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4.a cup of tea
しおりを挟む「……で、きみと従兄くんが内見したこの部屋に引っ越してきたのが、僕たち二人だと。彼はこのこと、知ってるんだろ?」
「そうですね、バレました。でも、柾さんが物件探してるって言ってたので。俺の好きなところでいいって言ってましたよね?」
「そうだけど、樹くんとしてはどうなの?」
樹のくぐもった声の問いに、柾が問いを重ねる。まだ新築だというマンションの四階の部屋は壁紙の接着剤の匂いがうっすらと漂っており、まずは窓を開けようと、樹は部屋の奥へと進んだ。窓はカラカラと小気味好い音を立て、樹の手によって開かれた。
「彼を裏切ったってことじゃないか」
「……そうですね」
樹の小さな声に反応せず、「それに、初めてが男だなんて」と言いながら、柾は積み重なっている引越し荷物の段ボール箱を眺めている。その余裕のある態度が癪に障り、樹は外した銀縁眼鏡を段ボール箱の上にかちゃりと音を立てて置いてから、彼の肩を引き寄せて唇を重ねた。
やはり彼との接触は、とても気持ちがいい。時々、はぁと熱い息を漏らす柾に休む間を与えることなく、樹の手は彼の腰に回り、樹の唇は彼の唇に愛撫を続けた。そうして唇だけでは足りないと言わんばかりに仕立ての良いシャツの下を腰からまさぐり、人差し指で、つう、と背中に向かってなぞる。自らの手で彼の息が荒くなっていくのがわかると、自身の真ん中に甘い疼きを感じた。
言葉を交わすことなく、樹と柾はお互いを激しく求めた。樹が服を脱ぐ時にも柾に唇を求められ、片時も離れることは許されなかった。樹も同様に、彼を欲した。理由など必要なかった。ここにはただ、彼が存在するだけなのだ。樹にとっては、柾の唇が天然だろうが人口だろうが、どちらでもいい。自分の腕の中にいる彼のものなら。
「どうなの?」と、彼は聞いた。これが、樹の答えだった。
◇◇
汗をかいて体が少々気持ち悪さを感じるが、樹は柾を一通り堪能し、最高の気分になっている。段ボール箱がなく体液で汚れていない、少ない面積の床に寝転び、硬いフローリングの感覚を味わいながら隣で寝そべっている柾に言ってみる。
「前に聞いただけなんですけど、植物の『柾』の実は、毒があるらしいですよ。小さくて、真っ赤で、かわいくて、艷やかで、甘くておいしそうなのに」
「へぇ」
「でも、樹皮は薬になるって」
「きみは毒に侵されたってことになるけど、まさか薬だと思ってる?」
「俺が、柾さんを犯したんじゃないですか」
「あー、うん、まあ。……あのさ、こんな時に言うのはずるいかもしれないけど、その……」
言いにくそうにしている柾の言葉を、樹が繋ぐ。
「『僕がきみに飽きたら何も言わずに出ていってくれ』でしょう?」
「うん」
「わかってますよ。そのために最低限の荷物しか持ってきてないんだし、そんなに傷付きやすくないから、気にしないでください」
「無垢なものを染めたい、汚したいって思うのも、純粋だよな」
「純粋な欲望?」
「そう」
「おしいそうな実には毒があるから」
数秒の沈黙を経てどちらからともなく唇を近付ける二人の熱を、窓から弱く吹いてくる風が少しだけ冷ましていった。
◇◇
「悪いんだけど、そろそろ出て行ってくれないか」
水曜日の午後だった。唐突に、柾が樹に向かって言い放った。
「……わかりました」
「実家に戻ればいいだけだよな?」
「はい。……もう、飽きられちゃいましたか。早かったな」
引っ越してから三ヶ月が経っていた。何の前触れもなかった。前日には、この部屋で何度も体を重ねたのだ。しかし事前に約束した通り、何も言わずに出ていかなければならない。
「いや、きみは長い方だったよ。汚すのに時間がかかった。でももう、飽きたんだ。僕の言いなりになってしまうきみはいらない」
柾の率直な言葉で、心臓が強くつかまれたようにぎゅっと締め付けられる。こういう痛みも軽い心臓発作の一種なのだと父が言っていたことを思い出しながら樹は大きく息を吸い、懸命に普通の口調で話そうと努める。
