ブルーメモリーズ

村井 彰

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目覚め

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「……花……一花!起きて!」 
 誰かに肩を揺さぶられて、私は目を覚ました。突如視界に眩しい光が広がり、思わず目を瞬く。ここは、どこだろう。
 首を巡らせて辺りを見回す。どうやら学校の教室のようだけど、私が通っていたところとはどこか違う。それなのに見覚えがあるような気がするのはなぜだろう。
「一花、おはよう。居眠りなんて珍しいね、疲れてるの?」
 私の前に立つ、真っ赤な髪の女の子が首を傾げてこちらを見ている。この子は誰?いや、そんなことよりも。
「えっと……一花って、私のこと?」
 私はそんな名前ではないんだけど。しかし彼女は私の問いかけに呆れたような声をあげた。
「ちょっと、ホントに疲れてるんじゃない?大丈夫?」
 そういって、長い指で私の額をちょん、とつつく。
「あなたは夏海一花なつみいちか。さざなみ高校の二年生で、私のクラスメイト。でしょ?」
 彼女はいったい何を言っているのだろう。
 さざなみ高校の夏海一花。それは私の名前ではない。夏海一花、それは……私が大好きな乙女ゲームの、ヒロインの名前じゃないか。
 だけど、目の前の彼女に冗談を言っているような雰囲気はない。それどころか、改めて観察して、気づいてしまった。私は彼女を知っている。
「えと……麻里奈ちゃん?」
「うん、なに?」
 やっぱり、そうなのか。私が想像している通りなら、彼女の名前は八谷麻里奈やたにまりな。夏海一花の親友、すなわちゲームのキャラクターである。
(いやいや、何を考えているの私は)
 今、私を見つめている彼女は、どう見ても血の通った人間だ。ゲームのキャラクターには到底見えない。
 でも、だとしたら……この状況はなに?
 よく見れば、まわりの景色もそうだ。ゲームの中で背景として散々見てきた、さざなみ高校二年A組の教室。窓際の一番後ろにあたるこの席は、確かに夏海一花の席である。
 いたずらにしては手が込みすぎているし、夢にしてはあまりにもリアルすぎる。わけのわからない状況に、思わず目眩がする。
「おはよー夏海!あと八谷も」
 その時。聞き覚えのある声に、一瞬で全ての思考が止まった。
「ちょっと、私はついでなの?」
「ごめんごめん、そういうつもりじゃないって」
 麻里奈と声の主のやりとりも、ほとんど私の耳には入ってこない。だって、私は何度この声に救われてきただろう。クラスメイトからの嫌がらせも、両親の諍いも、嫌なことはみんな忘れさせてくれた。全てを終わりにしようと決意したあの時も、そう。辛い時、苦しい時、何かに迷う時、私が思い出すのは、いつでも彼の姿だった。
「お、おはよう……七木くん」
 声が震えないように気をつけたつもりだったけど、そんなのは無理な話だった。七木航星ななきこうせい。乙女ゲーム、ブルーメモリーズに登場するキャラクターの一人で、私の一番好きな人。
「おはよっ夏海!」
 そういって白い歯を見せて笑う七木くんは、ゲームで見た姿そのままで、だけどはっきりとした存在感を持って、私の目の前にいる。それを認識した瞬間、今まで感じていた戸惑いも疑問も、全てどうでもよくなってしまった。
 七木くんと同じ世界に行きたい、あんな世界から連れ出して欲しいと、何度願ったことだろう。
 そんなありえないはずの願いが、叶ったんだと思った。これが夢でも幻でも、もうなんだっていい。
「あっ櫂李!櫂李もおはよー!」
 そこで、ちょうど教室に入ってきた黒髪の男の子に向かって、七木くんが元気よく挨拶する。声をかけられた男の子の方は鬱陶しそうに顔を顰めた。
「七木……下の名前で呼ぶのはやめろって、いつも言ってるだろ」
「なんで?いいじゃん。ていうか櫂李も俺のこと航星って呼んでよ」
「呼ばないし、人の話を聞け!」
 櫂李と呼ばれた男の子が肩をいからせる。このやりとりには覚えがあった。プロローグである始業式の後、初めの方に起きる共通イベントだ。
 今、七木くんと話している男の子……二葉櫂李ふたばかいりも攻略対象キャラの一人であり、このイベントをきっかけに、ヒロインの一花とも徐々に関わるようになるはずだった。
「あの、二葉くんおはよう」
「…………ふん」
 私の挨拶に二葉くんは軽く鼻を鳴らしただけで、さっさと自分の席に行ってしまった。これもゲームの通り。ある程度好感度を上げないと、彼とはまともに話せない。
「いやねえ、つんつんしちゃって。挨拶くらい返してくれてもいいのにね」
「照れてるんだよ、きっと」
 七木くんが笑う。私は二葉くんの攻略ルートを見たことがないから、詳しいことは知らないけれど、七木くんのルートでときおり登場する彼は、確かに悪い人ではなかった。とはいえ、言葉尻がきついので、私は二葉くんが少し苦手だ。
 教室の前の方に座った二葉くんの背中をちらりと見る。人のまばらだった教室も、気づけばほとんどの座席が埋まっていた。他に見覚えのある顔はないだろうかと辺りを見回していると、教室にチャイムの音が鳴り響いて、それと同時に、くたびれた白衣をまとった水色髪の男の人が教室に入ってきた。
「お前ら席につけー」
 男の人の気だるそうな声を合図に、生徒達がばらばらと自分の座席に戻っていく。七木くんもいつの間にか、二葉くんの隣の席におさまっていた。
 全員が席に着いたのを確認して、男の人が満足そうに頷く。五月女先生まで出てくるなんて。いよいよ、ここはブルーメモリーズの世界なのだと、確信せざるを得なくなる。
「よーし、んじゃホームルーム始めるぞー。まず今日は……」
 教卓に頬杖をついて、だらけた姿勢のまま話し始めた彼の名前は、五月女波留矢さおとめはるや。一花達の担任であり生物の担当教師で、やはり攻略対象の一人だったはずだ。ゲームとして見ていた時は何の違和感も持たなかったけれど、こうして実際に向き合ってみると、とんでもない髪の色だな、と思う。
「ね、一花一花!」
 私がどうでもいい物思いにふけっていると、前の席の麻里奈が肩越しにこっちを振り向いて、小声で話しかけてきた。
「えっと……どうしたの?」
 ホームルームの最中に友達と内緒話なんて、むこうの世界では一度もしたことがない。どうしても緊張してしまう私に対して、麻里奈はどこまでも友好的だった。
「あのさ。前から思ってたんだけど、五月女先生って結構イケメンじゃない?」
 聞き覚えのあるその台詞にハッとした。これは、たしか選択肢だったはず。ここで麻里奈の言葉に同意すると、五月女先生の好感度があがって、彼のルートに行きやすくなる。だけど七木くん以外のルートに行ったことがない私には、ここでの答えはいつも決まっていた。
「うーん……私はあんまり好みじゃないかなあ」
 五月女先生には申し訳ないとは思うけど、これが私にとっての正解なのだから仕方ない。
「こら、お前ら黙って聞け」
 麻里奈との会話が聞こえていたのかいないのか、私の答えの直後に、すかさず五月女先生から注意される。これもゲームの通りの展開だ。
 それにしても、と、五月女先生の話も上の空で私はまた物思いにふける。
 先ほどからのやり取りは、全てゲームで経験した通りに進んでいる。だとしたら、もしかしてゲームの通りに行動していけば、ここでも七木くんのルートに行ける、つまり七木くんと恋人同士になれるんじゃないだろうか。
 心臓が跳ね上がる。七木くんと私が?そんなの何度夢に見たかわからない。それが、ここでなら叶うかもしれない。それなら。……やってみる価値はある。
 そうして私がひそかな決意を固めている間に、気づけばホームルームは終わっており、一時間目の授業が始まろうとしていた。私は慌てて机の横に掛かっていた鞄の中を確認する。幸いなことに必要な教科書などは全部そろっているらしい。見たところ、あちらの世界で私が使っていたのとなんら変わらない、平均的な高校二年生の教科書だ。ゲーム内では授業の内容なんていちいち描写されなかったけれど、これならたぶん、問題なくついていけるだろう。

