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シーズン1/第二章
□あくあついんず□⑨
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『やったじゃねえかよ、ミナモ!』
ドラゴンのぬいぐるみの口から、嬉々とした声が発せられた。
ぶおおおおん、とドライヤーで髪を乾かす水萌。
ドライヤーは家族共有だが、風呂上りはつい自室に持ち込んで使ってしまう。水帆も同時に風呂から上がったが、彼女は水萌と違って髪が長く、少しの間タオルドライをしてからドライヤーを使うので、水萌が一旦自室に持ち込んでも不都合はない。
「ほんと、いきなりだったから……驚いたよ」
さきほどのことだ。水帆と一緒に風呂に入っていると、突如、湯が爆発した。
そこから一気に水柱が立ち上り、そのまま二人に向けて頭上から降り注いだ。ひどく驚いたし、湯の勢いに押されて風呂桶のへりで後頭部を打って痛かった。
無意識だったが、あれは紛れもなく『水精錬金』の力だ。
『よし。ここでもう一度、やってみろ』
水萌の部屋の中心に置いてある小さな丸テーブル。その上には、なみなみと水が注がれたコップがある。そのコップを尻尾で指して、オスティマが言う。
髪を乾かし終え、くしで軽く整えると、コップを前にしてぺたんと座り込む。
「む……」
じっ、と、コップに入った水を見つめる。
「むむ……」
眉間にしわを寄せ、力強い眼差しで見つめ続ける。
意識する。
そして念じる。
『水よ動け』と。
――やがて。ぽこ、と。コップの底からあぶくが立った。
『お』
ドラコも、その様を注意深く眺める。
水萌はなおも集中を絶やさず、まっすぐ水に視線を向け続ける。
次第にあぶくが何度も立ち上り始める。こぽこぽこぽ……と音が鳴り、その煽りでコップ自体が小刻みに揺れる。そしておもむろに、コップの淵から水が溢れ出した。
しかし水の総量は変わっていない。
代わりに、コップの底部分に空間ができる。……水が、浮き始めているのだ。
コップの淵から溢れた水は、しかしそのままテーブルに流れることはなく、重力を無視して浮遊する。
『お、おお……』
ドラコが感嘆の声を漏らす。
ついに、――コップ内の水が、丸々宙に浮く形となった。
『初日のように儀式で力が底上げされているわけじゃないのに、こうして術を操れるとは。しかもたった三日でな。お前はセンスあるかもよ』
「そ、そうかな。えへへ……」
水萌は照れ臭そうにはにかむ。
オスティマは今まで、初歩さえできないとは何たる体たらく、と言わんばかりに厳しい態度だったのに、いざ出来ればコロリと態度を変えてくる。随分と都合が良いやつだ。
『よし、じゃあ水を浮かすだけじゃなく、なにか形を象ってみろ』
「なにか、形を? うん、わかった」
言われたまま、水萌はなにか『形』を思い描こうとまた意識を集中する。
……といっても、どんな物を象ればよいのか、ぱっと浮かばない。
そこで、なにか象るのによさそうな物はないかと辺りを見回す……。視界に映る中でもっとも目立つのは、やはり、ふよふよと宙を漂う赤いドラゴンのぬいぐるみだった。
宙に浮く水の球体。水萌が意識をすると、途端に正面からにゅるにゅると水が伸びて顔が形成された。次に四つの手足。さらに尻尾に、羽。
見事、――少女の顔の傍で浮遊するぬいぐるみ、それをそのまま模した形となった。
『はっはっは。こりゃいいや』
自分が象られて、愉快そうに笑うドラコ。水萌も、自慢げな顔をする。
『よし、じゃあ次のステップだな。水を変質させるんだ。水を媒介にして金属を精製する【錬金】。これこそ【水精錬金】の神髄だからな』
「う、うん」
あの夜のことを思い返す。水萌は、海からやって来たバケモノを、短機関銃と対物ライフルと言う重厚な武器を用いて撃退した。
『強力な武器』としてそれらを頭に思い描いたところ、水をもとにして造り出されたのだ。
さすがに部屋の中で銃器を造り出すのは躊躇われるので、ドラコを象った水塊をそのまま変質させようと思った。……イメージする。目の前の水が金属へと変化していく様を。
「む……」
じっ、と、目の前の水塊を見つめる。
「むむ……」
眉間にしわを寄せ、力強い眼差しで見つめ続ける。
意識する。
そして念じる。
『水よ鉄となれ』と。
「…………」
だが、いくら待っていても、水に変化はない。十秒、二十秒、と経過しても、目の前の水塊はドラゴンの形を保ったまま、そしてやはり水という性質も保ったままなのである。
