撫子色の秘密

祐里

文字の大きさ
上 下
3 / 4

3.個性

しおりを挟む

「あれ、長浜?」

 カフェをあとにして美術館を出ようとしていた時、後ろから男性の声が聞こえてきた。先に美月さんが振り向き、私も同じ方を見ると、背の高い男性が立っている。

「来てたのか、言ってくれれば案内したのに」

「あ、武藤むとうくん」

「俺がここの職員だって知ってただろ」

 男性の顔を見ながら、前に読んだ小説に出てきた『屈託のない笑顔』ってこういうことを言うんだなと静かに思った。確か国語辞典で『屈託のない』を調べた時、『さっぱりしている』という意味が載っていたはずだ。

 美月さんを見ると、頬が珊瑚さんご色に染まっている。

「うん。でも、いつもは奥の部屋にいるのよね? それに、今日は海凪ちゃんとデートだから」

 そう言って、美月さんは私の背中に手を添えた。

「もしかして、今のステイ先の?」

「そうよ。かわいいでしょう」

「初めまして、ようこそ」

「……初めまして」

 男性と目が合い、仕方なくぺこりと頭を下げながら、私は挨拶の言葉をひねり出す。

「時間が大丈夫なら、カフェでも行かないか?」

「カフェ、さっき行っちゃった。二人でおいしいタルト食べたのよ。ね?」

「何だ、そうか」

 何と、『二人だけの秘密』は、簡単に他人に知られてしまった。『秘密』を言い出した美月さんの口から。

 馬鹿みたいだと思った。酔ったら馬鹿なことをするものだと大人は言う。私もきっと、酒に酔った大人みたいに、甘い香りと美しい色合いに酔っていたのだ。

「先に帰ります」

「……えっ?」

 短くそう伝えると、私は美術館の目の前のバス停まで走った。ちょうどよくバスが到着していて、すぐさま乗車口の手すりをつかんで乗り込む。次のバスは、四十五分先までないはずだ。

 酔いが覚めた今となってはオレンジの皮の苦味だけが残る口に、私はのど飴を放り込んだ。


 ◇◇


 美月さんは、私が帰ってから一時間後くらいに戻って来たようだ。お母さんが何か叫んでいたけど、私はベッドで布団をかぶって、夕食の時間までずっとうずくまっていた。

 夕食の時にも、お母さんから小言を浴びせられた。何で先に帰って来ちゃったの、なんて言われても答えられない。どんな答えだって怒るくせに、いちいち尋ねる神経がわからない。

「ごちそうさま」

 夕食はほとんど食べられなかった。胃がきゅっと縮んでしまったようだ。痛くはないけど、何も受け付けない。

 席を立った時に美月さんをちらりと見たら、心配そうに眉尻を下げていた。秘密を暴露した人がする表情じゃないよね、なんて嫌味な物言いを、心の中だけでしておく。

 部屋に戻って和色辞典を眺めていると、心が落ち着いてくる。少しずつグラデーションで変わっていく日の出や日の入りの空のように、色がうまく並んでいるからかもしれない。ここはお母さんの声が聞こえないから、その静けさも手伝っていると思う。

