私より立派なもの

ひつじ使い

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私より立派なもの

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 昼食をとって少し休んだ午後二時過ぎ、家のすぐ脇の山の小道を登っていった。秋が深まっているとはいえまだ大きな蜂と遭遇することもあるので、一つにくくった髪の上に麦わら帽子をかぶり手には軍手をしていた。土の傾斜に埋めこまれた丸太の階段を過ぎると、そこからは人が歩いて固めた登り道になる。幼少のころから散々駆けまわった道だけれど、所々顔を出している木の根につまづかないようにしながら、少し先の小さな見晴らし台を目指していった。
 あちこちで黄色く染まりはじめている山の香りにふれながら、昨日の仕事の失敗を考えまいとして考えてしまっていた。自分より十も若い子に見積もり書を確認してもらったときのことだ。私は年上だったが仕事の上では彼女のほうが先輩だった。最近再就職したばかりなので、お茶菓子を持ち寄るルールにもとまどい、ただでさえ自分がお荷物のように感じていた。その子は笑っていいものか叱っていいものか決めかねた表情で、ここがまだ重複してますよ、と言った。私はあれほど確認したのに、どうして見落としがのこっていたのかわからなかった。一度目に注意された悔しさから何回も確認したはずだったのに。私はそれを思い返すと軍手の指を奥までぎゅっと嵌めあわせ、それから大きく息を吸いこんだ。これといって新発見のない山道であっても新しく就いた職場の空気よりは美味しいにちがいなかった。
 いくつもの幹を抜けて見晴らし台に踏み入ったとき私は最初それに気づかなかった。ただ違和感はあった。普段とはなにかがちがうといった――。それは山の木々が深まってゆく左の視界のすみで、まるで情景の一部になったかのようにたたずんでいた。まさか四本の脚ですらりと立った馬が、たった一頭でこちらを見ているなど想像もできなかったから、幹の連なりがたまたま動物のように見えているのだと思いこもうとした。しかしそれは立派な体つきの色艶にもすぐれた本物の馬だったのだ。
 馬のほうが先に私の存在に気づいていたらしかった。それは身じろぎもせずに私を見入っている姿からわかった。距離を測ったようにじっとしていて、茶色の毛並みに黒い目を際立たせて見つめている。私は全身に鳥肌が立ち、両足から力が抜けて目まいがしてきそうだったが、このとき同時に馬の口に金具のついたベルトが巻かれているのに気がついた。たしかクツワという馬を操るためのものだ。
 それにしてもこんなことがあっていいものだろうか。まれに見ることがあっても数年に一度鹿とはちあわせるのがせいぜいで、野生の馬などありえないし、またこの辺で馬を飼っている宿舎があるとも聞いたことがない。そうしたうわさ話もない。こんな話があればこの見知った山のことだ、近所からまず耳に入ってくるはずである。とはいえ目の前の馬がくつわをしている以上、だれかに飼われてるものにはちがいない。どこからか逃げだしたことになる。
 私は歩いてる途中の変な姿勢で固まっていた。馬の方でもぴくりともしないので開いたままの脚をそっと引き寄せた。そうして耳鳴りがしてきそうなほど気配を小さくした。しかし内心ではその馬の場違いさにじきに突進してくるのではないかと震えあがっていた。どうか襲いかかってこないでと一心に祈っていた。
 警戒しているのか馬も目をそらさない。見つめ合っていても埒が明かないので逃げかえろうと足を一歩引いた。すると馬が反応して尾を一振りした。私はその尾が体とちがって黒く、私の上半身ほどもあるちりぢりのほうきのようであるのを知った。下げた足をまたもどして、叱られている子供のように弱々しく立ち尽くした。そのときだった。
 ブルルル。
 馬が鼻を鳴らしたかと思うとまっしぐらに向かってきた。私はこんな迫力を味わったことがなく、馬にこちらは敵ではないし、敵になり得ようはずもないのを知ってもらおうとした。あらぬかぎりの弱さを目に浮かべ身をかがめにかかっていた。それがどこまで伝わったものかわからないが、馬は真ん前に来て体の側面を見せながら立ち止まった。そしてブルルと言ったきり、その背丈であれば街並みが見えているのかもしれない方向へ顔を高々と向けている。私を正面から見ずに視界のすみにとどめるようにして。ただ顔の横についている目が私のすぐ頭上にあったから、私の顔のあたりはすっぽりと収まっているのかもしれない。その目には瞼もあればしっかりとした睫毛も生えそろっている。