室内には、壁掛け時計が秒針を刻む音が虚しく鳴る。
『ああ、やっぱそこまではまだダメか』
落胆したように、オスティマが言う。
「な、なんで……?」
一度はできたことだが、今はいくら意識してもそれができない。自在に銃器を生み出した、あのときの感覚が蘇って来ないのだ。
『まあ、所詮【水の操作】は術の初歩。それができたからって、そう簡単に神髄たる【錬金】ができるわけもねえか。……感じるぜ、ミナモ。今のお前の力の引き出し率は、40%ってとこだな。確かに成長したが、その程度じゃあまだまだだな。……ああ、期待して悪かった』
さっきはセンスがあるとか言ったくせに、次なる段階が出来なかった途端にまた棘のある言い方をする。やはりどうにも都合のよいやつだ。水萌は、む、と不満そうな目を向ける。
すると、そのとき。
「水萌ちゃーん。もう髪乾かした?」
コンコン、とノックの音がして、すぐに水帆の声が扉の向こうからかけられた。
「へっ?」
突然声をかけられて、水萌は驚き――つい集中を切らしてしまう。
ばしゃっ。と。
それまでドラゴンの形で押し固められていた水の塊が、水萌の意思による制御を失ってしまう。宙に浮いていた水塊は、すぐに破裂し、丸テーブルを中心に水が広がる。……水萌も、盛大に水を被ってしまう。
「…………」
ついさきほど乾かした髪が、また、ずぶ濡れだ。
「水萌ちゃん? ねえ、ドライヤー使いたいんだけど」
幸い、水帆は扉を開けないままで声をかけてきている。
今入室されてはたいへんだ。
部屋に水がぶちまけられているし、何よりドラコが動いているところを見られてしまう。水帆が無遠慮に部屋に入って来ることがなかったのはひとまず幸いなれども、現状は、悲惨である。
「ちょっと待ってて! ……い、今から乾かすとこだからっ!」
水萌は少し悔しそうな顔で、扉の向こうに向かってそう言い、すぐにドライヤーのスイッチを入れた。
/
オスティマに会った初日。自由に『水精錬金』を操れたのは、彼との魂リンクの儀式を経た直後で、力が活性化していたためだった。
そのときの再現ができるようになるため、水萌は特訓を開始したわけである。
水を媒体にして自在に金属を精製するという、『錬金』――かの術の神髄へはまだ至れていない。だがその初歩たる、『水の操作』は体得した。
依然、一体どのような原理で水が動くのかは水萌自身にもさっぱり理解できないが、とにかく漠然とした『感覚』としてそれを行える。
力の引き出し率が上がり、今は40%。
力というのはすなわち、幼い頃に『海龍のウロコ』に触れて得た力のこと。水帆にも同様に宿る力だ。
二人は、今まで恣意的にその力の影響を受けてきた。
運動能力や学習能力が飛躍的に上昇した。激しい運動をしてもさほど疲労感を覚えないし、特に努力するまでもなくテストでは満点を取れる。優秀な双子として、街で彼女らを知らぬものはいないほどだった。
ここ数日の特訓にて、かの石の力を意識的に引き出せるようになった水萌――当然、それに伴って学習能力・運動能力などは、今まで以上に底上げされることになる。
最も顕著だったのは水泳技術だ。
かねてから水帆と二人そろって上級生にも勝るほどの記録を出していたが、そこから更に水萌だけが記録を伸ばし始めたのだ。
今まで競り合っていた水帆に対し、わずかに差をつけている。ほんのわずかとはいえ、二人にとってこの差は何より大きい。
また新たに自己ベストを更新した水萌のもとに、先輩たちがわっと集まり称賛する。
持て囃される水萌を、水帆は「むむ……」と悔しそうな顔で見ていた。
/
クラスの学級委員長の号令のもと、二十余名の生徒たちが一斉に立ち上がり、そして礼をする。礼を以ってホームルームが終了すると、すぐに教室内は騒然とし始める。放課後である。
「水萌。部活いこ」
クラスメイトであり、同じ水泳部である藤岡千里が、さっそく水萌のもとへ駆け寄って来てそう言った。なにやら彼女は張り切った様子である。
「どしたの千里。なんか、ずいぶん張り切ってるね」
水萌も彼女も水泳が好きで水泳部に入っているわけで、いつも部活の時間を楽しみにはしているが、今日は一段と気持ちが高ぶっている様子なのである。
「水萌、聞いてないの? 今日から、特別顧問の人が来てくれるんだって」
「特別顧問?」
部の連絡では聞いていない。どうやら急きょ決まったことらしい。一部の部員が顧問の口から直接その話を聞いたらしく、この日中に部員内で噂が回っていたのだ。
