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終章

白絹の朝  冬青空

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   白絹の朝

 弘治三年十二月二十二日辰の中刻(朝八時)
 明け方からちらつく小雪に山王社の境内は薄っすらと白絹を纏った。
 火炎台を用意する社人の足跡が一つ、二つと白絹を汚す。
 祭壇、火炎台ができ、役人が参集する。
 領民や、侍が集まってくる。
 冷え込みの強い朝、清蔵は震える甚兵衛とお小夜を守るように付き従った。薄墨を流した空を睨んで、せめて雪がやみ青空が覗いてくれれば良いが。と願った。
「心配はいらぬ、此度は織田家が仲裁しての裁判じゃ」
 清蔵は力いっぱい笑顔を作り、声にも張りを持たせた。
「だ、大丈夫じゃわ。もういっけえあげなたわけた事態には断固ならぬわい」
 お小夜に対して甚兵衛も気丈に振る舞うが、足元が震えていた。冷え込む寒さのせいばかりではない。
「なんだか、怖いわ」
「お小夜ちゃん、心配は要らぬ。この裁判には又助どのをはじめ、ほれ......」
 清蔵は頼りなげな村井貞勝を見やってから言葉を呑んだ。
「いや......お屋形さまがついておる」
 清蔵も具体的な理由は知らない。ただ、「大丈夫だ」と繰り返すしかなかった。
 清蔵はお小夜の冷えた手を握り、掌で擦った。いざとなれば、後先を顧みず恒長の首を飛ばす覚悟はあった。
「清蔵さまの手、温かい」
「拙者が必ず守るから、お小夜」
 お小夜は溢れんばかりの熱い視線を寄越し、頷いた。
 清蔵は手をそっと離し、お小夜の顔を見て刀の鞘を強く握った。
 此度の火起請は、信長と一色ノ方の名を持って、池田恒興が織田造酒丞に申し状を送った。『正々堂々と火起請を書き合って神慮を得たら、遺恨を遺さずに水に流そうではないか』と提案する、至極まっとうな内容である。
 一昨日、牛一が語った言葉を思い出す。
 しかし、火起請に立たされる者は堪ったものではない。
 正面拝殿の扉は静かに閉ざされていた。
「扉の奥の座敷に、勝三郎さまと造酒丞さまが籠り、結果のみを静かにお待ちになっておられます」
 検分役が、関わりの者に伝えた言葉が清蔵の耳に入った。
 双方から、訴訟当事者、検分役、名主沙汰人と物見の武将が列座した。形ばかりの供侍が槍を立てているが、せいぜい十人を超えるほどの軍勢であった。
 拝殿の前に祭壇と火炎台がある。
 その斜め前に、信長名代の郡奉行村井貞勝が静かに座っていた。本当に座っているだけで良いと言われたような、存在感のなさを示していた。
 それぞれの村人が徐々に集まってくる。みな興味と不安が入り混じった顔だ。一色村の住人にいくらか余裕が感じられるのは気のせいか。清蔵は憂いをそっと拭った。
 どちらにせよ、まさかこの日に争いなど誰も起こさぬものと信じている百姓、商人、侍がほとんどのはず。
 拝殿に向かう敷石を挟んで、代表人として右に大屋村の甚兵衛と、向かいに一色村の左介が座っている。左介は不本意そうに渋面を作ってそっぽを向いている。甚兵衛は神妙に一点を見据えて座っている。清蔵はそばに付き添い励ましの言葉を掛けたかったが、双方の物見の武将の牽制が部外者を寄せ付けなかった。
 お小夜は、甚兵衛の後ろに離れて座り、そのまた後ろの一団から清蔵は見守った。
 人だかりは増した。後から集まる群衆は皆好奇の目をして背後に迫った。
 清蔵から少し離れたところに、お梶と付添うお春が怖々と顔を覗かしている。手に巻かれた白布が痛々しい。
「きょうは、お休みになっていたほうが......」
 気丈なお梶が清蔵の言葉に従うはずもない。
「......今度こそ正しい神慮が下されるに違いありませぬ」
