怪異探偵の非日常

村井 彰

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落ちる

1話 再会

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  キャンパスの渡り廊下を北風が吹き抜ける午前。冬の太陽は矢のように鋭く尖って、瞳の奥を容赦なく射抜いてくる。
  早坂はやさか奏太そうたはそんな眩しさに目を細めながら、両手に持ったダンボール箱を抱え直した。
「ごめんね早坂くん。うちの準備なのに手伝ってもらっちゃって」
「気にすることないよ芹莉せり。力仕事はこういうゴツい男にどんどん手伝って貰うべき。早坂だってどうせ暇だったんでしょ?」
  カメラの三脚を抱えながら申し訳なさそうに言う木崎きさき芹莉の隣で、同じく撮影機材を担いだ坂上さかがみ花耶かやが、さも当然といった表情で言ってのけた。
「確かにその通りだけど、お前が言うなよ坂上……」
  顔を顰める早坂を無視して、花耶はどんどん先へ歩いて行く。こっちは大荷物なんだから、もう少し気を使ってくれてもバチは当たらないのに。
「はあ……まあお前に気遣いとか求めてないけど。……それより、これ全部撮影に使う機材とか小道具なんだよな?すげー本格的にやってるんだな」
  蓋の若干開いたダンボールの中身を覗き込んで、早坂は感嘆した。
  そもそも早坂がなぜこんな荷物を持って、寒いキャンパスの中を歩いているのかと言えば、それはすべて現在行われているオープンキャンパスのためだった。芹莉と花耶が所属する映画研究会、略して『映研』は、サークル見学で映画撮影の様子を見せるのだと言う。
「普段はもっとゆるゆるなんだけどねぇ。今回は演劇部の人達が協力してくれるから、みんな張り切ってるの」
  と言って、芹莉がふわふわした表情で笑う。
  普段の映研は、軽く集まって映画……それも主に、メンバー達が大好きなホラー映画を見て批評し合うくらいの緩い活動をしているらしい。だから今日のように本格的な機材を持ち込んでの撮影は、少々珍しい事のようだ。
  とはいえ、早坂は映研のメンバーでは無いので、本来それを手伝う義務はない。ここにいる三人に、樋山ひやま優也ゆうやを加えた面子でいつもつるんでいるが、実は早坂だけ三人とは違うサークルに所属している。
  何故か。と言われれば理由はひとつ。
  早坂は他の三人とは違い、ホラー映画が大嫌いだからだ。
  唯一“本物”が見える自分だけがホラー好きの集まりに入れないなんて、なんとも皮肉な話だが、嫌いな物はどうしようも無い。現実に怖い事がたくさん起きるのに、フィクションの世界でまで恐怖を感じるなんてまっぴらだった。
「ていうか、早坂のところは何もしないの?」
  花耶が少しこちらを振り向いて訊いてくる。
「うち?いや、うちなんか見学したがる物好きいないだろ。別に見て面白いような活動もしてないし……」
  そしてそんなホラー嫌いの早坂が一人で所属しているのは、『大衆文学研究会』というサークルである。……というとなにやら大層だが、その正体は使われなくなった資料館を勝手に占領して読書に勤しむだけの集まりだ。しかもメンバーは、早坂を入れても二人しかいない。
「万が一人が来ても安曇あずみ先輩がいるし。……まあ、あの人がまともに応対するとも思えないけど」
  そう言って軽く肩をすくめながら、サークルスペースがある棟へと足を踏み入れようとした、その時のことだった。
「奏太くん?ねえ、奏太くんでしょ?!」
  元気の良い声とともに、軽快な足音が駆け寄ってくる。早坂が驚いて顔をあげると、見慣れないブレザーを着た茶髪の女子高生の姿が、視界へと飛び込んできた。彼女は、まさか……
伊緒いお?!なんでこんなところに」
  早坂の隣で足を止めた少女は、薄めの化粧を施した目をキュッと細めて言った。
「そんなの決まってるじゃん、オープンキャンパスだよ。奏太くんの行ってる学校がどんなとこか、興味あったんだよね」
