凪の海には帰らない

村井 彰

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  十年前のあの日、沖本と別れて帰宅した後の記憶は、どれだけ思い出そうとしても、所々が曖昧ではっきりしない。きっとろくでもない記憶だから、自分でも無意識のうちに蓋をしているのだと思う。


  俺の父親は、一言で言うとクズだった。子供が出来たと分かると女を捨て、女が死ぬまで見向きもしないような奴だ。女が死んだ後に子供を引き取ったのも、親子としての情に目覚めたり、義務感から面倒を見ることにした訳じゃない。その子供が、自分に都合よく使える存在だと気づいただけの事だった。
  あいつの元で暮らすようになってから、俺の生活は全部、あいつのための物になった。学校から帰ったら、あいつの身の回りの世話をさせられる毎日で、自分のための時間なんて全く無かった。あいつが俺のために何かをしてくれた事なんて一度もない。ゆかりさんや坂木が手を差し延べてくれたから、どうにか生きていられたようなものだった。
  当時の俺は、自分ひとりの力じゃ生きていけないガキだった。だから、あいつの隙を見て必死に勉強をした。良い大学に入って、まともな仕事に就いて、二度とこんな奴に関わらなくても生きていけるように。そのために、何をされても、見ないふり聞こえないふりで誤魔化し続けていたのに。結局俺は、あと少しという所で耐えられなかった。

  おぼろげになった記憶の中のあいつは、いつもより遅く帰宅した俺に対して、ひどく腹を立てていた。細かいことは思い出せないが、さっさと飯の支度をしろと怒鳴られて、中身の入った灰皿を投げつけられたような気がする。
  この程度はいつもの事だから、しばらく耐えていればすぐに収まる。そう思って、あいつの吐き出す汚い言葉を黙って聞き流していたが、その日はやけにしつこく絡まれた。そしてあいつは、最後にこう言った。
『母親そっくりの役立たずが。あの女と一緒に死ねばよかったのに』
  その言葉を聞いた瞬間、自分の中で何かが崩壊したような音がした。
  母さんと二人で暮らしていた時の記憶は、当時の俺にとって、自分を保つために唯一残った柱のようなものだった。それをあいつは、叩き折って土足で踏み荒らした。
  それからの記憶は、断片的にしか残っていない。
  やけに重いガラスの灰皿と、真っ赤なカーペット。あいつの汚い悲鳴が少しずつ聞こえなくなって、噎せ返るような命の匂いがした。気がついたら坂木がすぐそばにいて、『俺に全部任せてください』と言った。
  それから、俺の手から灰皿を奪った坂木がどこかへ電話をかけるのを、俺は他人事のようにただ見ていた。そして、夢を見ているように霞がかった頭の片隅で、ふと気がついた。

  俺はもう二度と、“普通”にはなれないのだと。
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