綾、夏廻る

せいのかつひろ

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プロローグ「名を隠す夜」

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 人間は一生のうちに何度か、自分の価値観が変わる出来事を経験する。
 酒を片手に持ちながら、僕の数少ない友人の一人であり、その中でも無類のオカルト好きという共通の趣味を持っている貴重な人物でもある綾瀬がぽつりと、どこか思いつめたようにそんなことを呟いた。
 大学二回生の夏、コツコツとバイトを積み重ね先日漸く手に入れたボロの車。僕らは長い夏休みを利用して心霊スポット巡りを計画していた。今日は夏休みが直前に迫ったということで本格的に旅行の道程を決めていく、その筈だった。
 ところが、だ。
「それなんだけどよ。悪い阿須加、やっぱ俺、旅行いけない」
「はぁ? どうしたんだよ急に」
「言ったろ、価値観。変わっちまったっぽい」
 わけが分からない。いや当然言葉の意味は分かるのだが、だからどうしたというのだ。そもそもこの話だって元は綾瀬から僕に話を振ってきたくせに。元々奔放なところがある奴ではあったが、ことオカルトに関しては人並み以上の情熱があると思っていたのに。それにもし仮に、価値観が変わったのだとしてもだ。それなら友人との旅行ということにでもして、同行してくればいい。旅先で別行動だったとしても大いに結構。今日はそういった旅のプランを具体的にしていく、そういう日だった筈ではないか。

 僕達のオカルト好きは今に始まったことではない。
 綾瀬と出会ったのは大学のサークル歓迎会。オカルトサークルだというそこにいた面々は、オカルトのオの字も知らないような人ばかりで、ただ集まって心霊スポットやパワースポットに合宿、遠征と言ってそこに行くだけという、言わば旅行サークルだった。こんな場所に所属するくらいなら一人でフィールドワークにでも行った方が幾らか実があるだろう。そんな場所で僕と綾瀬は出会った。
 高校時代から心霊写真の解析や、パワースポットのルーツを調査したりと、そこそこ本格的な活動をしていた僕だが、どうやら綾瀬も似たようなことをしていて、気付いたら没頭し過ぎで友達がいなくなっていた、というところまで一緒だった。

 こんなに話の合う奴がいるものだろうか。僕と綾瀬はすっかり意気投合し、以来大学生活の殆どを一緒に過ごすようになった。
 その綾瀬が、いきなりこんな弱気なことを言っている。数日前までは僕よりも楽しみにしていて、色々調べては昼夜を選ばず連絡をしてきたくせに。でも確かに、昨日は旅行についての連絡は一切なかったように思う。

