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シーズン1/第一章
□癒しの天使 エンジェルフォール□③
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「亜葵? どうしたんだ、なんだか元気ないみたいだが」
お父さんが、私の顔を覗き込むようにして言いました。
「えっ。あ、ううん、なんでもないよ」
「亜葵ったら、なんだか最近、ぼーっとしているわね。何かあったの?」
お母さんも、心配そうな顔で言うのです。
私はやはり、なんでもない、と言って笑ってごまかすのです。
お父さんは隣の市の薬品工場に勤めているのですが、かなり忙しいらしく、あまり休みが取れません。
そんなお父さんが、今日は仕事がお休みですので、珍しく三人で食卓を囲んでいました。私も例の喫茶店のアルバイトで帰りが遅くなることもしばしばあったりして、こうして家族揃っての夕食は結構久しいのです。
お母さんの治療の経過はすこぶる良くて、もう近いうちに通院が終えられるかもしれないとのことです。
実際、お母さんはすっかり元気で、懇意にしてくれたお医者さんと会えなくなるのが寂しいなんて言っていました。
お母さんも元気で、こうして家族三人で食卓を囲んでいる――それは、なんて幸せなことでしょうか。
でも、私は幸せを感じる反面、心に翳りが生まれるのです。
私は元々、天使でした。
天界から人間たちを見守る存在。
でも、争いによって傷ついたり、病によって苦しんだりする人間たちをただ見守っているだけというのは耐えられなくて、直接手を差し延べたくて、神さまに願ったのです。人として下界に降りて、彼らに直に触れたい、と。
だから……。
私がここにいるのは、世界中の人々を癒すためだったはずなのです。
でも、私が癒せるのは、私の身近にいる人だけ。
私が主にその力を使う相手は、お母さんだけ。
この力をもっと色んな人のために使いたくて、普段会う人の中で怪我をしている人などがいれば、こっそりと癒しの力を流し込んであげることもあるのですが、しかし一気に治癒させることはできません。せいぜい、気休め程度にしかならないのです。
私がこの力を以って癒して差し上げるべき人は、世界中に、数え切れない程います。
でも、私の手は彼らには届きません。
天使だった頃に願ったことは、人間になった今ではかなえられないのです。
その事実は暗いもやとなって、私の胸にどんよりと巣食うのです……。
/
ついに、お母さんのがん治療は終えられました。
昨日、お父さんの仕事のお休みの日を待って、三人でお祝いパーティーをしました。とても楽しくて、幸せを感じたのです。
その余韻をほんのりと胸の中に感じながら、私は今日、アルバイトに一層励んでおりました。
小さい頃から憧れだった看護師になるため、看護学校に入学した私ですが、お母さんの病気をきっかけに休学をしていました。
めでたくその休学理由が消滅しましたので、復学することになります。ただ、復学時期というのは決まっていますので、次の春を待たねばなりません。
それまでに、少しでも多くのお金を貯めておこうと、今、アルバイトに精を出している次第です。
なにせ、お母さんの治療にかなりお金がかかってしまったはずですから、そのうえ私の学費をすべて負担させてしまうなんてわけにはいきません。
出来る限りは自分で出せるよう、今のうちに目いっぱい稼ごうと考えているわけです。お父さんとお母さんのためです。
でも、復学するにあたって、また家を出ることになりますので、再びお母さんやお父さんと離れ離れになってしまいます。この喫茶店のアルバイトだって辞めることになりますので、お世話になったマスターや仲良くなった先輩ともお別れです。寂しいです。
昨日はお祝いで嬉しかったり、でも今お別れすることを意識して不意に寂しくなったり、私の心は忙しないのです。
そんな中で、また思わずお客さんが読んでいる新部のとある記事が目に入り、また別種の感情が沸き上がるのです。
どこかで起こった通り魔事件の記事。
包丁を手に錯乱して暴れ回った犯人によって、多くの死傷者が出たというような見出しでした。
