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第一章 異形の街
一話 奈落
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いつか、地獄に落ちるだろうと思っていた。
それなのに、光溢れる街から転落して行き着いた先は、地獄ですらない、悪臭が漂うゴミ捨て場だった。どうやら俺の居場所は、地獄にすら存在しないらしい。
行く場所なんて、どこにも無い。帰りたい場所も、待っている人も、どこにも居ない。
もう、居場所を探す事にも疲れた。どこにも行けないのなら、ここで終わりで構わない。
薄れていく視界の中で最後に見たのは、薄汚いゴミ捨て場には不釣合いな、純白の、百合の花束だった。
❊
そぼ降る雨にネオンの光が滲む、夜の繁華街。
古臭い歌謡曲の歌詞にでも出てきそうな情緒ある光景だが、その只中を死に物狂いで走る俺にとっては、何もかもが死ぬほど不快だった。
「クソ……っ、どこまで、追って来やがんだよ!」
雨でベットリと額に張りついた前髪を払い除けて、俺は悪態を吐いた。背後からは複数人が水溜まりを踏み越える足音と、ドスの効いた男達の罵声が聞こえてくる。あいつらに捕まったら最後、殺されるか、それ以上のヤバい目に遭わされるのは確実だった。
「おい、邪魔だ!」
必死の形相で走る俺を見た瞬間、ぎょっとした顔で固まったサラリーマンを傘ごと突き飛ばして、更に走る。人混みの中に紛れてしまえば逃げられると思ったのに、平日かつ雨の繁華街は、いつもより人が少なかった。その上どいつもこいつも、俺が明らかにカタギではない男達に追われているのに気づいた途端、殺虫剤をかけられたゴキブリのような速さで道の端に避けていきやがる。よっぽど厄介事に巻き込まれたくないのだろう。当然だ。俺だって逆の立場ならそうする。
「待てやコラクソガキ! ぶっ殺すぞ!!」
あまり遠くない場所から、下品な男の怒号が響いてくる。ぶっ殺すと言われて待つ訳がないだろうが馬鹿共め。
そう内心でイキがってみた所で、こっちが追い詰められている事実は変わらない。ちくしょう、あのクソ女。ヤクザの情婦だと分かっていたら、初めから声なんか掛けなかったのに。
「く、そ……っ」
喉の奥から、壊れかけた笛のような呼吸音と、鉄臭い血の匂いがせり上がってくる。体力なんか、もうとっくの昔に限界だ。せめてどこかに身を隠さなくては、あいつらに捕まるのも時間の問題だった。
俺は目の前でギラギラ光っている居酒屋の看板を掴んで後ろに引き倒すと、そのまま店の脇に伸びる路地へと飛び込んだ。ついでにその辺に積んであった生ゴミの袋を、背後に向けて思いきり蹴り倒しておく。適当に結んであった袋の口が弾けて、大量の卵の殻や野菜の切れ端が濡れた道にぶち撒けられるのが横目に見えた。これで少しは時間稼ぎになってくれ。
心の中で祈りながら、俺は煌びやかなネオンに背を向けて、真っ暗な路地の先へと駆け出した。
つもりだった。
「…………は?」
路地裏に踏み出した一秒後、俺は信じられない思いで自らの足元を見下ろしていた。
踏み出した足の下、地面があるべき場所には、何も無かったのだ。
「んだそれ……ふざけんな……っ」
虚しく空をかいた爪先が、暗闇に飲み込まれて沈んでいく。そのまま、あっという間に全身が闇に侵され、溶けていくような錯覚に囚われて……俺の意識は、そこでぷっつりと途絶えた。
❊
酷く、甘い匂いがする。母さんが酔って帰ってきた日の朝は、いつも部屋中こんな匂いがしていた。