 それから一日の授業が始まったものの、いつもの世界に戻ってしまったのかと錯覚するほどに、それはごく普通の内容だった。だけど、やはりここは尋常の世界ではないのだと、改めて思い知らされる出来事もあった。
 ─五月女先生以外の教師の顔が、覚えられないのだ。
 特徴がないとか影が薄いとか、そういう話じゃない。その人の顔を見ている間は、髪型から目鼻立ちまで全てしっかりと認識できるのに、ほんの一瞬目を離すと、その途端にどんな顔だったか思い出せなくなる。気になってこっそり周りを見回してみて、さらに驚いた。七木くん達数人の生徒を除いて、教室内にいる他の生徒達の顔も、まったく認識できないのだ。隣に座っている生徒のことすら、かろうじて女子であるということが分かるだけだった。これは一体、どういう現象なのだろう。授業の合間に考えてみて、一つ思い至った。
 彼らはいわゆる、モブキャラクターなのではないか。
 名前も固有の姿も持たず、ゲーム内においては背景のような扱いをされるキャラクター。ブルーメモリーズの中でも彼らは輪郭だけの、のっぺらぼうのような姿で描写されていた。だから、この世界でも顔がないのだ、彼らには。
 皮肉なものだな、と思う。個性のない背景、主役達の引き立て役にすらなれない日陰者。それはまさに、この世界に来る前の私じゃないか。
 むこうでの私は、美人でもなければ、なにかの才能があるわけでもない。何をするにも鈍臭くてパッとしない、つまらない人間だった。あちらの世界がゲームだったとしても、間違っても主人公にはなれないタイプのキャラクター。
 だけど、それがどうだろう。この世界での私は主人公、夏海一花だ。麻里奈という親友がいて、周りのかっこいい男の子達は、みんな一花のことを好きになる。誰からも愛されるヒロイン。彼女になりたいと、何度願ったかわからない。
 ……きっと、神様が死の直前に奇跡をくれたんだ。この世界で人生をやり直していいんだって。憧れのヒロイン、夏海一花として。
 この奇妙な世界を、私は驚くほどあっさりと受け入れつつあった。だって、よくよく考えてみれば不都合なことなんて何もない。元の世界に未練なんてないし、ゲームの中とはいえ、ここは馴染みのある場所だ。これからここで生きていくとして、そのことにさほど不安はない。少なくとも、教室や部屋の片隅で息を殺してやり過ごしてきた、あの日々に比べれば。
「一花っ!一緒に帰ろ!」
 明るい声に肩を叩かれ、一気に現実に引き戻される。現実?そう、今日からここが私にとっての現実になるんだ。
「うん、帰ろ!麻里奈ちゃん」
 元気よく答えて席を立つ。一花ならそうするだろうから。
 小テストが不安だとか、どこそこのケーキが美味しいだとか、そんなとりとめのない話をしながら、麻里奈と一緒に教室を出る。こんなごく普通のことが、こんなにも楽しいだなんて全然知らなかった。

