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Ⅰ章 紫月桜子との出会い

幕間 春

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『おめでとう、桜子ちゃん』
 さく、さく、と軽やかな音がする。
『それにしても特待生合格なんて、さすが俺のカノジョだね』
 枝毛のぴょこぴょこした黒髪が床に落ちていく。
『薫くんが勉強に付き合ってくれたおかげだよ、ありがとう』
 器用な彼の手が、さく、さく、彼女の髪を切っていく。
『一緒の高校、たのしみ!』
『俺も、超楽しみだよ』
 桜子ちゃんのことは、俺が守ったげるからね。と、鏡に映る彼が微笑んだ。
『恋人に髪を切ってもらうって、なんかロマンチックね』
『俺の髪も、いつか桜子ちゃんが切ってくれる?』
『うーん……自信ないけど……あっ、シャンプーとかドライヤーなら、やったげるよー』
『ほんと? じゃあ一緒にお風呂も入ってくれる?』
『薫くんのえっち。でもいいよ。なんたってカノジョさんですから』
『わー、カレカノってすげえ』
『ふふん』
 節くれ立った綺麗な男の手が、年下の少女の髪を梳く。
『桜子ちゃん』
『ん』
『入院してた時、切らないでよかったね』
 するり、さらり、と髪の間を通って、すとん、と。
『今、すごく綺麗』
 彼の指が、桜子の髪に愛おしげに触れ、すっと抜けていく。
『もう切れたの? 終わった?』
『うん。完成です』
『じゃあ、これからデートだねっ!』
 鏡に映っていた満面の笑みが、彼を向く。

 その日――ふたりは手を繋いで歩いていた。
 彼女を祝うデートだった。
『薫くんっ!』
 お洒落なワンピースを着た彼女はくるくると笑って、公園の花と遊んで、可愛くて。
『今日、すっごく楽しかった! ありがとうっ』
 まったく自殺志願者には見えなかった。
【――間もなく、一番線を、電車が通過します】
 ふらり、視界の端に黒髪とワンピースの裾が見えた。
【危ないですから、黄色い線の内側に】
 繋いでいた手は、ぬくもりは、いつのまにか、
『桜子ちゃん、待って――』
 願いは、またも、届かない。

 ちょっと目を離した隙に、この子は世界から消えてしまう。
 だから薫は、彼女を自分の家に置いた。彼女にGPSをつけた。
 ――忘れたままでいいよ。忘れたままでいいから、どうか、もう。
「死なないでね、桜子ちゃん」
「はい。死にません」
 大好きなきみの言葉を、俺は、もう信じられない。
 だから、きみも、俺を信じてくれなくていいんだよ。
 どうせ嘘つきなんだから。
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