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5話 嘘
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「ただいま帰りました……」
家の中には誰もいないだろうと思いつつ、汐季はひかえめに声をかけながら、玄関の戸を引いた。
「汐季?! 汐季か!?」
その途端、ほとんど悲鳴のような螢花の声に出迎えられて、汐季は驚いて立ちすくんだ。いつの間に蔵から出ていたのか、廊下の奥から慌ただしく向かってきた螢花が、裸足のまま玄関に駆け下りてくる。
「け、螢花様……戻っていらしたんですか」
「それはこっちの科白だ! 今までどこに行っていた!?」
激しく詰め寄られ、汐季は玄関に立ったまま身をすくめた。
「あ、あの、鸛良さんのお店にお邪魔していました」
「鸛良の……? なぜわざわざそんな所まで……もしかして、蔵の中を覗いたのか」
いつもより低い螢花の声音は完全に冷えきっていて、背中に氷を押し込まれたような寒気が走った。鸛良の家に行ったことが、なぜ蔵の中を覗き見することに繋がるのか、まるで分からない。分からないが、螢花が本気で怒っていることだけは伝わってきた。
「覗いてません……! 昼過ぎに玄関の掃除をしていた時に、鸛良さんがいらっしゃって、そのまま連れて行ってもらったんです。除く暇なんてありませんでした」
「本当か? 本当に覗いていないんだな?」
「本当です……」
青ざめたまま必死に頷く汐季を睨むように見上げていた螢花は、しばらくそうした後に、ため息を吐きながら目を逸らした。
「……そうだな。本当に覗いていたら、ここに戻ってくる訳がないな」
「え?」
「なんでもない。それより、出かけるなら次から書き置きくらい……」
憑き物が落ちたようにいつもの調子に戻ったと思えた螢花だが、突然言葉を切って、何かを飲み込むように胸を押さえた。
「螢花様……?」
何事かと伸ばした汐季の手を払い除けて、螢花は玄関を飛び出し、振り返ることなく外に出ていってしまう。
「螢花様! 待ってください!」
慌てて螢花の後を追いかけたが、小柄な背中は見る間に庭木の隙間を掻い潜り、あっという間に庭の隅にある雑木林の奥へ消えていった。あの向こうにあるのは、螢花がさっきまで籠っていたはずの蔵だ。
「螢花様……!」
呼び止める声も虚しく、螢花は慌ただしく蔵の中へと駆け込み、扉を閉ざしてしまった。
「螢花様! 申し訳ありません、何も言わずに出かけてしまったことは謝ります! ですから、どうかお許しください!」
冷たい鉄の取っ手に縋りついて訴えたが、無情にも内側から閂を掛けるような音が響いて、汐季と螢花は完全に隔たれてしまった。
『……君は家に戻っていろ』
「いいえ。お許しいただけるまでここに居ます」
『違う……君に怒ってる訳じゃない……ただ、今はここに居て欲しくないんだ』
遠くで反響するような声には、確かに怒りの色は無い。それゆえに拒絶される理由が分からなくて、汐季は酷く混乱した。
「どうして……」
『ここから離れてくれ』
「…………」
『汐季』
「…………わかり、ました」
これ以上ここに居ても、迷惑でしかないのだろう。そう判断して、汐季は扉から手を離した。
螢花には見えていないのを承知の上で、汐季は蔵に向かって頭を下げて、その場を立ち去った。
*
結局、螢花が帰ってこないままに日は落ち、辺りはすっかり夜になってしまった。一人で夕飯を済ませた後、汐季は寝室に二人分の布団を敷いて、螢花が戻るのをしばらく待つことにした。
けれど、どれだけ待っても、螢花が帰ってくる気配は無い。寝室の中はしんと静まり返って、庭の方からは微かな虫の声が聞こえるだけだ。
「螢花様……」
いつもなら、とっくにお互い眠っている頃合いだ。螢花は今晩、あの暗くて寒そうな蔵の中で眠るのだろうか。それを思うと、とても眠れる気はしなかったが、それでも汐季は布団に入ることにした。明日螢花が帰って来たら、すぐに温かい食事を用意できるように。そのために、今はちゃんと休んでおこう。