酒と、母さんが好きだった、百合の香水。それらが混じりあった香りに満たされて、俺まで酔ってしまいそうな気分になったのを、今でもよく覚えている。
懐かしくて、甘ったるくて、吐き気がする匂い。
「…………っ」
頭蓋骨を締め付けられるような酷い頭痛と、目眩がしそうなほどに強い匂いの中、俺は目を覚ました。
ここは……どこだ? 霞がかかったような頭で必死に考える。どうやらここは、薄汚く濡れた路地裏でも、クソの匂いがするゴミの山でも無いらしい。俺は、どこかの部屋のベッドに横たわっている。あの女のアパートでも、病院や警察でも無い。もしかして、あのチンピラ共に捕まったのか? だが、それならこんな御丁寧にベッドへ寝かされているはずが……
「気がつきましたか」
聞いたの事ない男の声に、俺は驚いて目を見開いた。動揺を隠しきれないまま、慌ててベッドの脇へと顔を向ける。その視線の先で、俺は、信じ難いものを目にした。
「何だ、お前……」
ベッド横のランプだけが明かりを放つ薄暗い部屋の中で、アンティーク調の肘掛け椅子に腰を下ろし、優雅に足を組んだ白シャツ姿の男。……いや、正確に言えば、男なのかどうかも分からない。
なにしろ、そいつの顔があるべき場所には、真っ白な百合の花が、何本も束になって咲いていたのだから。
「樹木頭は初めて見ましたか? そう驚かれると照れますね」
どこか愉快気な男の声に合わせて、百合の花束がワサワサと揺れる。どうやらこいつは笑っているらしい。……笑っている? 何が?
目で見ている光景と、耳から入ってくる音が、まるで結びつかない。いや、繋がる線が一本しかない事くらい、頭では理解しているのだが、俺の中の常識が、その答えを受け入れようとしない。
花が、人間の声で喋っているなんてこと、簡単に受け入れられる訳がなかった。
百合の花束が、ふわふわと揺れる。男は組んでいた足を床に下ろすと、やけに綺麗な姿勢で立ち上がった。
男が動く度に、頭部の花も揺れる。どう見たって、手の込んだ仮装なんかじゃないし、悪趣味なマネキンでもない。こいつは……
「化け物……」
俺の言葉を聞いた瞬間、百合の花が、一際大きく揺れた。
「化け物。そう、君の言う通り、僕達は化け物です」
感情の読めない声と共に、男は俺の方に手を伸ばす。俺は咄嗟にそれを避けようとしたが、何故か全身が痺れたようになって、まるで力が入らない。そうこうしているうちに、男はだらしなく横たわる俺の前髪を掴み、そのまま乱暴に引きずり起こした。
「い……っ」
頭皮が引き攣れる感覚と、髪が抜ける鈍い音に、俺は思わず顔を顰めた。歪む視界いっぱいに、真っ白な花が花弁を広げている。
「確かに、僕達は化け物だ。……ですが、よく覚えておきなさい」
人間なら吐息が吹きかかる程の距離で、男が囁く。だが、俺の鼻先を擽ったのは、
「この街では、君の方が異物なのだと言う事を」
胸焼けしそうなほど甘い、花の香りだけだった。
「離せ、この……っ」
「ええ、良いですよ」
無理やり頭を掴まれて半身を起こしていた状態からいきなり手を離されて、俺は無様に倒れ込んだ。そこから体勢を整える暇もなく、身を乗り出してきた男の膝が俺の腹にめり込む。
「うぐ……っ」
「人間は、表情豊かで面白いですね」
内臓を押し潰される感覚に嘔吐く俺を見下ろして、男は愉しげな声で笑った。目も口も無いくせに、確かにこいつは、俺を見て笑っている。
「な、んなんだよ、テメェ……何が、したいんだ……あいつらの、仲間なのか?」
