呼び方を考えるしかありません。君を拾った場所から取って、『ゴミ山くん』とでも呼びましょうか」
「~~~っ、千尋ちひろだ! 杉崎すぎさき千尋!!」
  澄ました態度にイラついて、俺は思わず髪を拭いていたタオルをぶん投げながら怒鳴った。男は顔の前に飛んできたそれを軽く受け止めて、そのまま丁寧に畳む。
「チヒロ……良い名前ですね。可愛い君にぴったりだ」
「気色悪ぃ事言ってんなよ、化け物のくせに」
  俺が吐き捨てると、男は一瞬だけ黙った。しかしそれも僅かな間の事で、またしれっとした調子で喋り出す。
「ついでに僕も名乗っておきましょうか。僕の名前はファリスです」
「……あっそ」
  それが渾名あだなの類いでないのなら、こいつは少なくとも日本人ではないらしい。……いや、そもそもこの化け物に、そういった概念が通用するのか。
「お前は、何なんだ?」
「何、と言われても、見たまま以上に言葉で説明できる事なんてありませんよ。逆に訊きますが、チヒロは僕のような、頭部が変形した人間を見た事がないのですか?」
「はあ? ある訳ないだろ。お前みたいな奴がうじゃうじゃいたら、今ごろ世界中大パニックだ」
「……なるほど。君は、そういう世界から来たのですね」
「何がなるほどなんだよ」
  自分だけ納得したようなファリスの話しぶりに腹が立って、俺は目の前に突っ立っている奴のすねを蹴りあげようとした。しかしそれはギリギリの所で躱され、反対に腕を掴まれてしまう。
「説明するより直接見た方が早い。そこの窓から、外を覗いてみると良いですよ。……ただし、絶対に顔は出さないように。カーテンの隙間から、目だけで覗いてください」
「……なんなんだよ」
  やけに深刻な調子で言われ、俺は面食らった。顔を出したら何だと言うのか。
  疑問を差し挟む暇もなく、ファリスは俺の腕を引いて窓辺へ向かう。あまり広くない長方形の部屋は、ベッドルームとダイニングが一体になっていて、その先に設えられた申し訳程度のキッチンのそばに、レースのカーテンが掛かった窓があった。
「見えますか、チヒロ」
  空いた手で少しだけカーテンを引き、ファリスはそう訊ねてきた。こいつにムカついているのは変わりないが、俺としても外の様子は気になる。
  俺はファリスに手を引かれるまま、窓にそっと顔を近づけた。そして、
「……なんだ、これ」
  細く開いたカーテンの隙間から見えたものは、まるでタチの悪い悪夢のような光景だった。
  ファリスの家は、あまり綺麗とは言い難い、細い川沿いに建っているようだった。この部屋があるのは建物の二階で、川向こうの建物もせいぜい三、四階くらいの高さしかない。土っぽい石の道と、赤いレンガ造りの建物が狭そうに身を寄せ合う光景は、昔何かの映画で観た、産業革命時代のロンドンの街並みに似た雰囲気だ。少なくとも、俺が住んでいた令和の東京からは、かなりかけ離れた景色である事は間違いない。
  だが、そんなのは全部、些細な問題だった。
「言ったでしょう、チヒロ。この街では、君の方が異物なのだと」
  ファリスが俺の隣で何か言っているが、俺はそれに耳を傾ける余裕すら失っていた。
  目の前の道で、ボロ布の上に靴を並べた露店を出している人が二人いる。……いや、あいつらは人じゃない。あれが人間であってたまるものか。
  露店の主達は、一人がカマキリ、もう一人が蛇の頭を持っていた。三角形の頭に、ギョロギョロと光る目玉がついた奴らが、何やら楽しげに談笑しているのだ。さらに、その前を通り過ぎた子供の首から上には、真っ黒な猫の頭が生えていた。
  この窓の外では、ヒトの体に違う生物の頭を継ぎ足された化け物達が、ごく普通に街を行き交い、ありきたりな日常生活を送っている。
  それは、あまりにも異常な光景だった。
「……なんなんだよ……ここには、化け物しかいないのか……?」