それを目にしたとき、私の胸にひどく暗い感情が渦巻きました。
もし仮に私がその場にいたとすれば、天使の力によって命を救えたかもしれない。
嬉しさと寂しさが同居していた胸中に、そんなどす黒い感情が割って入ってきて、もうぐちゃぐちゃです。
私一体、何をしているのでしょう。
神さまをお願いして、下界へと来ました。それは苦しむ人間たちを癒したかったから。
それなのに、私は今、喫茶店でアルバイトなんかしています。
頑張ってお金を稼いで、お父さんとお母さんの負担を減らすためとはいえ、でもそれはあくまで私個人の事情です。今も世界には苦しむ人々が数え切れないほどいるというのに、私は私情を優先しているのではないでしょうか。
でも、そんなことを考えたところで、私にできることはありません。
だめです……。私は、自分の心をどこに置けばよいのかどうしても分からないのです。
/
そんな心境のまま、それでもお客さんを前にして暗い顔をするわけにはいきませんので、笑顔でいるよう努めながら働いていました。
退勤の時間まであと一時間と迫ったことでしょうか。
もうひと踏ん張り、と意気込んだところで、マスターが私を呼ぶのです。
「天使さん、お電話だよ」
「私に、電話ですか?」
「お母さんから」
はて、なんでしょう。お店に電話をかけて来るなんて初めてのことです。
当然、携帯電話は電源を切ってロッカーに入れてありますので、勤務中に連絡があっても出られません。だから、お店に電話をかけてきたのでしょう。つまりそれほど急ぎの用事だということでしょうか。
『亜葵、たいへんなの!』
お店の電話の子機を借りて、裏手へ行きました。
そこで保留を解除して受話器を耳に宛がうと、すぐにお母さんの慌てた声が聞こえてきました。
「なに? どうしたのお母さん、わざわざお店に電話までかけてきて……」
『お父さんが! たいへんなのっ、お父さんの工場で、今、事故が起こって――!』
「……え?」
/
「――はあっ、はあっ」
左右を背の高い建物に見下ろされながら、私は走ります。
上下する体に合わせて、一つ括りにした髪が振り乱れて、ばしばしと背中に当たるのを感じます。
でもそれ以上に、私の心はひどく乱れていたのです。
お母さんからその報せを受けて、すぐにアルバイトは早退させてもらいました。
その報せ――お父さんが勤める薬品工場で、爆発事故が発生したのです。
爆発によって工場が半壊して、そのうえ人体に有毒なガスが発生している状態……。そのせいで救助が容易ではなく、まだ倒壊した工場の中に多くの従業員が取り残されているというのです。
その中に、私のお父さんも含まれます。
お父さん……。
お母さんが元気になったところなのに、今度はお父さんが事故に巻き込まれてしまうなんて。
お父さんが、無事かどうか――それを案じずことすら、憚られます。だって、その状況で、無事なわけなんて、ないのですから……。
お父さんの勤務する工場と私がアルバイトをしている喫茶店は同市であり、つまり私は今、その工場へ向かって懸命に走っているのです。
私がそこへ行って、なにかできるのか。
そんなことは分かりません。
でも、じっとしていられません。
――それに、いざとなれば……。
街中を、懸命に走ります。
やがて、遠く……ビルの向こう側に、もうもうと黒い煙が立ち上っているのが見えてきました。方角からして、それが工場の火災による煙だと分かります。
周囲の人々の喧騒も大きくなっていきまました。事故のことはすでに広まっているのでしょう。
有毒ガスが発生しているということで、野次馬根性で身に行こうとするような人もそういません。そんな中、事故現場へ向かって必死に駆けていく私は異様に思われているでしょうか。
立ち上る煙を見上げながら走っていた私は、足元への注意を怠っていました。
……地面のわずかな段差に気付かずに、私は思いっきり足を引っかけてしまったのです。
「きゃっ」
短く悲鳴を上げると同時、私の体は浮きました。
そのまま、アスファルトの地面が目の前にぐんと迫ってきます。全力疾走の勢いのまま転んでしまって、顔から地面に倒れようとしているわけです。