「さて、“あいつら”というのが誰の事なのかは知りませんし、君の事情に興味もありません。もっと言えば、君個人に何か恨みがある訳でもない。……ただ、僕は人間そのものが憎くて堪らないので、たまたま目の前に落ちてきた君には、僕の復讐に付き合って貰うつもりです」
「復、讐……?」
肺を酷く圧迫されているせいで、切れ切れにしか言葉を吐き出せない。男は上背こそあるものの、背丈の割に痩せた体つきをしている。思い切り蹴飛ばしてやれば、こんなやつ簡単に吹き飛ぶはずなのに、俺は相変わらず、指の一本さえ動かせなかった。
「僕の香りは、人間にとっては毒なんだそうですよ……君にもちゃんと効果があるようだ」
ようやく俺の上から足を退けたかと思うと、男はベッドの上にあがって、いよいよ俺の上に馬乗りになった。
「お、前……何する気だ」
「言ったでしょう。復讐ですよ。昔された事を、そのままやり返すだけ……でも、君はとても可愛いので、顔は傷つけないでおいてあげます」
「ふざけ……っ」
俺の言葉は、そこで無理やり遮られた。男がいきなり、俺の口に指を突っ込んできたからだ。
「ぐ、ぅ……」
「君にとっては当たり前なのでしょうが、僕達にとっては、人間の顔こそが珍しくて仕方のない物なんですよ」
その言葉通り、男は初めて見る玩具を弄ぶ子供のような手つきで、舌を摘んだり、歯の裏をなぞってみたり、俺の顔を好き放題に弄り回して楽しんでいる。そのまま喉の奥に指を押し込まれて、吐き気と共に涙が滲んだ。
「う、え」
「はは、酷い顔だ」
楽しげに花弁を揺らしながら、男は更にぐりぐりと指を捩じ込んでくる。空っぽの胃の中身が逆流しそうになった頃、ようやく俺を苛む事に飽きたのか、男は俺の口から指を引き抜いた。ほとんど塞がれていた気管から、大量の酸素と花の香りが一気に流れ込んできて溺れそうになる。激しく噎せながら、無様に涎を垂らす俺の視界の端に、男がごそごそと姿勢を変えているのが見えた。
何をするつもりなのかと視線を動かした直後、男が俺のジーンズのベルトに手をかけているのに気がついて、一瞬で背筋が冷えた。
「おい……冗談だろ」
俺の言葉には答えず、男は下着ごとジーンズを掴んで、強引に引き下ろした。途端に下半身が冷えた外気に晒されて、それなのに全身が火をつけられたように熱くなる。そこまでされてもろくに抵抗できない俺を嘲笑うかのように、男は俺の唾液でぐっしょりと濡れた指を、誰にも触らせた事の無い、体の奥の、最も深い部分へと押し当ててきた。
「ふ、ざけんじゃねえ! 触んな! ぶっ殺すぞ!!」
「出来もしない事を言わない方が良いですよ」
俺の精一杯の叫びを一蹴して、男は触れた指の先を、容赦なく体の中へ押し込んできた。男の指は木の枝のように細く、それでも体を引き裂かれるような痛みで全身が強ばる。
「い、てえ……っ、くそ、死ね、変態野郎……」
「顔は可愛いのに、中身はなんて品の無い……痛いのは初めだけですから、しばらく我慢してください」
冷たく言い放って、男は乱暴に俺の中を掻き回す。いかがわしい水音と濡れた感触が体の中を伝わって、徐々に全身を蝕んでいくようで、心底不快だった。
「く、そ……絶対、殺してやる、からな……」
男は何も答えない。だが、視界を覆うようにゆらゆらと揺れる百合の花の向こうに、薄笑いを浮かべる男の顔が見えた気がした。
香りが、どんどん強くなっている気がする。息を吸う度に、この男の匂いに、肺を、脳を、侵食されていく。痛みで真っ赤に染まっていた視界が、少しずつ白く塗り潰されていくのを感じながら、徐々に何かを考える事すら出来なくなっていく自分を、俺はどこか他人事のように感じていた。