  思わず後退あとずさろうとした俺の背中が、何かにぶつかる。いつの間にかファリスは俺の背後に回り、背中側から抱き締めるような形で、俺を窓に縫い付けていた。
「チヒロ、少し視線を上げて。空を見てください」
「空……?」
  顎に手をかけられて、ファリスにされるがまま空を見上げる。そこで俺はまた、ろくでもない物を目にする事になった。
「空に、穴が空いてる……?」
  自分でも何を言っているのか分からない。だがそれは、そうとしか言い表しようのない光景だった。より正確に言うならば、街の上空に、巨大なドーナツ状の蓋がされているのだ。
  巨大な何かに蓋をされて、街には太陽の光がほとんど差さない。道理で朝にしては暗いと思った。それでも辛うじて薄暗さを保っているのは、ファリスの家から見て遥か左、街の中心地と思われる辺りの空に大きな穴が空いていて、そこから燦燦さんさんと光が降り注いでいるからだった。
「あの上には、人間……君と同じ普通の頭部を持つ人間達が暮らす街があります。上空にある人間達の街を『上層』。僕達、異形の人間が暮らすこの街を『下層』と呼ぶのです」
  俺の背中越しに、ファリスがそう説明を入れる。
「あの大穴の下には、君を拾ったゴミ山があります。上層の人間達が、穴から捨てた“ゴミ”が溜まっていく場所なんですよ。……僕達が上層の人間を嫌う理由が、少しは分かって貰えましたか?」
  空は塞がれ、唯一の光の下にあるのはゴミの山。それじゃあ、まるで。
「この街そのものが、ゴミ捨て場みたいじゃねえか」
「そうですよ。ここはゴミ捨て場の街。上層から押し流された穢れが吹き溜まる場所です」
  ファリスの言葉は淡々としていて、それ故に寒気がした。
「なんだよ、それ……」
  こいつらにとって人間は、文字通り自分達の頭の上に住み、一方的にゴミを垂れ流してくるろくでもない奴らなのだ。憎まれているというのも当たり前だろう。たとえ俺が、上層とやらから来た人間では無いと言ったところで、それを信じる奴が何人いるだろうか。
「いや待て、そもそも俺は、どうやってこんな所に……」
  ──ぐぎゅるるるる
  その時。深刻な空気をぶち壊す、間の抜けた音が響き渡り、一瞬全ての時間が止まった。その犯人は、俺の腹の虫である。
「…………し、仕方ないだろ。昨日からほぼ丸一日なんも食ってねえんだよ」
  無いはずのファリスの目から、冷たい視線が注がれているような気がして、俺は聞かれてもいない言い訳を早口に吐き出した。
「ふふっ」
「……何笑ってんだよ」
  ムカつくやら恥ずかしいやらで顔が熱くなるのを感じながら、俺はそれをごまかすために、抱きついてくるファリスを押し退けて睨んだ。
「ふふ……いえ、そういえば、人間には食事が必要なんでしたね。すっかり忘れていました」
「お前らには食事も必要ないのか?」
「頭部の形状によりますね。今さっき窓から見えた露店商のように、生物の形をしている者には食事が必要です。しかし、僕らのような植物状の頭部……“樹木頭”を持つ者は、水と日光を浴びるだけで事足ります。……まあ、そもそも食物を摂取するための口が無いので、食事のしようがないんですが」
「……なんだそれ。何でもアリかよ」
  呆れる俺を見つめて、ファリスは少し笑った。ような気がした。
「そういう訳で、我が家には水しかありませんので、外に何か買いに行きましょう。ついでに街を案内しますよ」
「外に……」
  ついさっき見たカマキリ頭を思い出して、背中に汗が滲むのを感じた。
  自慢では無いが、俺は虫全般が大嫌いだ。頭だけとは言え、人間サイズのカマキリを目の前で見たら、俺はその場で絶叫するかもしれない。大体あいつらだって、人間が嫌いなんじゃないのか。そんな中にのこのこ出て行って大丈夫なのか。
「チヒロ? 早く行きましょう」
