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鶴機 亀輔

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第1章

0.01ミリメートルの防御壁4

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 そのまま地下鉄のホームに向かって早歩きをする。



 ――セックスは性欲を満たすための暇つぶしのコンテンツにしか過ぎない。

 よく「初めてが怖い」とか「好きな人とかしたくない」なんて訊くけど、そんなのはまやかしだ。

 セックスの上手い相手を選べば、初めてでも怖くない。好きでもない相手とヤッても身体は快楽を得る。

 場数を踏んで慣れれば、こんなもんかって感じ。

 出会ったばかりの人間とだって、AV並のこともできる(さすがにシャワーに入っていない恥垢のついた汚いチンコを舐める趣味はないけど)。身体だけの関係だと割り切れる。事実、身体を売る仕事について、お金をもらっている人間が世の中にごまんといる。

 よく処女とか、童貞である人を馬鹿にするやつがいるけど何してんの? って感じ。

 べつに非童貞・非処女なんて、そんな重要なものじゃないし、すごいことでもない。セックスなんて毎朝顔を洗って、歯を磨くのと同じ。毎日のルーティンと大差なし。

 でも世の中には、その毎日のルーティンを自分ひとりで行うのが難しい人だっている。

 だれかの力を借りたり、年単位の長いスパンをかけてできるようになる人が。

 だれかにとっての当たり前は、だれかにとっての当たり前じゃない。

「普通にやれるのが、とうぜん」なんて、人間を画一的にあらわそうとする暴力的な考えだ。

 だれだって苦手なことがある。

 大の大人でもピーマンやにんじんを食べられなかったり、車の免許を持っているけど運転に自信がないからペーパードライバーの人がいる。

 第一、非童貞・非処女でもセックスが苦手・嫌いって人がいる。だから一定数セックスレスの人がいる。

 かと思えば恋人やパートナー、伴侶がいるのに風俗に手を出したり、浮気・不倫に走る連中もいる。

 できるに越したことはないと思う。

 でも、どうしてもできないこと・苦手なことが人それぞれある。それをいつまでも「普通の人間はできることが、どうしておまえにはできないんだ!」と口うるさく言って強いるのは、どうかしている。

 第一セックスをしなければ、性病の心配をいちいちする必要はない。相手の浮気・不倫騒動に巻き込まれるストレスはゼロ。つきあってもらえると期待していたら愛人、セフレ、浮気・不倫相手になって欲しいなんて話で、ショックを受けることもない。

 だけど、それじゃぼくは駄目なんだ。身体が満たされない。太陽がギラギラと照る灼熱の砂漠で、冷たい水を求める旅人のように求めずにはいられない。

 性欲を満たすために適当な相手を見つけてセックスをする。「ああ、気持ちよかった」って銭湯や温泉にでも浸かったみたいに、なれればいい。そっちの方が、だんぜん楽。

 けど――そんな風には、なれやしない。

 どんどん心がすり減っていく。



 スマホを改札にかざし、タイミングよくやってきた地下鉄へ乗り込む。

 席はラッシュ時と比べて空いていた。人が多く座っていない隅へ座る。

 アパートへ帰ったらゲームをする。今のうちに明日の天気や株のレート、ニュースサイトを確認しなきゃいけない。いつもなら朝晩必ずやるルーティン。

 それなのに、どうしてもスマホを見る気が起きない。

 ワイヤレスイヤホンのケースをカバンから取り出す。イヤホンの電源をオンにして耳に入れる。音楽アプリを起動する。すっごい気に入っているわけでもない流行りのアーティストの曲をランダムに流す。



 身体の欲を満たせても、本当に欲しいものは何ひとつ手に入らない。

 恋愛・結婚を考えずに済む人が羨ましい。割り切って他人と身体の関係を築き、楽しめる人がねたましい。

 恋なんてしなければよかった。

 恋に落ちる? なんて、おかしな表現だろうって思っていた。けど、まさしく言いえて妙なり。

 恋をした日から人生を転落していくようなものだ。

 好きな人間のことを日がな一日考えている。

 弓道同好会の友だちが言っていた。精神統一をして凛とした姿勢で弓を張る。一射入魂。邪念を捨てないと矢は的の中央には当たらない――と。その友だちは矢を射るとき以外も、矢を射るときのような気構えで物事に当たると話していた。

 恋に落ちた日から、あいつのことを思わない日はない。朝も、夕も関係なく思っている。

 それじゃ、何も手がつかなくなってしまう。弓道なんて一度もやったことがないけど、理屈ならわかる。過集中の状態となり、ゾーンへ入るのだ。

 そうすればあいつの顔を思い浮かべる時間を減らせた。学校の勉強やゲーム、バイト、大学の友だちと遊ぶことに身が入った。「好き」なんて態度を、お首も出さずに済んだ。

 だけど少しでも疲れを感じたり、精神的に参っているときは、そうもいかない。彼のすべてを思い描き、心を求めずにはいられない。

 心なんていう目に見えない、本当にあるかどうかもわからないものをのどから手が出るほどに求め、望んでいる。それが手に入らないとわかっても、なお思う気持ちは消えない。

 胸の苦しみや痛みを紛らわすために、一時の快楽にふける。

 大好きな人に触れてもらえなくて人肌が恋しくなる。思いを受け入れてもらえない切なさが全身をむしばむ。それを擬似的に満たすためだけに、適当な男と身体を繋げる自分が嫌いだ。
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