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一話
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十二歳の私に、あなたは将来結婚するのだと告げたらどんな顔をするのだろう。
きっと大人ぶった顔を崩して驚いた後に、本当のことかと不信感丸出しの顔をするに違いない。
そのくらいあの頃の私と結婚という言葉は結びつかない。結びつけたくもなかった。
そんな隅から隅まで私に優しい想像は、体の周りを蝶がひらひらと舞っているかのように楽しい。
眠りの狭間の想像だけはまだ哀しみに浸されてはいない。
「美羽、美羽。大丈夫?」
窓を打ち付ける雨の音に紛れて、どこからだろう。
私の名前を呼ぶ声が聞こえる。ひどく不安げな声だ。
ああ、早く目を開けて安心させてあげないといけない。
閉じていたまぶたをこじ開けて、穏やかな微睡みの世界から厳しい現実の世界へと帰る。
ソファーに寝転んでいる私の顔を覗き込む人と目が合った。
不安げに歪められていた顔は、私が目を開けたおかげでようやく安心したように緩められる。
ようやく慣れ親しんだ顔に戻ったことに、私はこっそり安堵した。
近いうちに私の夫という存在になる人に向かって、冬真と囁くように名前を呼んだ。
ここにいるから大丈夫だと告げるように。
買い物から帰って来て、眠っている私を見て驚いてから慌てて私を起こしたのだろう。
出る時に羽織っていた、去年の誕生日に私たちが贈ったトレンチコートをまだ着たままだった。
それに急いで帰って来たのかもしれない。傘も持っていたはずなのに、肩の辺りが雨に濡れている。
「……ごめん、寝てた?」
「ううん。ぼんやりしてただけ」
だいじょうぶ。気怠げな体を起こしながら、できるだけ柔らかな笑顔を心がけてそう答える。
ゆっくりと起き上がったつもりだったのに、半分眠っていた状態から急に起こした頭は、思わずまた横になってしまいそうなほど鈍く痛む。
そんな私の状態は悟らせないようにしたのに、やはり長い付き合いだから分かるのだろうか。
冬真はくしゃりと顔をしかめた。私よりよっぽど辛そうな表情をするものだから、私も困ってしまう。
やはり冬真の不安は消えなかったようで、私の体に縋るように抱き着いてきた。
私の体に気を使ってか、ゆっくりと慎重にではあったけれど。
大丈夫、大丈夫。私はそう言いながら、重い腕を持ち上げる。
雨のせいで少し湿気ってしまった冬真の柔らかな髪の毛を、指先で絡めるようにそっと撫でた。
なにが大丈夫かなんて、私にだって分かってはいないのに。
「よかった。美羽までいなくなったら、俺……」
冬真が思わずという風に呟いて、それからハッとしたように私から体を離した。
冬真は自分を恥じるように、ごめんと謝って私から目を逸らす。
伏せたられたまぶたから覗く睫毛が静かに震えていた。
気にすることなんてないのに。私も同じことを思っているのだから。
冬真までいなくなったら、私はどうすればいいんだろう。どうやって生きていけばいいんだろう。そう思っているのだから。
窓の外で降り続ける雨の音が、私たちの沈黙を埋める。
泣けない冬真の代わりに泣いているみたいだ、なんて馬鹿なことを思った。
「……あ、そうだ。グレープフルーツ買ってきたよ。いま食べる?」
「え?ああ、うん。食べる」
視線を彷徨わせて話題を探していたらしい冬真がふと尋ねてきた。
私はすぐに笑顔を作って頷いた。
ああ、そうだ。眠る前に買い物に行くと言う冬真に、私が食べたいからと頼んでおいたことを思い出す。
どうやら見つけてくれたらしい。
近くにあるスーパーはあまり大きなものではないから、あるかどうか少し心配だったのだ。
冬真が床に置いていたナイロン袋を拾い上げてキッチンへと向かった。
きっと寝転んでいる私を見て、気が動転して袋を投げ出してしまったのだろう。
冬真とは長い付き合いだから、簡単に想像がつく。
しばらくして冬真は一口サイズに切られたグレープフルーツを盛った皿を手にして戻ってきた。
ソファーから降りようとしたけれど、くらりと目眩がしてまた座り込んでしまった。
それに気づいた冬真は私の隣に腰掛けて、座ってなよと心配そうに言ってくれた。