「……何があったんだよ。まさかお金使っちゃったとか、彼女が出来たとか、そういう話じゃないよな?」
 僕がそう問うと綾瀬は右手をないないと左右に振って声を上げた。
「な、ばか、お前それはねーよ。俺だって楽しみにしてたんだからさ。ただ、気付いちまったんだよ。世の中にはよ、たしかに不思議なことが、理解しようとしても出来ないことってのがあって、俺達みたいなのが簡単にそれを欲しがったり近付いちゃいけないんだってことにさ」
 やはり納得出来ない。そういった不思議に触れて、出会って、というのが僕達みたいな人種の生き甲斐ではないのか。それで死んでしまったのだとしても本望だと、そうじゃなかったのか。
 ただ、話をするうちに段々と綾瀬の表情はいつになく真剣なものに変わっていった。そんな綾瀬の様子を見て、怒りよりも戸惑いの方が大きくなっていく。
「……人に会ったんだ」
 喉の奥につかえたものを飲み下すかのように、綾瀬はグラスに半分は残っていただろう酒を一息に煽ってから、店員に同じものをもう一杯頼んだ。それから僕に向き合い、呟くように語り出した。
「うちのサークル、今でこそ旅行サークルみたいになってるけど、二年前……俺達が大学入る前まではそりゃあもう凄い本格的だったらしいんだ」
 その話は先輩から聞いたことがある。綾瀬と二人、とりあえず抜けずに所属し続けていたサークルの集まりの中。酒の勢いでついもっとこうした方が面白い、ただ場所を巡るだけでは面白くないと愚痴ってしまったことがあった。その時に先輩が言い訳をするように、少しだけ漏らしたのだ。
「で、その凄かった時期って言うのは、何も皆が皆そういうノリだったってわけじゃなくて、一人ヤバい人がいただけらしい」
「その話なら知ってるよ。棗っていう先輩だろ?」
 棗というその女性の先輩は、所謂「視える人」で、そういったモノが原因で悩んでいる人が救いを求めて彼女を訪ね、実際に助けたりもしていたそうだ。
「そうそうその人。で、その人の本格的ってのがこれまた厄介だったみたいでさ、降霊とか呪詛まで嗜む、生粋のオカルトマニアだったらしいんだ。実際に目の前で何が起こっているか分かんないけどいつの間にか危険な状態になっていて、それを祓ったとか言うんだぜ? 普通ビビッて何にも言えなくなるだろ」
 確かに、そんな人がサークルの中心にいては、今のような半端なことが出来る筈もない。もし彼女の怒りを買ってみろ、呪われてしまうかもしれない。棗先輩本人がそんなことするわけないと思っていても、人間の心理とはそういう風に働くものだ。真に強い人間、自分より上位にいるであろう人間に対し、平常心で接することの出来る人間はそう多くない。僕らのような人種を除いて。
「そんな人、是非一度お会いして話を聞いてみたいけどなぁ」
 僕らはどれだけ知識を付けようと、努力を積み重ねようと「本物」にはなれないのだ。プロ選手に憧れるアマチュア選手のような感覚だと言えば分かってもらえるだろうか。
「そう思うよな。で、俺は実際にその人に会ってきたのよ」
 え、と思わず大きな声が出た。羨ましい。
「なんだよそれ、そんな面白そうな話があったなら僕に連絡くれたって良かっただろ」
 そういうんじゃなかったんだと両手で僕を制しながら綾瀬は理由を話す。
「たまたまバイト帰りに先輩方と会ってさ、OBも交えて向こうで飲み会があったらしくて。棗先輩、めっちゃくちゃ美人でさ、黒い髪がこう、すとんって肩まで真っ直ぐ落ちていて、街灯に反射すると錯覚なんだろうけど蒼く光ってるみたいでさ……。挨拶した時のミステリアスというか、クールな雰囲気がとりあえず最高だったし、声がまた凛と澄んでて綺麗でさぁ。少し吊り上がった目とか、厚みのない唇とかもう完全にタイプで……」
 なるほど、それで僕を出し抜いてお近付きになろうとしたわけか。出会った頃は僕と同じ大人しい奴だったくせに、この一年の間、サークルの付き合いやバイトでの交流なんかを通じて一気にアクティブな人間に変わったようだ。価値観が変わったのはもしかしなくてもそのタイミングではないだろうか。
「……で、先輩らと仲良い同級生の奴らもいてさ、その中の一人が棗先輩に色々相談したいとか言い出したわけよ! 先輩達はぎょっとしていたし、棗先輩もちょっと困った感じだったんだけど、俺がごり押して、先輩の家で急遽心霊相談やるってことになってさ」
「……めっちゃ楽しそうじゃん」
こっからなんだよ、と綾瀬は少し声のトーンを下げた。
「部屋に入ったら凄い良い匂いがしてさ……今は院生で、アパートに一人暮らしだって言ってたんだけど、それにしちゃあ随分広い部屋に住んでたよ。リビングの他に二部屋あったし、リビングは俺を含め七人だったけど全然広々だったし。聞いたら、ここじゃなきゃダメだとか無理言って仕送りしてもらってるらしい。先輩の家に行く途中で俺も缶ビール買って飲んでたってのもあって、最初は結構ご機嫌だったんだけど、よく見るとその部屋ちょっとおかしかったんだ」
「随分と勿体ぶるねぇ」
 店員に飲み物を注文しながら、綾瀬にとっとと本題に入れと催促する。しかしええと、だとかそのぅ、だとか言ってなかなか話が進まない。綾瀬は、どうやら言葉を選んでいるようだった。それもいつものこいつらしくない。
「……んー、なんつうか、生活感がないって言えばいいのかな。一人で部屋持て余していただけなのかもしれないけど、なんか造り物感というか、嘘っぽいというか……カーテン閉めなくても凄い暗くて、射し込む月明かりが綺麗っていうよりはなんか不気味でさ。皆その雰囲気に呑まれちゃって……特に異彩を放っていたのがキッチンカウンターに置かれたおっきな水槽。こんくらいの奴」
両手を目一杯広げて綾瀬が幅をジェスチャーする。確かに、随分大きいサイズだ。維持管理にもお金が掛かりそうなものだが。
「いや、サイズが問題なんじゃなくってさ、その中になんにもいないんだよ。あのブクブクする奴とか、照明とかちゃんとついてるのにだぜ?」
「夜行性の奴とか、岩の影に隠れて寝てるだけとか……」
「いや聞いたんだよ、何飼ってるんですかって。そしたらそれは気にしないでってはぐらかされちゃってさ。こえーだろ?」
「ふぅん……まぁ気になるけど。それよりはやく、続き続き」
 随分焦らされている気がする。その程度であれば綾瀬がここまで弱気になったりしない筈だ。はやく本題に入って欲しい。僕が促すとあぁそうだな、と綾瀬も覚悟を決めたのか、一つ咳ばらいをする。
「同級の、ほら、ストーカーされてるかもーとか言って騒いでた子いるだろ?」
「……あぁ、御崎さんね」
 御崎さんはどこのサークルにも一人はいる……のかは分からないが、所謂「お姫様」な女の子だ。チヤホヤされる為に全力で生きてる感じ。実際かなり可愛いのだろうが、鼻にかかった声だとか大袈裟にリアクションだとか、彼女の言動は見ていてかなりイライラするものがある。そんな彼女だが、見た目の可愛らしい印象とは裏腹に中々肝っ玉の据わった子で、それなりに危険だと評判の心霊スポットで男共が二の足を踏む中、「さっさと行って温泉行きましょうよぉ」とか言って一人で先に進んでいく子だ。その点は、まぁ割りと嫌いじゃない。仲良くなりたいとは思わないが。そんな性格だからか、サークル内外での異性間トラブルが絶えず、つい先日から誰かに後を付けられているだの、何かから追われる夢ばかり見て全然眠れないだのと騒いでいたのを思い出した。綾瀬が続きを話す。
「そうそう御崎さん。で、棗先輩とそこで初めて会ったらしいんだけど、先輩、重いのが憑いてるねとか初対面で言ったらしくてさ。なんとかして欲しいって棗先輩にお願いしていたところに俺が出くわしたってことらしいんだ」
「間がいいんだか悪いんだか……」
 綾瀬はどこか思いつめた表情で、その時のことをとつとつと語り始めた。
いちいちチャチャを入れていては話が進まないか、と僕は黙って綾瀬の語りを聞くことにした。


