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32話ー戸賀井 圭という男

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「馬鹿だなーってずっと思ってたけど、お前、ほんっとの大馬鹿者だったんだなー」
 詳しい内容は省いて、自分の行いだけを話すと、友人の田畑の声が二人きりの店内に響いて消えた。
 戸賀井は返す言葉もなく黙っている。
 そうすると溜息混じりに「カレー食うか?」と問われて、首を横に振る。カレーを食うほどの食欲はない。でも何かしていたいので、目の前のナッツ類の入った小皿に手を伸ばす。

 雄大に最低な行為をした上に、酷い言葉を投げ付けた。それでも会いに来てくれた雄大を突き放し、挙句の果てには「見捨てるのか」と言わせてしまった。
 第二次性徴期に行うバース検査から長らくαだと思い込んでいたが実はΩであったという衝撃は計り知れない。初めてのヒートはどれだけ怖かっただろうか。
 自分の祖父の過ちで悲しみに沈み、孤独感に苛まれたであろう雄大の苦しみを少しでも和らげることが出来ればと思っていた。
 例え自分がしてあげられることが僅かでも、寄り添ってずっとそばで守ると決めていたのに、先日の件で嫉妬に狂った自分が恐ろしくなった。
 守るなんてどの口が言っていたのか。子供染みた独占欲から一方的に雄大を傷付けて泣かせた。
 懺悔をしたい。
 本当は雄大本人の前で土下座でもして誠心誠意謝罪した方がいいのだろうけど、合わす顔も、触れる権利もない今、開店前の友人の店に仕事帰りに立ち寄り、迷惑は百も承知で吐き出す以外出来ることがない。
「もうダメそうなん?」
「ダメだろ、絶対。俺だったらやだもん、俺みたいな奴」
「確かにな。嫉妬深くて執着心丸出しの暴力的なαとか……口に出したら最低感増すわ」
「……そう、田畑の言う通り。これから俺に出来ることは門村先生に一切近付かず大人しく先生の幸せを願うことだけ」
「これでお前と門村先生がダメになっちゃっても俺には全く関係ないわけだけど、自分の手の届かないところで先生の幸せ願うとか、戸賀井、ほんとに出来んの?」
 そんな殊勝な奴だったっけ? とカウンターの向こうから聞かれて、交わしていた視線を放棄する。
 雄大の幸せを願う。本当にそう思っているか。正直に言えば半分は思っている。
 人としての健やかな生活については嘘偽りなく、幸せであって欲しいと願っている。しかし、雄大のΩ性、特に番についてとなると、急に気持ちが濁る。
 自分が幸せにしたいと思っていたから、自分の隣でなら幸せになって欲しい。でも他の誰かなら、答えは決まっている。
 本当は自分以外の誰の者にもなって欲しくないし、他の番なんて見つけないで欲しい。雄大以外とは番う気のなかった自分のように彼にも一生一人で居て欲しいと望んでしまう。
 やっぱり考えることは雄大にとって不利益なことばかりで、こんな男と番にならなくて正解だったなと自嘲めいた考えをする。
「戸賀井のことだからどうせ俺以外と幸せになるな、不幸になれって思ってんだろ」
「そこまで思ってねぇよ」
「最低~、恩師なのに」
「やっぱカレーちょうだい」
 慰めの言葉は期待してなかったが、田畑の言葉は戸賀井の体をザクザクと刺してくる。その鋭い刃を何とか躱そうと、腹は減っていないがいつものカレーをくれと頼む。
「まぁでも、気持ち落ち着いたら一回連絡してみたら、門村先生に」
 皿を用意しながら言う田畑に、戸賀井は返事が出来ずにいる。
 今しがた、番わなくて正解だった、傷付けはしたが自分の腕から雄大のことを逃がしてあげられたと思っていたのに、再度の連絡などすればなし崩しに何処まで堕ちるか分からない。
「……田畑は揶揄い半分で言ってんだろうけど、実際俺、やばいのよ。もし万が一、門村先生と上手く行っても、今度なんかあったらもう先生のこと外に出さないかも。誰にも会わせたくない」
「……こっわ……」
「な、やべーのよ俺。だから先生は俺じゃない方がいい」