 精一杯の強がりに、返す言葉もなかった。
 お春が、「私がついて行くから大丈夫」ととりなす言葉に黙って頭を垂れた。
 鐘が鳴り、おごそかな儀式が、禰宜と巫女の手で進められると皆息を潜め、静寂が社叢全体を包んだ。
 清蔵が顔を上げれば、冬空を覆う雲が厚く垂れ込めている。左右を見渡せば人垣は境内を埋め尽くしていた。
 遥か惣門の先までおろうか、清蔵は手を眉庇に遠方を覗いた。(ちらり光るのは槍の穂先か......)
 何かが薄い陽射しを照り返した。
 ばちばち。耳元に炭の爆ぜる音と熱気が伝ってくる。
 鉄棒は、焔の中で赤くおこっていた。
「――大屋村代表人は、前に」
 巫女が高調子の声音で呼んだ。
 民衆のどよめきが風を起こした。
(再度の火起請は一色村からのはずだ)
 そこかしこから似たような呟きが聞こえた。
 裁定を期待する清蔵は、貞勝に目を向けた。貞勝は眼をつむり前屈みに船を漕いでいる。
「早くしなさい」
 禰宜のしわがれた声が響いた。床下で聞いた声だ。
 同時に、二つの影が立ち上がった。
 甚兵衛とお小夜だ。一緒に立ちあがった二人だが、甚兵衛はお小夜を見るとたじろいだ。
「私......です」
 お小夜の凛とした声音が響いた。するすると、大屋村代表人らが座る床几をかき分けて、火炎台の近くまで歩み寄る。
「嘘だろう」清蔵は、声が勝手に零れ出た。
 群衆のざわめきが聞こえる。
 前方の端の床几に座り、全体を睨んでいた恒長は、驚きに声を上げそうなほど口を空けている。
「私は、神慮を信じます。だから、私に証明してください」
「よしなせぁー、お小夜」
 隣に立つ甚兵衛が両手を上げて制止した。
「叔母さんも、おとっつぁんも、もう傷つくのを黙って見ていられないのよ」
 切ないお小夜の声に清蔵は、黙っていられなかった。
 清蔵は厚い人垣をかき分け、足を前に踏み出した。だが、人垣は我も我もと前のめりに詰めて、隙間がない。身動きが取れなかった。
(やめろ、おまえら、俺はお小夜を守んなきゃなんねえだわ)
 清蔵は、呻き声と共に前に出ようとするが、もみくちゃにされた。
「待て! その意気や良し。なれど此度は違うであろう。さあ、一色村の代表人は、前へ」
 急に野太い声が山王社にこだました。
「えっ誰だ?」
 清蔵は人垣に挟まれたまま、ようやく顔を覗かした。
「でれぇ! ......吉兵衛どの」
(いつ起きたんだ!)
「えええ、お、おでか?」
 一色村の左介は驚きで呂律が回らない。
左介はきょろきょろと首を振り、何者かを探しだした。
清蔵も一緒に首を回すが。探しびとはすぐにわかった。
 隅に座るの恒長だ。
 恒長はすくっと立ち上がり左介を見下ろすと、薄笑みで口を開いた。落ち着いた声だった。
『仰せの通りに。さあ、鉄火を手に、祭壇に捧げよ。必ず神慮があろうぞ』
 恒長の微かな呟きが清蔵の耳に届いた。
 左介の視線が、宙を彷徨さまよった。
 納得した衆人の目が、左介に注がれた。一色村の者でさえ、文句を言わなかった。ただ左介は立ち尽したまま、動かない。
 禰宜も巫女も黙ったまま左介を見ていた。促す素振りも見せなかった。群衆の視線は一点に注がれて左介の一挙一動に釘づけになった。
 だが、清蔵は落ち着き払った恒長が気に入らない。恒長を睨み続けていた。
 恒長は、衆人環視の外へ向け、右手を挙げて左右に振った。何かの合図のようだ。
 清蔵は気づいた。
左介が彼方に目をやるのに合わせ、清蔵も視線を送った。
 惣門の先に、曇天を突き破るが如く、槍が無数に立ち上がった。その包囲の槍が蠢き迫る。
「まずい。奴はこの群衆の中で禁じ手を使うつもりか」
 群衆の合間を槍隊が迫る。
 清蔵、辺りを見回し思わず漏らした。
「又助どの、遅いぞ」