  言いながら、にやっと笑ってみせた彼女の名前は小椋おぐら伊緒。彼女は数ヶ月前に井ノ原いのはらの元を訪ねて来た依頼人の一人なのだが、なぜだか早坂の事を気に入ったらしく、仕事が終わった後も時折連絡を取り合う程度の関係が続いていた。
  そして、そんな彼女は今年の四月から高校三年生。確かにそろそろ進路を考えないといけない時期だろうが、まさか隣県の山奥に住んでいる伊緒と、こんなところで再会するとは思ってもみなかった。
「この時期でも学校公開してるとこって珍しいから、助かったよ。三年になってから見に来たんじゃ、ちょっとギリギリすぎるしね」
  そう言って伊緒が後ろ手を組むと、その動きに合わせて胸元のリボンが揺れた。伊緒の制服姿を見るのは初めてなので、なんだか新鮮だ。
「そう言えば、伊緒は大学生になったら街の方で一人暮らししたいって言ってたもんな」
「そういうこと。この辺だったら交通の便もいいし、なにより奏太くんがいるもん」
「伊緒が入学してくる頃、俺は四回生だけどな」
「やだ。奏太くん留年しといてよ」
「無茶言うなって」
  伊緒と軽口を叩きあっていると、芹莉にちょんちょんと脇腹をつつかれた。
「この子、早坂くんのお友達?」
  小声で訊ねられ、早坂はハッと我に返った。しまった、完全に二人を放置して話し込んでいた。
「あー……えっと、バイト先のお客さんだったんだ」
  芹莉に苦笑いを返して誤魔化す。先日花耶には知られてしまったが、霊媒師の助手をしている事を、芹莉にはまだ話していない。
  気まずくなって目を逸らす早坂を見て、今度は伊緒が袖を引っ張って小声で訊いてきた。
「ね、この二人って奏太くんの彼女?どっちが彼女?どっちも彼女?」
「ばっ……そんなわけあるか!」
  早坂が思わず大声をあげると、花耶が不審の眼差しを向けてくる。四面楚歌とはこういう状態なのだろうか。早坂は慌てて口を噤み、軽く咳払いをして伊緒に向き直った。
「あー……わざわざこんなところまで来たんだから、そんなしょうもないこと言ってないで、ちゃんと見学して帰れよな。俺もこれからサークル見学の準備手伝わないとなんだから」
  早坂が先輩風を吹かせて苦言を呈すると、伊緒はつやつやした唇をムッと尖らせた。
「言われなくてもするって。それより、奏太くんのサークルってなに?カメラ持ってるってことは映像系?あとで見学したいんだけど」
「いや、俺はただの手伝いで」
「ねえ伊緒……そろそろ行かないと、授業体験始まっちゃうよ」
  早坂が自分の所属サークルについて説明しようとした時、不意に耳慣れない少女の声が響いた。
「あ、ごめんヒナ。もうそんな時間?」
  伊緒が自分の背後を振り向いてそう言った。小柄なせいで今まで隠れてしまっていたが、どうやら伊緒にも連れがいたらしい。伊緒と同じ制服を着た彼女は、シャープなデザインの眼鏡をかけた大人しそうな印象の子だった。
「ごめん奏太くん、私達もう行くね。お姉さん達も、重たいの持ってるのに話し込んじゃってごめんなさい」
  伊緒はそう言って、芹莉達にもぺこりと頭を下げた。
  そして、踵を返す寸前、早坂の方を少しだけ振り向いて、
「またあとでね奏太くん。……井ノ原サンにもよろしく」
「え?」
  そう囁いた伊緒は、聞き返す間もなく友人と共にスカートを翻して走って行ってしまう。井ノ原によろしくとはどういう意味だろう。
  首を傾げる早坂の顔を、芹莉が上目遣いに見上げてくる。
「早坂くんって案外顔が広いよね。高校生のお友達がいるなんて」
「えっ?!ああ……まあ、バイトでいろいろと……」
  芹莉にしみじみと言われ、早坂は動揺した。別に何も悪い事はしていないはずなのに、なぜこんなに気まずいのだろう。
  しどろもどろになる早坂を見て、花耶がゴミを見る目で吐き捨てる。
「ロリコン」
「はあ?!ち、違う!そんなんじゃない!」
「強めに否定するところが余計にきもい」
  ばっさりと切り捨てて、花耶はさっさと行ってしまう。
「まてまてまて坂上!頼む、話を聞いてくれ!」
  そうして慌てて花耶の後を追った早坂は、先ほど伊緒が言った言葉について考える事を、すっかり忘れてしまったのだった。