灯りを消した部屋は暗く、障子越しに差し込んでくる月明かりだけが、からっぽの布団を照らしている。
螢花が、何かを隠していることは間違いない。さっきまでの螢花は、明らかに様子がおかしかった。蔵の中には、汐季に見せられない何かがあるのだ。
だけど、だとしても、それを責める権利が今の汐季にあるだろうか。自分だって、あの人に嘘を吐いているくせに。
ここに居るべきは自分じゃない。あの人が伴侶にと望んだのは自分じゃないのに、それを隠したままでここに居座り続けて、我が物顔で心配してみせて、厚かましいにも程がある。
考え続けるほどに悲しくなって、汐季は布団の端を掴んだまま目を閉じた。早く朝になればいいのに。そう思うほどに眠りは遠ざかり、夜はますます深まっていく。
そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。遠くの方から、ぺたぺた……という軽い足音が近づいてくるのに気づいて、汐季は慌てて体を起こした。
「螢花様?」
そろそろと開きかけていた障子の向こうに見える人影が、ぎくりと震えたのが月明かりの中に見えた。
「汐季……まだ起きていたのか」
気まずそうに呟いて、螢花は汐季に視線を合わせないままそろそろと部屋に入ってきて、後ろ手に障子を閉めた。そして、その場で所在なさげに立ったまま、螢花はぼそりと呟いた。
「あの……さっきは悪かった。動揺してしまって、すごく嫌な言い方をしたと思う」
「そんな……俺の方こそ、ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「……俺?」
「あっ」
気が急くあまり、すっかり素の自分で話していた事に気づいて、汐季は口を覆った。失敗した。少しでも、螢花が求めていたであろう“妻”に近い存在でいようと思っていたのに。
「……いや、いいんだ。変に気取らないで、君のままで居てくれた方が、僕は嬉しい」
“君のまま”。螢花が何気なく言ったであろうその言葉は、汐季の胸を深く抉った。
ここに来てからずっと、沙恵のようになろうとしていた。小さくて可愛らしくて、明るく快活な女性。汐季とは真逆の存在である、彼女に。そんな無駄な足掻きを、見透かされたような気がして、恥ずかしくて堪らなかった。
「汐季、そっちに行ってもいいか」
「あ……っ、はい。もちろんです」
慌てて隣の布団を捲ろうとしたが、螢花はなぜか自分の布団を避けて、まっすぐ汐季の方にやって来た。そして自分の布団から枕だけを取って、もそもそと汐季の布団の中に潜り込んでくる。
「……ここで良いんですか?」
「ここが良い」
螢花がそう言って寝巻の袖を掴むので、なんとなく気恥ずかしくもあったが、汐季も黙って布団に収まる事にした。
「汐季……」
二人で横になった途端、螢花が顔を寄せてきて、その吐息が首筋をくすぐる。
「ん……っ」
くすぐったさに身をよじる汐季に構わず、体温の低い螢花の体が、ぎゅっと抱きついてくる。いつもの螢花がするのと同じ、幼い子供のような触れ合いなのに、なぜか今夜は落ち着かない。
「何をそわそわしているんだ」
「す、すみません……あまり、こういう事に慣れていなくて」
「そうなのか? 人間の家族は、いつもこういう事をするんだと思っていた」
俺に家族はいないので……そう言おうとして、汐季は言葉を飲み込んだ。
「その……俺の父親は、あまりこういう事をしない人だったので」
「ふーん……赤ん坊だった頃の君を見た限りでは、ずいぶん溺愛されているようだったのに」
「……そう、ですね」
また、嘘を吐いてしまった。唇を噛む汐季を不思議そうに見つめて、螢花は汐季の頬に手のひらでそっと触れた。
「汐季?」
「……すみません」
これ以上情けない顔を見られたくなくて、螢花の体を抱きしめ返して、その肩に顔を埋めた。そんな汐季の背中を、小さい手が優しく撫でてくれる。
本当は、貴方が出会った赤ん坊はまるっきりの別人で、今ここにいるのは、ただの身代わりの、赤の他人なんです。そんな事を言ったら、偽物なんかいらないと、この家を追い出されてしまうかもしれない。だけど今さら村に戻ったって、汐季に優しくしてくれた人は……沙恵はもういないのだ。こんな温かさを知った後で、そんな孤独を突きつけられたら、きっと耐えられない。