――


「正直、生霊の類は力が強力で、私なんかでは完全に払うことは出来ません。なので、根本的な解決は御崎さんがその生霊を飛ばしている方としっかり話し合わないことには不可能でしょう。御崎さん、どなたか、貴方に無意識で思いを飛ばしてしまうような方に、心当たりはありますか?」
 まるでカウンセリングだったよ。皆息を押し殺して二人を見守っていた。棗先輩の問いに、御崎さんはいつものキャラを捨て、強張った表情でゆっくり頷いた。
「……そうですか。それは、幸いですね。そちらはご自身でなんとかなさってください。これから私が貴方に行うのは、今貴方に憑いている生霊が、貴方を見つけ難くなる呪い(まじない)の儀式です。成功すれば、無意識に貴方へ向かって飛んでくる生霊が、貴方の存在を認識出来ず、上手く憑くことが出来なくなる……かもしれないです。儀式を執り行うにあたって、皆さんの中からどなたか二名ほど、協力頂きたいのですが……あ、もちろん何か危ない目に遭う、というものではないです」
 そこまで言い切ったあと、棗先輩が皆に目配せするんだけど、皆目を逸らしちゃってさ。正直怖かったけど、そこは流石に俺、手を挙げたよ。俺が無理言っちゃったところもあったしさ。で、結局もう一人は副部長なんだからとか言って鈴木先輩が無理矢理参加させられる形になった。あの人押しに弱いからさ。御崎さんもその時は流石に泣きそうになっていたけど、俺と副部長がやることになったら急に、なんか、覚悟しましたって顔になった。
「……ありがとう。では、始めます。他の人達は私が呼ぶまで隣の部屋か、外で待機していてください」
 先輩が言うと、残った皆はそろそろと外に出て行った。皆が出て行ったのを確認してから棗先輩は一度、窓の向こうを見るように振り返ってからこっちに向き直り、俺達に儀式の内容を説明する。
「それでは、月が出ているうちに済ませましょう。四人が四方になるように座って。私の正面は御崎さん、左隣は綾瀬さん、右隣は鈴木さん、で宜しいですね。……ではここに胡坐で座ってください」
 なんにもない床に四人で円になるように座る。副部長はこの時既に脂汗が滲んでいた。相当怖かったんだと思う。俺も凄いドキドキしていたし。色々と調べたり、写真撮ったりはしたけど、実際に術とか儀式なんてやったことなかったからさ。
「では隣り合う人と手を繋いでから、目を閉じてください」
 俺は御崎さんと棗先輩の手を取って、ゆっくり目を閉じた。後から考えると先輩と手を繋げたんだしめちゃ役得じゃんとか思ったけど、この時はそれどころじゃなかった。目を閉じると、棗先輩の声がまるで月明かりみたいに頭から降り注いでくるみたいな気がして、不思議な感覚だったのはすげー覚えてる。
「目を閉じて、私に合わせて深呼吸をしてください。吸って……吐いて……もう一度。吸って……吐いて……。これより先、私が手をパン、と叩くまで、何があっても、何を感じても決して目を開けず、手を離したりしないでください。出来れば大きく動いたり、声も出さないように。呼びかけに対する返事も不要です。例えば、もういいですよ、と私の声が聞こえたのだとしても、手を離したり目を開けたりしないように。私が両手を叩くまでは、絶対にです」
 淡々とした口調で棗先輩はこの儀式の注意事項を話していく。別に眠たいわけじゃないのに、どうしてか意識がぼうっとしていくような気がして、眠ったりしないように、棗先輩の声にだけ集中した。棗先輩は俺の右隣にいる筈なのに、凄い遠くから声が聞こえてきていたから。聞き逃さないようにしないといけないって思った。
「これから私達は一時の間、名前を失います。十、数えますので、その間皆さんはご自身の右隣にいる人の名前を頭に強く思い浮かべ続けてください。例えば私の右隣は鈴木さんですので、私は鈴木という名を強く思い浮かべ続けます。それでは、いきます――」