 時が止まったようにお互いがじっと立ち尽くしているので、あなた、どうなさいましたか、と思いきって尋ねてみた。すると馬は太い首を上下にも左右にも振り、また元の雄々しい姿勢にもどると遠くを見据えているような目を街のほうへ向けた。私は鼻にただよってくるにおいを日にさらされたなにかの穀物のように感じながら、もう一度、なにかお困りなのですよね、こんなところに一人でいるのですから、と尋ね返した。すると馬は首をはげしく振りなにかを訴えかけているようだった。あまりに顔の近くで頬を見せつけながら振るのでようやく見当がついた。
「ええ、ええ、これを外したらいいのですね」
 こう声をかけると馬は大きなちりぢりの尾を振った。私は馬がくつわを取ってもらいたがっているのを確信した。しかしこの飼い馬らしきもののそれを、私などが外していいものだろうか。そもそもこの近くに飼い主がいるかもしれず、これを外してしまえば、まったくの野生の姿と区別がつかなくなる。あとあと馬と再会した飼い主が困り、きっと当惑するにちがいない。そしてなによりその口元に手を伸ばそうものなら、荒々しく鼻息を浴びせられ、もっとわるければ暴れ出すかもしれない。こう頭によぎらせると恐怖心だけでなく、本当にこのまま外していいものかと罪悪感にも駆られた。
 しかし馬があまりに忍耐強くしているので、私は決心せずにいられなかった。迷いを振りはらい、恐る恐る手を伸ばし、馬の口に通されている金具にそっとふれてみる。それでも馬は興奮しなかったので、今度は頭からぐるりと固定している革のベルトの具合を、やはり手でなぞってたしかめる。構造は至って簡単で頬の側面のところで、人間が腰に巻くベルトの要領で留められている。おそらくこの口の脇の輪になった金具に手綱をつけるのだろうが、さいわいそれはつけられていない。私は少しも取り乱さずにいる馬の横顔を見てさらに決意を固めた。周辺に人がいないのをたしかめ、馬にも念を押すように、
「これを外してほしいのですよね」
 ともう一度尋ねた。
 馬は耳をぶるっとさせただけだったが私の確信は変わらなかった。
 ベルトを外すのに軍手が邪魔だった。私はあとには引けない思いでそれを外して腋にはさみ、麦わら帽子もゴムを首にとおしていたので後ろへはねのけた。それからたくましい頬に向かって、いま外しますからね、と言って両腕を伸ばし、ベルトを一度外す方向とは逆側に引っ張って革の穴に通してある金具を抜き取った。すると頭から通しているベルトと口元から通しているベルトの繋ぎ目が解け、金具の部分が口から落ちそうになった。とっさににぎりとめた手のひらが生ぬるい唾液でべとべとになった。馬は一向に怖気づいておらず首をいくらか下げてくれている。私が背伸びをして頭側のベルトを半周させると、固定されていた器具はすっかり取り外せてしまった。
 鼻先をくぐるように横切って反対の頬を覗くと、頼もしい頬があるばかりだった。私の手にはまったく馴染みのない器具がしっかりとにぎられている。馬は球体をありありと感じさせる大きな目で私をぎょろりと見た。それから舌と口をもごもごさせ、首を縦に大きく揺すり、長い尾をわっさわっさと竹ぼうきのように振りまわした。そうして街並みのほうを見ていたかと思うと急にひるがえり、さらには地面を軽快に蹴って私から遠ざかっていった。私はちょうど目線の高さにある躍動感に満ちたお尻のあたりを眺めているばかりだった。こちらを振り向いてくれないのかしらと思ったが、そうされることはなかった。私が軍手を落としてるのに気がついたのは、その姿が幹と幹のあいだをするりと抜けながら木々の奥深くに消えていったあとのことだった。私はかがんでそれを拾い上げた。
 これは夢かしらと唾液まみれの金具とベルトをにぎったまま空いた手で頬をつねってみる。ぎゅうっと痛みが走りこれは夢ではない。私はこの出来事が夢ではないのがとても嬉しかった。生きていればこんな偶然に出くわすこともあるのだ。いくらかわれをとりもどした頭でそのまま景色を一望し、あらためてここら辺に馬の施設や牧場がないことを振りかえりながら、軍手を奥まで嵌めて、帽子も調子のいい深さにかぶって思いっきり伸びをした。そしてしばらく町並みを眺めてから、さて、職場の若い子たちにどう話したものかしらと心躍らせて山を下りていった。背中に心地よい秋の陽光をのこし、手に持った乾きつつある金具をいかにも崇高なもののように感じながら、一歩また一歩と足をはこんでゆく。そうしてやっぱりだれに話したところで信じてもらえそうにないし、思えば慎みのない行動を取ってもしまったので、私だけの秘密にしておこうと胸に決めて、落ち葉からのぞいている木の根を次々に越えていったのだった。
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