チョコレート

祐里

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2.餌をやる親鳥

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 リシャールの謎のエスコートは、家に入るまで続いた。歩いているうちに冷えてきた体にほんのり温かみを感じ、拒むことができなかったからだ。

「先生、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

「……ん? 何? 仕事のこと?」

 家に着き、ダイニングテーブルでお茶を飲んでいると、眠くなったはずのリシャールが隣に座って神妙な面持ちで尋ねてきた。普段は仕事のことを家に持ち込まないようにしているのに、僕は何故かそんな風に質問を返してしまう。

「違います。何で髪を長くしてるんですか?」

「そんなこと聞きたいの? というか、寝なくていいの?」

「眠くないです。何か理由があるんですよね?」

「えー、眠くないの? 理由って……あるといえばあるけど……大したことじゃないから」

 ないと言えば嘘になる。リシャールに嘘はつきたくないと、曖昧に答えを返す。

「どんなことですか?」

「いや、だから、大したことじゃ……」

「過去に何かあったんですよね?」

 リシャールのきれいな瞳に見据えられながらの唐突な質問に、僕の心臓はどくりと大きく波打った。「な、んで」と返すのが精一杯だ。そんな僕を見て彼は一度軽く息を吐き、「じゃあ質問を変えます」と言う。

「何で女の子扱いされる方が気楽なんですか?」

 隠している何かを射抜くような視線に、どくん、どくん、と心臓が鼓動する音がうるさい。冷や汗が出てきて、冷たくなった手が震え始める。

「……それは……」

「何があったんですか? 俺にも、言えませんか?」

 ダイニングテーブルに乗せている僕の手を、リシャールの温かく大きな手が包み込む。いつの間にか、手の大きさも追い越されてしまった。

 リシャールが自分を見ているのがわかるのに、僕は下を向いてしまい、顔を上げられない。彼を引き取ってから、何か話す時にはちゃんと目を見て話そうって決めていたのに。

「……昔、ね」

 僕はテーブルに視線を落としたまま、震える唇で切り出した。弱々しい声だが、彼はしっかり聞こうとしている。話さないわけにはいかないだろう、リシャールが知りたがっているのなら。結局、僕は彼に甘いのだ。

「十歳の時、母が心臓の病で急死してね。僕を引き取りたいという貴族が現れた。その人が父親だった」

「えっ、もしかして、庶子?」

 この話を自分の口から人にするのは初めてだ。胸の大きな鼓動はまだおさまっていない。僕は一度深呼吸してから、懸命に言葉を選び、口にする。

「うん。母は妾だったんだ。父親は亡くなったと聞かされていたから、それまで知らなかったんだよね。それから僕は庶子としてその貴族の家に迎えられた。そこには腹違いの、二歳年上の姉がいた。最初は義母も姉も僕のことをかわいがってくれていたんだけど……」

「……何か、されたんですか?」

「僕が十四歳の時、姉が突然僕の部屋にやって来て自分の服を切り裂いた。それから、『キャー!』と叫んで、あとはお察しの通り」

「それ……、婦女暴行の濡れ衣を着せられた……ってことですよね?」

 リシャールの手がぎゅっと僕の手を握った。力強いけど、痛くはない。応援されているようで、僕の手の震えが止まった。胸の鼓動も、痛いくらい波打っていたのに、今は落ち着いている。クロードの言う通り、僕は自分が思うより現金なのかもしれない。

「うん。僕は学校の成績だけは良かったんだ。義母や父が、そんな僕をほめるのが許せなかったらしい。他にも理由はあったかもしれないけど、聞いてないな。それですぐに全寮制の学校に入れられたよ。そこでは、どこからかその婦女暴行の噂が出回っちゃって、クロード以外とは誰とも馴れ合わないっていう生活を送ってたんだけど……」

「そこでも、何か?」

「医学を学んでたから勉強でつまずきたくなくて、教え方が上手な女性教師の元によく通ってたんだ。その教師はとても親切な人で、僕の質問に真面目に答えてくれた。でも、知らない間にやめさせられてた」

「……え?」

「教師と学生の情事だと勘違いされてたって、後から気付いたんだよね。たまたま教師が女性だっただけで、そんなこと全くなかったのに……。何だかもう、馬鹿馬鹿しくなってしまって。僕が男だからなのかと思うと……」

 全寮制の学校に放り込まれたのは、気を遣う必要がある家より気楽にできたからかえって好都合だったが、事実無根の婦女暴行の噂のせいでクロード以外の友達ができなかったのはつらかった。女性教師が何も言わずにやめてしまったのも。クロードは酒場で、そのことを思い出していたのだろう。