咄嗟に受ける身を取る余裕もなく、そのまま次の瞬間には顔面に衝撃を受けるだろうと覚悟して、目をつむりました。
……が、数秒経っても、硬い衝撃を感じることはありありませんでした。
妙だな、と思い、目を開けます。
「あれ……」
私の体は浮いたまま、静止しているのです。
いえ、私だけではありません。周囲の景色、人々もその動きを止めています。
音もなく、そして次第に色味が薄れていって、暗がりに包まれます。
「危うく盛大に転ぶところじゃったな、ハクティリカよ」
暗がりに包まれた景色の中、天から一条の光が差し、神さまが現れました。
白髪白鬚のご老人は、宙に浮いたままの私に言うのです。
「それほど急いで、父のもとへ行こうと言うのか? ……しかし、君が行ったところで何もできぬぞ」
「神さま……」
ええ、分かっています。
ただ人間の私では、そこへ行って出来ることなんてありません。
ただの人間の、私では――……。
「本気か?」
私の考えていることが分かったのでしょう。神さまが、怪訝な顔をして私を見ます。
私は元々、天使です。
今、事故の現場へ向かったとしても、ただの人間の私にはできることなんてありません。
でも、天使としてならば、違います。
癒しの力によって、お父さんや、他にも事故に巻き込まれた人たちの命をつなぎとめることが出来ます。
「言ったはずじゃが。天使の力を誰かに見咎められてはいけないのじゃ。……今から君はその禁を破ろうとしている。そうなっては、君はもうその世界にはいられない。人間として、存在が消えてしまうのじゃぞ。他の者の記憶の中からも、君はいなくなってしまう」
「ええ。分かっています」
神をまっすぐ見据え、私は言います。
「でも、それが今私にできること――私がすべきことなら、やります。覚悟はしています」
そう言ったと同時、……私は、ここ最近自分の胸の中で渦巻いていた暗い感情がぱあっと晴れていくのを感じました。
暗い感情とはすなわち、世界中で苦しんでいる人々を助けたいと願い、下界へ降りてきたのに、いざ人間になってはそれが叶えられない――その現実に対する絶望感です。
いえ、正確に言えば、晴れたとは違うでしょうか。
疑問や葛藤がなくなったわけではありません。
ただ、その迷いの中にでもかろうじて打ち立てられ得る、一本の指標といったところでしょうか。
それは、何より――『だって私は人間だから』ということ。
「なるほど。ようやくそこに気付いたのじゃな」
「ええ……。私、気付きました。確かに、苦しんでいる人たちは世界中にいっぱいいます。私一人では、彼らに手を差し伸べたくとも届きません。それはどれほど願っても、かなわないことなのです。
しかし、その現実を憂い、絶望して、ひどく心を痛めたとしても――それ自体は、不健全なことではありません。むしろ人として、その痛みは健全なのです」
それはきっと、天使の力を以ってしても決して癒せない痛み。
でも、そんな痛みを抱えるからこそ――。
「幸せなんです」
私は胸に沸いたその気持ちを、言葉にして、神さまに言います。
「だからこそ、『そばにいる大切な人』という存在を持てます。我が身を擲ってでも大切な人を守りたい、助けたい……そういう愛情を知れるのです。
だって、もしすべての人を等しく救おうというなら――、残念ながら、そこに愛情なんてありませんもの」
でも。
こんなことを言っても、それでもやっぱり、すべての人を救えるなら救いたい。
その気持ちは変わりません。
しかしそれはどうしたって不可能なのです。
ならばせめて、そばにいる大切な人だけでも守ろうと思います。
結局のところ、『ただ自分ができることを一生懸命やる』――人間一人が背負える正義なんて、せいぜいそんなものなのです。
「人間とは、なんと不器用な存在だろうな。……君は天使でありながら、下界の人々に手を差し伸べたいと願った――それは君の中に『人間』が生じ始めた証だった。そのときすでに、君は天から堕ちていたのじゃ」
「ふふ。そうですね。……私、堕ちて良かったです」
天界の身のままでは、このような尊い感情は持ち得なかったのです。
私は、天使から人へと堕ちて――、人に成れて、良かったと思います。