その優しさに甘えて、ソファーに深く腰掛けたままグレープフルーツを食べることにした。
もうじき冬だというのにグレープフルーツはとても瑞々しく、つんとした酸っぱさが喉に染み渡る。
赤く色づいた果肉はずっしりと重い。
「ありがとう、おいしい」
「よかった。本では読んでたけど、本当に酸っぱいものが食べたくなるんだなぁ」
不思議そうに冬真が言う。
私もこうなるまでは酸っぱいものは得意な方ではなかったから少し不思議には思う。
でも体がいつもとは違うのだし、味覚が変わるのは多分仕方のないことなのだろう。
「触ってもいい?」
おずおずとこちらの様子を慎重に伺いながら冬真が尋ねてくる。まだ慣れないのかと思うと、少し冬真が可愛らしく思える。
もちろん私もまだこの状態の自分の体に慣れていないから、少々怯え気味の冬真に向かって偉そうなことは言えないのだけど。
「いいよ」
私の了承を得てから、冬真がそっと壊れ物にでも触るかのように私の腹部に触れる。
それからゆっくりと優しく愛おしむように撫でられた。
それが嬉しいような、くすぐったいような、触られたことに対する違和感のような、不思議な感覚に左右される。
矛盾した感情が幾つも同時に現れるのも、そういうものだと知っておけばさほど怯えるものでもない。
冬真が神妙な顔で撫でる、まだ平たいそこにもう一つの命があるなんて、言わなければきっと分からない。
「すごいなぁ」
冬真の呟きに、本当にそうだと頷いてしまう。
本当にすごい。奇跡としか言いようがない。
鼻の奥がつんとしたのは、グレープフルーツが酸っぱいからだけではないだろう。
ねえ、十二歳の私。中学生になって、慣れないセーラー服を着て、自分と周りの人との違いを自覚して、いつも必死で大人ぶっていた私。
あなたは冬真と結婚する。
中学で出会った大切な人と。大切な親友と。あなたは結婚する。
そう教えたら、あなたはなんて言うかな。
そんなわけないって怒るかな。私と冬真が結婚するわけないって、きっと怒るかもしれない。
私たちはそんな関係じゃないって喚くかもしれない。
私もついこの間まで考えもしていなかったのだから、怒るのも喚くのも容易に想像ができた。でも本当なのだ。
それが十二歳の私には想像も出来なかったであろう、二十八歳の私の現実だ。
きっと大人ぶった顔を崩して驚いた後に、本当のことかと不信感丸出しの顔をするに違いない。
そのくらいあの頃の私と結婚という言葉は結びつかない。結びつけたくもなかった。
そんな隅から隅まで私に優しい想像は、体の周りを蝶がひらひらと舞っているかのように楽しい。
眠りの狭間の想像だけはまだ哀しみに浸されてはいない。
「美羽、美羽。大丈夫?」
窓を打ち付ける雨の音に紛れて、どこからだろう。
私の名前を呼ぶ声が聞こえる。ひどく不安げな声だ。
ああ、早く目を開けて安心させてあげないといけない。
閉じていたまぶたをこじ開けて、穏やかな微睡みの世界から厳しい現実の世界へと帰る。
ソファーに寝転んでいる私の顔を覗き込む人と目が合った。
不安げに歪められていた顔は、私が目を開けたおかげでようやく安心したように緩められる。
ようやく慣れ親しんだ顔に戻ったことに、私はこっそり安堵した。
近いうちに私の夫という存在になる人に向かって、冬真と囁くように名前を呼んだ。
ここにいるから大丈夫だと告げるように。
買い物から帰って来て、眠っている私を見て驚いてから慌てて私を起こしたのだろう。
出る時に羽織っていた、去年の誕生日に私たちが贈ったトレンチコートをまだ着たままだった。
それに急いで帰って来たのかもしれない。傘も持っていたはずなのに、肩の辺りが雨に濡れている。
「……ごめん、寝てた?」
「ううん。ぼんやりしてただけ」
だいじょうぶ。気怠げな体を起こしながら、できるだけ柔らかな笑顔を心がけてそう答える。
ゆっくりと起き上がったつもりだったのに、半分眠っていた状態から急に起こした頭は、思わずまた横になってしまいそうなほど鈍く痛む。
そんな私の状態は悟らせないようにしたのに、やはり長い付き合いだから分かるのだろうか。
冬真はくしゃりと顔をしかめた。私よりよっぽど辛そうな表情をするものだから、私も困ってしまう。
やはり冬真の不安は消えなかったようで、私の体に縋るように抱き着いてきた。
私の体に気を使ってか、ゆっくりと慎重にではあったけれど。