 御崎さんが、俺の手をぎゅっと握る感覚があった。握り返してあげたかったけど、それで集中出来なかったら嫌だし、先輩の声がどんどん遠くなっていくせいで、集中を解くわけにはいかなかった。

一、
二、
三……

 三を数え終わるくらいから、周囲が騒がしくなった気がした。家鳴りとか、扉の閉まる音とか、水道の蛇口から一滴水が滴る音とか。そういう音が気になり始める。それと同時に、段々棗先輩の声が遠くなっていくんだ。声を、聞き逃さないように、聞き逃さないように。目をぎゅっと握って力を込めて。先輩の声を辿る。

四、
五、
六、

 六を数え終えたあたりで急に、背後が、凄い気になるようになった。むずむずする。俺の後ろに、絶対何かがいる。蠢いている。確信があったよ。一気に血の気が引いたよ。俺もう怖くて怖くて。でも、動くことも、声を出すことも出来ない。副部長の息を呑む音が聞こえて、御崎さんが痛いくらいに俺の手を握ってきていたりしたから、多分皆も俺と同じ感覚がしているんだと思う。でも、棗先輩の方からは、何も感じなかった。というか、手を握っている感覚もない。この人今ここにいるのかって、危うく手を放しそうになったけど、なんとか握ってる形を維持して。なんでこんなにゆっくり数えるんだよってちょっと思った。

七、
八、
九、
十。

「――はい、皆さん、もう目を開けていいですよ」

 なんとか、十秒耐えきった。その頃にはもう肩で息していたし、全身に汗がまとわりついて気持ち悪かった。短く息を吐くと、先輩の声がそう言った。そう、確かに先輩の声だった。でも、先輩がさっき言っていた、手を叩く音がまだ聞こえていない。もうわけが分からなかった。なんで、先輩の声でそんな言葉が聞こえるのか。先輩じゃないなら、誰なんだよこいつ。こえーよ。副部長が、小さい悲鳴を上げた。頼むから途中で逃げるようなことをしないでくれよ。まて、これもしも失敗したらどうなるんだろう。危険はないとかって言っていたけど。本当にそうなんだろうか。こういったオカルトの儀式で何のリスクもないってものは殆どなかった筈だ。有名な話だと、こっくりさんの途中で手を離してしまって、参加した人間が行方不明になったという話があった。降霊や交霊といった、そういうモノに干渉しようとすればするほど、リスクが大きくなる。
「静かに」
 また先輩の声がした。副部長に伝えたみたいだから、この声は多分ホンモノの方だろう。
「あれ、どうしたんですか。もう目を開けていいんですよ。ほら、皆さん」
また、先輩の声。こいつは……こいつは違う。はやく終われ、はやく終われ。もう祈っていた。
「はやく外の皆さんを呼びにいかないと。そうだ、貴方、呼びに行ってきてくださいよ」
 耳元で声が聞こえる。俺はただひたすらに耐えた。
「もう、じゃあ貴方でいいですから、はやく、呼んで、こないと。ほら、貴方ですって、貴方」
 声は俺から、御崎さんの方へ寄っていった。声は、無反応なのに苛立っているのか、言葉の端々が乱暴になっていく
「わかった、もういいよお前。じゃあお前だお前。はやく行ってきてくださいよ。目を開けて、人の話を聞く時は目を見て話さないとだろ、ほら目を開けて。なんで黙ってるんだよ。出来ないなら、それを言わないと。言葉にしないと伝わらないでしょ、お前だぞ、ほら」
 そうか、今「こいつ」には、誰が誰だか、分からないんだ。名前を消したから。ここにいることは分かっても。
「目を開けてください」