「ハクティリカよ――いや違うな、哀れな人間・天使亜葵よ。君の魂はもうこの世界には留めておけない。しかし、消滅させはせぬよ。こことは違う別の世界にて、君のその美しい魂をまた芽吹かせよう」
「また新たに転生させていただけるということですか……?」
「うむ。ただし、この世界を離れてはワシの管轄外となる。果たして人として生まれるか、人なれども容姿や記憶が引き継がれようか――それはワシにも分からん。
ただしその魂は確かに君自身であるはずだ。
君が強く願えば、またエンジェルフォースが覚醒するかもしれんな。……そのときは思う存分その力を振るうが良い。一切の制約も受けない。なにせそこは、ワシの管轄外じゃから」
「――ありがとうございます、神さま」
「ああ。……では、ワシは去る。君は心に決めた通り、その力を使うがよろしい。最期に天を仰ぐが良いぞ」
そう言って、神さまは天界へと還っていかれました。
静止していた時間が、戻ります。暗がりだった風景が色づき、周囲の喧騒が復活したのです。
しかし、地面に向かって倒れ込もうとして静止していた私は、その動きを再び取り戻すことはありませんでした。
宙に浮いて留まったまま、なのです。
近くにいた人が、驚いて私のことを見ます。
それは当然でしょう。
頭の上には煌々と輝く輪っか、背中には純白の羽――今の私は、エンジェルフォースを全開にして、天使としての姿を取り戻している状態なのですから。
街中で突然そんな姿の女が現れたら、冷静ではいられないでしょう。
私は背中の羽を羽ばたかせて、ぐん、と空へと飛び立ちました。
意識をすれば、背中から生えたその羽を動かせます。でも、人間としての体に慣れているので、なんだかそれは不思議な感覚でした。
羽先まで神経が伸びているわけではないのですが、羽が風に撫でられていくのもしっかりと感じられます。少しくすぐったいです。
あっという間にビルを飛び越え、立ち上る黒煙さえも見下ろす高さとなります。
なおも燃え続ける薬品工場の直上で、私は羽ばたきを止めました。
体の力を、すっ、と抜きます。
……一秒も待たないうちに、すぐに重力が私の体を地へと引っ張り始めました。
私は仰向けの状態で、落下を始めます。
これだけ高く飛んでも、空は、まだずっと遠い気がします。
その遠い空が、さらに離れていきます。
私はぐっと意識を集中させて、『エンジェルフォース』を目いっぱい放ちます。――体から、光が溢れました。
やがて地面と接したとき――、
この身が砕けるのと同時、癒しの光が弾けて広がるでしょう。お父さんもきっと助かります。
背中に強い風の抵抗を感じながら、ふう、と、息を吐きます。
十九年。短い人生でした。
でも、幸せです。
お母さんと、お父さん……誰よりも大切な、愛する家族を助けることができたのですから、たとえ、この後には私に関する記憶はなくなってしまおうとも。共有してきた時間が消えてしまうとしても。
そんなのは些末なことなのです。
たとえ自分が犠牲になろうとも、愛する人が助かるのならそれが嬉しいのです。
『誰かのために』が、巡り巡って『自分のために』もなる。
そんな幸せなことはありません。それこそ、人間にしか体現出来ない幸せでしょう。
ただ一つだけ、悔いがあるとすれば。……私は生涯で知れた愛情が、一つの種類だけしかなかったことです。
私が好みで感じられた愛情は、家族への愛情だけです。
もうちょっと違う種類の『愛情』も、抱いてみたかったな、とは思います。
それだけが、後悔とは言えば後悔かなあ。
少し残念ではありますが、まあ、仕方ないですね。
どんどんと、遠くなっていく。空。
嬉しいことに、今日は、とてもきれいな空でした。
ほとんど雲がない真っ青な空です。きれいな深い青が、私の視界を隅から隅まで覆っています。心が洗われるようでした。
やがて視界は、黒い煙に覆われます。ああ、せっかくきれいな空を眺めていたのに、と思ったところで、すぐに熱さと息苦しさを感じて、さらに次の瞬間には背中に硬い衝撃を感じた直後、――刹那、視界が真っ白な光に包まれたような気がして、……
それを最後に、私の意識は幕を閉じたのでした――……。
