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02 夢に見るくらい好きだった

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 手首の傷口を清められ、止血され、薬を飲まされたアデレードは何時間か眠った。

 夢を見た。
 始まりは、素敵だった。

 ――お父さまに抱っこされて、お母さまにお菓子を食べさせてもらう。

 ――お兄さまと手を繋いで、お姉さまにお花を渡しにいく。

 ――婚約者のサミュエル殿下と、ダンスを踊る。

 もう戻らない日々は幸せだ。

 いっそのこと、ずっと、眠ってたい……。
 このまま死にたい。

 幻の幸せが壊れてしまう前に。
 目覚めるか、死ぬか、どちらかがいい。

 もうあの日を見せないで……。
 思い出させないで。

 やめて。もう嫌なの。

 やめて――っ!


「――アデル……」

 目を覚ますと、痩せぎすの母が遠くにいた。口の中が、苦くて、酸っぱくて、……不味い。

 あの日あの時よりはマシだったけれど。気持ち悪い。

「アデレードお嬢さま」

 壊れたお嬢さまの嘔吐に慣れてしまった使用人らが、淡々と処理をする。お嬢さまの服を脱がせ、口を濯がせ、肌を拭き、汚れた髪を洗い、拭き、服を着せる。

 アデレードは、されるがままだった。
 女の手だから大丈夫というより、こちらも慣れだ。

 他人の手で裸にされる行為と、汚い人間から漂う悪臭。どちらがより生々しい記憶を呼び起こしてしまうかと言えば、後者の臭いだった。

 汗や唾液、あと吐瀉物。言葉としても口にしたくない男の液。総じて、人間から出てくる血以外の液の臭いが怖い。

 記憶が先行して汗を掻いたり吐いたりした時には、すぐに処理してもらえればそれ以上は悪化しない。けれど、臭いが先行すると、臭いのせいで思い出す。

 臭いは再現の引き金だ。臭いは恐ろしい。
 だから、アデレードは我慢を覚えた。

 脱がされるのも、触られるのも、まだ怖いけど我慢する。我慢できるように、みんなに支えられて、励まされて頑張った。父や兄の顔をまた見られるようになったのも、みんなの献身的な介護のおかげ。

 世界の表側はゲームの感動展開も胸糞展開もシナリオ通りに演出しているけれど、プレイヤーに知らされない裏側には悪役への慈悲もあるのだ。

 乙女ゲーム『運命に逆らう恋をする』の悪役令嬢、アデレードの最期は、多くのレビュワーから『酷すぎる』『可哀想』と言われる悲惨なものだった。

 ――無様に犯され、心を壊してしまったそうだ。
 ――いつのまにやら自害していた。

 でも、ゲーム通りなのは、きっと場面絵やシナリオで描かれていた部分だけ。
 現に、かつて婚約者だった第二王子がセリフ通りにアデレードを『汚い』『穢れた』と言っても、家族は決して彼女を蔑まなかった。

 ハルスヴィード家のみんなは、シナリオ通りに悲しみに暮れたって、ずっと優しい。
 屋敷に暮らす父母も、兄も、遠くから手紙をくれた姉も、みんなアデレードに味方してくれた。

(もっと……生きてあげたい……一緒にいてあげたい)

 怖い臭いが片付いて、表面上は清潔になったアデレードは思う。
 母に頬を撫でられ、どうせ笑えていないだろう、微笑みを目指した何かの顔をして思う。

 ――二十年。

 アデレードは父と母の娘で、姉と兄の妹だった。みんなから、いっぱい愛されてきた。

 若くして終わった、誰にも明かせない前世の痛みを、今世の家族が幸せで癒やしてくれた。

 前世、他の世界で他の親の子に生まれて育った記憶があっても、この世界にいる家族だって彼女の家族だった。

 アデレードは、今の家族が愛おしい。
 家族のために長生きしたい。生きてあげたい。

(でも、汚い……)

 しかし、自害エンドが決まっているからか、それとも心の傷が深すぎるからか。

 彼女の中から『汚い』や『死にたい』は消えなかった。

 どんなに頑張っても消えない。消えない。

(もうっ、生きてても汚い、汚い! こんなの嫌ぁ……っ、死にたい、死にたい、死に)

 大好きな家族が疲弊している。自分のせいで悲しんでいる。悩んでいる。病んでいる。

 その現実は、あるいは彼女の認識が、アデレードの心を追い詰めた。

(はやく。はやく。死ななくては。もういらない。わたくしは、いらない。みんなの迷惑。生きていては駄目。死なないと。死なないと!)

 ただ、自ら死を選ぶのにも、体力がいる。ぐったりとベッドから動けない時には、自害を図ることもできない。元気がなければ、部屋の外まで出られない。

 ナイフを握れない。死にたいのに死ねない。動けない。

 今のアデレードには、死を選ぶ力さえ無かった。

(今度こそ、今度こそ……ッ!)

