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それくらいで済んでよかったね@(まだ)健全 9
しおりを挟む「ええ。スピカ様のお手を煩わせるほどではありません」
ぐい、と肩を強引に引き寄せられる。こんなことを仕出かすのは距離的にも性格的にも消去法で一人しかいない。
「この私、ズベン・エル・ゲヌビがハマル様を甘美な眠りへとご案内しますので。誠に勝手ながらその申し出はお引き下げ願えますでしょうか」
「逆に眠れなくなる。お前もいらん」
「そうおっしゃらずに。最高の寝心地をお約束いたしますよ?」
「いらん」
悪寒で人を起こしたどの口が言う。どさくさにまぎれて手の甲をすくい上げ、唇を落とそうとしてくるのを容赦なく払う。どこぞの騎士のようにうやうやしくひざまずき、こうべを垂れて懇願されても許容する気はこれっぽっちもない。
ズベンを相手取る時にもっともやってはいけないのは、気をゆるめ、心の裡の奥深くに踏みこませてしまうことだ。入りこまれたが最後、日常生活から思考、心の在り方まですべてを思うがままに作り替えられてしまう。気がつけば手遅れ、彼なしでは自力で生きていくのもままならなくなった、なんてことも珍しい話ではない。
被害者はみなそれに気づくことができないほどどっぷりと浸かりきる。あるいは見捨てられたと知るや絶望し、自ら命を断ち続ける道しか選ばない。だれにも救いを求めず、自力で立ち上がろうともがくことすら忘れてしまうから外に知られることもほとんどない。独立独歩を座右の銘に、他力本願をもっとも嫌う身としては嫌悪をもよおすおぞましい話である。
「はいはい。アンタたち、イチャつくのはそこまでにしてちょうだい。お昼ごはんを持ってきてあげるから」
静かな攻防をくり広げていると、スピカが手を叩いて水を差した。食器と布巾を片手づつに持ちながら、その表情はあきれ気味だ。
「……これがイチャついているように見えるのか? 正気か?」
「さすがはスピカ様。私たちの関係をよく存じておられるようで。光栄でございます」
顔をしかめるハマルにも感情の読めない笑みを湛えたズベンにも動じずに颯爽と奥に消えていく姿は、さすが一人で店を切り盛りしている店主、といったところか。その認識は冗談でもいただけないが。
デーメー・テールで注文するのは、決まってアップルパイが一切れと細身のグラスに注がれたアップルティーだけである。ハマルの中では一、二位を争う美味しさであることと、単純に寝不足による食欲低下であまりものを食べられないためだ。
卵液によって美しく艶めいた生地に、少ない砂糖でほどよく煮詰めたリンゴのプリザーブ。どちらも噛みごたえがありながら咀嚼するごとにほろほろと崩れ、飲みこむと同時に次を口にしたくなってしまう。
アップルティーは紅茶の風味の方が強めで、リンゴは香り付けと後味に添える程度だ。一度アップルパイの味を流して味覚をリセットしたい時に向いている。
「なるほど……。これがハマル様の好むアップルパイの味……」
隣席で同じメニューを出されたズベンがなにやらつぶやいているが、頼まれても相槌は打たない。肯定にしろ拒否にしろ、反応を返したことで手作りと称したものをしつこく持ち寄られるはめになっても困る。
フォークで小さく切り分け、一口一口を丁寧に味わって食べる。それでも元々が少ないので完食は早い。
「おかわりはいかが?」
「いや、十分だ」
欲を言えば欲しいが、胃袋の方が限界だ。今日も断りを入れて会計を済ませる。あの睡眠スープはサービスにするつもりのようで、いつもと変わらない値段だった。
ジオラマの通貨は元の世界のような硬貨や紙幣といった物質ではなく、活躍や実践に応じて各個人に付与されたスコアそのものだ。端末や磁気カードを必要としない電子マネーのようなもの、といえばわかりやすいだろうか。
ちなみにこのスコアの所持額に応じて各エリア、そして総合ランキングの順位が定期的に決定される。後者のランキングでは一定期間一位をキープし続けた者に対し、フジョシンからの褒美が約束されていた。
褒美の内訳は、あらゆる願いを叶えてもらえる、というシンプルなものである。しかしながらフジョシンに願えさえすれば、『元の世界に戻りたい』というジオラマ内の男たちの悲願を筆頭としてあらゆる望みの実現も夢ではない。
スコアは使えば使うほど生活をゆたかにする。ジオラマでの生活のすべては、必ずスコアの消費額と比例する。
しかし使い過ぎれば当然、現在の順位から転げ落ちることになる。節制を心がけて順位を駆け上がるか、置かれた環境の充足を求めるか。各々の金銭感覚に委ねられているのはどこの世界でも変わらない。
愛用のロングコートはハマルが持ちこんだ物とともにスピカが保管していたようで、会計時に合わせて戻ってきた。
「イナホがおびえてたんだけど。アンタなにかした?」
渡される間際、困り半分あきれ半分にスピカが問うてきたが、ハマルも首を傾げるしかなかった。イナホってだれだ。
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