お父さんが、私の顔を覗き込むようにして言いました。
「えっ。あ、ううん、なんでもないよ」
「亜葵ったら、なんだか最近、ぼーっとしているわね。何かあったの?」
お母さんも、心配そうな顔で言うのです。
私はやはり、なんでもない、と言って笑ってごまかすのです。
お父さんは隣の市の薬品工場に勤めているのですが、かなり忙しいらしく、あまり休みが取れません。
そんなお父さんが、今日は仕事がお休みですので、珍しく三人で食卓を囲んでいました。私も例の喫茶店のアルバイトで帰りが遅くなることもしばしばあったりして、こうして家族揃っての夕食は結構久しいのです。
お母さんの治療の経過はすこぶる良くて、もう近いうちに通院が終えられるかもしれないとのことです。
実際、お母さんはすっかり元気で、懇意にしてくれたお医者さんと会えなくなるのが寂しいなんて言っていました。
お母さんも元気で、こうして家族三人で食卓を囲んでいる――それは、なんて幸せなことでしょうか。
でも、私は幸せを感じる反面、心に翳りが生まれるのです。
私は元々、天使でした。
天界から人間たちを見守る存在。
でも、争いによって傷ついたり、病によって苦しんだりする人間たちをただ見守っているだけというのは耐えられなくて、直接手を差し延べたくて、神さまに願ったのです。人として下界に降りて、彼らに直に触れたい、と。
だから……。
私がここにいるのは、世界中の人々を癒すためだったはずなのです。
でも、私が癒せるのは、私の身近にいる人だけ。
私が主にその力を使う相手は、お母さんだけ。
この力をもっと色んな人のために使いたくて、普段会う人の中で怪我をしている人などがいれば、こっそりと癒しの力を流し込んであげることもあるのですが、しかし一気に治癒させることはできません。せいぜい、気休め程度にしかならないのです。
私がこの力を以って癒して差し上げるべき人は、世界中に、数え切れない程います。
でも、私の手は彼らには届きません。
天使だった頃に願ったことは、人間になった今ではかなえられないのです。
その事実は暗いもやとなって、私の胸にどんよりと巣食うのです……。
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ついに、お母さんのがん治療は終えられました。
昨日、お父さんの仕事のお休みの日を待って、三人でお祝いパーティーをしました。とても楽しくて、幸せを感じたのです。
その余韻をほんのりと胸の中に感じながら、私は今日、アルバイトに一層励んでおりました。
小さい頃から憧れだった看護師になるため、看護学校に入学した私ですが、お母さんの病気をきっかけに休学をしていました。
めでたくその休学理由が消滅しましたので、復学することになります。ただ、復学時期というのは決まっていますので、次の春を待たねばなりません。
それまでに、少しでも多くのお金を貯めておこうと、今、アルバイトに精を出している次第です。
なにせ、お母さんの治療にかなりお金がかかってしまったはずですから、そのうえ私の学費をすべて負担させてしまうなんてわけにはいきません。
出来る限りは自分で出せるよう、今のうちに目いっぱい稼ごうと考えているわけです。お父さんとお母さんのためです。
でも、復学するにあたって、また家を出ることになりますので、再びお母さんやお父さんと離れ離れになってしまいます。この喫茶店のアルバイトだって辞めることになりますので、お世話になったマスターや仲良くなった先輩ともお別れです。寂しいです。
昨日はお祝いで嬉しかったり、でも今お別れすることを意識して不意に寂しくなったり、私の心は忙しないのです。
そんな中で、また思わずお客さんが読んでいる新部のとある記事が目に入り、また別種の感情が沸き上がるのです。
どこかで起こった通り魔事件の記事。
包丁を手に錯乱して暴れ回った犯人によって、多くの死傷者が出たというような見出しでした。
それを目にしたとき、私の胸にひどく暗い感情が渦巻きました。
もし仮に私がその場にいたとすれば、天使の力によって命を救えたかもしれない。