「う……」
「気持ち良くなってきましたか? ……ふふ。もう痛みなんて、ほとんど感じないでしょう」
男が何を言っているのか、蕩けきった俺の頭には、ほとんど入って来ない。そんな俺の姿に満足したのか、男は小さく笑い声を洩らして、俺の中に押し込んでいた指を引き抜いた。唐突に消えた圧迫感に、俺が息を吐いたのも束の間。
その数秒後、指よりも遥かに熱い塊を押し付けられて、ぼやけていた思考が一瞬で引き戻された。
「やめろ……っ」
今さらそんな事を言ったところで、男が俺を解放するはずも無い。男は俺の言葉を無視して、熱く昂った物を躊躇うことなく俺の中に捩じ込んだ。
「うあ……っ」
指とは比べ物にならない圧迫感に内臓を押し上げられて、背中が仰け反った。だが、そんな俺を押さえつけるように、男は俺の腰を乱暴に掴んで、自らの腰を激しく打ち付けてくる。
「……あ、ぐ……っ」
こんなにも強引に貫かれているのに、痛みはまるで感じない。それどころか、体の奥深くを突かれる度に、甘い震えが全身を駆け抜ける。
「あ、んっ」
聞くに耐えない、甘えた女のような声が、自分の口から次々に溢れ出してくる。奥を穿たれる毎に理性を剥がされて、自分自身を制御できなくなっていくのが分かった。
嘘だ。認めたくない。こんな化け物に犯されるのが、気持ち良いなんて。
「も、やめて、くれ……たのむ、から……」
震える手を持ち上げて、俺は男のシャツの袖を掴んで懇願した。これ以上犯され続けたら、自分自身が壊れてしまうような気がして怖かった。
だが、男は俺の手を振りほどいて、情けない俺を冷たく嘲笑った。
「ふっ……あははは……っ、いやだな、さっきまでの威勢はどうしたんです? 絶対に殺してやるんじゃなかったんですか」
「う……っ」
男が、俺の首に手をかける。そのまま気管を押し潰すように絞め上げられて、息が出来なくなった。それでも男は、俺を犯すのをやめようとしない。
「良いですね、君。だらしなく快感を貪っている時より、そうして苦しそうにしている時が、一番可愛い。……とても、気に入りましたよ」
激しい耳鳴りに掻き消されて、男の声はほとんど聞こえない。少しずつ、視界が黒く滲んでいく。
それきり、全てが真っ暗闇に沈んで、何も見えなくなった。
それなのに、光溢れる街から転落して行き着いた先は、地獄ですらない、悪臭が漂うゴミ捨て場だった。どうやら俺の居場所は、地獄にすら存在しないらしい。
行く場所なんて、どこにも無い。帰りたい場所も、待っている人も、どこにも居ない。
もう、居場所を探す事にも疲れた。どこにも行けないのなら、ここで終わりで構わない。
薄れていく視界の中で最後に見たのは、薄汚いゴミ捨て場には不釣合いな、純白の、百合の花束だった。
❊
そぼ降る雨にネオンの光が滲む、夜の繁華街。
古臭い歌謡曲の歌詞にでも出てきそうな情緒ある光景だが、その只中を死に物狂いで走る俺にとっては、何もかもが死ぬほど不快だった。
「クソ……っ、どこまで、追って来やがんだよ!」
雨でベットリと額に張りついた前髪を払い除けて、俺は悪態を吐いた。背後からは複数人が水溜まりを踏み越える足音と、ドスの効いた男達の罵声が聞こえてくる。あいつらに捕まったら最後、殺されるか、それ以上のヤバい目に遭わされるのは確実だった。
「おい、邪魔だ!」