  *

「……で、なんで伊緒がここにいるんだよ。なんか今朝も聞いた気がするけど」
  伊緒と再会したキャンパスから場所は変わり、ここは井ノ原の事務所の玄関口。芹莉達の手伝いを終えた早坂は、早々に大学から引きあげて井ノ原の事務所に向かっていた。
  特に依頼が入っていない日は、たいてい事務所の掃除や買い出しを任される。だから早坂は屈み込んでちまちまと入り口を掃いていたのだが、ふと箒の先に現れたローファーに視線を上げてみれば、そこにはついさっき別れたばかりの伊緒が立っていた……という訳だ。
「なんでって、さっき言ったじゃん。またあとでねって」
「いやサークル見学のことかと……」
「井ノ原サンによろしくとも言ったでしょ。てかそもそも奏太くん、見学のとこにいなかったよね?」
  不貞腐れた表情で早坂を軽く睨んで、伊緒が腰に手を当てる。心なしかさっきよりスカートの丈が短くなっている気がするのだが、寒くないのだろうか。
「あー、まあ……俺は先輩に任せて帰ったから」
「やっぱり。しかもあのお姉さん達に聞いたら、奏太くんは別のサークルだって言うし。どうせなら奏太くんに案内してもらいたかったのにな」
  そう言ってむくれる伊緒の背中から、もう一人の少女が遠慮がちに顔を出した。眼鏡の彼女は、さっき伊緒と共にオープンキャンパスに参加していた子だ。
「ねぇ、ちょっと伊緒。紹介してくれるんじゃなかったの」
「わ、ちょっとヒナ、裾引っ張らないでよ。ちゃんとわかってるってば」
  伊緒は少し慌てた様子でヒナという少女に言うと、ちょっとだけ居住まいを正して早坂に向き直った。
「あのね奏太くん。今日は私の友達の事で、井ノ原サンに相談したくて来たの」
  そう言って、伊緒は友人に前へ出るよう促す。
  不安げな表情で姿を見せた彼女は、伊緒とは違い制服を型通りに着こなして、艶のある黒髪をまっすぐなおかっぱに切り揃えている。
  そんな彼女が、井ノ原に相談したい事があるという。何を?そんなの決まっている。
  井ノ原は霊媒師であり、ここはそういったモノに悩まされる人達が訪ねてくる場所なのだから。
「分かった。井ノ原さんならちょうど中にいるから。入って」
  早坂は小さく頷いて、二人を事務所の中へと誘った。
「井ノ原さん、お客さんです」
  玄関の前で話し込んでいたのが聞こえていたのだろう。しっかり営業モードをオンにした井ノ原が、笑顔でデスクの前に立っていた。
「こんにちは。お久しぶりです、伊緒さん」
  そう言った井ノ原に、「こんにちはー」と気軽な調子で返して、伊緒は戸惑い気味な友人の手を引っ張った。
「ほら早く。ヒナの相談でしょ」
「う、うん」
  瞳に若干警戒の色を滲ませながら、ヒナという少女は事務所に足を踏み入れた。なんだか早坂が初めてここを訪れた時の事を思い出して、そんな場合ではないのに微笑ましい気持ちになる。
「二人ともそこのソファに座ってて。お茶淹れるから。……コーヒーでいい?」
「紅茶がいいな。ミルクティーで。ヒナも一緒でいい?」
「あ、うん」
  一切遠慮する様子なく早坂に注文をつけて、伊緒は友人と共にデスク前の応接スペースへと腰を下ろした。井ノ原は絶対にコーヒー派なので、客に別の物を頼まれると正直ちょっと面倒くさい。
  事務所の隅っこの狭苦しいキッチンに立って、早坂は無言で湯を沸かす。井ノ原の好みでエスプレッソマシンとコーヒー豆は良い物を用意しているが、紅茶の方はスーパーで買ったティーバッグしかない。二人にはこれで勘弁してもらおう。
「えっと、それでね井ノ原サン。さっき奏太くんにも言ったんだけど、今日は私の友達のことで相談したくて。ほら、ヒナ。とりあえず自己紹介して」
「あっ、うん……えっと、雛美ひなみ結衣ゆいといいます。伊緒と同じ、楢木ならき高校の二年生です」
  ハキハキした伊緒の声と、たどたどしい調子で名乗る結衣の声が、早坂の背中越しに聞こえてくる。どうやらヒナというのは苗字から取った渾名だったようだ。
