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第3章
桃9
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真弓が卒倒する。
「逃げて」
母親にそう伝えようとするものの声が出ない。脂汗を全身にかきながら、朔夜は震える手で仏壇のほうを指差した。
真弓は息子が何かを指差していることに気づき、振り返った。
黒いのっぺらぼうは、真弓が振り返る直前に、すうっと空気に溶け込むようにして姿を消した。
よかった。母ちゃんが、お化けに襲われなくて……。
朔夜は、必死の形相をして何言か喋っている母親の顔を最後に、意識を手放した。
*
翌朝の午前七時過ぎに朔夜は目を覚ました。
目を開くと見慣れぬ天井がある。口元に軽い圧迫感を感じる。左腕から管が伸び、指先にはクリップがついている。
右手が熱い。だれかにギュッと手を握られているのを感じて朔夜は、顔を横に向けた。
そこには目元を赤く腫らし、憔悴しきった顔をしている真弓がいた。
「朔夜!」
何度も「よかった」と言って、はらはらと涙を流す母親のことを朔夜は不思議に思いながら、重たいまぶたで瞬きを繰り返した。
朔夜は朝から元気がなかった。
体調はよくなった。
酸素マスクに点滴、バイタルの測定器も外すことができた。だが彼は朝食に出た粥もほとんど手をつけず、真弓と看護婦をやきもきさせた。
同じ部屋の住人である老人が母方の祖父と知り合いで気をきかせて声を掛けてくれたものの人と話をする気には、なれなかった。
まさか、自分に桃アレルギーの可能性があり、そのせいで重篤なアナフィラキシーを起こして死にかけるなんて、夢にも思わなかった。そのせいで日向とのプールの約束を破ってしまった……。
朔夜は自分の行いを深く反省し、落ち込んでいたのだ。
何をするでもなく窓の外の景色をぼうっと眺め、うとうとしたら布団に入って寝る。その単調な動きを何度も繰り返して憂鬱な気分をごまかした。
午後の二時を過ぎた頃に、真弓が「購買で買い物をしてくる」と席を外した。
いつになったら家へ帰れるのだろう。
朔夜はため息をつき、大海原に浮かぶ白い客船のような積乱雲を眺めた。
部屋の真向かいにあるナースステーションから聞き慣れた声がする。
「こんにちは、看護婦さん! 303号室のお部屋に入ってもいいですか。さくちゃん――お友達の叢雲朔夜くんのお見舞いに来たんです。会えますか?」
「ええ、もちろん。おうちの人と一緒に来たの?」
「はい、お母さんと来ました! お母さんは今、朔夜くんのお母さんとお話中です。僕、待ちきれなくて先に来ちゃいました」
「あら、そうなの。迷子にならずに来れて偉いわね。朔夜くんのお部屋はすぐそこよ。ここを真っ直ぐ行った先にあるわ」
「ありがとうございます!」
日向に会いたいと思うあまり幻聴が聞こえるようになったのか!?
何もかもがいやになった朔夜は、消毒液の臭いが染みついた布団を頭までかぶった。
「失礼します」
ドアを開け放ったままの病室へ、だれかが入ってくる。
室内トイレで用を済ませた老人が「あれま、可愛いお嬢ちゃんだね。どうしたんだい?」と猫撫で声で来訪者に話しかける。
来訪者は、むっとした声で「違います」と言い返した。
「僕、女の子じゃなくて、男の子です! 朔夜くんのお見舞いに来たんです!」
まさか、そんなはずはないと思いながらも朔夜の心は期待と不安で、いっぱいになる。そろそろと布団から頭を出し、声の主のほうへと目を向ける。
「さくちゃん!」
日向だ。
反射的に朔夜は自分の頰をつねった。
痛い。夢じゃない。
朔夜は頬から手を放し、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「何をしているの? ほっぺが痛くなっちゃうよ」と日向は、朔夜が先ほどつねっていたほうの頬を人差し指で突いた。
妄想の産物ではなく、本物の日向が目の前にいることに、朔夜は驚いた。
「具合はどう。まだつらい?」
手に持っていた紙袋をベッドの横にある丸椅子に置くと日向は、無言状態でいる朔夜の傍らに立つ。朔夜の額と自分の額に手を当てる。
「お熱はないんだね」と日向は首を縦に振って手を離した。
「おまえ、どうして、ここにいるんだよ? 他のやつらとプールへ遊びに行ったんじゃないのか?」
「行かないよ。さくちゃんがこんな状態なんだもん。朝ね、さくちゃんのお母さんから電話があったんだ。さくちゃんがプールに来られないってお話を聞いたの。お母さんが『朔夜くん、具合が悪くなって入院してるみたい』なんて言うから僕、居ても立っても居られなくなっちゃった。でも、よかった。思ったよりも元気そう!」
日向はお日様みたいな笑顔で笑った。
夜になると退院の許しが出て、朔夜は家に帰宅した。あんなに具合が悪かったのが嘘のように、ピンピンしていた。
ただ、その頃になると――黒いのっぺらぼうや満月と出会ったことの一切合切を忘れていた。それどころか「桃をすべて食べたのは自分だ」と言い出し、真弓に怒られるのが怖くなって押入れに隠れたこと、そして――嘘をついたことを家族に謝ったのだ。