螢花の気持ちより、自分の都合を優先してしまう醜さに、心底嫌気がさす。
それでも、どんなに醜くても、卑怯だと罵られても、この腕の中にあるぬくもりだけは、絶対に手離したくないと思った。
*
そんな騒動から一夜明け、それからは大きな問題が起きることもなく時は過ぎ、汐季がここで暮らし始めてから半月ほどが経った。けれど相変わらず螢花は何かを隠している様子だし、汐季自身も、彼に本当の事を言えないままでいる。
螢花は今日も、蔵にこもるといって出て行った。少しずつ、その頻度が増しているような気がする。
以前、螢花が街へ出かけている時に、好奇心に負けて蔵の中を覗いてみた事がある。しかし、そこは拍子抜けするほど何も無い場所だった。蔵の扉には鍵すら掛けられておらず、なかには古くて曲がった物干し竿が一本立てかけられているだけ。少なくとも、螢花が隠したがっていた物は、蔵の中にしまわれている訳では無いらしい。
今は螢花がこもっているはずの蔵がある方を見つめて、汐季はひとり考える。螢花がここまで秘密をひた隠しにするのはなぜだろう。汐季が人間だから、あるいは、単に汐季が信用されていないのか。だとしたらきっと、汐季が隠し事をしていることも見抜かれているに違いない。
「……どうしたらいいんだろう」
寝室の鏡台に突っ伏して、汐季は大きなため息を吐き出した。
本当のことを話して、螢花に嫌われるのは怖い。けれど、螢花に隠し事をされるのは悲しくて嫌だと思う。なんて酷い我儘なんだろう。もともと自分のことは好きでは無かったけれど、ますます嫌いになりそうだ。
綺麗に磨き上げた鏡には、しょぼくれた顔の自分が写っている。気分を変えたくて挿してみたあの簪も、なんだか今日は色褪せて見えた。
いっそのこと、自分からここを出て行けば、これ以上自分を嫌いにならずに済むのだろうか。螢花だって、汐季が居なくなれば、こそこそと蔵にこもる必要もなくなるはずだ。
結局、どこへ行ったって自分はいらない子なのだ。産みの親に捨てられ、育ての親にも捨てられ、嫁いだ相手ともうまく関われない。……とはいえ、どうすれば人の世界へ帰れるのか、汐季には皆目見当もつかないのだが……
「ごめんくださーい」
その時、突然玄関の方から聞こえてきた声に、汐季はハッとして顔を上げた。
「隼吉さん……?」
西の訛りが混じる発音は、間違いなく隼吉のものだ。
「螢花さーん、汐季くーん、お留守ですかー?」
「あ、すみません! すぐ行きます!」
玄関側に向けて叫びながら、汐季は縁側に飛び出して庭用の草履を引っかけた。家の中を回っていくより、ここから庭を突っ切った方が早い。
「隼吉さん!」
庭木の隙間から顔を出した汐季を見て、玄関前に立っていた隼吉は、にこにこと手を振った。
「わざわざ来てくださったんですか? どうして……」
「ほら、例の着物、出来上がる頃に届けに行く言うてたやろ」
そう言って、隼吉は両手で大事に持っていた紫色の風呂敷包みを、軽く持ち上げて見せた。
「着物……? てっきり鸛良さんが届けてくださるとばかり」
鸛良なら不思議な力で一瞬にして飛んでこられるだろうが、普通の人間である隼吉は、はるばる山道を登って来なければいけないはずだ。それなのに、どうしてわざわざ来てくれたのだろう。恐縮する汐季の前で、隼吉は優しく笑った。
「ほんまはカンさんに行ってもらうつもりやってんけど、やっぱり僕が自分で行くことにしてん。また汐季くんとお話してみたいなあと思て」
「俺と……?」
「そう。ご迷惑でなければ、やけど」
「迷惑だなんて、そんなことありません! ……その、ちょうど、今は螢花様がいらっしゃらなくて、一人で退屈だったんです。だから、隼吉さんが来てくださって、良かったです」
一人でいると、余計なことばかり考えてしまって辛くなる。だから、誰かがそばに居てくれるならありがたい。今の汐季に、隼吉の誘いを断る理由はなかった。
