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夏祭りと呪いの森 後編
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「出口が、なくなって、る……?」
振り返った先には、鬱蒼と茂る木々の影と、どこまでも深い闇だけが広がっていた。そんな馬鹿な。だって、たいして奥まで進んできたわけじゃない。せいぜいが数メートル程度。いくら暗いとはいえ、すぐそこに立っていたはずの街灯の灯りすら見えなくなるなんて、絶対におかしい。
縋るように隣に視線を向けると、蒼褪めた顔で立ち尽くしている聖也の姿が、スマホの頼りない灯りの中に浮かび上がっていた。
「い、いやいや……そんなはずないよ、思ってるより奥まで来ちゃってただけだって。絶対にこっちから来たんだから、このまま真っ直ぐ戻れば、すぐ出られるよ」
言葉とは裏腹に、聖也の声はわずかに震えていた。きっと澪に、というより自分に言い聞かせているのだろう。
「中條くん……」
「だ、大丈夫だよ篠原さん。ほら、行こ」
澪を伴って聖也が暗い道を進む。だが一向に景色は変わる様子はない。
「ねえ、中條くん。なんかおかしいよ、ここ」
森とは言っても所詮は街中だし、すぐ近くには神社の本殿があって、今も祭りの人出で賑わっているはすだ。なのに、この森はどうしてこんなに深く、静寂に満ちているのだろう。まるで人里離れた山奥に迷い込んでしまったようだ。
聖也に視線を送ると、歩みを止めて険しい表情でスマホの画面を睨んでいるところだった。
「圏外になってる……」
「えっ、嘘?!」
慌てて澪も自分のスマホを取り出して確認する。たしかに、澪のスマホも圏外になっていた。これでは外の誰かに連絡することもできない。
「まいったな、なんだこれ。こんなの、まるで何かに閉じ込められた、みたいな……」
「な、何かって、何?」
聖也は答えない。当然だ、そんなことわかるはずがないのだから。
「中條くん、ねえ、どうしよう……もしかして、私達、もう帰れないんじゃ」
口に出してしまった途端、奥底に押し込めていて不安が、急速に膨れ上がっていく。夏だというのに全身に鳥肌がたった。周囲の闇が質量を持って、澪を押し潰そうとしてくるかのようだ。
だが、混乱する澪の肩に、何かがそっと優しく触れた。聖也の細い手だった。
「篠原さん、落ち着いて。こういう時は焦っちゃだめだよ。大丈夫だから」
触れた手に力を込めて、聖也が言う。暗闇のせいでその表情はよく見えないが、その声を聞いているだけで、ざわついていた心が嘘のように穏やかになっていく。ああやっぱり、この人の声には不思議な力があるんだ。それはもしかしたら、澪にしか効果がないのかもしれないが。
「大丈夫?篠原さん」
「う、うん。ごめん、ちょっと落ち着いた、と思う……」
少し冷静になると、今度は急に恥ずかしくなってきた。聖也の手は、まだ澪の肩に置かれている。澪のぎこちない様子に気づいてか、聖也がはっとして手を退けた。
「あっ……ご、ごめんね。べたべた触っちゃって……」
「ううん。別に嫌じゃないから、平気」
こんな時なのに、顔が赤くなっていくのが自分でもよく分かる。今だけは暗闇に助けられた。
「ねえ、中條くん。これからどうしたらいいと思う?」
「ん……下手に動き回らない方が良いと思うんだよね。最悪明るくなるまでここにいた方が……」
「あ、明るくなるまでって」
たしかに日が昇れば動きやすくなるだろうし、心配した家族が探しに来てくれるかもしれない。聖也の言いたいことは分かる。分かるのだが。
冷たい風が澪の頬をなでる。さっきから奇妙に思っていた。こんな森の中だというのに、自分達以外の生き物の気配が全く感じられない。鳥たちが木々を揺らす音も、虫の声すらも聞こえないのだ。
このままここで待っていたとして……果たして、本当に朝はやってくるのだろうか。
ありえないはずのその考えに、全身に寒気が走った。誤魔化すように、自分の体をかき抱く。朝が来ない?ならこの森は永遠に夜のままだとでもいうのか。そんな馬鹿馬鹿しい不安に襲われるのも、きっとこの暗闇のせいだ。聖也の言う通り、日が昇れば払拭される。そうに決まっている。
「篠原さん?」
聖也の心配そうな声が聞こえる。こんな状況なのに、聖也はずいぶん落ち着いているように見えた。澪がそういうと、聖也は少し困ったように笑った。
「いや、本当は怖いよ、こんなの。一人だったら絶対パニックになってる。けど、今は一人じゃないから」
その言葉にハッとする。そうだ、なにもこの状況を、一人でどうにかしなくてはいけない訳ではない。聖也が傍にいてくれるじゃないか。
「それに、やっぱりカッコつけたいからね」
「え?中條くん、何か言った?」
「ん、なんでもないよ」
ごまかすように、聖也がまた笑う。
「とりあえず、どこか落ち着けるところを探そう」
そういって、聖也が右手を差し出してきた。
「えっと……転ぶと危ないから、篠原さんさえ嫌じゃなければ」
もちろん嫌なはずがない。そっと聖也の手をとると、澪の手を強く握り返してくれた。初めて手を繋ぐなら、もっと甘ったるいシチュエーションが良かったけれど、贅沢は言っていられない。
手を繋いだまま、舗装されていない道を進む。こんな事になるのなら履きなれたスニーカーで来ればよかった。踵の高いサンダルでは歩き難くて仕方ない。
「……あっ」
案の定、わずかな窪みに足をとられて、躓いてしまった。慌てて、近くの木に聖也と繋がっていない方の手をやって、体を支える。
「篠原さん、大丈夫?」
反対の手で聖也も支えてくれたため、なんとか転ばずにすんだ。
「ごめん、ありがと……?!」
なんとはなしに、自分が手をついた木に目をやって……すぐにそのことを後悔した。
幹にしっかりと打ち付けられた、人型をしたもの。映画やゲームの類では、幾度となく目にしたが、実物を見るのは初めてだった。
「これ、藁人形……っ」
弾かれたように手を引っ込める。ここに入る前に、聖也から聞かされた怪談が頭をよぎった。丑の刻参りを目撃して、呪われたカップルの話。夜中、この森に入った恋人達は、一週間以内に死ぬ。まさか。今は夜中というほどの時間ではないはずだし、残念ながら澪達は恋人同士という訳でもない。こんなものはただのイタズラで、噂話はただの偶然だ。必死で自分に言い聞かせるが、あまり効果はなかった。
「な、中條くん……」
思わず、隣の聖也に取りすがる。しかし、聖也からはなんの反応も返ってこない。聖也もこの藁人形にショックを受けているのかと、様子を窺ってみたが、彼の目線はもっと遠く、森の奥の暗闇に釘付けになっていた。
「中條くん……?」
「しっ。ダメだ篠原さん、静かにして」
耳元で鋭く囁いて、澪を抱きかかえるようにしながら、聖也が木陰に身を隠す。うっかり唇が触れてしまいそうな距離だが、そのことを恥ずかしいとか照れくさいなどと考える余裕はなかった。澪の腰にまわされた聖也の手が、震えているのがわかったからだ。
尋常ではない聖也の様子に、恐ろしい予感を抱きつつも、その視線の先を追ってしまう。わからないままでいる方が怖いと思ったからだが、その考えは間違いだったかもしれない。
森の奥に、なにかいる。