藤岡はいち早くその情報を耳にし、部活時間になるのを心待ちにしていたらしい。
「でも、どうして特別顧問が来るのがそんなに嬉しいの?」
確かに、それによって自身の技術向上を期待できるという意味では喜ばしいことかもしれないが、本来ならば「厳しい人だったらいやだな」なんて多少憂鬱に思ってしまうものではないだろうか。
水萌の素朴な疑問に対し、友人はにやりと笑って答える。
「だってさ、その人、うちの顧問の知り合いらしいんだけど……若くてイケメンの男の人だって、噂になってるんだよ!」
水泳部顧問の女性教師は、コーチとしては割合に厳しい方だ。それはこの学校の水泳部が強豪として名を轟かせる所以でもあるだろうが、やはり部員にとっては温和なコーチである方が好ましい。
本日やって来るその特別顧問は、国体にも出たことのある実力者であるらしい。顧問の口から予めその男性の名を聞いた部員たちは、ネットでその名を調べ、顔写真を確認していた。
掲載されていた写真に写る男は、いわゆる『爽やかイケメン』であった。さらに性格も実に温和な男であると評判らしい。
「へえ」
その話を聞いても、水萌はあまり関心がなさそうだった。
自分には特別顧問など必要ないなどと驕っているためでは決してなく、単純に……異性に興味がないのだ。この友人や他の部員たちのように、新たなコーチが爽やかだとかイケメンだとかで胸をときめかせたりしない。
異性への憧れや、ましてや恋心なんて、水萌にはまだよくわからない。
だから、部活が開始され……顧問の女性教師に紹介されたその男を見ても、水萌は特に何の感慨も抱かなかった。
「どうも、みなさん。今日からコーチとして来させてもらいます、上井戸諒といいます。よろしく」
二十代半ばほどの若い男で、確かに爽やかな顔立ちである。少しだけ明るめの茶髪は、かえってその爽やかな雰囲気を助長する。
部員たちは改まった挨拶の場で騒ぎ立てたりはしないが、内心では、黄色い声援を向けている。期待通りの爽やかな青年で、しかも物腰も実に柔らかい。彼に指導を受けられるなら願ってもないことなのだ。
水萌にとっては、どちらかと言えばあまり気は乗らない。
正直、この場に異性の目があることが少し恥ずかしい。
この年頃の女子ならば、より女性らしい体型に成長する時期であり、それゆえ異性に体を見られることに抵抗を感じることの方が多いだろうが、水萌は逆だ。
まだまだ子供体型で、一向に女性らしい体の凹凸を得られないのがコンプレックスなのだ。それを見られる方が恥ずかしい。大きな胸の膨らみを持っていれば、むしろ他人に誇示したいくらいだ。
もちろん、いずれにせよ彼が、十歳ほども年の離れた自分たちに対して劣情を抱くような無節操な男には見えないが。
部員たちが順々に泳いでいき、その姿を新たなコーチ上井戸が確認していった。あるいは彼女らのそれぞれ自己ベストなどの記録表もチェックする。さすが国体にも出場経験のある水泳選手、まだ具体的な指摘がなくともその目がすでに頼もしい。
一通り生徒らの泳ぎを見て、改めて召集された。上井戸は色々と全体的なアドバイスを述べたのち、彼は言うのだ。
「とくに素晴らしいのが、一ノ瀬さんですね」
彼の言葉に、二人の少女がぴく、と反応する。
「おっと。一ノ瀬さんは双子か。水帆さんもかなり有望ですが、水萌さんは特に素晴らしい。次の大会、上位を狙えるでしょう」
名指しされ、ぴし、と居直る水萌。どうリアクションして良いのかは分からず、いささか緊張した様子で男性コーチを見る。
「一ノ瀬さんたちは、お二人ともスクールにも通っていないのにこの泳ぎとは驚きです。特に水萌さん。大会までに、あなたを重点的に見ていきたい。……いいですか?」
もちろん全員を指導しますが、と念は置きつつ、上井戸は左目下に泣きボクロを携えたショートヘアの少女に熱い視線を向けるのだ。
それほど、彼女に高く期待しているらしい。
「へ……っ?」
かつてないほど注目を受けて、戸惑う水萌。
なにやら、自分の世界がこれまでとは劇的に変わってきているような――そんな不思議な感慨を、水萌は抱いていた。
ドラゴンのぬいぐるみの口から、嬉々とした声が発せられた。
ぶおおおおん、とドライヤーで髪を乾かす水萌。
ドライヤーは家族共有だが、風呂上りはつい自室に持ち込んで使ってしまう。水帆も同時に風呂から上がったが、彼女は水萌と違って髪が長く、少しの間タオルドライをしてからドライヤーを使うので、水萌が一旦自室に持ち込んでも不都合はない。