「雛美さん。初めまして、所長の井ノ原と申します。……伊緒さんのご紹介ということは、うちの事務所が請け負っているのがどういう仕事なのか、既にご存知かと思いますが」
  井ノ原に訪ねられ、おそらくは結衣の方が少し息を呑む気配があった。
「幽霊とか、そういうモノについての悩みを解決してくれるところだって、そう聞いてます、けど……」
「ええ。その通りです」
  井ノ原が答えると同時にコポコポと音を立てながらコーヒーが注がれ、淹れたての香ばしい香りがキッチンに広がる。温かいコーヒーとミルクティーを二人分ずつ盆に載せて、早坂は応接スペースに戻った。
  四人の前にカップを置いて、早坂は盆を持ったまま井ノ原の隣に座る。依頼人達には揃いのティーカップ、井ノ原と早坂はそれぞれ私物のマグカップだ。
   早坂が腰を下ろすのを待って、井ノ原が再び口を開く。
「では、お話を聞かせてください」
  結衣が不安そうに隣の伊緒を見上げる。けれど彼女が小さく頷き返したのを見て、覚悟を決めた様子で話し始めた。
「えっ、と……何から話せばいいのかな……あの、私学校で写真部に入ってるんですけど、そこの部員のひとりが、そういうのが好きで」
「そういうの?」
「心霊写真とか、です」
「うわ」
  思わず声を上げてしまった早坂の足を、井ノ原が無言で踏みつけた。
「いっっ!ちょっとなにもヒールの先で踏まなくても」
「五月蝿い黙れ。……失礼しました、彼のことは無視してください」
  穏やかそうに微笑んだまま、井ノ原が早坂にだけ聞こえるよう小声で悪態を吐く。そんな二人を見比べて、結衣は若干困惑の表情を浮かべながら先を続ける。
「えと、それで先月くらいにその子が言い出したんです。夜の学校にこっそり入って、心霊写真を撮ろうって」
  また踏まれては堪らないので早坂はもう何も言わなかったが、内心ではため息を吐きたい気分だった。その手の肝試しや心霊写真には嫌な思い出しかない。
「心霊写真、ね……ではその写真に何か?」
「あ、いえ違うんです。写真はたくさん撮ったけど、結局何も写ってなくて。そうじゃなくて、あの、その日から私おかしいんです。一人でいると、とつぜん」
  不意に、事務所の中に影が落ちた。事務所の奥の窓から差し込む光が一瞬遮られたせいだ。
  だが一体何に?外は雲ひとつない夕空で、事務所があるのは建物の二階だ。車や通行人が通ることも無く、鳥が横切った程度で視界が遮られたりもしない。そう、それこそ人間くらいの大きさの物が通ったのでもなければ……
「いやあああああああああっ!」
  早坂が窓の外に目を向けたのと、結衣の悲鳴が響き渡ったのは、ほぼ同じタイミングだった。
  目が、合った。窓の外を落下していく男と。
  その直後、湿った革袋を叩きつけるような、寒気のする音がして、それきり静かになる。
  結衣が取り落としたカップから溢れたミルクティーが、テーブルの上を伝い落ちて床を染めていく。なんなんだ、これは。何が起きた。
「…………ひ、とが……きゅ、救急車、いや警察?呼、ばないと」
「落ち着きなさい、早坂くん」
「いや、だって」
「いいから」
  混乱しながらスマホを取り出そうとした手を、井ノ原に押さえつけられる。早坂の向かいのソファには、震える結衣を抱きとめながら、明らかに戸惑っている様子の伊緒がいた。
「伊緒さん。貴女、今何か見えましたか?」
  井ノ原は一体何を訊いているんだろう。この部屋の中にいて、あれが見えなかったはずがないのに。
  だがそんな早坂の疑問に答えるように、伊緒は首を横に振った。
「やっぱりね……早坂くん。ちょっと窓を開けて下を覗いてみなさい」
「はあ?!絶対嫌ですよ何言ってんですか」
「開 け て み な さ い」
  有無を言わせぬ井ノ原の口調に押され、早坂は嫌々席を立った。見たくない物が見えてしまったらすぐ視線を逸らせるように、おそるおそる窓を開ける。だが。
「…………なにも、ない?」
  西日射す窓の外には、いつも通りの静かな街並みが広がるばかりで、死体や怪我人どころか通行人の一人すらもいない。
「なんで?だって今確かに」
「要するに人間じゃなかったんでしょう。伊緒さんには見えていなかったのが良い証拠です」