誰かが助けに来てくれたのかもしれない、などという淡い希望はいっさい持てなかった。真っ白な服をまとって、体を左右に揺らしながらこちらに近づいて来るソレは、どう見てもまともな人間の動きをしていない。それに、こんな暗闇の中、ろくな明かりもないのに、ソレの姿だけがはっきりと浮かび上がって見える。そのこと自体が明らかな異常だった。
澪は咄嗟に自分の口を両手で覆った。そうしないと叫び出してしまいそうだったからだ。絶対にアレに気づかれてはいけない。直感的にそう思った。
聖也の手に、ぐっと力がこもる。視線を逸らした瞬間、すぐ近くに現れそうで、恐ろしくて堪らないのにアレから目が離せない。アレは少しずつ、少しずつ、時間をかけてこちらに近づいてくる。もはや息をすることさえ怖かった。澪のものか、聖也のものかもわからない、この破裂しそうな心臓の音が、アレに伝わってしまうのではないだろうか。嫌だ。逃げ出したい。怖い、怖い、怖いー
「……アァ…………」
金属を擦り合わせるような、ひび割れた音。それが、アレの声だと理解した瞬間、澪の理性は限界を迎えた。
悲鳴をあげようとした口を、その瞬間、なにか柔らかいものに塞がれた。パニックを起こしそうになった澪の体が、強く抱きしめられる。聖也の細い手が、澪の口を塞いでいた。
「大丈夫……大丈夫だから」
消え入りそうな声で、聖也が囁く。その声は、恐怖に震えていた。自分だって怖いに決まっているのに、必死で澪を宥めようとしている。この森に迷い込んだ時から、ずっとそうだった。
聖也の細い肩に、そっと手をまわす。その温かさに、少し安心した。大丈夫、二人なら耐えられる。
おぞましい気配はさらに近くなっていた。澪達が隠れている木陰の、すぐ脇を通ろうとしている。ここまでくると、掠れた耳障りな声も、はっきりと聞こえてしまう。ただ徘徊するだけに思えたソレは、意味のある言葉を発していた。
「…………ぁあの女ぁぁぁ……ァァ…憎い……憎い、憎い憎い憎い憎い憎い」
"あの女"というのが何者なのかは知る由もないが、普通の人間がこんなにも狂った憎しみをぶつけられて、まともでいられるのだろうか。はたで聞いているだけの澪でさえ、頭がおかしくなってしまいそうだった。
狂気じみた呪詛の言葉を吐きながら、近づいてきた時と同じように、少しずつソレは、澪達から離れていく。憎しみに塗り潰されたその目には、息を潜めて隠れる澪達の姿は見えていないようだった。
ソレが再び闇の中に消えても、しばらくの間、抱き合った姿勢のまま動けずにいた。もはや下心も羞恥心も感じる余裕はなく、ただ血の通った人間の体温に触れていたいという、その一心だった。
「な、なんだったんだ……あれ」
ようやく澪から体を離した聖也が、蒼白な顔で言う。
「生きてる人……だったのかな」
聖也に答えつつも、おそらくそうでないことは、理屈ではなく直感でわかっていた。多分、この森の中に、生き物は澪達しか存在しない。
「……どちらにしても、まともじゃない」
「そう、だね。それにあんなのがいるなら、やっぱりここに長居はできないかも」
とはいえ、どうしたら脱出できるのか、やはり見当もつかない。もはや夜が明けるまで待つなどと悠長なことも言っていられなくなった。否が応にも焦りが募る。もたもたしていたら、またアレがやってくるかもしれない。
「長居、か」
聖也が右手の時計に視線を落とし、ぼそりと呟いた。
「どうしたの?」
「さっきからおかしいと思ってたんだ。この時計、まったく時間が進んでない」
問いかける澪に、聖也が苦い顔で返す。
「止まっちゃった?」
「それならまだわかるんだ。けどそうじゃなくて、秒針は回り続けてるのに、長針と短針はずっとここに入ってきた時のままなんだ……まるで」
秒針が回る、ほんのわずかな音が、やけに大きく響いた。
「まるで、同じ時間を繰り返してるみたいに」
澪の背中を嫌な汗が伝う。
「そ、それじゃあ……」
そこから先は、口にすることができなかった。
もしもこの場所が、永遠に進まない時間の中に囚われているのなら。同じ時間を繰り返すことしか許されないのだとしたら……ただ朽ちることさえできず、いずれアレのように、暗い森を徘徊するだけの存在に成り果てるのではないか。
険しい顔で黙り込んでいた聖也が、重い口を開いた。
「ここにいるのは、僕達とさっきの化け物だけ。もし、ここから出られないのが、アイツのせいなんだとしたら……アイツをどうにか、できれば」
「どうにかって、そんなこと、できるわけ……」
ただ傍を通り過ぎて行っただけなのに、今まで感じたことのない恐怖を味わった。できることなら、アレとはもう二度と関わりたくない。まして、アレと対峙してどうにかしようだなんて、そんなことが自分にできるとは、到底思えなかった。
「そうだね、僕も無理だと思う。正直思い出しただけで、怖くて仕方ない。でも、もうこれ以外には、なにも……」
聖也が唇を噛む。わかっている、ここは明らかに異常だ。このまま何もしないでいたら、どのみちきっと、二度と帰れはしない。だったら、思いつくことは何でもやってみるべきなんだろう。
だけど、頭ではわかっていても、そんな理屈なんて、アレの前ではきっと一瞬で掻き消えるに違いない。
「し、篠原さん!後ろ!」
ふと、こちらに視線を向けた聖也が突然、悲鳴のような声をあげた。驚いて振り向いた澪のすぐ傍を、枯れ枝のような指が掠める。黒く変色した爪に引っ掻かれた頬に、鋭い痛みが走った。
「……ぁ……な、んで……」
ついさっきまで、なんの気配も感じなかったのに。振り向いた先には、あの化け物が、こちらに腕を伸ばす格好で佇んでいた。人間の女性のような姿をしたソレは、負の感情に侵され、醜く歪んだ表情で澪を見据えている。鬼のような形相とはよく言うが、それはまさに、この女のことを指すのだろう。
「見つ、けた……見つけた、見つけた、みつけた、ミツケタミツケタミツケタミツケタ」
歪んだ顔をさらに歪ませて、女が身を捩りながら、けたたましい声をあげる。いやに冷静な思考の片隅で、気がついた。ああ、この女は笑っているのだ。探し続けた獲物を見つけたという、喜びで。
壊れたようにガタガタと体を震わせながら、女が澪を捕らえようと、さらに手を伸ばす。血の通っていない指の先が、ひどくゆっくりと近づいてくる。逃げろ、と頭の奥で警報が鳴り響くのに、体は凍りついたように、指一本動かせなかった。
女の手が、澪に触れようとしたその瞬間、後ろから強く腕を引かれた。
「篠原さん!走って!」
そういって、澪が答える前に強引に腕を掴んだまま、聖也が走り出した。一瞬で我に返った澪も、躓きながら必死で聖也の後に続く。剥き出しの腕や足を木の枝に打たれても、それを気にする余裕はなかった。
女が追ってきてはいないかと、走りながら後ろを振り向く。木々の隙間から、体を真横に折るようにして、ゲタゲタと笑う女の姿がわずかに見えた。そのあまりの異様さに、背筋が冷える。
「振り返っちゃダメだ!」
聖也の声にハッとして、前に向き直る。そうだ、今は少しでもあの女から離れないと。
「……っ中條くん!前!」
聖也がぎくりと動きを止める。二人が逃げようとしていた先に、白い影があった。ぎょっとして再び振り返った。いない。ほんの一瞬目を離しただけなのに。
