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第二章 足音の行方
3.囁くしかない
しおりを挟む目に涙が溜まりつつあるのをごまかすように、和真は着けているマフラーを鼻まで上げて前を歩く背中を見る。この背中を見送るのが寂しいと思い始めたのは、いつの頃だったか。
最初は、顔と声以外は兄にそっくりだと思った。常連客とアルバイト従業員として世間話をするようになり、兄とは似ても似つかない性格だとわかってうれしかった。雪の予報が出ている日に傘を持って出るのを忘れるなんて、兄なら絶対にないことだ。そんな違う部分を見つけるたびに、うれしさは増していった。
「よし、あまり並んでないな。よかった」
客が三人待つタクシー乗り場の最後尾に並ぶと、拓実はほっとしたように言った。
「……何で、そんなに急ぐんですか?」
「早く二人で話したいからだけど」
「あ、そういえばこの間の焼き鳥屋、僕のリクエストだったのに全然お金出さなかったので、タクシー代は払いますね」
「おまえなぁ……、社会人なめんなよ」
照れ隠しの言葉へのぞんざいな返答に、ふと和真の頬がゆるむ。
「……何、笑ってるんだ」
「何か、うれしいなと思って」
「そうか」
「今度、鍋やりませんか?」
「いいね」
「どんなのが好きですか?」
「うーん、何でも好きだけど、一番食べたいのは海鮮鍋かな」
「ホタテとかエビとかタラとか、いいですよね」
鍋物の話をしているうちに、タクシーの順番が回ってきた。後部座席に乗り込むと、続きを再開させる。外の寒さも手伝って、鍋物についての会話はかなりの盛り上がりを見せた。
「運転手さんが言ってた飛鳥鍋、気になります」
「牛乳入れるのなんて初めて聞いたよな」
鍋談義を止めることなく、拓実は自宅の扉を開けた。初めて来る部屋に緊張はするが、和真は「そうですよね」と何でもない様子を装って玄関に入る。
「やってみたいのが、たくさん……」
不意に和真のカバンのポケットから、ひらりと何かが落ちた。何だろうと思って拾い上げると、和真と拓実の名前が書かれたメモ用紙だった。
「それ、傘借りた時の?」
ぼんやりと眺めているうちに、先に部屋の奥へ行ったはずの拓実に見られてしまい、慌てて後ろ手に隠す。
「これは……、その、捨てるのを、忘れてて……」
「捨てるつもりだった?」
捨てずにノートパソコンの下に潜り込ませておいたこのメモ用紙は、すぐに仲直りできるようにと、昨日の夜お守り代わりにカバンに入れていたものだ。
何も言わずに視線を床に落としたまま立ちすくむ和真に、拓実が「和真、こっち」と声をかけた。
「捨てないで持っててくれたんだな」
おずおずと部屋の奥へと移動すると、冷えた空気を温めようとするエアコンの強い風が和真の頬に当たる。右頬だけが温まるのを感じながら一つゆっくりうなずき、メモ用紙をまたカバンにしまい込んだ。
「……昨日の女性、名前呼び捨てにされててうらやましかったんです」
ぺたりと床に座り込み、和真は話し始めた。うつむいたままだが、隣に座る拓実がしっかり聞いてくれているのがわかる。
「やっぱり、そうだったか」
「遊びでも酔った勢いでも、その、他の人とやっちゃっててもいいんです」
「えっ、と……、それはよくないと思うんだが……」
「拓実さんが、兄とは違う人なんだって、はっきりわかるから」
目を丸くする拓実をちらりと見て、和真は言葉を続けた。
「前はすごく似てるなって思ってたんですけど、違うところを発見するとうれしくて」
「……本当に?」
「本当、ですよ」
そう言うと和真は、拓実の左肩に右手を置いて唐突にキスをした。たった一秒程度、ただ唇同士が触れ合っただけなのに、唇が離れていく時に見えた切なげな色を宿す瞳に、拓実の胸が締め付けられる。
「僕は遊んだこともなくて、全然、何もわからない。拓実さんが簡単そうにしていたキスも、僕には難易度が高いんです。それに、この先はどうしたらいいかもわかりません」
「こ、の先、って」
「遊び相手としかできないなら、僕で遊んでください」
「そんなこと、できるわけないだろう。大体、誰だって最初は覚悟が……」
「覚悟、あります。だって、拓実さんは兄じゃない」
――瞬殺だった。
相手の懐に飛び込んで急所を狙う武術家のような攻撃で、和真は拓実を殺した。拓実には、その攻撃を迎え撃つ暇もなかった。彼の武器は二つの色っぽいほくろを伴った双眸だ。ただまっすぐに獲物を貫き、射殺す目。
「……そうだな」
肯定するしかない。
「会いたかったです。来てくれて、うれし……ごめんなさい……」
「謝らなくていいから、もう一人で帰らないでくれ」
懇願するしかない。
コートを着たままの和真の背中に手を回して抱き寄せようとすると、彼は拓実の首に両腕を回してぎゅっと抱きついてきた。
「大好きだよ、和真」
愛を囁くしかない。
首元に埋められた頭がこくりと小さく動き、二人はどちらからともなく、キスをした。
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