「男として生きるのが馬鹿馬鹿しくなった?」

「そう、だね。人並みに女の子は好きだったし欲もあったけど、どうでもよくなったよ。姉のあの狂気に満ちた姿を思い出すと、よけいに。まあ、学校を卒業して独り立ちできたから、今では……」

「まだ、消化できていないですよね?」

 僕の話を遮り、消化、と彼は言った。消化できていないって、どういうことだろう。栄養として吸収できていないという意味だろうか。

「……消化って? 普通に仕事できて、普通に日常生活を送ることができていればいいって思ってるんだけど……。ほら、僕は小柄だから、ちょうどいいんだよ。だから髪を伸ばしたんだ。男としてじゃなくて、かわいく見られる方が……気が、楽で……」

 そこまで言葉にして、初めてわかった。それは嘘だ。僕は自分に嘘をついていた。本当は引き取られてからというもの、早く一人前として見られたくて、もっと体が大きくなってほしいと願っていた。小柄で子供のように扱われるのも、女の子みたいにかわいいと言われるのも複雑な気分だった。美人と言われていた母に似ているから仕方ないのだが、自分は男なのにと暗い思いを抱えていた。

 そんな思いと反比例して、過去の嫌な出来事から、男であることをやめたいとも思っていた。その結果が今の僕だ。酒で顔が赤くなっても、ジュリエットという女性名の方が似合うと言われても、『自分は男なのに』なんて思わなければ、ちょっと恥ずかしい思いをするだけで全てが丸く収まる。この矛盾が、『消化できていない』ということなのだろうか。

「ジェレミー」

 考え込んで黙ってしまった僕の名前を、リシャールが呼んだ。小さいのによく通る、穏やかな声だ。どくん、と、せっかく収まっていた心臓がまた暴れ出す。

「な、何?」

「俺は好きですよ。先生の名前」

「そ、う? ありがとう……」

 リシャールの熱のこもった視線が僕をとらえ、握られたままの左手が熱くなっていくのがわかって急に恥ずかしさを感じてしまう。

「え、っと、もう寝ないと」

「おなかすきませんか? この間もらったチョコレート、まだあったかな」

「寝る前は何も食べない方がいいよ」

「ちょっとだけ」

 いたずらっぽく笑う仕草も格好いいなんてすごいなと、僕は感心して椅子から立ち上がった彼を何気なく見上げた。その手が離れ、空気の冷たさで自分の手の温度が冷めていくのが嫌だと感じる。僕はそんなに寒がりだったのか。

 リシャールは戸棚をごそごそと漁り、高級チョコレートの箱を取り出した。お隣さんからのもらい物で、蓋を開けると小さなチョコレート菓子が整然と並んでいる。

「おいしそう。先生、ナッツは入ってない方がいいんでしょう?」

 「うん」と答えてから一つを指でつまんで口に入れると、舌の上でとろけてすぐになくなってしまった。

「おいしい。リシャールは食べないの?」

「食べさせて」

 あーん、と口を大きく開けたリシャールは、鳥の雛みたいだ。親鳥が餌を与えるのを待つ、親鳥の愛情を受けられないとすぐに死んでしまう、もう六年間も餌付けされている、体が大きくなった雛。

 リシャールくらい背が高かったらよかったのに、このくらい肩幅があればよかったのに。僕は小柄で女の子みたいな顔立ちなのに、男として見られてつらい思いをしたのだ。それならいっそ、もっと立派な体格になりたかった――。

 僕はチョコレート菓子を指で一つつまみ、ゆっくりとリシャールの口の前まで持っていってから、自分の口に素早くそれを放り込んだ。

「えっ、ひどい」

「格好いいといじめたくなるんだよ」

「……意地悪」

 その言葉が聞こえてすぐ、僕の後頭部に手を回したリシャールの顔が近付いてきた。彼の唇が僕の唇と重なり、弾力のある舌がぬるりと割って入ってきて僕の舌の上の溶けたチョコレートを舐め取っていく。

「んっ……!」

「本当だ。おいしいですね」

 後頭部にあった彼の手が離れ、あまりにも突然だった一連の出来事に呆然としていると、リシャールはふっと微笑んでから「おやすみなさい」と言って自分の部屋に入ってしまった。

「……今の、何……?」

 空間に取り残されたまま誰にも拾ってもらえないつぶやきのように、チョコレートの味も、口の中にいつまでも残っている。

 夜の冷えた空気の中、僕の頬と唇は熱に浮かされ、なかなか冷めることはなかった。
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