必死の形相で走る俺を見た瞬間、ぎょっとした顔で固まったサラリーマンを傘ごと突き飛ばして、更に走る。人混みの中に紛れてしまえば逃げられると思ったのに、平日かつ雨の繁華街は、いつもより人が少なかった。その上どいつもこいつも、俺が明らかにカタギではない男達に追われているのに気づいた途端、殺虫剤をかけられたゴキブリのような速さで道の端に避けていきやがる。よっぽど厄介事に巻き込まれたくないのだろう。当然だ。俺だって逆の立場ならそうする。
「待てやコラクソガキ! ぶっ殺すぞ!!」
あまり遠くない場所から、下品な男の怒号が響いてくる。ぶっ殺すと言われて待つ訳がないだろうが馬鹿共め。
そう内心でイキがってみた所で、こっちが追い詰められている事実は変わらない。ちくしょう、あのクソ女。ヤクザの情婦だと分かっていたら、初めから声なんか掛けなかったのに。
「く、そ……っ」
喉の奥から、壊れかけた笛のような呼吸音と、鉄臭い血の匂いがせり上がってくる。体力なんか、もうとっくの昔に限界だ。せめてどこかに身を隠さなくては、あいつらに捕まるのも時間の問題だった。
俺は目の前でギラギラ光っている居酒屋の看板を掴んで後ろに引き倒すと、そのまま店の脇に伸びる路地へと飛び込んだ。ついでにその辺に積んであった生ゴミの袋を、背後に向けて思いきり蹴り倒しておく。適当に結んであった袋の口が弾けて、大量の卵の殻や野菜の切れ端が濡れた道にぶち撒けられるのが横目に見えた。これで少しは時間稼ぎになってくれ。
心の中で祈りながら、俺は煌びやかなネオンに背を向けて、真っ暗な路地の先へと駆け出した。
つもりだった。
「…………は?」
路地裏に踏み出した一秒後、俺は信じられない思いで自らの足元を見下ろしていた。
踏み出した足の下、地面があるべき場所には、何も無かったのだ。
「んだそれ……ふざけんな……っ」
虚しく空をかいた爪先が、暗闇に飲み込まれて沈んでいく。そのまま、あっという間に全身が闇に侵され、溶けていくような錯覚に囚われて……俺の意識は、そこでぷっつりと途絶えた。
❊
酷く、甘い匂いがする。母さんが酔って帰ってきた日の朝は、いつも部屋中こんな匂いがしていた。
酒と、母さんが好きだった、百合の香水。それらが混じりあった香りに満たされて、俺まで酔ってしまいそうな気分になったのを、今でもよく覚えている。
懐かしくて、甘ったるくて、吐き気がする匂い。
「…………っ」
頭蓋骨を締め付けられるような酷い頭痛と、目眩がしそうなほどに強い匂いの中、俺は目を覚ました。
ここは……どこだ? 霞がかかったような頭で必死に考える。どうやらここは、薄汚く濡れた路地裏でも、クソの匂いがするゴミの山でも無いらしい。俺は、どこかの部屋のベッドに横たわっている。あの女のアパートでも、病院や警察でも無い。もしかして、あのチンピラ共に捕まったのか? だが、それならこんな御丁寧にベッドへ寝かされているはずが……
「気がつきましたか」
聞いたの事ない男の声に、俺は驚いて目を見開いた。動揺を隠しきれないまま、慌ててベッドの脇へと顔を向ける。その視線の先で、俺は、信じ難いものを目にした。
「何だ、お前……」
ベッド横のランプだけが明かりを放つ薄暗い部屋の中で、アンティーク調の肘掛け椅子に腰を下ろし、優雅に足を組んだ白シャツ姿の男。……いや、正確に言えば、男なのかどうかも分からない。
なにしろ、そいつの顔があるべき場所には、真っ白な百合の花が、何本も束になって咲いていたのだから。
「樹木頭は初めて見ましたか? そう驚かれると照れますね」
どこか愉快気な男の声に合わせて、百合の花束がワサワサと揺れる。どうやらこいつは笑っているらしい。……笑っている? 何が?