「そうですか。引っ越しは次の休みの日になるかな。業者の混雑具合によっては、もっと先かも……。引っ越しの日が決まったら連絡しますね」
「うん」
「じゃあ、俺は出ていきます。お世話になりました」
「ありがとう。楽しかったよ」
そう言うと、柾はまとまった金額の札束が入った封筒を樹に持たせた。そうして同じ部屋にいるのに、初めて会った日と同じように樹には一瞥もくれず、背中を向けた。
◇◇
部屋を出たのはいいが、実家に戻るのは憚られる。両親が信頼を置いている大地を裏切り、柾の元へ行ったのだから。父も母も、それぞれ一度だけメッセージを送ってきたが、返信せずに放置していたらそのあとは特に何も連絡してこなかった。大学へはきちんと通っていたため、特に心配はしていないだろうと樹は思っている。もともと放任主義なのだ。
大地は、樹が一緒に内見に行った賃貸住宅に住み始めたことを知っている。街中は定点カメラだらけで、樹の姿も幾度となく捉えられていたはずだ。カメラの映像を手持ちの機器で確認できるサービスも多くある。しかし大地からの連絡は来ていない。今装着している銀縁眼鏡にも、新着メッセージの受信はない。寂しさを覚えるが、当たり前だよなと、嘲るように薄い笑みを口元に浮かべた。
マンションを出ると樹はただ歩き続けた。気付けば足が勝手に、知らない同士でキスを繰り返していたショッピングビルの脇道へと樹を運ぶ。見慣れた赤茶色のタイル造りの建物。だが、何の感傷も湧いてこない。薄情なものだと再び自嘲の笑みが出てくる。
樹はいつの間にか、大地に渡されていた防犯装置のボタンを数回押していた。柾の部屋を出る時にポケットに突っ込んだのを思い出したのだ。ただ手持ち無沙汰だから、という理由のはずだった。大地が現れるまでは。
樹の視界に、駆け寄る大地が入った。その大きい体で、大地だとすぐにわかった。まず、懐かしいと思った。懐かしい、甘えたい、そんな感情がふつふつと湧いてきて、逃げなければと強く感じた。だが、足は止まったままだった。言うことを聞かない足を叱咤するが、無駄に終わった。
「……樹!」
逃げなければ、逃げるんだ、俺は毒されて汚れたんだからと、手で太ももを叩きつけても効果は全くない。汚れた自分を見られたくないのに、汚れていても大地にまた甘えられるだろうかという愚かな考えを捨てることができず、ただ立ちすくむ。
「樹、ちゃんと食べてるか? 体はどうだ? 元気でいたのか?」
まず体の心配をするのが大地らしいと笑顔を作ろうとするが、顔が言うことを聞かず、歪んでしまう。
「ずっとあのマンションにいた?」
「……うん」
かすれた声が、自分の口から出る。まるで見ず知らずの他人の声のように思え、樹の顔がますます歪んでいく。
「近くなのに、案外会わないものなんだな」
「……うん」
「どうせろくに食べてなかったんだろ? 前より痩せてる。ほら、店行くぞ。抜け出してきたんだから」
大地の手が背中に回り、そう促されても、樹の足は止まったままだ。
「……また泣いてる」
「泣いてない」
「樹は、素直なわりに変なところで強がるよな」
「……会いたかった。大地、に。懐かしくて……」
強がってなんていないとでもいうように、樹は素直な感情を口にする。それでも、体は硬直したきり動こうとしない。口だけがかろうじて動かせる状態だ。
「そうか。ボタン、押したんだもんな」
「会いたかったんだ」
下を向いている自分がどんな表情をしているのか、想像もつかない。笑っているのだろうか、顔をしかめて泣いているのだろうか、それとも無表情だろうか――そこまで考えたところで大地が樹の顎を右手で持ち上げ、ほんの一瞬だけキスをした。
「行こう」
触れた大地の唇の温かさと柔らかさに樹が目を丸くして驚いているうちに、体に血液が巡る感覚が戻ったようだ。「うん」と言って歩き始める樹を、大地の柔らかな視線が捉えた。
「ロイヤルミルクティーいれてやるよ。甘くないやつ」
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