 いつになるかわからない自死を望んで、恐れて、疲れ果てたらまた眠る。


 そうして――数日が経った頃。


「お父さま……? 難しいお顔をなさって、どうしたの?」

 わりと元気に自害を考えていたアデレードの部屋へ、親愛なる父がやってきた。

「アデル……アデレード……」

 いつも母や兄より遠くから声を掛ける父は、今日も、たとえ転んでも届かないくらい遠くから彼女に話す。いつになく、痛ましげに、苦しげに、悲しげに。

「おまえに……縁談が、だな」
「……どなたと?」

 アデレードの声に、色はなかった。

 ほんとうは何かを感じたのかもしれないが、正負の情で相殺されたのか、傷口の谷に呑まれたのか、ともかく彼女に知れる想いはなかった。

「王太――いや、第一王子、セドリック殿下と、だ」
「あら」

 ぽろりとアデレードは声を漏らす。これにも色は、ない。

 ただただ父の声だけが、切ない青や灰の色をしているようだった。

(これが最善かもしれないわ)

 アデレードの前世知識と刻まれた運命が、ひとりでに、彼女の死の輪郭を描く。

 第一王子セドリック――元婚約者である第二王子サミュエルの兄であり、『呪われた王子』と呼ばれるひと。このゲームの続編、乙女ゲーム『呪いに抗って恋をする』の攻略対象者である彼なら。

 もしも、彼と一緒になれば――!

「かしこまりました。お会いしますわ、お父さま」

 ゆったりと応えるアデレードに、父は驚いた顔をする。

 そんなにも衝撃的な言葉だったかしらと娘が思えば、彼は、この半年で一気に皺の深くなった目元に涙を浮かべた。

「いや、そうか……。すまない、久しぶりに見たものだから、な」
「……何をですか?」
「アデルの、微笑みを」

 笑えておりましたか、と問うと、父は疲れた色の顔でくしゃりと笑った。

 アデレードが父のこういう笑みを見るのも、とても久しぶりだった。


  ***


 今日決行したら死ぬ気がするほど元気なアデレードは、久しぶりにお洒落をした。

 綺麗な服を着て、髪を結い飾り、あの日ほどは色も匂いも濃くない薄化粧をして、母と一緒に王城へと向かった。

 王城や道中は、婚約破棄や誘拐といった事件が起きた現場であるけれど、るんるんと元気なアデレードならへっちゃらだ。

 元気になれた理由に、素敵な裏話などはない。きっと『躁鬱』の『躁』の時なのでしょうねと、前世の知識からぼんやり思う。

 前世のアデレードは、体を病んでから心も病んでいた。

 今の自分を苦しめるゲームのシナリオも、過去の彼女にとっては、現実から逃げ飛べる甘いお薬だったのだ。

 悪役兄妹エドワードとアデレードの悲劇を味わうことも、いい涙活になっていた。末期になるまでは、よく泣いた。

 体の自由を病に奪われ、死が間近に迫ってきてからは、心が先に死んだように感情を失ったけれど。涙も出なくなったけど。

 自らが悲劇に見舞われる悪女へと生まれ変わり、事件も終わった今となっては、涙の流し方さえ忘れてしまったけれど。

(ただ、今も覚えている。夢の中でも会っていた、彼のことを。夢に見るくらい好きだった、推しだった、彼のことを)

 前世のアデレードがより強く好んでいたのは、どちらかというと、サカコイではなくアガコイ。『運命に逆らう恋をする』ではなく『呪いに抗って恋をする』の方だった。『アデレード』が悪役令嬢として登場するゲームではなく、その続編ゲームの方をということだ。

 入院生活の退屈さを誤魔化すために恋愛ファンタジー系のWeb小説を読み漁っていたら、異世界転生先の世界としてよく登場する乙女ゲームの本物にも興味が湧いてきて。

 そこでスマホでもプレイできるものを調べてみたら、まさに流行りのWeb小説に登場するような西洋風ファンタジー世界観の同人ゲームがヒットした。
 なんでも、サカコイ・アガコイの制作者も、Web小説やライトノベルからインスピレーションをうけてこの乙女ゲームを創作したとのこと。

 前世のアデレードは、二作のゲーム世界にハマりにハマった。

 特に続編『呪いに抗って恋をする』の攻略対象のひとり、セドリックは、闘病生活を始めてから見るようになった『夢』に出てくる王子さまとそっくりだった。

(西洋風のお屋敷の中でお会いしたり、お洒落なお庭で会ったり。はたまた、日本の病室に彼が現れたかのような夢を見たり。アガコイを始めて『セドリック様』を見つけた時は驚いたわ)

 長い銀の髪も、青紫の瞳も、物憂げな表情も。彼女の『王子さま』そのもので。夢の中ではときどきちょっとしか一緒にいられなくて寂しかった心の穴を、ゲームの彼が埋めてくれた。

 つまらなすぎる病院の中で、彼女は、彼に恋していたのかもしれない。

 夢の中だとかゲームのキャラだとか、いい大人が馬鹿らしいと他所さまは嘲笑うかもしれないけれど。それでも、彼女には、それしかなかった。

 痩せていく体。抜け落ちる髪。目に見えて失われていく健康的な美しさ。『セドリック様』のおかげで、苦しくてどうしようもない闘病生活がちょっとはマシになった。

 彼との『物語』をたくさんプレイするために、もっと生きて頑張ろうと思えた。

 彼と『夢』で会えるかもしれないと思えば、このまま死んじゃったらどうしようという不安や恐怖も和らいだ。

 病状が進んで末期になって、いつしかゲームをプレイすることもできなくなって。最後には夢も現実もわからなくなったって。

 たとえ一時でも、彼が彼女の心の支えになった過去は変わらない。

(セドリック様……)

 馬車を降りる時が近づいてくると、なんだか胸が騒がしくなる。事件前より痩せた胸に手を当て、アデレードはふるりと震えた。

 大変なことに気づいてしまった。

(ど、どうしましょう……!)
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