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〈悪役王子〉と〈ヒロイン〉花街編
【32】最終日――婚約者様と、王都へ
しおりを挟む悪役王子フィリップとの夜を終え、お勤めを終え、いつもどおりに午後に目覚めた娼妓イリス。
今日の彼女まわりは、忙しなかった。
初めて椿の女として見せられた時のように――いや、それ以上に。
「ヴィオ姐、ダリア姐」
「~っ、イリス!」
「イリス」
ふたりの姐は張り切っていた。
「わぁん! イリス!! 今日のうちに身請けなんやってね! おめでとう~っ」
「あ、ありがとうございます。ダリア姐」
きゃぴきゃぴと少女のようにはしゃぐダリアにハグをされ、イリスはぎこちなく彼女を抱き返す。青楼の女らしい夜の匂いがふわりと漂った。それはイリスのものか、ダリアのものか。ただ、ここで暮らしてきた女の匂いだった。
「おめでとう、イリス。と言っても、この先も大変なのかもしれないけれど……」
と、ヴィオはちょっと困ったように笑う。
イリスことアリシアの姐さん娼妓であるヴィオとダリアは、彼女が〝未来のお妃様〟の立場にあったと知るひとだ。
水揚げの儀の支度中にアリシアが口走ってしまったこともあり、楼主やシエラ様からの信頼も厚いらしい彼女らは、もうアリシアが何者かをほとんど知っている。
この青楼で、無事に、なんとかやってこられたのは、ふたりの支えがあってこそだ。
「貴女は、新たな場所――いえ、貴女の咲くべき場所に帰れるのでしょう? 本当に良かったわね」
「ありがとうございます。ヴィオ姐。本当に、お世話になりました」
なおもダリアにぎゅうっとされながら、イリスはヴィオと握手する。姐に付き、イリスの世話の手伝いもしてくれた見習い娘たちも、「イリスさんっ」と元気に駆け寄ってきた。
アリシアは、王立魔法魔術学院の卒業パーティーで起きた事件をキッカケに、この青楼ファリィサへと送られた侯爵令嬢。
オトメゲームの呪いやセルナサス兄妹の策略により、彼女は高級娼館の上級娼妓という恵まれた環境に置かれ、選び抜かれた客の前へと見せられた。そのうえ客の中身はすべて婚約者フィリップで、彼は一度もアリシアを真の意味では抱かなかった。
アリシアの花心は、数多の快楽を知ったとはいえ、未だに男そのものは知らなかった。
この娼妓イリスの辿った道は、極めて特殊なものではあったが――貴族令嬢が娼婦になること自体は、さして珍しくもない。娼館にやってくる娘たちの中には、かつては貴族だった者も少なくない。
家の者が罪を犯したために、爵位や財産を没収され、路頭に迷った娘。訳あって親からの愛情を受けられず、虐げられてきた娘。爵位はあっても貧しい家に生まれ、他の家族のために売られた娘。
貴族の娘にも、それ以外の娘にも、身体を売る事情は様々ある。かつてはヴィオも、小さな領地に生まれた貴族令嬢だったと聞く。
(ここには、残酷なことも、仄暗いことも、やっぱり存在していて。でも、みんな、強かに生きている。娼館に生きる女たちだって、笑いもするし楽しみもする。
守られてばかりの私が言うのは、憚られることかもしれないけれど……。――この青楼は、決して異世界ではなくって。これからの私が愛すべき、守るべき民が暮らす、ひとつの営みの場所。彼女らが日常を送り、生きている場所だった)
ヴィオとダリアを姐とする娘たちと、ふたりと、イリスと。みんなで一緒にお風呂に入って、お喋りをして。
「イリスさんって、どこかの王子様に見初められたんでしょう? 娼妓から寵姫に成り上がる~なんて、イリスさんのことは百年は語り継がれそうですね!」
「そうかしら……?」
「後宮もドロドロ愛憎劇が大変だとは噂に聞きますが、どうか頑張ってくださいね。イリスさんの美貌と娼妓の術をつかえば、きっと末永くらぶらぶです!」
「ふふ、そうね。頑張ります」
細かな事情までは知らない見習い娘たちが、しかし精いっぱいにイリスを応援しようとしてくれている。その気持ちが嬉しくて、彼女は笑った。
ヴィオとダリアはちらりと視線を交わすと、左右からイリスにくっついて言う。
「イリスはもともとお嬢様やったから、お相手のことは昔から知ってたんよね。ねぇねぇ、どんなところが好きなん?」
「へっ?」
「かつて想い合う仲だった方がお迎えにきて、添い遂げられると聞いたわ。愛する方に身請けされるなんて、破滅を恐れずに想える恋なんて。とっても素敵じゃない? ――私たちにも聞かせてちょうだい。夢みたいな彼のこと」
ふたりして楽しげな様子の彼女らは、アリシアの正体を言いふらすことはしないまま、ただ彼女に〝恋〟を語らせんとした。見習い娘らも瞳を輝かせてイリスに迫る。
「わあっ、イリスさんとお客様って本当に相思相愛なんですかー!?」
「ちらりとお見かけしましたが、お若くてお美しい方ですよね!? 昔から美男子でいらっしゃったのです?」
「えっ、えーっと、そうですね……。私と、彼は――」
言葉を選びながら、彼女は、この恋の話を始めた。
ともすれば恨みを買いかねない境遇の彼女を、たった一週間だけを娼妓として過ごして去る彼女を、みんなは温かく受け入れ、ひとりの仲間として愛してくれた。
(どうか、みなさんが、健やかでいられますように。幸せでいられますように……)
そうしてイリスは、ひとり祈った――。
娘たちはきゃらきゃらと笑いながら、姐ふたりはしんみりと微笑みながら、イリスの身請けの支度を進める。
香油を塗られ、衣装を纏い、化粧を施され。彼女は、彼女の人生を客に買われる女となった。
フィリップに迎えられる女となった。
「ばいばいね、イリス」
「いってらっしゃい、イリス」
「ヴィオ姐、ダリア姐。私を、娼妓として育ててくださいまして、お守りくださいまして、まことにありがとうございました。――いってまいります」
絢爛豪華な衣装を纏い、淑女の礼をして、彼女は彼が待つ部屋へと向かう。
最後にくるりと振り返ると、姐ふたりは娼妓らしく妖艶に微笑んでみせ、ゆっくりと一礼した。
それはそれは美しい、七薔薇姫の花たちだった。
「――フィリップ様」
「アリシア。今日も、きみは……綺麗だな。髪飾りも、ドレスも、お化粧も。よく似合っていて美しい」
「ふふ、ありがとうございます。姐さんや見習いたちのおかげです」
彼の手をとり、優しく抱き寄せられ、こっそりと唇を重ねて。やがて身請けの儀式を終えると、ふたりは一緒に馬車へと乗り込む。
娼妓イリスの日々は、終わった。
(ああ、たった一週間ぶりなのに、懐かしい――)
アリシア・テリフィルアは、王都へ。
彼女を育てた地へと帰ってきた。彼女が戦う地へと。彼女が生きる地へと。
そしてオトメゲームは、王都を。王宮と悪役王子の離宮を舞台に、終わりへと進んでいく。
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