嬉しさと寂しさが同居していた胸中に、そんなどす黒い感情が割って入ってきて、もうぐちゃぐちゃです。
私一体、何をしているのでしょう。
神さまをお願いして、下界へと来ました。それは苦しむ人間たちを癒したかったから。
それなのに、私は今、喫茶店でアルバイトなんかしています。
頑張ってお金を稼いで、お父さんとお母さんの負担を減らすためとはいえ、でもそれはあくまで私個人の事情です。今も世界には苦しむ人々が数え切れないほどいるというのに、私は私情を優先しているのではないでしょうか。
でも、そんなことを考えたところで、私にできることはありません。
だめです……。私は、自分の心をどこに置けばよいのかどうしても分からないのです。
/
そんな心境のまま、それでもお客さんを前にして暗い顔をするわけにはいきませんので、笑顔でいるよう努めながら働いていました。
退勤の時間まであと一時間と迫ったことでしょうか。
もうひと踏ん張り、と意気込んだところで、マスターが私を呼ぶのです。
「天使さん、お電話だよ」
「私に、電話ですか?」
「お母さんから」
はて、なんでしょう。お店に電話をかけて来るなんて初めてのことです。
当然、携帯電話は電源を切ってロッカーに入れてありますので、勤務中に連絡があっても出られません。だから、お店に電話をかけてきたのでしょう。つまりそれほど急ぎの用事だということでしょうか。
『亜葵、たいへんなの!』
お店の電話の子機を借りて、裏手へ行きました。
そこで保留を解除して受話器を耳に宛がうと、すぐにお母さんの慌てた声が聞こえてきました。
「なに? どうしたのお母さん、わざわざお店に電話までかけてきて……」
『お父さんが! たいへんなのっ、お父さんの工場で、今、事故が起こって――!』
「……え?」
/
「――はあっ、はあっ」
左右を背の高い建物に見下ろされながら、私は走ります。
上下する体に合わせて、一つ括りにした髪が振り乱れて、ばしばしと背中に当たるのを感じます。
でもそれ以上に、私の心はひどく乱れていたのです。
お母さんからその報せを受けて、すぐにアルバイトは早退させてもらいました。
その報せ――お父さんが勤める薬品工場で、爆発事故が発生したのです。
爆発によって工場が半壊して、そのうえ人体に有毒なガスが発生している状態……。そのせいで救助が容易ではなく、まだ倒壊した工場の中に多くの従業員が取り残されているというのです。
その中に、私のお父さんも含まれます。
お父さん……。
お母さんが元気になったところなのに、今度はお父さんが事故に巻き込まれてしまうなんて。
お父さんが、無事かどうか――それを案じずことすら、憚られます。だって、その状況で、無事なわけなんて、ないのですから……。
お父さんの勤務する工場と私がアルバイトをしている喫茶店は同市であり、つまり私は今、その工場へ向かって懸命に走っているのです。
私がそこへ行って、なにかできるのか。
そんなことは分かりません。
でも、じっとしていられません。
――それに、いざとなれば……。
街中を、懸命に走ります。
やがて、遠く……ビルの向こう側に、もうもうと黒い煙が立ち上っているのが見えてきました。方角からして、それが工場の火災による煙だと分かります。
周囲の人々の喧騒も大きくなっていきまました。事故のことはすでに広まっているのでしょう。
有毒ガスが発生しているということで、野次馬根性で身に行こうとするような人もそういません。そんな中、事故現場へ向かって必死に駆けていく私は異様に思われているでしょうか。
立ち上る煙を見上げながら走っていた私は、足元への注意を怠っていました。
……地面のわずかな段差に気付かずに、私は思いっきり足を引っかけてしまったのです。
「きゃっ」
短く悲鳴を上げると同時、私の体は浮きました。
そのまま、アスファルトの地面が目の前にぐんと迫ってきます。全力疾走の勢いのまま転んでしまって、顔から地面に倒れようとしているわけです。
咄嗟に受ける身を取る余裕もなく、そのまま次の瞬間には顔面に衝撃を受けるだろうと覚悟して、目をつむりました。
……が、数秒経っても、硬い衝撃を感じることはありありませんでした。
