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姉のついた嘘
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姉が生贄になると聞いて、俺は真っ先に姉の元に駆けて行き、俺を代わりに行かせてくれと頼んだ。
俺が三つの頃から櫛を持ち梳いてきた姉の髪は辺りでも評判の美しさだ。だから切って髢にすればきっとみんな俺を姉だと思うだろう。
けれど姉は「おやめなさい」と簡単に俺をあしらってしまう。
「あなたと私では、背の高さが違い過ぎるでしょうに」
「足を切ろうか、どうせ死ぬんだから」
「馬鹿ね、おやめなさい」
本当にばかね、とそんな優しい声色で言われて俺が引き下がるとでも思っているのだろうか。
命の危機にあってなお、そんな風に優しい姉をどうして見殺しになどできるだろう。
「私の身代わりなんて馬鹿なことを言わないで」
「愛する人を、逝かせたくないと思うのはおかしいですか」
俺がそう言うと、姉はようやく手を止めてしっかりと俺の方を見てくれた。
身辺整理なんてしないでほしい。そんなの必要ないのだから。姉はいつまでもこの家で素敵なものに囲まれて生きていけばいい。確かに俺が生贄になったらもう「新しい簪が欲しいわ、一足早い春を思わせるような」という姉の一声で駆けて行くことはできないが、それでも俺がいなくともきっと姉はしたたかに幸せに生きていけるはずだ。
「俺が貴方を愛していることなど、とうの昔に承知でしょうに」
「……そうね、確かに、その通りだわ」
「貴方もそうだと思っていました。それは俺の思い違いですか? 浅ましい勘違いでしょうか。そうだとしても、たとえそうだとしても、俺は貴方に生きていてもらいたい。死んでほしくないのです」
子どもの頃、俺の手を取って「あなたは私のものよ。生きているうちも、死んだあともずっとそうなの、覚えておきなさい」と言ったあの姉の甘美な言葉を俺はずっと覚えている。
なのに、どうして姉はこんなにも冷ややかな目で俺を見るのだろう。
「私はあなたのことなんて、好きでもなんでもないわ。ただ弟っていう存在として、私の後に生まれただけ。それ以上でもそれ以下でもない。血の繋がった家族だもの。今までは仕方なく相手してあげていたわ。でもずっと嫌だった。実の姉に恋するあなたの目が嫌で嫌で仕方なくて、でもあなたどんどん大きくなるでしょう? だから逆らえなかったのよ。生きてるうちはこれからもずっとそうでしょう。ならば死ねることこそが喜びのはず」
俺は生まれてこの方ずっと姉に手を引かれて庇護されていたから、突然の冷たい言葉にどう反応していいかも分からず押し黙ってしまう。
「せいせいするわ、あなたと離れられて」
けれどどうして、姉はこんな時でさえ泣きそうなくらい美しいのだろう。
「だって死は全てを分かつもの」
俺は姉の弟に生まれることができて幸せだったのに、姉はそうではなかったのだと思うと途方もなく悲しく、ただ姉の顔をこの目に焼き付けようと見つめることしかできない。
一週間後の青空の下、姉は美しいけれど身動きもできない豪華絢爛な着物を身に纏わされ、生贄として神の元へと行ってしまった。
***
幼い頃、結婚式の途中で、姉に手を引かれて外に出た。多分後で親からは怒られるだろうけど、姉に従わないという選択肢は俺にはなかったので、なんだか怒っているように見える姉を見上げて「どうしたの」と言うしかなかった。
「あんな誓いは嘘よ」
「ちかい?」
「死が二人を分かつまでだなんてね。本当に愛しているのなら、そんなものに己と愛した人を引き裂かせたりしないはずよ」
姉の言うことはいつも正しい。姉が俺の手を握る手が震えるほどの激情に任せて放った言葉ならなおさらだ。
「死なんてものに、私とあなたを分かさせるものですか」
さっきの愛を誓い合っていた二人よりも姉が俺を愛してくれているという証明のようで嬉しかった。
「あなたは永遠に私のものよ」
もちろんだ、と俺は頷いた。俺は生まれた時からずっと姉のものだ。そうでない人生など考えられない。
だからずっと姉のことを尊敬しながら見上げ、愛していたつもりだったのに、姉はそうではなかったのだと思うと、この世が全て塗り替えられたかのように悲しくて、何もできなくなってしまった。
***
姉が生贄になってどれほどの時間が経ったのだろう、神主がうちを訪れた。そして打ちひしがれる俺にこう言ってきた。
「あなたのお姉様から最期の言葉を言付かってきました」
「……姉はなんと」
「自分の墓守りをあなたにさせるように、と」
俺はハッとして顔を上げた。生贄となった者にも墓は作られる。骨を埋められない代わりに生贄が生前好きだったものをたくさん供え、墓守りをつける。その墓守りは名誉ある仕事だが、生涯未婚を貫かねばならない。
「あなたは私のものだから、と」
ああ、ああ、騙された!