澪を背後に庇うようにしながら、聖也が後ずさる。女は動かない。先程までの狂態は鳴りを潜め、感情の抜け落ちた虚ろな目で、こちらを見つめていた。
心臓が早鐘を打つ。逃げられない。この森は女のテリトリーなのだ。この女は、何処に行っても必ず追いついてくる。
女が一歩、こちらに近づいてくる。体を左右に揺らしながら。
「し、のはらさん……先に、行って」
また、女が近づいてくる。澪は聖也の言葉に耳を疑った。
「何、言ってるの……?」
「このまま一緒にいたら、二人とも捕まるだけだから……だから、行って」
女がさらに近づいてくる。もう手を伸ばせば届いてしまう距離だ。聖也の表情は窺えない。
「中條くんを置いていけってこと?そんなのできるわけないよ!それに行くところなんて……」
澪が言い終わる前に、女の手が聖也のシャツの襟を掴んだ。
「中條くん!」
咄嗟に引き剥がそうと伸ばした澪の手を振りほどいて、聖也が後ろ手に澪を突き飛ばした。
「……っ」
地面に尻もちをついた澪を振り返って、聖也が叫んだ。
「無茶なのは分かってる!だけどお願いだ、ここから出る方法を探して……っ」
「──────────ッ」
聖也の声をかき消すように、女が狂った金切り声声をあげた。
「裏切り、者……ゆるさない、ユルサナイユルサナイ……タクヤ……」
「っ離せ!」
女の手を振り払った聖也が、澪が座り込んでいる場所とは反対方向に駆け出した。女も、もはや澪には目もくれず、聖也の後を追って森の奥へ消えていく。
残された澪は、混乱する頭の中で必死に思考を巡らせていた。澪がなんとかしないと、聖也の身が危ない。だけど、どうする。澪に何ができる?考えるんだ、なんだっていい。
「あの女の人……誰かの名前を、呼んでた」
タクヤ、と確かにそう聞こえた。その人物と聖也を間違えているのか。だけどさっきは"あの女"と言っていたのに。なんだろう、何かが引っかかる。
聖也に聞かされた、この森の怪談話をまた思い出す。今ならわかる。あれはきっと、本当にあった話なのだろう。たぶん、あの女があんな化け物になってしまう前、きっかけとなった出来事。
あの女の呪いの相手は"女"と"タクヤ"、男女二人……だから澪と聖也は、その二人の代わりに追われているのか。
「だったら……私達は違うんだって、気づかせれば、もう追ってこない……?」
あの女が呪おうとしていた相手、それを示すもの……そうだ、澪も見ているはずだ。
「あの、藁人形……!」
あの藁人形は、どこにあった?まだそんなに離れてはいないはず。
「探さなきゃ……」
膝に手をついて立ち上がる。買ったばかりの服も靴も、泥だらけになってしまっていたが、今はそんなことを気にしていられない。
目印として、ライトをつけたままのスマホを地面に置いた。この森の中で、物理的な距離や視覚がどれだけ意味を成すかは分からないが、何もないよりは安心できる。
明かりに背を向けて、澪は自分達がやって来た方、つまり、最初にあの女と遭遇した場所に駆け戻った。本当にこれでいいのか、確証は何もない。だけど、迷うほどの時間は残されていないのだ。
焦る気持ちを抑えながら、目線の高さの木を一つ一つ確認していく。見渡す限り、周囲は似たような景色ばかり。もし見落としてしまっていたら?考えたって仕方ないのに、焦燥でじりじりと心が焼かれるようだ。澪がこうしている間にも、聖也が無事でいる保証なんてないのに。
ふいに涙が滲んだ。ここから出られないかもしれない、ということよりも、今は聖也が隣にいないことの方が怖かった。このまま二度と会えなかったらどうしよう。こんなはずじゃなかったのに。今日は、初めて二人っきりで遊びに出かけて、おそろいのストラップをプレゼントしてもらって。本当なら今頃は家に帰って、詩穂と通話しながら、そんな他愛もない話を聞いてもらうつもりだった。
「だめ……泣いてる場合じゃない」
涙が零れないように、ぐっと目を閉じる。泣くのは無事に出られてからでいい。
その時、風のそよぐ音すら聞こえなかったはずの周囲から、草を揺らすような微かな音が聞こえてきた。
一瞬あの女がここまで来てしまったのかと身構えたが、そんな様子はない。注意深く辺りを見回して、すぐに異変に気がついた。
「嘘、なんでこんな所に……」
澪の足元の草むらに、ぽつんと転がっているそれは、確かにさっき見かけた藁人形だった。太い釘で深々と木の幹に打ち付けられていたはずなのに、自然と落ちてくるなんて有り得るのだろうか。しかも、澪が探しにきたこのタイミングで?
……いや、そんなことは今はどうでもいい。とにかく、これを持って戻らなくては。
片手に余るほどの大きさのそれを持って、再び走り出す。残してきた明かりに向けて。
同じ場所には帰ってこられないのではないかと、道中不安になったが、幸いにもスマホのライトは、遠くからでもすぐに分かった。問題は、聖也とあの女がどこまで行ってしまったのかと言うことだ。もし聖也がどこかに隠れているのなら、迂闊に大声を出せば危険に晒してしまうかもしれない。
だがそんな心配は不要だった。澪からそう遠くない場所で、静寂を破るように、何かが争い合う音が聞こえてきた。何者か、なんて考えるまでもない。
「中條くん!」
争っているということは、まだ聖也は無事でいるはずだ。だけど一刻の猶予もない。藁人形を胸に抱き締めて、薮を掻き分けながら必死で音のする方に走った。
「中條くん!中條くん、返事して!」
「篠原さん!……うわっ」
何かが倒れるような物音と共に、聞き覚えのある声が確かに聞こえた。直後、わずかに開けた場所に出た瞬間、恐ろしい光景が目に飛び込んできた。
地面に倒れた聖也の上に女が馬乗りになって、その細い首を締め上げている。
あれほど感じていた恐ろしさは、一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。ボロきれのような服に包まれた女の肩を掴んで、強引にこちらに注意を向けさせる。触れた肩は、ぞっとするほど冷たく、女が血の通った人間でないことを、まざまざと実感させられた。
蝿でも追うような鬱陶しげな動作で、女がこちらを見た。濁りきった虚ろな目に、思わず怯みそうになるが、ここで引くわけにはいかない。
「あ、あなたが憎いのはこの人なんでしょう?私達は関係ない、だからいい加減解放してよ!……お願い……っ」
震える手で藁人形を女の眼前に突きつける。その途端、女の目に暗い光が宿ったのが、はっきりと分かった。
「ぁ……ああ……」
澪を突き飛ばすようにして、女が藁人形を毟りとった。視界の端に、首を抑えて咳き込む聖也が見える。
「中條くん!大丈夫?!」
「な、なんとか……篠原さん、ほんとに戻ってきてくれたんだね」
聖也に手を貸して、ふらつきながらも、どうにか二人で立ち上がる。
「当たり前でしょ、約束したもん……無事で良かった」
「そう、だね……ありがとう」
そういって聖也が女にちらりと視線を向ける。女は藁人形が潰れるほど強く握りしめ、地面に這い蹲るような姿勢で、ぶつぶつと何事か呟いていた。もう澪達のことなど見えていないようだ。
「篠原さん、今のうちに早く行こう」
澪の手を引いて、聖也が小声で囁いた。小さく頷いて、澪もその手を握り返す。
足早にその場を後にする。辺りの変化には、すぐに気がついた。