  伊緒に目を向けると、彼女は眉毛をハの字にして早坂を見ていた。
「ねえ、何があったの?……みんなには、なにか見えたの?」
「え?ええと……」
「三十代くらいの男性が一人、窓の外を落下していったように見えました。しかし今早坂くんが確認したところ、外にそれらしき人間はいない」
  早坂が言葉を選ぼうとしたのに、井ノ原は止める間もなく全て説明してしまう。
「なにそれ、幽霊だったってこと?」
「どうでしょうね。ただ、少なくともこの建物には屋上に出る手段はありませんし、そうでなくてもわざわざ二階建ての建物から飛び降り自殺する物好きもいないとは思いますが」
  淡々とした井ノ原のその言葉に被せるように、結衣が震える声を上げた。
「なんで……?今はひとりじゃない、のに」
 結衣の言葉に、井ノ原が少し首を傾げる。
「『ひとりじゃないのに』と言うことは、あれは本来貴女が独りでいる時に出てくるのでしょうか。それは学校に侵入した日から?具体的にどのような状況で?」
「ちょ、ちょっと井ノ原さん。もうちょっと落ち着いてからでも」
  早坂が溢れたミルクティーを片付けながら止めに入ると、井ノ原は鬱陶しげに目を細めた。
「先送りにしても良い事なんてありませんよ。むしろ、放っておいたらまたアレが落ちてくるかもしれない」
  井ノ原の非情な言葉に結衣の肩がびくりと震える。それも当然だ、あんなものは何度も見たい光景ではないだろう。早坂とて今晩夢に見るかもしれない。
「ヒナ、話せそう?私から言う?」
「…………大丈夫。自分で言う」
  伊緒にしがみついていた体を離して、結衣がこちらに向き直る。ズレてしまった眼鏡を外して袖口で涙を拭いながら、再び結衣は話し始めた。
「その、写真部の子と心霊写真を撮りに行った日に、学校の屋上から落ちてくる人を見て……でも私以外の部員には見えてなくて。気のせいだって言われたけど、その日からひとりでいると時々見えるんです。学校でも家でも、とにかくひとりになった途端、さっき見たようなのが窓の外を通って……でも他の人には見えなくて、親にはノイローゼなんじゃないかって言われるし……そんなんじゃないのに、だって、あんなにはっきり見えるのに」
「それで今日、私に相談してくれたんだよね。私もちょっと前に不思議な体験したこと、ヒナにだけは話してたから」
  また泣き出してしまった結衣の背中を擦りながら、伊緒が説明を引き継ぐ。
「なるほど。波長が合った貴女に着いて来てしまったというところでしょうか。その場に居合わせた他の人達にも話を訊きたいところですが」
「あ、じゃあ私が紹介しようか?その子達とはクラス一緒だし、二人はうちの親戚ってことにすれば大丈夫じゃないかな。うち親族めっちゃ多いし」
  伊緒が頼もしく声をあげる。彼女はこう見えて旧家のお嬢さんで、本人も把握していないような親戚がかなりいるらしい。
「ではそちらは日を改めてお願いするということで。……今日はこの辺りにしましょうか。雛美さんも限界のようですし」
「ん、そうだね。今日はもう帰る。何かあったら私から連絡するから」
  伊緒が結衣を促して席を立つ。
「外、結構暗くなってきたけど大丈夫か?なんなら駅まで送るけど」
「ううん。お姉ちゃんが車で迎えに来てくれるからへーき。ありがとね」
  早坂に軽く手を振って、伊緒は反対の手で結衣の手を取った。
「さ、行こヒナ。この二人に任せておいたら大丈夫だよ。それで今日はウチに泊まって行けばいいじゃん。一緒にいたらきっと怖くないよ」
  二人はそんな話をしながら、小さく会釈して事務所を後にした。
  パタリと扉が閉じて、その途端に静かになった部屋の中、早坂は薄ら寒い気持ちで窓の外に視線をやる。
「最初以降、ひとりの時しか見えなかったって言ってたのに、なんで今日は見えたんでしょうね」
「お前に釣られて来たんじゃないのか?まるで誘蛾灯だな」
「あーはいはい。どうせ俺はゴキブリホイホイでハエ取り紙で誘蛾灯ですよ」
  真面目に聞くだけムダだった。どうせここでの早坂の扱いなんてその程度だ。