「でもそこまで好きってすげぇから、やっぱ頑張った方がいいんじゃない? どうせ狂うなら門村先生のそばで狂ってろよ。捻じ曲がった感情が罪のない他人に向くよりよっぱど良いだろ。んで、もし先生のこと監禁しそうになったら俺に言えよ、すぐ通報してやっから」
 親友を警察に売る俺……と、恍惚な表情をする田畑を呆れた顔で見ているとカウンターの上に置いてあるスマホが振動し出す。画面には「みつたにクリニック」と表示されていて、応答ボタンを押そうとした瞬間に電話が切れた。
 ほんの僅かな時間の出来事で、掛け間違えかと考えはしたが患者に関する緊急連絡である可能性も否めない。
 カレーの準備を始めようとする田畑に「ちょっと待って」と手で制止する。
「クリニックからだった」
「仕事?」
「分からん。掛け間違いかも。折り返してみるわ」
 スマホを操作すると、手の中で再びスマホが振動する。今度はクリニックからではなく、田口個人のスマホからの着信だった。
 これは絶対に何かあった。
 戸賀井はカウンター席から立ち上がると、荷物を持って田口からの電話に出る。
『あ、戸賀井くん? 緊急事態です。何処にいる?』
「友達の店に居ます」
『そこ、門村さんの家から近い?』
 先程から田畑にチクチクと刺されていた心臓に一発大きな爆弾が投下された気分だった。
 雄大の名を出された戸賀井は「え、あ、え、門村、せんせ、え?」と明らかに狼狽えて、田口の求めている答えが口から出て来ない。
『門村さん、ヒートになったらしい。前回から三ヶ月も経ってないのは個人差だとして、問題なのは処方してる抑制剤が殆ど効いてないみたいで……って言っても本人に直接確認したわけじゃなくて、連絡があってね、まぁこれも本人からじゃないんだけど』
 電話の向こうではガタガタ、ガチャガチャと物音がする。田口もクリニックを出て雄大の家に向かっているのだろう。
『君に連絡せずに門村さんちに薬持って行っちゃおうと思ったんだけど、知っての通りΩのヒートには抑制剤よりもα本体の方が効くからね、一応報告』
 スマホから田口の声が漏れ出ているから田畑にも聞こえているのだろう。ふう、と息を吐く音と視線が戸賀井に向いている。
「あの、俺」
『門村さんの代わりに連絡してきた人、男性だったよ。君、心当たりある? 確か名前が、あっ、メモした紙忘れてきた』
 多分、雄大の首に跡を付けた男だろう。何処でどんなふうにヒートになって、その男がどうしてクリニックに連絡を寄越したのかは知らないが、また心臓で小さな爆発が起こって、沸騰したような血が全身を巡る。
 田畑に顔を向けると目が合った。唇をパクパクさせて、小さな声で何か伝えて来ようとしている。
 ――落ち着け。助けてやれよ、先生のこと
 たったそれだけ。
 短いアドバイスに促されるように、出掛かっては体の中に消えていた「俺が行きます」という言葉が口から押し出された。
 雄大のヒートが落ち着いたら必ず連絡をすると約束をして田口との電話を終えた戸賀井は田畑に礼も言わずに店を飛び出した。
 タクシー呼ばなくていいのかよ、とか何とか、田畑の声が聞こえて来たような気がするが、会話をする時間も惜しい。
 飲み屋街なのだから、その辺に停まったタクシーを走りながら見つけた方が早い。気は焦るばかりで、目的地まで急ごうと思えば思うほど足が縺れて上手く走れない。
 くだらない嫉妬心で傷付けるぐらいなら自分と居ない方が雄大は安全で、幸せになれる。もっと雄大を大事にしてくれる人見つけた方が良い。
 時間が経てばきっと穏やかな気持ちで雄大と雄大が選んだ者の幸福を祈れるはず。
 言い訳と濁った願いが戸賀井の脳内を流れて行く。
 本当にそう望んでいるのなら、何故自分は今息を切らして走っているのだろうか。
 雄大に会いたい。
 苦しんでいるのなら、救いたい。
 小学生の頃から抱え続けた、雄大に対する憧れと欲望がぐちゃぐちゃに入り混じった感情の中から「好きだから一緒にいたい」という気持ちだけを取り出して、戸賀井は夜の街を走った。

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