「中條くん、明かりが!」
「本当だ……行こう」
あれほど探しても見つからなかった明かりと人の気配が、すぐ近くに感じられる。解放されたのだ、あの女から。
外には、呆気ないほどあっさりと出られた。入ってきたのとは反対側、神社の境内の方に面した出入り口だったようで、周囲には屋台が並び、夜でも眩しいほどの明かりの中で、人々の喧騒が満ちている。
「で、出られたの……?」
あまりにも簡単に返ってきた日常に、先程までの出来事は全て夢だったのかと疑いたくなる。しかし自分の格好を見下ろして見れば、おろしたての服は泥まみれで、腕や足には細かい切り傷がいくつもできていた。おそらく髪や顔も酷い有り様だろう。このまま帰ったとして、両親にどう言い訳したものか。
「そう、みたいだね。見て、時計も普通に動くようになってる」
同じようにボロボロの格好になった聖也に言われて見れば、同じ時間を指し続けていた時計の長針は数分先に進んで、ごく普通の時間を刻んでいた。何時間も彷徨っていたような気がするが、周りの様子からしても、ほとんど時間は経っていないようだ。
「ちょっと、貴方達何をしているんですか!そこは立ち入り禁止ですよ!」
突然横から飛んできた鋭い声に驚いて、二人そろってビクッと肩を震わせた。振り向いて見ると訝しげな表情の男性がこちらを睨んでいる。服装からして、この神社の神主らしい。
「あ、ごめんなさい、えっと……道に迷ってしまって」
「道に?迷うような場所じゃないでしょう。まったく、これだから最近の若い人は」
なにも嘘はついていないのだが、まあ確かに、普通ならこんな街中で遭難しかけるなんて有り得ない話だ。神主の男性に追い立てられるようにして、神社を後にする。薄汚れた格好で境内に突っ立っていた男女を、彼はなんだと思っただろう。
帰り道、途中で見かけたコンビニのトイレに立ち寄って、体についた泥を拭いて髪を整え直した。服の汚れまではどうしようもないが、これでも少しはマシになったと思う。
ついでに買い込んだペットボトルのお茶に口をつけながら、聖也と二人、夜のコンビニの駐車場で息をついた。さっきまでは気にしていられなかったが、ずいぶん喉が乾いていたことを自覚する。
「はあ……なんか、酷い目にあったよね」
「うん。だけど、二人とも無事で良かった」
「まあそれはそうだけど。でも、篠原さんなんて泥だらけじゃない。せっかく可愛い格好してたのに」
「え」
可愛い?今可愛いって言った……?いやいや、今のは服を褒められただけだから、あんまり調子に乗っちゃいけない。だけど、そっか。そんなふうに思ってくれていたんだ。
「そういえば、あの藁人形は結局なんだったの?篠原さん、よく見つけたね」
「あ、うん。私にもよく分からないんだけど、何か手がかりがないかって、探し回ってたら目の前に落ちてきたの。不思議だよね」
「そっか……」
聖也が足元に視線をおとして、ぽつりと呟いた。
「神様が助けてくれたのかもね」
「神様?」
「そう。最初にお参りしたでしょ?そのご利益かも」
冗談なのか本気なのか、ややおどけたように聖也が言う。
「それは……そんなことができるんだったら、あの女の人を、どうにかしてあげられないのかな。あの人は神社のあんな近くで、ずっと彷徨ってるってことでしょ?」
だいたい、運悪くストラップが外れたりしなければ、あんな恐ろしい場所に迷い込むこともなかったのだ。ご利益というには、あまりにもマイナス分が大きい。
「きっと神様だって何でもできるわけじゃないんだよ。だから外国と違って、日本の神様はたくさん居るんじゃない?」
「そういうものなのかな……」
「たぶんね。さあ、遅くなる前に帰ろう。今度こそ、ちゃんと送っていくよ」
当たり前のように差し伸ばされた聖也の手をとる。まあ確かに、こうして手を繋げるようになったのは、神様のご利益なのかもしれないな、なんて呑気なことを考えられるのは、こうして無事でいられるからこそなんだろう。
空になったペットボトルをゴミ箱に放り込んで、家路につく。あの女は、今も独りで彷徨い続けているのだろうか。尽きることのない憎しみを抱いたまま、暗闇の中で。
*
『それで?初デートはどうだったわけ』
その日の深夜、自室のベッドに潜り込んだところで、詩穂から電話がかかってきた。その第一声がこれである。
「うーん……まあ、普通だったよ」
実際はいろんな意味で一生忘れられない日になってしまったが、さすがに正直に全て話す気にはなれなかった。ちなみに、泥だらけの服について、案の定母親にかなり問い詰められたものの、「慣れない靴のせいで転んだ」という言い訳で、一応の納得は得られた。代わりに"鈍臭い娘"という烙印を押されてしまったが。
『なに?なんか歯切れ悪いね。さては、言えないような事でもしたの?意外とやるわねーアンタら』
「ないない。詩穂が考えてるようなことなんて、何もないよ。ていうか付き合ってもないのに、そんなことあるわけないでしょ」
訳の分からない場所に迷い込んで、女の化け物に追い回されたことなんて、想像できるわけがない。澪だって、自分で体験したことなのに、未だに現実だったのかどうか分からないんだから。
『なんだ、つまんないの。まあそうだよねーそんなことするくらいだったら、お友達から始めましょうとか言うわけないもんね』
詩穂は勝手に納得したらしい。なんだかずっと、澪より詩穂の方が楽しそうだ。
『まあそんなことだろうと思ってたけど。これは第二弾企画も用意しといて正解だったわね。うちのバイト先で、遊園地のスタッフと掛け持ちしてる人がいてさ、その人に頼んでチケット二枚譲ってもらえることになってんの』
「ちょ、ちょっと待って。なんで詩穂は、そんなに乗り気なの」
『そんなの面白い……応援したいからに決まってんじゃん。その遊園地ってお化け屋敷が超怖いので有名なの。そこなら吊り橋効果ってやつで、一気に距離が縮まること間違いなしでしょ。どう?アンタら二人で行ってみない?』
今、面白いとか聞こえたような気がするんだけど。
「それは……気持ちはありがたいんだけど、ちょっと……」
ついさっき、とんでもなくリアルなお化け屋敷を経験してきたようなものだ。当分怖い思いはしたくない。
『えー、なんでよ。別に澪は怖いのダメじゃないでしょ?』
「そうだけど、今はちょっと苦手になったっていうか……」
『そうなの?しょーがないなあ、じゃあこれは彼氏と行くか……』
「えっ?ちょっと待って、詩穂彼氏できたの?!」
他愛もない話をしながら、夜は更ける。あれほどまでに求めていた当たり前の日常は、帰ってしまえば、ごく普通に流れ過ぎていく。だけど澪は知ってしまった。日常のすぐ隣に、恐ろしい世界が潜んでいることを。あの女だって、元はきっと、こちら側の世界の人間だったのだろう。彼女にもきっと大切な人がいて、その思いの大きさが裏返って、あんなにも巨大な憎しみに変わってしまった。
……澪は、変わらずにいられるだろうか。詩穂や聖也、自分が大切だと思う人達を失ったり、裏切られたりすることがあったとして、自分を見失わずにいられるのだろうか。わからない。きっと、彼女と澪に大きな違いなんてないのだろう。
だけど澪の傍にはまだ、大切な人達がいる。
詩穂と通話を繋げたまま、気がつけばお互い眠りに落ちていた。きっと今夜は大切な人達の夢を見る。