「それ片付けたら今日はあがっていいぞ」
  テーブルの上のカップを指して井ノ原が言う。なら言われた通り、さっさと片付けて帰ろう。そして今日は優也に泊まりに来て貰うんだ。
 早坂の自宅はここと同じくアパートの二階で、部屋には大きな窓もある。そんな場所で独りで眠れるほど早坂は豪胆ではなかった。
  けれどさっき伊緒も言っていた通り、一緒にいればきっと怖くない。きっと……

  *

「悪かったな、優也。急に泊まりに来てもらって」
  寝間着代わりにしている高校時代のジャージに着替えた友人に、早坂はそう声をかける。
  優也は半分色落ちしてプリン色になった頭をタオルで拭きながら、へらりと笑って答えた。
「いいって、こっちこそ呼んでくれてありがとな。家にいると姉ちゃんがうるせぇからさ」
  実家暮らしの優也には、兄と姉が一人ずついる。兄の方は数ヶ月前に家を出たそうだが、姉とは今もひとつ屋根の下、顔を合わせる度にケンカになるらしい。一人っ子の早坂からすれば、そんなやり取りも羨ましく感じてしまうくらいだが、優也にとっては何かと面倒な事のようだ。
「けど奏太からこういうの誘ってくるの珍しいよな。なんかあったん?」
「ん?……いや、まあ何となくだよ」
  ついさっきお化けを見て怖くなったから呼びました、とはいろんな意味で言いたくない。
  早坂が見える人間であることを優也は知っているが、それ以前にオカルトマニアの彼に幽霊の話なんてしたら、全力で食いついてくるに決まっている。
「まあ理由なんてなんでもいいだろ。それより映画観よう。ホラー以外で」
「おー、その前にちょっとトイレ借りていいか」
「どーぞ。その間に適当に選んどくわ」
  部屋の外へと消えていった優也に背を向け、窓際のテレビに体を寄せた。そして登録している配信サイトを開いて『映画・コメディ』で検索する。とりあえず怖くなければなんでもいい。
「三谷幸喜とかにするか……」
  目に付いたタイトルを再生しようとリモコンを操作した時。
「ん?」
  カーテンの隙間を、“何か”が上から下に通り過ぎていった。
  そして、ドチャッとか、ベチャッとか、そういう湿った破裂音が響いて、それきり何も聞こえなくなる。
  なんだ、今のは。
  今のは、まるで……まるで、さっき事務所で見聞きしたものと同じじゃないか。
「奏太、何観るか決めた?おれやっぱ清水監督のさあ……」
「ひっ」
  友人の声に驚いて短く悲鳴をあげた早坂を、優也が怪訝な表情で見つめる。
「なに?どうした?窓になんかいるのか?」
「え、あ、いやその」
  早坂が軽くパニックを起こしている間に、優也は躊躇なくカーテンと窓を開け放った。そうしてしばらく周りを観察した後、首を傾げながらこちらを振り向く。
「別になんもなさそうだけど」
「そ、そうか。良かった……」
  いや、何も無いというのは、それはそれで問題なのだが。ともかく、実際に人が飛び降りたのでなかったのなら、まだいい。
  顔面蒼白のまま息を洩らす早坂を見て、優也は何かを察したように目を眇めた。
「……奏太、もしかして幽霊でも見たのか?」
「は?!ちっ……違う!俺はそんなの見てない!何も見てない知らない!!」
「嘘つけ!その反応、絶対なんか見ただろ!なあ教えてくれよ、どんな幽霊だった?男?女?何歳くらい?どんな感じで出てきた?」
  優也が目をキラキラさせて詰め寄ってくる。まずい。これだから言いたくなかったのに。
「もういいだろそんな話、ホントにただの見間違いなんだって。そうだやっぱ映画やめてゲームしよう。な?」
「おい誤魔化すなよ!全部聞き出すまで寝かさないからな!」
  結局その後、映画を見る予定など吹っ飛んでしまい、詰め寄ってくる優也と押し問答をしていたら、騒ぎ過ぎたせいで隣人に壁ドンされてしまった。
  そこでさすがに優也も引いて、そのまま二人で寝る事になったものの、早坂の脳裏には先程見た光景が焼き付いて、目を閉じても決して消えることは無かった。
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