足音

祐里

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第二章 足音の行方

2.情けない

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『あのあと喧嘩したんだぞ。おまえのせいだからな』

 和真が人混みに消えていってしまい、拓実は結局すごすごと自宅に帰った。風呂に入ってベッドの上で寝転びながら、香織にスマートフォンのトークアプリで苦情を送る。

『えええ……ごめん、悪かったわ。早く謝りなさいよ』

『もう謝ったけど、許してもらえてない。あいつが何考えてるかわからないんだよ』

『そんなの、本人に聞くしかないよね』

『おまえら喧嘩しないのか?』

『ほとんどしないよ。不安にさせないようにしてるし。ていうか、ベッドの上で謝って甘い声で名前呼んで優しくしてあげたら許してもらえるんじゃないの』

『まだやってない』

『まだ!? 嘘でしょ!?』

『ほんと』

 香織も拓実と同じで、相手は男女どちらでもいいというタイプだ。おそらく、まだ焼き鳥屋で彼女と一緒に飲んでいるのだろう。返信が来ないところを見ると今頃自分を肴にして二人で盛り上がっているのかもしれないと、拓実は一人苦笑いを浮かべた。

「不安にさせない……、んなこと言ったってなぁ……」

 趣味でよく行くミニシアターに、アルバイトの人員が新しく入ったのは知っていた。最初はたどたどしいながらも一生懸命やっているな程度に思っていたが、いつの間にか上手に接客できるようになっていた。その成長を、何となくうれしく思った。

 そのうち、彼が自分をじっと見つめていることに気付いた。傘を借りたり夕食を作ってもらったりして少しずつ親しくなっていこうという時に、『足音が兄に似ているからすぐにわかる』と種明かしをされ、自分でも驚くくらい悔しい気持ちが湧いて出てきた。

「こっちの方が不安だっての」

 和真に会うまでは相手を適当にあしらい、少しでも嫌なことがあったら別れるという軽い付き合いしかしてこなかったせいで、こういう時にどうしたらいいかわからず戸惑ってしまう。現に、香織には簡単にメッセージを送れるのに、和真には何と送ったらいいのか全く思い浮かばないのだ。

「情けない……」

 もやもやした重い気持ちが朝になったら消えていることを祈りながら、拓実は部屋の明かりを消して布団をかぶった。


 ◇◇


「おはようございます」

「おはよ。……あれ? 何か目が赤くなってるよ。どうしたの?」

 午前十時前、和真がアルバイト先のミニシアターに行くと、オーナーが心配そうに尋ねてきた。

「あ、ちょっと、夜更かししちゃって」

「そうなんだ、若いっていいね。もうこの年になると夜更かしなんてできないから、今のうちだよ」

「はい」

 柔らかく笑うオーナーに短く返答すると、和真はコートを脱いでユニフォームのジャケットを羽織った。

「掃き掃除してきます」

「うん、お願い」

 いつもの仕事が始まり、いつものように開館時刻になると客が入ってくる。この日の和真は窓口を任されており、掃き掃除を終えたかじかむ手でチケットを販売しながら『二人分なら鍋物もいいかな』と考え始めた。だが、その前にまずしなければならないことがあるだろうと、自分を責めてしまう。

「……嫌な態度、だったよな……」

 大きなため息を口から漏らすと、ぐるぐると渦巻く暗い色の感情に自分が絡め取られていくようで、一層重い気分になる。とにかく拓実に謝らなければと、和真は客足が落ち着いた頃を見計らってスマートフォンを取り出した。

『昨日はごめんなさい』

『バイト何時まで?』

 和真のメッセージが送信されてすぐ、拓実から返信が来た。謝罪については触れられていないが、沈んでいた心がわずかに浮上する。

『今日は五時までです』

『じゃあその頃行くから』

 うれしいのに、つきんと胸が痛む。これまでに経験したことのない痛みに、メッセージを打ち込む手が止まった。

「永田くん、寒いでしょ。こっち来て温まってたら?」

「あ、はい」

 オーナーに声をかけられ、スマートフォンをポケットにしまう。窓口を離れてから電気ストーブの前で手をかざすと、じんじんと熱が伝わってくる。

「今日、元気ないね。後ろ姿がしょんぼりしてたよ」

「……え? そんなこと……」

「何か悩みあるんじゃない?」

「悩み、という程でも……」

「そう? でもそういうのって、人それぞれだから。俺でよければ聞くよ」

 悩みなどと言っていいものなのか、和真にはわからない。だが、様々な感情が入り乱れて不安定な気持ちになっていることは確かだ。

「……その、僕は、つっ……、付き合ってるつもり、なんですけど……、相手がどうだか、わからなくて……」

 普段しないような話をして顔がきっと赤くなっているだろう、でもストーブでごまかせているはずだと信じ、和真はオーナーの方を見た。彼は優しい微笑みを浮かべていて、少しほっとする。

「そっち方面の話ね。相手はどんな人?」

「え、っと、年上で……」

「年上? 自分は頼りになる男だぞって、見せたいところか」

「む、無理、それは無理です」

「そっか。それなら素直にならないと」

「素直に……」


 ◇◇


 午後五時を回り和真はアルバイトを終えて外に出たが、拓実の姿が見当たらない。言いようのない不安に襲われ、腹のあたりが急激に冷えていく感覚に気持ち悪さを覚える。

『ごめん、電車遅れてる。たぶんあと十分くらい』

『わかりました。ドラッグストアにいます。着いたらメッセージ下さい』

 近くのドラッグストアに立ち寄ったところで拓実からメッセージが入り、すっぽかされてはいないということに、ほっとする。返信してから何気なく棚を眺めて時間を潰している最中に、再び拓実から『着いた』というメッセージが届いた。買い物をしてから店を出ると、拓実の視線が和真を捉える。

「ご、めん、遅くなって。お疲れ、さま」

 走って来たのだろう、拓実は息を切らしながらしゃべっている。その姿を見ていると、緊張していた和真の体から力が抜けていく。

「そんなに急がなくても……」

「待たせ、たら、悪いし、会いたかっ……、あーもう、行くぞ」

「どこに、ですか?」

「うち。今、両方向ダイヤ乱れてるから、タクシー使う」

「えっ? あ、はい」

 和真のしどろもどろの返答を聞き、拓実はタクシー乗り場へと歩き出した。

「来てすぐに帰ることになりますけど……」

「いいんだ、早く会いたかったから」

 急ぎ足で歩きながら、和真の目が潤む。寒さや乾燥した空気のせいにしようとしたが、無駄なあがきだった。振り向いた拓実の言葉に、心が動いた。

「信じてもらえないかもしれないけど、俺、本当に本気なんだよ、和真のこと」
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