 同じ光景を見て左介は不遜ふそんな笑みをうかべた。信じたのは神慮などではない。恒長の謀略だ。
 左介は、ゆっくり火炎台に近づく。鉄火に手を掛ける。
 ――静寂。
 清蔵の耳に左介の鼓動、生唾を嚥下えんかする音が聞こえた。
 赤く熾った鉄棒など手にできるはずがない。
 燃え立つ焔が、槍の穂先に引き裂かれる民、百姓の赤い血に変わった。
「あつっ」
 と、あっけない男の悲鳴が聞こえた。
 鉄火は一寸も動かずに残っている。
 群集がどっと息を吐いた。文句と笑い声が混じっていた。
 やにわに法螺ほらが鳴った。冷気と、どよめきさえ振り払う轟音が高らかに響いた。
 恒長は北叟笑んだ。
 地響きがする。軍団の大移動だ。
 五百、六百、下手したら千に迫る軍兵の数だ。
 いつの間に、どこに潜んでいたのか土色の鎧武者が地虫のように湧き出てきた。
 郡衆は顔を歪めて互いを見合わせた。よこしまな何かが動く気配に皮膚が張り詰める。陽射しを遮る雲が厚く、大地への明かりを奪った。
 甚兵衛もお小夜も、貞勝や火起請にかかわる人々が皆、驚きの顔を惣門へ向けた。
 皆が動揺して浮足立つ中、清蔵はお小夜の下に駆け寄り肩をそっと抱いた。細く冷たい肩だと思った。
 大群が惣門を通りじわじわと境内になだれ込んできた。
 直後に、異なった高調子の法螺が鳴ると、地響きがやんだ。
 続けてもう一節鳴ると軍兵の動きまでぴたりと止まった。
 惣門を潜る織田木瓜の旗指物がなびいている。信長直属の武将たちだ。参道を一直線に突き進んでくる。
 異変に気づいた恒長は驚きに固まっている。
 少数だからこそ、まるで錐揉きりもみを入れたように池田家の軍兵を切り裂いて突き進む。鎧武者の槍衾が左右に割れる。
「どけどけ、お屋形様の御出座おでましじゃ!」
 先触れの利家の声が轟く。
「邪魔立て致すと、斬り捨てるぞ」
 白刃を手に利家はなおも威勢が良い。見る者のざわめきを抑えるに十分の大音声だいおんじょうだ。
(間に合ったか)
 清蔵は頬が弛緩し、長い吐息が無意識に出た。
 風が強くなった。
 幸いなことに雲を流して幾分明るくなったが、肌を刺す寒さは益々強くなった。
「お小夜ちゃん、もう大丈夫だ。心配いらぬ」
 清蔵は白い息を吐きお小夜の肩を擦った。
 再び雪がちらついていた。
「お屋形さまだ」「尾張のお殿さまだ」「上総介さまだ」
 口々に叫ぶ群集の声には驚きと畏怖と歓喜の声が混じっている。
 小姓、馬廻りの御側衆が信長の後に続く。わずか十数人の供回りだが武勇の誉れ高い近習が周りを固めている。その中から牛一が抜け出し、信長の脇にひざまずいた。
 馬上の信長は、綾藺笠あやいがさを被り、水干を着て、左腕に射籠手、右手に弓懸をつけ、腰に行縢むかばきをはく鷹狩り装束だ。
 弓を利家に渡し、綾藺笠をとった。
 なえ烏帽子のまま、奥に佇む恒長を連銭葦毛れんせんあしげの馬上から睨んだ。
 さすがの恒長も委縮し、青白い顔を一層白くした。
 信長は愛馬から降り、ゆっくり辺りを睥睨したまま祭壇に近づいた。
 言葉を一言も発しない信長を見て周りも口を噤んだ。
 両所の奉行衆、禰宜、貞勝さえも呼吸を止め信長を見た。
 拝殿の扉が三寸ほど開いて、音がやむ。
 恒長は凍りつくように固まっている。信長の出馬など夢にも思っていない顔だ。
「ざまあにゃーぜ」
 清蔵は胸のつっかえが取れる思いだった。
「これが尾張に名高き火起請の神判か。そこの者、鉄火を落としたな」
 野良犬のように居場所を失い、苦痛の声を上げることさえ出来ずに這い蹲っている左介を睨んだ。
「い、いえ」
 消え入るように左介は応えた。
 氷の視線を左介に留めて、信長は鼻で笑った。
「鷹狩りの帰りに、たまたま通りがかった。余が鉄火を無事に掴み、祭壇に奉納したらば、なんとする」
 観衆は口を空け、呆気に取られている。もちろん清蔵もその中の一人だ。