「どうぞ、上がってください」
玄関の引き戸に手をかけて、汐季は隼吉を招き入れた。
家の中には誰もいないだろうと思いつつ、汐季はひかえめに声をかけながら、玄関の戸を引いた。
「汐季?! 汐季か!?」
その途端、ほとんど悲鳴のような螢花の声に出迎えられて、汐季は驚いて立ちすくんだ。いつの間に蔵から出ていたのか、廊下の奥から慌ただしく向かってきた螢花が、裸足のまま玄関に駆け下りてくる。
「け、螢花様……戻っていらしたんですか」
「それはこっちの科白だ! 今までどこに行っていた!?」
激しく詰め寄られ、汐季は玄関に立ったまま身をすくめた。
「あ、あの、鸛良さんのお店にお邪魔していました」
「鸛良の……? なぜわざわざそんな所まで……もしかして、蔵の中を覗いたのか」
いつもより低い螢花の声音は完全に冷えきっていて、背中に氷を押し込まれたような寒気が走った。鸛良の家に行ったことが、なぜ蔵の中を覗き見することに繋がるのか、まるで分からない。分からないが、螢花が本気で怒っていることだけは伝わってきた。
「覗いてません……! 昼過ぎに玄関の掃除をしていた時に、鸛良さんがいらっしゃって、そのまま連れて行ってもらったんです。除く暇なんてありませんでした」
「本当か? 本当に覗いていないんだな?」
「本当です……」
青ざめたまま必死に頷く汐季を睨むように見上げていた螢花は、しばらくそうした後に、ため息を吐きながら目を逸らした。
「……そうだな。本当に覗いていたら、ここに戻ってくる訳がないな」
「え?」
「なんでもない。それより、出かけるなら次から書き置きくらい……」
憑き物が落ちたようにいつもの調子に戻ったと思えた螢花だが、突然言葉を切って、何かを飲み込むように胸を押さえた。
「螢花様……?」
何事かと伸ばした汐季の手を払い除けて、螢花は玄関を飛び出し、振り返ることなく外に出ていってしまう。
「螢花様! 待ってください!」
慌てて螢花の後を追いかけたが、小柄な背中は見る間に庭木の隙間を掻い潜り、あっという間に庭の隅にある雑木林の奥へ消えていった。あの向こうにあるのは、螢花がさっきまで籠っていたはずの蔵だ。
「螢花様……!」
呼び止める声も虚しく、螢花は慌ただしく蔵の中へと駆け込み、扉を閉ざしてしまった。
「螢花様! 申し訳ありません、何も言わずに出かけてしまったことは謝ります! ですから、どうかお許しください!」
冷たい鉄の取っ手に縋りついて訴えたが、無情にも内側から閂を掛けるような音が響いて、汐季と螢花は完全に隔たれてしまった。
『……君は家に戻っていろ』
「いいえ。お許しいただけるまでここに居ます」
『違う……君に怒ってる訳じゃない……ただ、今はここに居て欲しくないんだ』
遠くで反響するような声には、確かに怒りの色は無い。それゆえに拒絶される理由が分からなくて、汐季は酷く混乱した。
「どうして……」
『ここから離れてくれ』
「…………」
『汐季』
「…………わかり、ました」
これ以上ここに居ても、迷惑でしかないのだろう。そう判断して、汐季は扉から手を離した。
螢花には見えていないのを承知の上で、汐季は蔵に向かって頭を下げて、その場を立ち去った。
*
結局、螢花が帰ってこないままに日は落ち、辺りはすっかり夜になってしまった。一人で夕飯を済ませた後、汐季は寝室に二人分の布団を敷いて、螢花が戻るのをしばらく待つことにした。
けれど、どれだけ待っても、螢花が帰ってくる気配は無い。寝室の中はしんと静まり返って、庭の方からは微かな虫の声が聞こえるだけだ。
「螢花様……」
いつもなら、とっくにお互い眠っている頃合いだ。螢花は今晩、あの暗くて寒そうな蔵の中で眠るのだろうか。それを思うと、とても眠れる気はしなかったが、それでも汐季は布団に入ることにした。明日螢花が帰って来たら、すぐに温かい食事を用意できるように。そのために、今はちゃんと休んでおこう。
灯りを消した部屋は暗く、障子越しに差し込んでくる月明かりだけが、からっぽの布団を照らしている。
螢花が、何かを隠していることは間違いない。さっきまでの螢花は、明らかに様子がおかしかった。蔵の中には、汐季に見せられない何かがあるのだ。