妙だな、と思い、目を開けます。
「あれ……」
私の体は浮いたまま、静止しているのです。
いえ、私だけではありません。周囲の景色、人々もその動きを止めています。
音もなく、そして次第に色味が薄れていって、暗がりに包まれます。
「危うく盛大に転ぶところじゃったな、ハクティリカよ」
暗がりに包まれた景色の中、天から一条の光が差し、神さまが現れました。
白髪白鬚のご老人は、宙に浮いたままの私に言うのです。
「それほど急いで、父のもとへ行こうと言うのか? ……しかし、君が行ったところで何もできぬぞ」
「神さま……」
ええ、分かっています。
ただ人間の私では、そこへ行って出来ることなんてありません。
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「本気か?」
私の考えていることが分かったのでしょう。神さまが、怪訝な顔をして私を見ます。
私は元々、天使です。
今、事故の現場へ向かったとしても、ただの人間の私にはできることなんてありません。
でも、天使としてならば、違います。
癒しの力によって、お父さんや、他にも事故に巻き込まれた人たちの命をつなぎとめることが出来ます。
「言ったはずじゃが。天使の力を誰かに見咎められてはいけないのじゃ。……今から君はその禁を破ろうとしている。そうなっては、君はもうその世界にはいられない。人間として、存在が消えてしまうのじゃぞ。他の者の記憶の中からも、君はいなくなってしまう」
「ええ。分かっています」
神をまっすぐ見据え、私は言います。
「でも、それが今私にできること――私がすべきことなら、やります。覚悟はしています」
そう言ったと同時、……私は、ここ最近自分の胸の中で渦巻いていた暗い感情がぱあっと晴れていくのを感じました。
暗い感情とはすなわち、世界中で苦しんでいる人々を助けたいと願い、下界へ降りてきたのに、いざ人間になってはそれが叶えられない――その現実に対する絶望感です。
いえ、正確に言えば、晴れたとは違うでしょうか。
疑問や葛藤がなくなったわけではありません。
ただ、その迷いの中にでもかろうじて打ち立てられ得る、一本の指標といったところでしょうか。
それは、何より――『だって私は人間だから』ということ。
「なるほど。ようやくそこに気付いたのじゃな」
「ええ……。私、気付きました。確かに、苦しんでいる人たちは世界中にいっぱいいます。私一人では、彼らに手を差し伸べたくとも届きません。それはどれほど願っても、かなわないことなのです。
しかし、その現実を憂い、絶望して、ひどく心を痛めたとしても――それ自体は、不健全なことではありません。むしろ人として、その痛みは健全なのです」
それはきっと、天使の力を以ってしても決して癒せない痛み。
でも、そんな痛みを抱えるからこそ――。
「幸せなんです」
私は胸に沸いたその気持ちを、言葉にして、神さまに言います。
「だからこそ、『そばにいる大切な人』という存在を持てます。我が身を擲ってでも大切な人を守りたい、助けたい……そういう愛情を知れるのです。
だって、もしすべての人を等しく救おうというなら――、残念ながら、そこに愛情なんてありませんもの」
でも。
こんなことを言っても、それでもやっぱり、すべての人を救えるなら救いたい。
その気持ちは変わりません。
しかしそれはどうしたって不可能なのです。
ならばせめて、そばにいる大切な人だけでも守ろうと思います。
結局のところ、『ただ自分ができることを一生懸命やる』――人間一人が背負える正義なんて、せいぜいそんなものなのです。
「人間とは、なんと不器用な存在だろうな。……君は天使でありながら、下界の人々に手を差し伸べたいと願った――それは君の中に『人間』が生じ始めた証だった。そのときすでに、君は天から堕ちていたのじゃ」
「ふふ。そうですね。……私、堕ちて良かったです」
天界の身のままでは、このような尊い感情は持ち得なかったのです。
私は、天使から人へと堕ちて――、人に成れて、良かったと思います。
「ハクティリカよ――いや違うな、哀れな人間・天使亜葵よ。君の魂はもうこの世界には留めておけない。しかし、消滅させはせぬよ。こことは違う別の世界にて、君のその美しい魂をまた芽吹かせよう」