 信長は小首をわずかに動かすと、隅に固まる恒長を鋭く捉えた。
「余の裁定を受けるか、利八郎」
「御意のままに」
 恒長は瞬きもせずに応えた。にわかに動揺が収まり、微かに口元が綻んだ。
(げっ、いくらお屋形さまでも......)
 信長は数歩歩むと、火炎台の前に立った。
 大きめの射籠手に隠れた左手を動かし、右手に填めた黒革の弓懸を外し、足元の石畳に叩きつける。
 清蔵も固唾かたずを呑んで見ている。
 すかさず牛一が、恭しく三掛の弓懸を掲げると、群衆の視線が注がれた。
「おお、素手におなりなすった」「本当にやるがや」
 人々は驚きを口にしている。
 その中に目を輝かす金坊がいた。
(あいつの目は尾張のお殿さまを信じて疑わぬ目だ)
「違反せしめば、梵天・帝釈・四大天王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、別して熱田大明神、大社八幡菩薩・摩利支尊天・天満大自在天神の部類眷属の神罰、冥罰をおのおのまかり蒙るべきなり」
 信長の良く通る声が響き渡った。
唱え終わるや、両手で赤い鉄火を掴んだ。
 肉の焼ける音が聞こえ、焦げつく匂いが漂った。
 風に乗った雪の一かけらが信長の頬に触れた。
 信長の双眸は瞬きもしない。雪はすぐに融けた。
 信長は三歩を進み、祭壇に奉納した。
 観衆の声が腹の底からわき上がって大地を揺らし、降り注ぐ雪はひとしきり勢いを増した。
 神殿の扉が開かれると、恒興と造酒丞がひれ伏さんばかりに飛び出して、叩頭し続けた。
 信長は踵を返し、利家が持つ太刀を抜き取り、左介に近づく。
「神のご意志じゃ」
 信長は言い終わらぬうちに、真っ向から左介の眉間を断ち割った。
 それに慌てた恒長は逃げようと腰を上げた。慌てて動かす足が大地を捉えきれず空回りした。
 虚しい抵抗だった。すでに動きの先を読んだ御側衆にあっけなく拘束されて信長の足元に引き摺り出された。
 迅速の舞台回しに清蔵は瞬きもできない。
 ――鈍い切断音がした。
 血飛沫が立ち、赤い焔と重なった。
 恒長の首級しるしは冬空に舞い、新たに纏った白絹を朱に染めて転がった。
 清蔵は鬼神を見ていた。
 お小夜は清蔵の腕の中で気を失い、崩れ落ちた。
 お小夜の身体を清蔵はしっかりと支えていた。
 刹那、信長の一瞥が清蔵を捉え、薄い目で笑った。
 清蔵は身体に稲妻が走るのを感じた。
「今、神慮が下った」
 清蔵はひとり呟くと、お小夜を力強く抱きしめた。裁定が下ったのだ。この女子を再び離してはならぬと、溢れ出る声なき叫びと共に心に誓った。
 お小夜は薄目を開けかけ、すぐに閉じた。清蔵はその時、その意味には気がつかなかった。
 いつの間にか見守るお春はギュッと拳を握っている。
 お小夜はそっと手を動かし、清蔵の手を探した。
 清蔵も握り返した。
「清蔵さま......」
 たまゆらな声が清蔵の耳に届いた。抱え込む両の手の中からだ。
「......その手をずっと離さないでくださいませ。小夜は、このところ心細い思いをしておりました。清蔵さまのじつのお言葉で小夜を掴まえて欲しゅうございます」
 清蔵は驚いた。すぐにお春の顔を見る。お春の黒目がくりくり動いて清蔵を鼓舞した。
 あの目だ。温かくも厳しく、てのひらで転がされているが確かに慈愛を含んだ眼差しだ。ほころぶように息をして下腹に力を入れた。
「すまなんだお小夜、儂の、儂の嫁になれ」
 遠巻きに万歳するお春の影がちらついた。目を瞑ったままのお小夜の細い腕から放つ精一杯の力を味わった。
 お小夜にしっかり届いた小さな言霊は、群衆の歓声に吸い込まれて、消えた。
「わおー、万歳! お屋形さま」                                  