澪をこの世界に繋ぎ止めてくれる人達の夢を。
振り返った先には、鬱蒼と茂る木々の影と、どこまでも深い闇だけが広がっていた。そんな馬鹿な。だって、たいして奥まで進んできたわけじゃない。せいぜいが数メートル程度。いくら暗いとはいえ、すぐそこに立っていたはずの街灯の灯りすら見えなくなるなんて、絶対におかしい。
縋るように隣に視線を向けると、蒼褪めた顔で立ち尽くしている聖也の姿が、スマホの頼りない灯りの中に浮かび上がっていた。
「い、いやいや……そんなはずないよ、思ってるより奥まで来ちゃってただけだって。絶対にこっちから来たんだから、このまま真っ直ぐ戻れば、すぐ出られるよ」
言葉とは裏腹に、聖也の声はわずかに震えていた。きっと澪に、というより自分に言い聞かせているのだろう。
「中條くん……」
「だ、大丈夫だよ篠原さん。ほら、行こ」
澪を伴って聖也が暗い道を進む。だが一向に景色は変わる様子はない。
「ねえ、中條くん。なんかおかしいよ、ここ」
森とは言っても所詮は街中だし、すぐ近くには神社の本殿があって、今も祭りの人出で賑わっているはすだ。なのに、この森はどうしてこんなに深く、静寂に満ちているのだろう。まるで人里離れた山奥に迷い込んでしまったようだ。
聖也に視線を送ると、歩みを止めて険しい表情でスマホの画面を睨んでいるところだった。
「圏外になってる……」
「えっ、嘘?!」
慌てて澪も自分のスマホを取り出して確認する。たしかに、澪のスマホも圏外になっていた。これでは外の誰かに連絡することもできない。
「まいったな、なんだこれ。こんなの、まるで何かに閉じ込められた、みたいな……」
「な、何かって、何?」
聖也は答えない。当然だ、そんなことわかるはずがないのだから。
「中條くん、ねえ、どうしよう……もしかして、私達、もう帰れないんじゃ」
口に出してしまった途端、奥底に押し込めていて不安が、急速に膨れ上がっていく。夏だというのに全身に鳥肌がたった。周囲の闇が質量を持って、澪を押し潰そうとしてくるかのようだ。
だが、混乱する澪の肩に、何かがそっと優しく触れた。聖也の細い手だった。
「篠原さん、落ち着いて。こういう時は焦っちゃだめだよ。大丈夫だから」
触れた手に力を込めて、聖也が言う。暗闇のせいでその表情はよく見えないが、その声を聞いているだけで、ざわついていた心が嘘のように穏やかになっていく。ああやっぱり、この人の声には不思議な力があるんだ。それはもしかしたら、澪にしか効果がないのかもしれないが。
「大丈夫?篠原さん」
「う、うん。ごめん、ちょっと落ち着いた、と思う……」
少し冷静になると、今度は急に恥ずかしくなってきた。聖也の手は、まだ澪の肩に置かれている。澪のぎこちない様子に気づいてか、聖也がはっとして手を退けた。
「あっ……ご、ごめんね。べたべた触っちゃって……」
「ううん。別に嫌じゃないから、平気」
こんな時なのに、顔が赤くなっていくのが自分でもよく分かる。今だけは暗闇に助けられた。
「ねえ、中條くん。これからどうしたらいいと思う?」
「ん……下手に動き回らない方が良いと思うんだよね。最悪明るくなるまでここにいた方が……」
「あ、明るくなるまでって」
たしかに日が昇れば動きやすくなるだろうし、心配した家族が探しに来てくれるかもしれない。聖也の言いたいことは分かる。分かるのだが。
冷たい風が澪の頬をなでる。さっきから奇妙に思っていた。こんな森の中だというのに、自分達以外の生き物の気配が全く感じられない。鳥たちが木々を揺らす音も、虫の声すらも聞こえないのだ。
このままここで待っていたとして……果たして、本当に朝はやってくるのだろうか。
ありえないはずのその考えに、全身に寒気が走った。誤魔化すように、自分の体をかき抱く。朝が来ない?ならこの森は永遠に夜のままだとでもいうのか。そんな馬鹿馬鹿しい不安に襲われるのも、きっとこの暗闇のせいだ。聖也の言う通り、日が昇れば払拭される。そうに決まっている。
「篠原さん?」
聖也の心配そうな声が聞こえる。こんな状況なのに、聖也はずいぶん落ち着いているように見えた。澪がそういうと、聖也は少し困ったように笑った。
「いや、本当は怖いよ、こんなの。一人だったら絶対パニックになってる。けど、今は一人じゃないから」
その言葉にハッとする。そうだ、なにもこの状況を、一人でどうにかしなくてはいけない訳ではない。聖也が傍にいてくれるじゃないか。
「それに、やっぱりカッコつけたいからね」
「え?中條くん、何か言った?」
「ん、なんでもないよ」
ごまかすように、聖也がまた笑う。
「とりあえず、どこか落ち着けるところを探そう」
そういって、聖也が右手を差し出してきた。
「えっと……転ぶと危ないから、篠原さんさえ嫌じゃなければ」
もちろん嫌なはずがない。そっと聖也の手をとると、澪の手を強く握り返してくれた。初めて手を繋ぐなら、もっと甘ったるいシチュエーションが良かったけれど、贅沢は言っていられない。
手を繋いだまま、舗装されていない道を進む。こんな事になるのなら履きなれたスニーカーで来ればよかった。踵の高いサンダルでは歩き難くて仕方ない。
「……あっ」
案の定、わずかな窪みに足をとられて、躓いてしまった。慌てて、近くの木に聖也と繋がっていない方の手をやって、体を支える。
「篠原さん、大丈夫?」
反対の手で聖也も支えてくれたため、なんとか転ばずにすんだ。
「ごめん、ありがと……?!」
なんとはなしに、自分が手をついた木に目をやって……すぐにそのことを後悔した。
幹にしっかりと打ち付けられた、人型をしたもの。映画やゲームの類では、幾度となく目にしたが、実物を見るのは初めてだった。
「これ、藁人形……っ」
弾かれたように手を引っ込める。ここに入る前に、聖也から聞かされた怪談が頭をよぎった。丑の刻参りを目撃して、呪われたカップルの話。夜中、この森に入った恋人達は、一週間以内に死ぬ。まさか。今は夜中というほどの時間ではないはずだし、残念ながら澪達は恋人同士という訳でもない。こんなものはただのイタズラで、噂話はただの偶然だ。必死で自分に言い聞かせるが、あまり効果はなかった。
「な、中條くん……」
思わず、隣の聖也に取りすがる。しかし、聖也からはなんの反応も返ってこない。聖也もこの藁人形にショックを受けているのかと、様子を窺ってみたが、彼の目線はもっと遠く、森の奥の暗闇に釘付けになっていた。
「中條くん……?」
「しっ。ダメだ篠原さん、静かにして」
耳元で鋭く囁いて、澪を抱きかかえるようにしながら、聖也が木陰に身を隠す。うっかり唇が触れてしまいそうな距離だが、そのことを恥ずかしいとか照れくさいなどと考える余裕はなかった。澪の腰にまわされた聖也の手が、震えているのがわかったからだ。
尋常ではない聖也の様子に、恐ろしい予感を抱きつつも、その視線の先を追ってしまう。わからないままでいる方が怖いと思ったからだが、その考えは間違いだったかもしれない。
森の奥に、なにかいる。
誰かが助けに来てくれたのかもしれない、などという淡い希望はいっさい持てなかった。真っ白な服をまとって、体を左右に揺らしながらこちらに近づいて来るソレは、どう見てもまともな人間の動きをしていない。それに、こんな暗闇の中、ろくな明かりもないのに、ソレの姿だけがはっきりと浮かび上がって見える。そのこと自体が明らかな異常だった。