俺は畳に突っ伏して涙をこぼした。俺を騙すことなどあの人には容易だったろう。好きでないという嘘をついただけで俺は魂を抜かれたように呆けてしまう馬鹿な弟なのだから。
昔、姉が言っていたことを思い出す。俺を草の上に寝転ばせて、周りを花で埋める遊びに勤しみながら姉は言っていた。
「死ぬのは私が先よ。あなたは絶対、私より先に死んではだめ。まだ知らない場所へ踏み込むのは姉の役目よ。あなたが来てもいいようにきっと素敵な場所にしておくから、あなたはゆっくり来ればいいの」
「ねえさま、先に死んじゃうの?」
「なにも心配しなくていいの。だってこの世界に生まれ落ちたときだって、そうだったのよ。あなたが生まれるにふさわしい場所かどうか、見定めるために私は先に生まれたの」
先に行って待ってるからね、とあの時言われたことがきっと答えだから、俺は素直に墓守りになった。いつか姉に会った時は簡単に騙される弟でごめんなさいと謝ろうと思う。きっと姉は今度こそ笑ってくれるだろう。
俺が三つの頃から櫛を持ち梳いてきた姉の髪は辺りでも評判の美しさだ。だから切って髢にすればきっとみんな俺を姉だと思うだろう。
けれど姉は「おやめなさい」と簡単に俺をあしらってしまう。
「あなたと私では、背の高さが違い過ぎるでしょうに」
「足を切ろうか、どうせ死ぬんだから」
「馬鹿ね、おやめなさい」
本当にばかね、とそんな優しい声色で言われて俺が引き下がるとでも思っているのだろうか。
命の危機にあってなお、そんな風に優しい姉をどうして見殺しになどできるだろう。
「私の身代わりなんて馬鹿なことを言わないで」
「愛する人を、逝かせたくないと思うのはおかしいですか」
俺がそう言うと、姉はようやく手を止めてしっかりと俺の方を見てくれた。
身辺整理なんてしないでほしい。そんなの必要ないのだから。姉はいつまでもこの家で素敵なものに囲まれて生きていけばいい。確かに俺が生贄になったらもう「新しい簪が欲しいわ、一足早い春を思わせるような」という姉の一声で駆けて行くことはできないが、それでも俺がいなくともきっと姉はしたたかに幸せに生きていけるはずだ。
「俺が貴方を愛していることなど、とうの昔に承知でしょうに」
「……そうね、確かに、その通りだわ」
「貴方もそうだと思っていました。それは俺の思い違いですか? 浅ましい勘違いでしょうか。そうだとしても、たとえそうだとしても、俺は貴方に生きていてもらいたい。死んでほしくないのです」
子どもの頃、俺の手を取って「あなたは私のものよ。生きているうちも、死んだあともずっとそうなの、覚えておきなさい」と言ったあの姉の甘美な言葉を俺はずっと覚えている。
なのに、どうして姉はこんなにも冷ややかな目で俺を見るのだろう。
「私はあなたのことなんて、好きでもなんでもないわ。ただ弟っていう存在として、私の後に生まれただけ。それ以上でもそれ以下でもない。血の繋がった家族だもの。今までは仕方なく相手してあげていたわ。でもずっと嫌だった。実の姉に恋するあなたの目が嫌で嫌で仕方なくて、でもあなたどんどん大きくなるでしょう? だから逆らえなかったのよ。生きてるうちはこれからもずっとそうでしょう。ならば死ねることこそが喜びのはず」
俺は生まれてこの方ずっと姉に手を引かれて庇護されていたから、突然の冷たい言葉にどう反応していいかも分からず押し黙ってしまう。
「せいせいするわ、あなたと離れられて」
けれどどうして、姉はこんな時でさえ泣きそうなくらい美しいのだろう。
「だって死は全てを分かつもの」
俺は姉の弟に生まれることができて幸せだったのに、姉はそうではなかったのだと思うと途方もなく悲しく、ただ姉の顔をこの目に焼き付けようと見つめることしかできない。
一週間後の青空の下、姉は美しいけれど身動きもできない豪華絢爛な着物を身に纏わされ、生贄として神の元へと行ってしまった。
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「あんな誓いは嘘よ」
「ちかい?」
「死が二人を分かつまでだなんてね。本当に愛しているのなら、そんなものに己と愛した人を引き裂かせたりしないはずよ」
姉の言うことはいつも正しい。姉が俺の手を握る手が震えるほどの激情に任せて放った言葉ならなおさらだ。
「死なんてものに、私とあなたを分かさせるものですか」
さっきの愛を誓い合っていた二人よりも姉が俺を愛してくれているという証明のようで嬉しかった。
「あなたは永遠に私のものよ」
もちろんだ、と俺は頷いた。俺は生まれた時からずっと姉のものだ。そうでない人生など考えられない。
だからずっと姉のことを尊敬しながら見上げ、愛していたつもりだったのに、姉はそうではなかったのだと思うと、この世が全て塗り替えられたかのように悲しくて、何もできなくなってしまった。
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姉が生贄になってどれほどの時間が経ったのだろう、神主がうちを訪れた。そして打ちひしがれる俺にこう言ってきた。
「あなたのお姉様から最期の言葉を言付かってきました」
「……姉はなんと」
「自分の墓守りをあなたにさせるように、と」
俺はハッとして顔を上げた。生贄となった者にも墓は作られる。骨を埋められない代わりに生贄が生前好きだったものをたくさん供え、墓守りをつける。その墓守りは名誉ある仕事だが、生涯未婚を貫かねばならない。
「あなたは私のものだから、と」
ああ、ああ、騙された!
俺は畳に突っ伏して涙をこぼした。俺を騙すことなどあの人には容易だったろう。好きでないという嘘をついただけで俺は魂を抜かれたように呆けてしまう馬鹿な弟なのだから。
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「死ぬのは私が先よ。あなたは絶対、私より先に死んではだめ。まだ知らない場所へ踏み込むのは姉の役目よ。あなたが来てもいいようにきっと素敵な場所にしておくから、あなたはゆっくり来ればいいの」
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先に行って待ってるからね、とあの時言われたことがきっと答えだから、俺は素直に墓守りになった。いつか姉に会った時は簡単に騙される弟でごめんなさいと謝ろうと思う。きっと姉は今度こそ笑ってくれるだろう。
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