「また新たに転生させていただけるということですか……?」
「うむ。ただし、この世界を離れてはワシの管轄外となる。果たして人として生まれるか、人なれども容姿や記憶が引き継がれようか――それはワシにも分からん。
ただしその魂は確かに君自身であるはずだ。
君が強く願えば、またエンジェルフォースが覚醒するかもしれんな。……そのときは思う存分その力を振るうが良い。一切の制約も受けない。なにせそこは、ワシの管轄外じゃから」
「――ありがとうございます、神さま」
「ああ。……では、ワシは去る。君は心に決めた通り、その力を使うがよろしい。最期に天を仰ぐが良いぞ」
そう言って、神さまは天界へと還っていかれました。
静止していた時間が、戻ります。暗がりだった風景が色づき、周囲の喧騒が復活したのです。
しかし、地面に向かって倒れ込もうとして静止していた私は、その動きを再び取り戻すことはありませんでした。
宙に浮いて留まったまま、なのです。
近くにいた人が、驚いて私のことを見ます。
それは当然でしょう。
頭の上には煌々と輝く輪っか、背中には純白の羽――今の私は、エンジェルフォースを全開にして、天使としての姿を取り戻している状態なのですから。
街中で突然そんな姿の女が現れたら、冷静ではいられないでしょう。
私は背中の羽を羽ばたかせて、ぐん、と空へと飛び立ちました。
意識をすれば、背中から生えたその羽を動かせます。でも、人間としての体に慣れているので、なんだかそれは不思議な感覚でした。
羽先まで神経が伸びているわけではないのですが、羽が風に撫でられていくのもしっかりと感じられます。少しくすぐったいです。
あっという間にビルを飛び越え、立ち上る黒煙さえも見下ろす高さとなります。
なおも燃え続ける薬品工場の直上で、私は羽ばたきを止めました。
体の力を、すっ、と抜きます。
……一秒も待たないうちに、すぐに重力が私の体を地へと引っ張り始めました。
私は仰向けの状態で、落下を始めます。
これだけ高く飛んでも、空は、まだずっと遠い気がします。
その遠い空が、さらに離れていきます。
私はぐっと意識を集中させて、『エンジェルフォース』を目いっぱい放ちます。――体から、光が溢れました。
やがて地面と接したとき――、
この身が砕けるのと同時、癒しの光が弾けて広がるでしょう。お父さんもきっと助かります。
背中に強い風の抵抗を感じながら、ふう、と、息を吐きます。
十九年。短い人生でした。
でも、幸せです。
お母さんと、お父さん……誰よりも大切な、愛する家族を助けることができたのですから、たとえ、この後には私に関する記憶はなくなってしまおうとも。共有してきた時間が消えてしまうとしても。
そんなのは些末なことなのです。
たとえ自分が犠牲になろうとも、愛する人が助かるのならそれが嬉しいのです。
『誰かのために』が、巡り巡って『自分のために』もなる。
そんな幸せなことはありません。それこそ、人間にしか体現出来ない幸せでしょう。
ただ一つだけ、悔いがあるとすれば。……私は生涯で知れた愛情が、一つの種類だけしかなかったことです。
私が好みで感じられた愛情は、家族への愛情だけです。
もうちょっと違う種類の『愛情』も、抱いてみたかったな、とは思います。
それだけが、後悔とは言えば後悔かなあ。
少し残念ではありますが、まあ、仕方ないですね。
どんどんと、遠くなっていく。空。
嬉しいことに、今日は、とてもきれいな空でした。
ほとんど雲がない真っ青な空です。きれいな深い青が、私の視界を隅から隅まで覆っています。心が洗われるようでした。
やがて視界は、黒い煙に覆われます。ああ、せっかくきれいな空を眺めていたのに、と思ったところで、すぐに熱さと息苦しさを感じて、さらに次の瞬間には背中に硬い衝撃を感じた直後、――刹那、視界が真っ白な光に包まれたような気がして、……
それを最後に、私の意識は幕を閉じたのでした――……。
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