「逃げて」
母親にそう伝えようとするものの声が出ない。脂汗を全身にかきながら、朔夜は震える手で仏壇のほうを指差した。
真弓は息子が何かを指差していることに気づき、振り返った。
黒いのっぺらぼうは、真弓が振り返る直前に、すうっと空気に溶け込むようにして姿を消した。
よかった。母ちゃんが、お化けに襲われなくて……。
朔夜は、必死の形相をして何言か喋っている母親の顔を最後に、意識を手放した。
*
翌朝の午前七時過ぎに朔夜は目を覚ました。
目を開くと見慣れぬ天井がある。口元に軽い圧迫感を感じる。左腕から管が伸び、指先にはクリップがついている。
右手が熱い。だれかにギュッと手を握られているのを感じて朔夜は、顔を横に向けた。
そこには目元を赤く腫らし、憔悴しきった顔をしている真弓がいた。
「朔夜!」
何度も「よかった」と言って、はらはらと涙を流す母親のことを朔夜は不思議に思いながら、重たいまぶたで瞬きを繰り返した。
朔夜は朝から元気がなかった。
体調はよくなった。
酸素マスクに点滴、バイタルの測定器も外すことができた。だが彼は朝食に出た粥もほとんど手をつけず、真弓と看護婦をやきもきさせた。
同じ部屋の住人である老人が母方の祖父と知り合いで気をきかせて声を掛けてくれたものの人と話をする気には、なれなかった。
まさか、自分に桃アレルギーの可能性があり、そのせいで重篤なアナフィラキシーを起こして死にかけるなんて、夢にも思わなかった。そのせいで日向とのプールの約束を破ってしまった……。
朔夜は自分の行いを深く反省し、落ち込んでいたのだ。
何をするでもなく窓の外の景色をぼうっと眺め、うとうとしたら布団に入って寝る。その単調な動きを何度も繰り返して憂鬱な気分をごまかした。
午後の二時を過ぎた頃に、真弓が「購買で買い物をしてくる」と席を外した。
いつになったら家へ帰れるのだろう。
朔夜はため息をつき、大海原に浮かぶ白い客船のような積乱雲を眺めた。
部屋の真向かいにあるナースステーションから聞き慣れた声がする。
「こんにちは、看護婦さん! 303号室のお部屋に入ってもいいですか。さくちゃん――お友達の叢雲朔夜くんのお見舞いに来たんです。会えますか?」
「ええ、もちろん。おうちの人と一緒に来たの?」
「はい、お母さんと来ました! お母さんは今、朔夜くんのお母さんとお話中です。僕、待ちきれなくて先に来ちゃいました」
「あら、そうなの。迷子にならずに来れて偉いわね。朔夜くんのお部屋はすぐそこよ。ここを真っ直ぐ行った先にあるわ」
「ありがとうございます!」
日向に会いたいと思うあまり幻聴が聞こえるようになったのか!?
何もかもがいやになった朔夜は、消毒液の臭いが染みついた布団を頭までかぶった。
「失礼します」
ドアを開け放ったままの病室へ、だれかが入ってくる。
室内トイレで用を済ませた老人が「あれま、可愛いお嬢ちゃんだね。どうしたんだい?」と猫撫で声で来訪者に話しかける。
来訪者は、むっとした声で「違います」と言い返した。
「僕、女の子じゃなくて、男の子です! 朔夜くんのお見舞いに来たんです!」
まさか、そんなはずはないと思いながらも朔夜の心は期待と不安で、いっぱいになる。そろそろと布団から頭を出し、声の主のほうへと目を向ける。
「さくちゃん!」
日向だ。
反射的に朔夜は自分の頰をつねった。
痛い。夢じゃない。
朔夜は頬から手を放し、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「何をしているの? ほっぺが痛くなっちゃうよ」と日向は、朔夜が先ほどつねっていたほうの頬を人差し指で突いた。
妄想の産物ではなく、本物の日向が目の前にいることに、朔夜は驚いた。
「具合はどう。まだつらい?」
手に持っていた紙袋をベッドの横にある丸椅子に置くと日向は、無言状態でいる朔夜の傍らに立つ。朔夜の額と自分の額に手を当てる。
「お熱はないんだね」と日向は首を縦に振って手を離した。
「おまえ、どうして、ここにいるんだよ? 他のやつらとプールへ遊びに行ったんじゃないのか?」
「行かないよ。さくちゃんがこんな状態なんだもん。朝ね、さくちゃんのお母さんから電話があったんだ。さくちゃんがプールに来られないってお話を聞いたの。お母さんが『朔夜くん、具合が悪くなって入院してるみたい』なんて言うから僕、居ても立っても居られなくなっちゃった。でも、よかった。思ったよりも元気そう!」
日向はお日様みたいな笑顔で笑った。
夜になると退院の許しが出て、朔夜は家に帰宅した。あんなに具合が悪かったのが嘘のように、ピンピンしていた。
ただ、その頃になると――黒いのっぺらぼうや満月と出会ったことの一切合切を忘れていた。それどころか「桃をすべて食べたのは自分だ」と言い出し、真弓に怒られるのが怖くなって押入れに隠れたこと、そして――嘘をついたことを家族に謝ったのだ。
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