大丈夫、大丈夫。私はそう言いながら、重い腕を持ち上げる。
雨のせいで少し湿気ってしまった冬真の柔らかな髪の毛を、指先で絡めるようにそっと撫でた。
なにが大丈夫かなんて、私にだって分かってはいないのに。
「よかった。美羽までいなくなったら、俺……」
冬真が思わずという風に呟いて、それからハッとしたように私から体を離した。
冬真は自分を恥じるように、ごめんと謝って私から目を逸らす。
伏せたられたまぶたから覗く睫毛が静かに震えていた。
気にすることなんてないのに。私も同じことを思っているのだから。
冬真までいなくなったら、私はどうすればいいんだろう。どうやって生きていけばいいんだろう。そう思っているのだから。
窓の外で降り続ける雨の音が、私たちの沈黙を埋める。
泣けない冬真の代わりに泣いているみたいだ、なんて馬鹿なことを思った。
「……あ、そうだ。グレープフルーツ買ってきたよ。いま食べる?」
「え?ああ、うん。食べる」
視線を彷徨わせて話題を探していたらしい冬真がふと尋ねてきた。
私はすぐに笑顔を作って頷いた。
ああ、そうだ。眠る前に買い物に行くと言う冬真に、私が食べたいからと頼んでおいたことを思い出す。
どうやら見つけてくれたらしい。
近くにあるスーパーはあまり大きなものではないから、あるかどうか少し心配だったのだ。
冬真が床に置いていたナイロン袋を拾い上げてキッチンへと向かった。
きっと寝転んでいる私を見て、気が動転して袋を投げ出してしまったのだろう。
冬真とは長い付き合いだから、簡単に想像がつく。
しばらくして冬真は一口サイズに切られたグレープフルーツを盛った皿を手にして戻ってきた。
ソファーから降りようとしたけれど、くらりと目眩がしてまた座り込んでしまった。
それに気づいた冬真は私の隣に腰掛けて、座ってなよと心配そうに言ってくれた。
その優しさに甘えて、ソファーに深く腰掛けたままグレープフルーツを食べることにした。
もうじき冬だというのにグレープフルーツはとても瑞々しく、つんとした酸っぱさが喉に染み渡る。
赤く色づいた果肉はずっしりと重い。
「ありがとう、おいしい」
「よかった。本では読んでたけど、本当に酸っぱいものが食べたくなるんだなぁ」
不思議そうに冬真が言う。
私もこうなるまでは酸っぱいものは得意な方ではなかったから少し不思議には思う。
でも体がいつもとは違うのだし、味覚が変わるのは多分仕方のないことなのだろう。
「触ってもいい?」
おずおずとこちらの様子を慎重に伺いながら冬真が尋ねてくる。まだ慣れないのかと思うと、少し冬真が可愛らしく思える。
もちろん私もまだこの状態の自分の体に慣れていないから、少々怯え気味の冬真に向かって偉そうなことは言えないのだけど。
「いいよ」
私の了承を得てから、冬真がそっと壊れ物にでも触るかのように私の腹部に触れる。
それからゆっくりと優しく愛おしむように撫でられた。
それが嬉しいような、くすぐったいような、触られたことに対する違和感のような、不思議な感覚に左右される。
矛盾した感情が幾つも同時に現れるのも、そういうものだと知っておけばさほど怯えるものでもない。
冬真が神妙な顔で撫でる、まだ平たいそこにもう一つの命があるなんて、言わなければきっと分からない。
「すごいなぁ」
冬真の呟きに、本当にそうだと頷いてしまう。
本当にすごい。奇跡としか言いようがない。
鼻の奥がつんとしたのは、グレープフルーツが酸っぱいからだけではないだろう。
ねえ、十二歳の私。中学生になって、慣れないセーラー服を着て、自分と周りの人との違いを自覚して、いつも必死で大人ぶっていた私。
あなたは冬真と結婚する。
中学で出会った大切な人と。大切な親友と。あなたは結婚する。
そう教えたら、あなたはなんて言うかな。
そんなわけないって怒るかな。私と冬真が結婚するわけないって、きっと怒るかもしれない。
私たちはそんな関係じゃないって喚くかもしれない。
私もついこの間まで考えもしていなかったのだから、怒るのも喚くのも容易に想像ができた。でも本当なのだ。
それが十二歳の私には想像も出来なかったであろう、二十八歳の私の現実だ。
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