澪は咄嗟に自分の口を両手で覆った。そうしないと叫び出してしまいそうだったからだ。絶対にアレに気づかれてはいけない。直感的にそう思った。
聖也の手に、ぐっと力がこもる。視線を逸らした瞬間、すぐ近くに現れそうで、恐ろしくて堪らないのにアレから目が離せない。アレは少しずつ、少しずつ、時間をかけてこちらに近づいてくる。もはや息をすることさえ怖かった。澪のものか、聖也のものかもわからない、この破裂しそうな心臓の音が、アレに伝わってしまうのではないだろうか。嫌だ。逃げ出したい。怖い、怖い、怖いー
「……アァ…………」
金属を擦り合わせるような、ひび割れた音。それが、アレの声だと理解した瞬間、澪の理性は限界を迎えた。
悲鳴をあげようとした口を、その瞬間、なにか柔らかいものに塞がれた。パニックを起こしそうになった澪の体が、強く抱きしめられる。聖也の細い手が、澪の口を塞いでいた。
「大丈夫……大丈夫だから」
消え入りそうな声で、聖也が囁く。その声は、恐怖に震えていた。自分だって怖いに決まっているのに、必死で澪を宥めようとしている。この森に迷い込んだ時から、ずっとそうだった。
聖也の細い肩に、そっと手をまわす。その温かさに、少し安心した。大丈夫、二人なら耐えられる。
おぞましい気配はさらに近くなっていた。澪達が隠れている木陰の、すぐ脇を通ろうとしている。ここまでくると、掠れた耳障りな声も、はっきりと聞こえてしまう。ただ徘徊するだけに思えたソレは、意味のある言葉を発していた。
「…………ぁあの女ぁぁぁ……ァァ…憎い……憎い、憎い憎い憎い憎い憎い」
"あの女"というのが何者なのかは知る由もないが、普通の人間がこんなにも狂った憎しみをぶつけられて、まともでいられるのだろうか。はたで聞いているだけの澪でさえ、頭がおかしくなってしまいそうだった。
狂気じみた呪詛の言葉を吐きながら、近づいてきた時と同じように、少しずつソレは、澪達から離れていく。憎しみに塗り潰されたその目には、息を潜めて隠れる澪達の姿は見えていないようだった。
ソレが再び闇の中に消えても、しばらくの間、抱き合った姿勢のまま動けずにいた。もはや下心も羞恥心も感じる余裕はなく、ただ血の通った人間の体温に触れていたいという、その一心だった。
「な、なんだったんだ……あれ」
ようやく澪から体を離した聖也が、蒼白な顔で言う。
「生きてる人……だったのかな」
聖也に答えつつも、おそらくそうでないことは、理屈ではなく直感でわかっていた。多分、この森の中に、生き物は澪達しか存在しない。
「……どちらにしても、まともじゃない」
「そう、だね。それにあんなのがいるなら、やっぱりここに長居はできないかも」
とはいえ、どうしたら脱出できるのか、やはり見当もつかない。もはや夜が明けるまで待つなどと悠長なことも言っていられなくなった。否が応にも焦りが募る。もたもたしていたら、またアレがやってくるかもしれない。
「長居、か」
聖也が右手の時計に視線を落とし、ぼそりと呟いた。
「どうしたの?」
「さっきからおかしいと思ってたんだ。この時計、まったく時間が進んでない」
問いかける澪に、聖也が苦い顔で返す。
「止まっちゃった?」
「それならまだわかるんだ。けどそうじゃなくて、秒針は回り続けてるのに、長針と短針はずっとここに入ってきた時のままなんだ……まるで」
秒針が回る、ほんのわずかな音が、やけに大きく響いた。
「まるで、同じ時間を繰り返してるみたいに」
澪の背中を嫌な汗が伝う。
「そ、それじゃあ……」
そこから先は、口にすることができなかった。
もしもこの場所が、永遠に進まない時間の中に囚われているのなら。同じ時間を繰り返すことしか許されないのだとしたら……ただ朽ちることさえできず、いずれアレのように、暗い森を徘徊するだけの存在に成り果てるのではないか。
険しい顔で黙り込んでいた聖也が、重い口を開いた。
「ここにいるのは、僕達とさっきの化け物だけ。もし、ここから出られないのが、アイツのせいなんだとしたら……アイツをどうにか、できれば」
「どうにかって、そんなこと、できるわけ……」
ただ傍を通り過ぎて行っただけなのに、今まで感じたことのない恐怖を味わった。できることなら、アレとはもう二度と関わりたくない。まして、アレと対峙してどうにかしようだなんて、そんなことが自分にできるとは、到底思えなかった。
「そうだね、僕も無理だと思う。正直思い出しただけで、怖くて仕方ない。でも、もうこれ以外には、なにも……」
聖也が唇を噛む。わかっている、ここは明らかに異常だ。このまま何もしないでいたら、どのみちきっと、二度と帰れはしない。だったら、思いつくことは何でもやってみるべきなんだろう。
だけど、頭ではわかっていても、そんな理屈なんて、アレの前ではきっと一瞬で掻き消えるに違いない。
「し、篠原さん!後ろ!」
ふと、こちらに視線を向けた聖也が突然、悲鳴のような声をあげた。驚いて振り向いた澪のすぐ傍を、枯れ枝のような指が掠める。黒く変色した爪に引っ掻かれた頬に、鋭い痛みが走った。
「……ぁ……な、んで……」
ついさっきまで、なんの気配も感じなかったのに。振り向いた先には、あの化け物が、こちらに腕を伸ばす格好で佇んでいた。人間の女性のような姿をしたソレは、負の感情に侵され、醜く歪んだ表情で澪を見据えている。鬼のような形相とはよく言うが、それはまさに、この女のことを指すのだろう。
「見つ、けた……見つけた、見つけた、みつけた、ミツケタミツケタミツケタミツケタ」
歪んだ顔をさらに歪ませて、女が身を捩りながら、けたたましい声をあげる。いやに冷静な思考の片隅で、気がついた。ああ、この女は笑っているのだ。探し続けた獲物を見つけたという、喜びで。
壊れたようにガタガタと体を震わせながら、女が澪を捕らえようと、さらに手を伸ばす。血の通っていない指の先が、ひどくゆっくりと近づいてくる。逃げろ、と頭の奥で警報が鳴り響くのに、体は凍りついたように、指一本動かせなかった。
女の手が、澪に触れようとしたその瞬間、後ろから強く腕を引かれた。
「篠原さん!走って!」
そういって、澪が答える前に強引に腕を掴んだまま、聖也が走り出した。一瞬で我に返った澪も、躓きながら必死で聖也の後に続く。剥き出しの腕や足を木の枝に打たれても、それを気にする余裕はなかった。
女が追ってきてはいないかと、走りながら後ろを振り向く。木々の隙間から、体を真横に折るようにして、ゲタゲタと笑う女の姿がわずかに見えた。そのあまりの異様さに、背筋が冷える。
「振り返っちゃダメだ!」
聖也の声にハッとして、前に向き直る。そうだ、今は少しでもあの女から離れないと。
「……っ中條くん!前!」
聖也がぎくりと動きを止める。二人が逃げようとしていた先に、白い影があった。ぎょっとして再び振り返った。いない。ほんの一瞬目を離しただけなのに。
澪を背後に庇うようにしながら、聖也が後ずさる。女は動かない。先程までの狂態は鳴りを潜め、感情の抜け落ちた虚ろな目で、こちらを見つめていた。
心臓が早鐘を打つ。逃げられない。この森は女のテリトリーなのだ。この女は、何処に行っても必ず追いついてくる。