目で見ている光景と、耳から入ってくる音が、まるで結びつかない。いや、繋がる線が一本しかない事くらい、頭では理解しているのだが、俺の中の常識が、その答えを受け入れようとしない。
花が、人間の声で喋っているなんてこと、簡単に受け入れられる訳がなかった。
百合の花束が、ふわふわと揺れる。男は組んでいた足を床に下ろすと、やけに綺麗な姿勢で立ち上がった。
男が動く度に、頭部の花も揺れる。どう見たって、手の込んだ仮装なんかじゃないし、悪趣味なマネキンでもない。こいつは……
「化け物……」
俺の言葉を聞いた瞬間、百合の花が、一際大きく揺れた。
「化け物。そう、君の言う通り、僕達は化け物です」
感情の読めない声と共に、男は俺の方に手を伸ばす。俺は咄嗟にそれを避けようとしたが、何故か全身が痺れたようになって、まるで力が入らない。そうこうしているうちに、男はだらしなく横たわる俺の前髪を掴み、そのまま乱暴に引きずり起こした。
「い……っ」
頭皮が引き攣れる感覚と、髪が抜ける鈍い音に、俺は思わず顔を顰めた。歪む視界いっぱいに、真っ白な花が花弁を広げている。
「確かに、僕達は化け物だ。……ですが、よく覚えておきなさい」
人間なら吐息が吹きかかる程の距離で、男が囁く。だが、俺の鼻先を擽ったのは、
「この街では、君の方が異物なのだと言う事を」
胸焼けしそうなほど甘い、花の香りだけだった。
「離せ、この……っ」
「ええ、良いですよ」
無理やり頭を掴まれて半身を起こしていた状態からいきなり手を離されて、俺は無様に倒れ込んだ。そこから体勢を整える暇もなく、身を乗り出してきた男の膝が俺の腹にめり込む。
「うぐ……っ」
「人間は、表情豊かで面白いですね」
内臓を押し潰される感覚に嘔吐く俺を見下ろして、男は愉しげな声で笑った。目も口も無いくせに、確かにこいつは、俺を見て笑っている。
「な、んなんだよ、テメェ……何が、したいんだ……あいつらの、仲間なのか?」
「さて、“あいつら”というのが誰の事なのかは知りませんし、君の事情に興味もありません。もっと言えば、君個人に何か恨みがある訳でもない。……ただ、僕は人間そのものが憎くて堪らないので、たまたま目の前に落ちてきた君には、僕の復讐に付き合って貰うつもりです」
「復、讐……?」
肺を酷く圧迫されているせいで、切れ切れにしか言葉を吐き出せない。男は上背こそあるものの、背丈の割に痩せた体つきをしている。思い切り蹴飛ばしてやれば、こんなやつ簡単に吹き飛ぶはずなのに、俺は相変わらず、指の一本さえ動かせなかった。
「僕の香りは、人間にとっては毒なんだそうですよ……君にもちゃんと効果があるようだ」
ようやく俺の上から足を退けたかと思うと、男はベッドの上にあがって、いよいよ俺の上に馬乗りになった。
「お、前……何する気だ」
「言ったでしょう。復讐ですよ。昔された事を、そのままやり返すだけ……でも、君はとても可愛いので、顔は傷つけないでおいてあげます」
「ふざけ……っ」
俺の言葉は、そこで無理やり遮られた。男がいきなり、俺の口に指を突っ込んできたからだ。
「ぐ、ぅ……」
「君にとっては当たり前なのでしょうが、僕達にとっては、人間の顔こそが珍しくて仕方のない物なんですよ」
その言葉通り、男は初めて見る玩具を弄ぶ子供のような手つきで、舌を摘んだり、歯の裏をなぞってみたり、俺の顔を好き放題に弄り回して楽しんでいる。そのまま喉の奥に指を押し込まれて、吐き気と共に涙が滲んだ。
「う、え」
「はは、酷い顔だ」
楽しげに花弁を揺らしながら、男は更にぐりぐりと指を捩じ込んでくる。空っぽの胃の中身が逆流しそうになった頃、ようやく俺を苛む事に飽きたのか、男は俺の口から指を引き抜いた。ほとんど塞がれていた気管から、大量の酸素と花の香りが一気に流れ込んできて溺れそうになる。激しく噎せながら、無様に涎を垂らす俺の視界の端に、男がごそごそと姿勢を変えているのが見えた。
何をするつもりなのかと視線を動かした直後、男が俺のジーンズのベルトに手をかけているのに気がついて、一瞬で背筋が冷えた。