だけど、だとしても、それを責める権利が今の汐季にあるだろうか。自分だって、あの人に嘘を吐いているくせに。
ここに居るべきは自分じゃない。あの人が伴侶にと望んだのは自分じゃないのに、それを隠したままでここに居座り続けて、我が物顔で心配してみせて、厚かましいにも程がある。
考え続けるほどに悲しくなって、汐季は布団の端を掴んだまま目を閉じた。早く朝になればいいのに。そう思うほどに眠りは遠ざかり、夜はますます深まっていく。
そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。遠くの方から、ぺたぺた……という軽い足音が近づいてくるのに気づいて、汐季は慌てて体を起こした。
「螢花様?」
そろそろと開きかけていた障子の向こうに見える人影が、ぎくりと震えたのが月明かりの中に見えた。
「汐季……まだ起きていたのか」
気まずそうに呟いて、螢花は汐季に視線を合わせないままそろそろと部屋に入ってきて、後ろ手に障子を閉めた。そして、その場で所在なさげに立ったまま、螢花はぼそりと呟いた。
「あの……さっきは悪かった。動揺してしまって、すごく嫌な言い方をしたと思う」
「そんな……俺の方こそ、ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「……俺?」
「あっ」
気が急くあまり、すっかり素の自分で話していた事に気づいて、汐季は口を覆った。失敗した。少しでも、螢花が求めていたであろう“妻”に近い存在でいようと思っていたのに。
「……いや、いいんだ。変に気取らないで、君のままで居てくれた方が、僕は嬉しい」
“君のまま”。螢花が何気なく言ったであろうその言葉は、汐季の胸を深く抉った。
ここに来てからずっと、沙恵のようになろうとしていた。小さくて可愛らしくて、明るく快活な女性。汐季とは真逆の存在である、彼女に。そんな無駄な足掻きを、見透かされたような気がして、恥ずかしくて堪らなかった。
「汐季、そっちに行ってもいいか」
「あ……っ、はい。もちろんです」
慌てて隣の布団を捲ろうとしたが、螢花はなぜか自分の布団を避けて、まっすぐ汐季の方にやって来た。そして自分の布団から枕だけを取って、もそもそと汐季の布団の中に潜り込んでくる。
「……ここで良いんですか?」
「ここが良い」
螢花がそう言って寝巻の袖を掴むので、なんとなく気恥ずかしくもあったが、汐季も黙って布団に収まる事にした。
「汐季……」
二人で横になった途端、螢花が顔を寄せてきて、その吐息が首筋をくすぐる。
「ん……っ」
くすぐったさに身をよじる汐季に構わず、体温の低い螢花の体が、ぎゅっと抱きついてくる。いつもの螢花がするのと同じ、幼い子供のような触れ合いなのに、なぜか今夜は落ち着かない。
「何をそわそわしているんだ」
「す、すみません……あまり、こういう事に慣れていなくて」
「そうなのか? 人間の家族は、いつもこういう事をするんだと思っていた」
俺に家族はいないので……そう言おうとして、汐季は言葉を飲み込んだ。
「その……俺の父親は、あまりこういう事をしない人だったので」
「ふーん……赤ん坊だった頃の君を見た限りでは、ずいぶん溺愛されているようだったのに」
「……そう、ですね」
また、嘘を吐いてしまった。唇を噛む汐季を不思議そうに見つめて、螢花は汐季の頬に手のひらでそっと触れた。
「汐季?」
「……すみません」
これ以上情けない顔を見られたくなくて、螢花の体を抱きしめ返して、その肩に顔を埋めた。そんな汐季の背中を、小さい手が優しく撫でてくれる。
本当は、貴方が出会った赤ん坊はまるっきりの別人で、今ここにいるのは、ただの身代わりの、赤の他人なんです。そんな事を言ったら、偽物なんかいらないと、この家を追い出されてしまうかもしれない。だけど今さら村に戻ったって、汐季に優しくしてくれた人は……沙恵はもういないのだ。こんな温かさを知った後で、そんな孤独を突きつけられたら、きっと耐えられない。