   冬青空
 
 牛一は片づけられた祭壇に立ち、群集を掻き分けながら清洲に帰る信長一行を見送った。馬上の信長は鼻歌交じりだ。ああ見えて下々にも人気がある。
 空はいつの間にか青く広がっていた。あの厚い雲はどこに消えたのか、見上げる牛一は思った。
 信長登場に合わせて降り出した雪も止んだ。いい塩梅に見苦しい血をかき消してくれたことを天に、いや鬼神に感謝したい。
 元締、手代を指図する貞勝がやってきた。
「此度のお勤め、誠にご苦労に存じます」
 牛一は上席である貞勝に低頭した。
 貞勝は、偉ぶらない人柄だけに、笑みを湛えて気軽に応えた。
「なあに、儂は記録書をまとめただけじゃ」
「えっ......。あの記録書の裏表紙にあった......」
 と口にして、牛一は丸に吉の印を思い浮かべた。
確かに代官は貞勝の差配にある。
「見たのか」貞勝は笑って頷いた。
「手代には念入りに調べさせたがの」
「干柿、いえ、右筆頭どのへは事の仔細を......」
「細大漏らさず伝えた。でないと煩いのだ、干柿どのは」
 貞勝の言葉にはまったく同感である。
「何かと便宜を図ってもらった手前もあっての。ただ此度は儂もこのままでは行かぬと思うところがあって、何とかお屋形さまにお伝えしたかったのだわ」
「そうでございましたか」
「幸い、活きの良いのを二人、動かしておると干柿どのは自慢げに話しておった」
 貞勝は牛一を見つめ最後に笑みを持って頭を下げた。
「そちらこそ、礼を申す。お勤め御苦労にござった」
 貞勝は頭を上げるとちらっと顔を逸らした。その視線の先にいるのは清蔵と、お小夜だった。
「清蔵どのにもお礼をと思いましたが、また今度にしときましょう。不粋は嫌われる」
 貞勝は、ちょっぴり羨ましそうに鼻の下の髭を撫でた。
 清蔵とお小夜は拝殿正面の階の横に寄りそうように睦まじく座っていた。その後ろから手を振る女――お春だ。後ろから金坊も顔を覗かす。
 お春は大きく両手いっぱいに丸を作って牛一に、あらんばかりの笑みを送ってきた。お春のお勤めも上手く行ったようだ。
 
 
 山王社から離れる信長一行と、三々五々生計たつきに戻る村人たち。残された者が黙々と宴の片づけをした。
 皆が満足げな顔を見せる。
 大屋村も、一色村さえ憑き物が落ちたような明るさを取り戻した。もちろんの信長も気持ち良さ気に『敦盛』を吟じた。織田家中がより結束を強めたせいもある。なにせ、某も清蔵も貞勝の侠気を発見したくらいなのだ。
 目論見どおり恒興は信長の鬼神ぶりに震えあがり、恒長に与した一党を悉く粛清したのは言うまでもない。ついでに、山王社神職の顔触れと海東郡の代官も刺し替えられたことを付け加えよう。
 後世に伝えるべき話はやはり、尾張の地に舞い降りた鬼神の話が面白かろう。
 白い山並みに囲まれた山王社の甍も雪で覆われた。それを際立たせるような澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
   

                                                                                                                               【了】









参考資料

『信長公記』  太田牛一著・中川太古訳  新人物文庫
『信長と消えた家臣団』    谷口克広  中公新書
『信長の親衛隊』       谷口克広  中公新書
『日本の中世都市の世界』   網野善彦  講談社学術文庫
『日本神判史』        清水克行  中公新書
『室町時代風俗』第七巻   今和次郎他  雄山閣
『戦国武家辞典』      稲垣史生編  青蛙房刊




 

 

 


 

 

 

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