女が一歩、こちらに近づいてくる。体を左右に揺らしながら。
「し、のはらさん……先に、行って」
また、女が近づいてくる。澪は聖也の言葉に耳を疑った。
「何、言ってるの……?」
「このまま一緒にいたら、二人とも捕まるだけだから……だから、行って」
女がさらに近づいてくる。もう手を伸ばせば届いてしまう距離だ。聖也の表情は窺えない。
「中條くんを置いていけってこと?そんなのできるわけないよ!それに行くところなんて……」
澪が言い終わる前に、女の手が聖也のシャツの襟を掴んだ。
「中條くん!」
咄嗟に引き剥がそうと伸ばした澪の手を振りほどいて、聖也が後ろ手に澪を突き飛ばした。
「……っ」
地面に尻もちをついた澪を振り返って、聖也が叫んだ。
「無茶なのは分かってる!だけどお願いだ、ここから出る方法を探して……っ」
「──────────ッ」
聖也の声をかき消すように、女が狂った金切り声声をあげた。
「裏切り、者……ゆるさない、ユルサナイユルサナイ……タクヤ……」
「っ離せ!」
女の手を振り払った聖也が、澪が座り込んでいる場所とは反対方向に駆け出した。女も、もはや澪には目もくれず、聖也の後を追って森の奥へ消えていく。
残された澪は、混乱する頭の中で必死に思考を巡らせていた。澪がなんとかしないと、聖也の身が危ない。だけど、どうする。澪に何ができる?考えるんだ、なんだっていい。
「あの女の人……誰かの名前を、呼んでた」
タクヤ、と確かにそう聞こえた。その人物と聖也を間違えているのか。だけどさっきは"あの女"と言っていたのに。なんだろう、何かが引っかかる。
聖也に聞かされた、この森の怪談話をまた思い出す。今ならわかる。あれはきっと、本当にあった話なのだろう。たぶん、あの女があんな化け物になってしまう前、きっかけとなった出来事。
あの女の呪いの相手は"女"と"タクヤ"、男女二人……だから澪と聖也は、その二人の代わりに追われているのか。
「だったら……私達は違うんだって、気づかせれば、もう追ってこない……?」
あの女が呪おうとしていた相手、それを示すもの……そうだ、澪も見ているはずだ。
「あの、藁人形……!」
あの藁人形は、どこにあった?まだそんなに離れてはいないはず。
「探さなきゃ……」
膝に手をついて立ち上がる。買ったばかりの服も靴も、泥だらけになってしまっていたが、今はそんなことを気にしていられない。
目印として、ライトをつけたままのスマホを地面に置いた。この森の中で、物理的な距離や視覚がどれだけ意味を成すかは分からないが、何もないよりは安心できる。
明かりに背を向けて、澪は自分達がやって来た方、つまり、最初にあの女と遭遇した場所に駆け戻った。本当にこれでいいのか、確証は何もない。だけど、迷うほどの時間は残されていないのだ。
焦る気持ちを抑えながら、目線の高さの木を一つ一つ確認していく。見渡す限り、周囲は似たような景色ばかり。もし見落としてしまっていたら?考えたって仕方ないのに、焦燥でじりじりと心が焼かれるようだ。澪がこうしている間にも、聖也が無事でいる保証なんてないのに。
ふいに涙が滲んだ。ここから出られないかもしれない、ということよりも、今は聖也が隣にいないことの方が怖かった。このまま二度と会えなかったらどうしよう。こんなはずじゃなかったのに。今日は、初めて二人っきりで遊びに出かけて、おそろいのストラップをプレゼントしてもらって。本当なら今頃は家に帰って、詩穂と通話しながら、そんな他愛もない話を聞いてもらうつもりだった。
「だめ……泣いてる場合じゃない」
涙が零れないように、ぐっと目を閉じる。泣くのは無事に出られてからでいい。
その時、風のそよぐ音すら聞こえなかったはずの周囲から、草を揺らすような微かな音が聞こえてきた。
一瞬あの女がここまで来てしまったのかと身構えたが、そんな様子はない。注意深く辺りを見回して、すぐに異変に気がついた。
「嘘、なんでこんな所に……」
澪の足元の草むらに、ぽつんと転がっているそれは、確かにさっき見かけた藁人形だった。太い釘で深々と木の幹に打ち付けられていたはずなのに、自然と落ちてくるなんて有り得るのだろうか。しかも、澪が探しにきたこのタイミングで?
……いや、そんなことは今はどうでもいい。とにかく、これを持って戻らなくては。
片手に余るほどの大きさのそれを持って、再び走り出す。残してきた明かりに向けて。
同じ場所には帰ってこられないのではないかと、道中不安になったが、幸いにもスマホのライトは、遠くからでもすぐに分かった。問題は、聖也とあの女がどこまで行ってしまったのかと言うことだ。もし聖也がどこかに隠れているのなら、迂闊に大声を出せば危険に晒してしまうかもしれない。
だがそんな心配は不要だった。澪からそう遠くない場所で、静寂を破るように、何かが争い合う音が聞こえてきた。何者か、なんて考えるまでもない。
「中條くん!」
争っているということは、まだ聖也は無事でいるはずだ。だけど一刻の猶予もない。藁人形を胸に抱き締めて、薮を掻き分けながら必死で音のする方に走った。
「中條くん!中條くん、返事して!」
「篠原さん!……うわっ」
何かが倒れるような物音と共に、聞き覚えのある声が確かに聞こえた。直後、わずかに開けた場所に出た瞬間、恐ろしい光景が目に飛び込んできた。
地面に倒れた聖也の上に女が馬乗りになって、その細い首を締め上げている。
あれほど感じていた恐ろしさは、一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。ボロきれのような服に包まれた女の肩を掴んで、強引にこちらに注意を向けさせる。触れた肩は、ぞっとするほど冷たく、女が血の通った人間でないことを、まざまざと実感させられた。
蝿でも追うような鬱陶しげな動作で、女がこちらを見た。濁りきった虚ろな目に、思わず怯みそうになるが、ここで引くわけにはいかない。
「あ、あなたが憎いのはこの人なんでしょう?私達は関係ない、だからいい加減解放してよ!……お願い……っ」
震える手で藁人形を女の眼前に突きつける。その途端、女の目に暗い光が宿ったのが、はっきりと分かった。
「ぁ……ああ……」
澪を突き飛ばすようにして、女が藁人形を毟りとった。視界の端に、首を抑えて咳き込む聖也が見える。
「中條くん!大丈夫?!」
「な、なんとか……篠原さん、ほんとに戻ってきてくれたんだね」
聖也に手を貸して、ふらつきながらも、どうにか二人で立ち上がる。
「当たり前でしょ、約束したもん……無事で良かった」
「そう、だね……ありがとう」
そういって聖也が女にちらりと視線を向ける。女は藁人形が潰れるほど強く握りしめ、地面に這い蹲るような姿勢で、ぶつぶつと何事か呟いていた。もう澪達のことなど見えていないようだ。
「篠原さん、今のうちに早く行こう」
澪の手を引いて、聖也が小声で囁いた。小さく頷いて、澪もその手を握り返す。
足早にその場を後にする。辺りの変化には、すぐに気がついた。
「中條くん、明かりが!」
「本当だ……行こう」
あれほど探しても見つからなかった明かりと人の気配が、すぐ近くに感じられる。解放されたのだ、あの女から。