螢花の気持ちより、自分の都合を優先してしまう醜さに、心底嫌気がさす。
それでも、どんなに醜くても、卑怯だと罵られても、この腕の中にあるぬくもりだけは、絶対に手離したくないと思った。
*
そんな騒動から一夜明け、それからは大きな問題が起きることもなく時は過ぎ、汐季がここで暮らし始めてから半月ほどが経った。けれど相変わらず螢花は何かを隠している様子だし、汐季自身も、彼に本当の事を言えないままでいる。
螢花は今日も、蔵にこもるといって出て行った。少しずつ、その頻度が増しているような気がする。
以前、螢花が街へ出かけている時に、好奇心に負けて蔵の中を覗いてみた事がある。しかし、そこは拍子抜けするほど何も無い場所だった。蔵の扉には鍵すら掛けられておらず、なかには古くて曲がった物干し竿が一本立てかけられているだけ。少なくとも、螢花が隠したがっていた物は、蔵の中にしまわれている訳では無いらしい。
今は螢花がこもっているはずの蔵がある方を見つめて、汐季はひとり考える。螢花がここまで秘密をひた隠しにするのはなぜだろう。汐季が人間だから、あるいは、単に汐季が信用されていないのか。だとしたらきっと、汐季が隠し事をしていることも見抜かれているに違いない。
「……どうしたらいいんだろう」
寝室の鏡台に突っ伏して、汐季は大きなため息を吐き出した。
本当のことを話して、螢花に嫌われるのは怖い。けれど、螢花に隠し事をされるのは悲しくて嫌だと思う。なんて酷い我儘なんだろう。もともと自分のことは好きでは無かったけれど、ますます嫌いになりそうだ。
綺麗に磨き上げた鏡には、しょぼくれた顔の自分が写っている。気分を変えたくて挿してみたあの簪も、なんだか今日は色褪せて見えた。
いっそのこと、自分からここを出て行けば、これ以上自分を嫌いにならずに済むのだろうか。螢花だって、汐季が居なくなれば、こそこそと蔵にこもる必要もなくなるはずだ。
結局、どこへ行ったって自分はいらない子なのだ。産みの親に捨てられ、育ての親にも捨てられ、嫁いだ相手ともうまく関われない。……とはいえ、どうすれば人の世界へ帰れるのか、汐季には皆目見当もつかないのだが……
「ごめんくださーい」
その時、突然玄関の方から聞こえてきた声に、汐季はハッとして顔を上げた。
「隼吉さん……?」
西の訛りが混じる発音は、間違いなく隼吉のものだ。
「螢花さーん、汐季くーん、お留守ですかー?」
「あ、すみません! すぐ行きます!」
玄関側に向けて叫びながら、汐季は縁側に飛び出して庭用の草履を引っかけた。家の中を回っていくより、ここから庭を突っ切った方が早い。
「隼吉さん!」
庭木の隙間から顔を出した汐季を見て、玄関前に立っていた隼吉は、にこにこと手を振った。
「わざわざ来てくださったんですか? どうして……」
「ほら、例の着物、出来上がる頃に届けに行く言うてたやろ」
そう言って、隼吉は両手で大事に持っていた紫色の風呂敷包みを、軽く持ち上げて見せた。
「着物……? てっきり鸛良さんが届けてくださるとばかり」
鸛良なら不思議な力で一瞬にして飛んでこられるだろうが、普通の人間である隼吉は、はるばる山道を登って来なければいけないはずだ。それなのに、どうしてわざわざ来てくれたのだろう。恐縮する汐季の前で、隼吉は優しく笑った。
「ほんまはカンさんに行ってもらうつもりやってんけど、やっぱり僕が自分で行くことにしてん。また汐季くんとお話してみたいなあと思て」
「俺と……?」
「そう。ご迷惑でなければ、やけど」
「迷惑だなんて、そんなことありません! ……その、ちょうど、今は螢花様がいらっしゃらなくて、一人で退屈だったんです。だから、隼吉さんが来てくださって、良かったです」
一人でいると、余計なことばかり考えてしまって辛くなる。だから、誰かがそばに居てくれるならありがたい。今の汐季に、隼吉の誘いを断る理由はなかった。
「どうぞ、上がってください」
玄関の引き戸に手をかけて、汐季は隼吉を招き入れた。
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