 校舎を出て、そのまま敷地内の少し離れた場所にある女子寮に向かう。さざなみ高校は全寮制なのだけど、ゲームでは簡略化されたマップからボタン一つで移動できたので、詳しい場所や自分の部屋まではわからない。麻里奈と一緒で助かった。彼女と一花は同室のはずだから、このまま着いていけば大丈夫だろう。
 辿り着いた女子寮は全体がガラス張りの洗練された外観で、学校の施設というより、まるでお洒落なマンションかなにかのようだ。
「綺麗な建物だよね……」
 思わず洩らしてしまった呟きに、麻里奈が明るく笑う。
「ほんと、何回でも見とれちゃうよね。こんなところに住めてるってだけで、受験がんばった甲斐があるよー」
 そういって麻里奈が扉を開くと、すぐそこはモノクロで統一されたホールになっていて、その中央にそびえる大きな水の柱の中では、色とりどりの熱帯魚達が優雅に泳ぎ回っていた。私は思わず一花としての設定も忘れて水槽に駆け寄った。ガラスの向こうから差し込む光を反射して煌めく水の透明感。鮮やかな尾びれをドレスのように翻して舞う魚達。ただの背景として見ていた時とはまるで違う。息を呑むほどリアルで、あまりにも美しい。
「どうしたの一花、なんかおもしろいものでもあった?」
 麻里奈の不思議そうな声音に我に返る。しまった、完全に見入っていた。
「あ、えっと、綺麗だなって思って」
「んん?まあ確かに綺麗だけど、毎日見てるじゃない。いまさらそんなに夢中になるようなこと?」
 どうやら、少し不審に思われてしまったみたいだ。私にとっては目新しくても一花は既にここで一年以上生活してきているのだから、あまりはしゃいでは妙に思われるのも当然だ。
「まあいいけどさ。ほら、早く部屋に戻って明日の課題やっちゃお」
「う、うん」
 そのまま麻里奈に誘われて、二階の端にある二人部屋に向かう。中はさほど広くないけれど、綺麗に整頓されているおかげで窮屈さは感じない。
 一花のものと思われる机の上に、ぽつんとピンク色のスタンドミラーが置かれている。私は思わず、その中を覗き込んだ。ふわふわの柔らかそうな髪に、シミひとつない真っ白な肌。そこに映っていたのは、いつもの冴えない私じゃない。紛れもなく、夏海一花その人だった。
 ああ、一花はなんて可愛いんだろう。こんなに美人なら、それだけで生きることが楽しくて仕方ないだろうな。そこまで考えたところで、ふと嫌な考えが脳裏を掠めた。
 この世界の一花は、どこに行ったのだろう。
 私がこの世界で目覚める前から、一花はここに存在していた。それはさっきの麻里奈の言葉からもわかる。でも、今この身体の持ち主は、一花ではなく"私"だ。それは、つまり。私が一花を追い出してしまったということではないのか。
 一花の意識は眠っているだけなのか、どこか別の世界に行ってしまったのか……それとも、"私"と入れ替わってしまったのか。もしもそうだとしたら、今頃一花は……。
「一花?どうしたの、なんか顔色悪いよ」
「あ、ううん。なんでもないよ、大丈夫」
 慌てて誤魔化すように笑顔を取り繕う。
 やめよう。こんなこと考えたって仕方ない。だって私の意思でこの世界に来たわけじゃないんだから、本物の一花がどうなっていたって、私のせいじゃない。

 そう、だから。私は悪くないんだから……私が一花の代わりに幸せになったって、いいんだよね?
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