外には、呆気ないほどあっさりと出られた。入ってきたのとは反対側、神社の境内の方に面した出入り口だったようで、周囲には屋台が並び、夜でも眩しいほどの明かりの中で、人々の喧騒が満ちている。
「で、出られたの……?」
あまりにも簡単に返ってきた日常に、先程までの出来事は全て夢だったのかと疑いたくなる。しかし自分の格好を見下ろして見れば、おろしたての服は泥まみれで、腕や足には細かい切り傷がいくつもできていた。おそらく髪や顔も酷い有り様だろう。このまま帰ったとして、両親にどう言い訳したものか。
「そう、みたいだね。見て、時計も普通に動くようになってる」
同じようにボロボロの格好になった聖也に言われて見れば、同じ時間を指し続けていた時計の長針は数分先に進んで、ごく普通の時間を刻んでいた。何時間も彷徨っていたような気がするが、周りの様子からしても、ほとんど時間は経っていないようだ。
「ちょっと、貴方達何をしているんですか!そこは立ち入り禁止ですよ!」
突然横から飛んできた鋭い声に驚いて、二人そろってビクッと肩を震わせた。振り向いて見ると訝しげな表情の男性がこちらを睨んでいる。服装からして、この神社の神主らしい。
「あ、ごめんなさい、えっと……道に迷ってしまって」
「道に?迷うような場所じゃないでしょう。まったく、これだから最近の若い人は」
なにも嘘はついていないのだが、まあ確かに、普通ならこんな街中で遭難しかけるなんて有り得ない話だ。神主の男性に追い立てられるようにして、神社を後にする。薄汚れた格好で境内に突っ立っていた男女を、彼はなんだと思っただろう。
帰り道、途中で見かけたコンビニのトイレに立ち寄って、体についた泥を拭いて髪を整え直した。服の汚れまではどうしようもないが、これでも少しはマシになったと思う。
ついでに買い込んだペットボトルのお茶に口をつけながら、聖也と二人、夜のコンビニの駐車場で息をついた。さっきまでは気にしていられなかったが、ずいぶん喉が乾いていたことを自覚する。
「はあ……なんか、酷い目にあったよね」
「うん。だけど、二人とも無事で良かった」
「まあそれはそうだけど。でも、篠原さんなんて泥だらけじゃない。せっかく可愛い格好してたのに」
「え」
可愛い?今可愛いって言った……?いやいや、今のは服を褒められただけだから、あんまり調子に乗っちゃいけない。だけど、そっか。そんなふうに思ってくれていたんだ。
「そういえば、あの藁人形は結局なんだったの?篠原さん、よく見つけたね」
「あ、うん。私にもよく分からないんだけど、何か手がかりがないかって、探し回ってたら目の前に落ちてきたの。不思議だよね」
「そっか……」
聖也が足元に視線をおとして、ぽつりと呟いた。
「神様が助けてくれたのかもね」
「神様?」
「そう。最初にお参りしたでしょ?そのご利益かも」
冗談なのか本気なのか、ややおどけたように聖也が言う。
「それは……そんなことができるんだったら、あの女の人を、どうにかしてあげられないのかな。あの人は神社のあんな近くで、ずっと彷徨ってるってことでしょ?」
だいたい、運悪くストラップが外れたりしなければ、あんな恐ろしい場所に迷い込むこともなかったのだ。ご利益というには、あまりにもマイナス分が大きい。
「きっと神様だって何でもできるわけじゃないんだよ。だから外国と違って、日本の神様はたくさん居るんじゃない?」
「そういうものなのかな……」
「たぶんね。さあ、遅くなる前に帰ろう。今度こそ、ちゃんと送っていくよ」
当たり前のように差し伸ばされた聖也の手をとる。まあ確かに、こうして手を繋げるようになったのは、神様のご利益なのかもしれないな、なんて呑気なことを考えられるのは、こうして無事でいられるからこそなんだろう。
空になったペットボトルをゴミ箱に放り込んで、家路につく。あの女は、今も独りで彷徨い続けているのだろうか。尽きることのない憎しみを抱いたまま、暗闇の中で。
*
『それで?初デートはどうだったわけ』
その日の深夜、自室のベッドに潜り込んだところで、詩穂から電話がかかってきた。その第一声がこれである。
「うーん……まあ、普通だったよ」
実際はいろんな意味で一生忘れられない日になってしまったが、さすがに正直に全て話す気にはなれなかった。ちなみに、泥だらけの服について、案の定母親にかなり問い詰められたものの、「慣れない靴のせいで転んだ」という言い訳で、一応の納得は得られた。代わりに"鈍臭い娘"という烙印を押されてしまったが。
『なに?なんか歯切れ悪いね。さては、言えないような事でもしたの?意外とやるわねーアンタら』
「ないない。詩穂が考えてるようなことなんて、何もないよ。ていうか付き合ってもないのに、そんなことあるわけないでしょ」
訳の分からない場所に迷い込んで、女の化け物に追い回されたことなんて、想像できるわけがない。澪だって、自分で体験したことなのに、未だに現実だったのかどうか分からないんだから。
『なんだ、つまんないの。まあそうだよねーそんなことするくらいだったら、お友達から始めましょうとか言うわけないもんね』
詩穂は勝手に納得したらしい。なんだかずっと、澪より詩穂の方が楽しそうだ。
『まあそんなことだろうと思ってたけど。これは第二弾企画も用意しといて正解だったわね。うちのバイト先で、遊園地のスタッフと掛け持ちしてる人がいてさ、その人に頼んでチケット二枚譲ってもらえることになってんの』
「ちょ、ちょっと待って。なんで詩穂は、そんなに乗り気なの」
『そんなの面白い……応援したいからに決まってんじゃん。その遊園地ってお化け屋敷が超怖いので有名なの。そこなら吊り橋効果ってやつで、一気に距離が縮まること間違いなしでしょ。どう?アンタら二人で行ってみない?』
今、面白いとか聞こえたような気がするんだけど。
「それは……気持ちはありがたいんだけど、ちょっと……」
ついさっき、とんでもなくリアルなお化け屋敷を経験してきたようなものだ。当分怖い思いはしたくない。
『えー、なんでよ。別に澪は怖いのダメじゃないでしょ?』
「そうだけど、今はちょっと苦手になったっていうか……」
『そうなの?しょーがないなあ、じゃあこれは彼氏と行くか……』
「えっ?ちょっと待って、詩穂彼氏できたの?!」
他愛もない話をしながら、夜は更ける。あれほどまでに求めていた当たり前の日常は、帰ってしまえば、ごく普通に流れ過ぎていく。だけど澪は知ってしまった。日常のすぐ隣に、恐ろしい世界が潜んでいることを。あの女だって、元はきっと、こちら側の世界の人間だったのだろう。彼女にもきっと大切な人がいて、その思いの大きさが裏返って、あんなにも巨大な憎しみに変わってしまった。
……澪は、変わらずにいられるだろうか。詩穂や聖也、自分が大切だと思う人達を失ったり、裏切られたりすることがあったとして、自分を見失わずにいられるのだろうか。わからない。きっと、彼女と澪に大きな違いなんてないのだろう。
だけど澪の傍にはまだ、大切な人達がいる。
詩穂と通話を繋げたまま、気がつけばお互い眠りに落ちていた。きっと今夜は大切な人達の夢を見る。
澪をこの世界に繋ぎ止めてくれる人達の夢を。
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