  考え込む俺の内心に気づく様子もなく、いつの間にか、白シャツの上からカーキ色のベストとブラウンのジャケットを身につけたファリスが、俺を呼んでいる。
「……風呂上がりで髪ボサボサなんだけど」
「大丈夫。気にする必要ないですよ」
  しれっと言い放ったファリスに肩からコートを掛けられて、そのまま階段に向かってぐいぐいと押される。細身のトレンチコートは品の良いデザインで、普段の俺が絶対に着ないタイプの服だった。
「おい、押すな! 危ないだろ!」
  俺の抗議など聞かず、ファリスは俺の肩を抱いて、軽い足取りで階段を降りていく。その先は薄暗く短い廊下が伸びていて、その突き当りに風呂と洗面所があるのはさっき見た通りだが、ファリスはそちらではなく、廊下の途中にある扉へと手をかけた。
  その扉が開かれた瞬間、その先に広がっていた光景があまりにも予想外のもので、俺は思わず目を瞬いていた。
「ここは……時計屋か?」
  壁一面を埋め尽くす、様々な形の壁掛け時計や柱時計。部屋の中央に置かれたショーケースには、古臭い作りの懐中時計や置き時計が、ずらりと並んでいる。そのひとつひとつに、値札らしきタグが付けられていた。
  こんな訳の分からない状況だが、ここにある無数の時計は、俺が居た世界と同じように時を刻んでいる。その事実に、俺はどこか安堵していた。
「そういえば、君にはまだ見せていませんでしたね。ここは僕の店ですよ」
  店の中を見回す俺を振り向いて、ファリスはそう言った。
  俺達が出てきた扉の近くには、幅の広いカウンターテーブルが置かれていて、その上には綺麗に整えられた工具が並んでいる。どうやらこの男は職人だったようだ。確かに肉体労働が得意そうなタイプではないが。
「ほら、チヒロ。店の中はいつでも見られますから」
  そう言って、ファリスが俺の腕を掴んで引っ張る。
「いちいちベタベタ触んな」
  鬱陶しく絡みついてくるファリスの手を振りほどいて、俺は外に出る扉に手をかけようとした。しかし、
「ちょっと待ってください」
「うわっ」
  突然、頭の上からゴワゴワした何かを被せられて、視界が塞がれた。驚きで体が硬直した一瞬後、何か細い物が首に巻かれたのに気づいて、パニックに陥りそうになる。
  どうやら俺は、目の荒い麻袋を頭から被せられ、さらには紐で首を絞められそうになっているらしい、という事に気づいたからだ。
「てめえ……っ」
  俺は後ろにいるであろうファリスに殴りかかろうと拳を握った。しかし、ほとんど塞がれた視界の中では、その拳を当てる事すら叶わず、ファリスのひょろひょろした指に、あっさりと手首を掴まれてしまう。
「落ち着いてくださいチヒロ。外に出る間、顔を隠すだけですよ。君が人間だとバレれば、最悪殺されてしまいますから」
「は……?」
  物騒な言葉と、ファリスの妙に冷静な話し口調があまりにも不釣り合いで、俺は袋の下で眉を寄せた。もちろん、ファリスには見えていないだろう。
「君の出自については僕が適当に説明しておきますから、街の人に何か聞かれても、上手くはぐらかしてくださいね。くれぐれも、人間だと気づかれないように」
  そう言ったファリスの顔は、麻袋の隙間から見ると、本当にただの花のようだった。けれど、この家の外では、こいつの方が『普通』なのだろう。
「……分かったよ」
  小さく答えを返すと、自分の吐息で袋の中がほんのり温かくなる。こいつに従うのは癪だが、俺だって無駄な揉め事に巻き込まれたくはない。
  俺が大人しくなったのを見て、ファリスは満足そうに頷いた。そして今度こそ、店の扉に手をかける。
「では、行きましょうか」
  ファリスの言葉と共に、ガチャリと音を立てて、扉が開いた。
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