「おい……冗談だろ」
俺の言葉には答えず、男は下着ごとジーンズを掴んで、強引に引き下ろした。途端に下半身が冷えた外気に晒されて、それなのに全身が火をつけられたように熱くなる。そこまでされてもろくに抵抗できない俺を嘲笑うかのように、男は俺の唾液でぐっしょりと濡れた指を、誰にも触らせた事の無い、体の奥の、最も深い部分へと押し当ててきた。
「ふ、ざけんじゃねえ! 触んな! ぶっ殺すぞ!!」
「出来もしない事を言わない方が良いですよ」
俺の精一杯の叫びを一蹴して、男は触れた指の先を、容赦なく体の中へ押し込んできた。男の指は木の枝のように細く、それでも体を引き裂かれるような痛みで全身が強ばる。
「い、てえ……っ、くそ、死ね、変態野郎……」
「顔は可愛いのに、中身はなんて品の無い……痛いのは初めだけですから、しばらく我慢してください」
冷たく言い放って、男は乱暴に俺の中を掻き回す。いかがわしい水音と濡れた感触が体の中を伝わって、徐々に全身を蝕んでいくようで、心底不快だった。
「く、そ……絶対、殺してやる、からな……」
男は何も答えない。だが、視界を覆うようにゆらゆらと揺れる百合の花の向こうに、薄笑いを浮かべる男の顔が見えた気がした。
香りが、どんどん強くなっている気がする。息を吸う度に、この男の匂いに、肺を、脳を、侵食されていく。痛みで真っ赤に染まっていた視界が、少しずつ白く塗り潰されていくのを感じながら、徐々に何かを考える事すら出来なくなっていく自分を、俺はどこか他人事のように感じていた。
「う……」
「気持ち良くなってきましたか? ……ふふ。もう痛みなんて、ほとんど感じないでしょう」
男が何を言っているのか、蕩けきった俺の頭には、ほとんど入って来ない。そんな俺の姿に満足したのか、男は小さく笑い声を洩らして、俺の中に押し込んでいた指を引き抜いた。唐突に消えた圧迫感に、俺が息を吐いたのも束の間。
その数秒後、指よりも遥かに熱い塊を押し付けられて、ぼやけていた思考が一瞬で引き戻された。
「やめろ……っ」
今さらそんな事を言ったところで、男が俺を解放するはずも無い。男は俺の言葉を無視して、熱く昂った物を躊躇うことなく俺の中に捩じ込んだ。
「うあ……っ」
指とは比べ物にならない圧迫感に内臓を押し上げられて、背中が仰け反った。だが、そんな俺を押さえつけるように、男は俺の腰を乱暴に掴んで、自らの腰を激しく打ち付けてくる。
「……あ、ぐ……っ」
こんなにも強引に貫かれているのに、痛みはまるで感じない。それどころか、体の奥深くを突かれる度に、甘い震えが全身を駆け抜ける。
「あ、んっ」
聞くに耐えない、甘えた女のような声が、自分の口から次々に溢れ出してくる。奥を穿たれる毎に理性を剥がされて、自分自身を制御できなくなっていくのが分かった。
嘘だ。認めたくない。こんな化け物に犯されるのが、気持ち良いなんて。
「も、やめて、くれ……たのむ、から……」
震える手を持ち上げて、俺は男のシャツの袖を掴んで懇願した。これ以上犯され続けたら、自分自身が壊れてしまうような気がして怖かった。
だが、男は俺の手を振りほどいて、情けない俺を冷たく嘲笑った。
「ふっ……あははは……っ、いやだな、さっきまでの威勢はどうしたんです? 絶対に殺してやるんじゃなかったんですか」
「う……っ」
男が、俺の首に手をかける。そのまま気管を押し潰すように絞め上げられて、息が出来なくなった。それでも男は、俺を犯すのをやめようとしない。
「良いですね、君。だらしなく快感を貪っている時より、そうして苦しそうにしている時が、一番可愛い。……とても、気に入りましたよ」
激しい耳鳴りに掻き消されて、男の声はほとんど聞こえない。少しずつ、視界が黒く滲んでいく。
それきり、全てが真っ暗闇に沈んで、何も見えなくなった。
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