 私がベッドの上で寝転びながら和色辞典に見入っていると、コンコンとドアがノックされた。

「海凪ちゃん、入ってもいい?」

「……どうぞ」

 自分の口から出てきた存外に低い声に驚きながら、入って来る美月さんを見上げる。

「今日、ごめんね。びっくりしたよね」

「何がですか?」

「あの人、同じ大学だったの。彼は西洋美術専攻、私はピアノ専攻で」

「……ふぅん」

 あの人のことなんかどうでもいい。学歴がどうだろうが、痩せていようが太っていようが、感じが良かろうが悪かろうが。

「……ごめんね」

「何で謝るんですか?」

「急に知らない人に会って、びっくり……」

「そんなの関係ないです」

 「え?」と、美月さんは驚いた顔になった。目を見開くと、大きな目がよけいに大きく見える。こんな顔もかわいいなんて。

「……何で、言っちゃったんですか」

「何を……?」

「秘密、……二人だけのじゃ、なくなっ……」

 言いながら、涙がどんどんあふれてきた。二人だけの秘密ではなくなったと、自分の口から言葉にするのがとても悔しくて悲しい。

「そうか、ごめんね、そうだよね。私が言い出したのに……」

 美月さんが私の背中にまたそっと手を添えた。ベッドの上の掛け布団には、涙のしみがいくつもできている。

「……本当に、ごめんなさい。私が悪かったわ。お詫びに何か好きな曲を弾くから、許してくれないかな……?」

「……い、ま? うちの、ピアノ、で?」

「うん」

「……ショパン、の、かくめ、いの……」

「うん、わかった。ピアノの部屋に行こう」

 ティッシュの箱を抱えて、美月さんと一緒に部屋を出る。お母さんはまだリビングにいるみたいだから、邪魔はされないだろう。

「もしかしたら、海凪ちゃんはもやもやするかもしれないけど」

 そう前置きして、美月さんはショパンの革命のエチュードを弾き始めた。

 美月さんの演奏はとても上手で、心を打つものだった。さすがコンクールで優勝しただけある。

 でも、前置きの通り、聞いているうちにもやもやしてきた。音楽の授業で聞いた革命のエチュードとは違った色が見えたのだ。あの鮮やかで美麗な黄蘗きはだ色や瑠璃るり色はくすんでしまい、美しい調和を見せてはくれなかった。

「どう? もやもやしなかった?」

 演奏を終えると、美月さんは床に座る私の前で、同じように床に座って尋ねた。

「……しました」

「原因はね、調律が必要なピアノだからだと思う。ちょっと音階が狂ってるのよ」

 「でも、私は」と、美月さんが続ける。私の涙はもう止まっている。まだ頬が濡れている感覚が少しあるけど。

「音階が狂っていても、それはピアノの個性だと思ってるの。他の奏者は嫌がるし、正式なコンサートなんかだと調律は必要なんだけど」

「……ピアノの、個性……」

「人も同じ。他の人と違うところがあったって、それはその人の個性だから」

「う、ん……」

「恋バナができなくてもいいの。色が見えるのは、素敵なことよ」

「……うんっ……」

「ね、海凪ちゃん。二人だけの秘密、また作らない? 今度は絶対に誰にも言わないから、秘密の約束」

 また泣き出してしまった私の耳のそばで、美月さんは小声で言った。誰にも聞かれたりしないのに。

「あのね……」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

保健室の秘密...

とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。 吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。 吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。 僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。 そんな吉田さんには、ある噂があった。 「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」 それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。

わたしの幸せな部屋

師走こなゆき
現代文学
 わたし(彩香。中学2年生女子)は仁美さん(二十八歳女性)と狭いアパートの部屋で一緒に住んでいる。仁美さんは従姉妹のお姉さんで、わたしの一番好きな人。仁美さんと一緒に居られれば、わたしは幸せ。他には何にもいらない。  それなのに最近、仁美さんは家を開けることが多くなった。わたしに隠して男の人と電話してるのも知ってる。  そんなの……。 ※他サイトからの推敲&転載です。 ※百合描写あり ※流血描写あり

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

伊都國綺譚

凛七星
現代文学
永井荷風の名作『濹東綺譚』の趣きと風情、そして文体もそのままに舞台を福岡の地にして綴られた物語。 名作へのリスペクトと描かれる福岡の地での古風な世界をお楽しみください。

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

裏の林に近づくな

塚本正巳
現代文学
いじめられっ子の樺島は、神社裏の雑木林で後始末に精を出していた。彼の人生を大きく変えてしまった林での出来事とは? そして、その後の彼の運命は?

処理中です...