「はやく、しないと」

「目を、開けろ」

「開けろ――」


――――パン。


 その音が聞こえた瞬間、先輩の声で俺達に語り掛けてきていた奴の声は消えた。
……終わったのだろうか。怖くて目を開けられないでいると、先輩の声がまた聞こえてくる。
「……お疲れさまでした。無事に儀式は終了です」
 澄んだ声が、右隣から聞こえて、俺の右手は解放された。ゆっくりと目を開ける。そこには先ほど見た、どこか嘘くさいリビングと、半べその副部長と、仰向けに倒れている御崎さんが視界に映った。
「……終わった……」
 俺もその場に仰向けに倒れ込んだ。
「本当に、強い執着心でした。本来こんなに長引くことはないのですが……とにかく、一応儀式は成功した筈ですので、今日はぐっすり眠れる筈ですよ、御崎さん。ただ、強い感情を持ちすぎると貴方の存在をまた生霊が認識してしまいますので、暫くはゆっくりゆったりと生活してください。そうですね……出来れば人に会うことも控えた方がいいでしょう。極力、で構いませんので」
 疲れ切っている俺達とは違い、出会った時から変わらない淡々とした口調で棗先輩が言う。ありがとうございます、と弱弱しい御崎さんの声を聞いて棗先輩は外へ向かった。


――


「それは……やばいな」
「だろ? もう俺気が気じゃなかったぞ」
 綾瀬が語り終える頃、注文していた酒が届いた。軽くジョッキをぶつけてから、お互いそれを口にする。
「そう言えば聞いたことあるよ、生霊って下手したら死んでる霊より質が悪いって。……で結局御崎さんはどうなったの」
「これ一昨日の話だぜ? そんなすぐにどうこうなる話じゃないよ。ただ、次の日はぐっすりでしたありがとうございましたって連絡来てたな」
「普段ちやほやされてるから勘違いされやすいけど、あれでしっかりしてるところあるよなあの子」
 綾瀬はあっという間に酒を飲み干し、次を注文する。すっかり呑兵衛が板に付いてきた。
「……ま、そういうことなら今回は心霊スポット巡り、あきらめるか」
「おぉ、わかってくれたか友よ」
「ただし条件がある」
「なんだよ、俺に出来る範囲でなら詫びってことで叶えてやらんこともない」
 急に偉そうな態度をとってくる。まぁ話を聞く限り大層美人だと言うし、そもそもそんな面白そうな話に自分が絡んでいないなんてどう考えてもおかしいだろう。僕の条件は当然――。
「棗先輩を紹介しろ。僕に」
「……阿須加君ってさ、たまぁあにバカだよね」
「うるせーお前だけにオイシイ思いさせるか! いいから紹介しろ副部長経由でもいいから」
「わかったわかった今度な」
 僕は言ってから残りの酒を飲み干し……あれ、もうないのか。綾瀬に付き合っているうちに、段々僕も飲む量増えてきてるな……まぁいいか。いや、出費は抑えないとな。
「夏休み中には会いたいぞ僕は」
「んー……まぁ考えとく。正直俺はちょっとパス」
「美人で好みなのに?」
「触らぬ神になんとやらってね」
 いまいち煮え切らない綾瀬に腹を立てた僕は、とりあえずここの支払いを綾瀬に命じ、帰り支度を始める。店の外で一服をする為に先に外へ出ると喧しい蝉の声が僕を包んだ。今日は月明かりというよりは、星の方が輝いて見えた。
 もうすぐ夏が始まる。


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