「ほんと、いきなりだったから……驚いたよ」
さきほどのことだ。水帆と一緒に風呂に入っていると、突如、湯が爆発した。
そこから一気に水柱が立ち上り、そのまま二人に向けて頭上から降り注いだ。ひどく驚いたし、湯の勢いに押されて風呂桶のへりで後頭部を打って痛かった。
無意識だったが、あれは紛れもなく『水精錬金』の力だ。
『よし。ここでもう一度、やってみろ』
水萌の部屋の中心に置いてある小さな丸テーブル。その上には、なみなみと水が注がれたコップがある。そのコップを尻尾で指して、オスティマが言う。
髪を乾かし終え、くしで軽く整えると、コップを前にしてぺたんと座り込む。
「む……」
じっ、と、コップに入った水を見つめる。
「むむ……」
眉間にしわを寄せ、力強い眼差しで見つめ続ける。
意識する。
そして念じる。
『水よ動け』と。
――やがて。ぽこ、と。コップの底からあぶくが立った。
『お』
ドラコも、その様を注意深く眺める。
水萌はなおも集中を絶やさず、まっすぐ水に視線を向け続ける。
次第にあぶくが何度も立ち上り始める。こぽこぽこぽ……と音が鳴り、その煽りでコップ自体が小刻みに揺れる。そしておもむろに、コップの淵から水が溢れ出した。
しかし水の総量は変わっていない。
代わりに、コップの底部分に空間ができる。……水が、浮き始めているのだ。
コップの淵から溢れた水は、しかしそのままテーブルに流れることはなく、重力を無視して浮遊する。
『お、おお……』
ドラコが感嘆の声を漏らす。
ついに、――コップ内の水が、丸々宙に浮く形となった。
『初日のように儀式で力が底上げされているわけじゃないのに、こうして術を操れるとは。しかもたった三日でな。お前はセンスあるかもよ』
「そ、そうかな。えへへ……」
水萌は照れ臭そうにはにかむ。
オスティマは今まで、初歩さえできないとは何たる体たらく、と言わんばかりに厳しい態度だったのに、いざ出来ればコロリと態度を変えてくる。随分と都合が良いやつだ。
『よし、じゃあ水を浮かすだけじゃなく、なにか形を象ってみろ』
「なにか、形を? うん、わかった」
言われたまま、水萌はなにか『形』を思い描こうとまた意識を集中する。
……といっても、どんな物を象ればよいのか、ぱっと浮かばない。
そこで、なにか象るのによさそうな物はないかと辺りを見回す……。視界に映る中でもっとも目立つのは、やはり、ふよふよと宙を漂う赤いドラゴンのぬいぐるみだった。
宙に浮く水の球体。水萌が意識をすると、途端に正面からにゅるにゅると水が伸びて顔が形成された。次に四つの手足。さらに尻尾に、羽。
見事、――少女の顔の傍で浮遊するぬいぐるみ、それをそのまま模した形となった。
『はっはっは。こりゃいいや』
自分が象られて、愉快そうに笑うドラコ。水萌も、自慢げな顔をする。
『よし、じゃあ次のステップだな。水を変質させるんだ。水を媒介にして金属を精製する【錬金】。これこそ【水精錬金】の神髄だからな』
「う、うん」
あの夜のことを思い返す。水萌は、海からやって来たバケモノを、短機関銃と対物ライフルと言う重厚な武器を用いて撃退した。
『強力な武器』としてそれらを頭に思い描いたところ、水をもとにして造り出されたのだ。
さすがに部屋の中で銃器を造り出すのは躊躇われるので、ドラコを象った水塊をそのまま変質させようと思った。……イメージする。目の前の水が金属へと変化していく様を。
「む……」
じっ、と、目の前の水塊を見つめる。
「むむ……」
眉間にしわを寄せ、力強い眼差しで見つめ続ける。
意識する。
そして念じる。
『水よ鉄となれ』と。
「…………」
だが、いくら待っていても、水に変化はない。十秒、二十秒、と経過しても、目の前の水塊はドラゴンの形を保ったまま、そしてやはり水という性質も保ったままなのである。
室内には、壁掛け時計が秒針を刻む音が虚しく鳴る。
『ああ、やっぱそこまではまだダメか』
落胆したように、オスティマが言う。
「な、なんで……?」
一度はできたことだが、今はいくら意識してもそれができない。自在に銃器を生み出した、あのときの感覚が蘇って来ないのだ。
『まあ、所詮【水の操作】は術の初歩。それができたからって、そう簡単に神髄たる【錬金】ができるわけもねえか。……感じるぜ、ミナモ。今のお前の力の引き出し率は、40%ってとこだな。確かに成長したが、その程度じゃあまだまだだな。……ああ、期待して悪かった』
さっきはセンスがあるとか言ったくせに、次なる段階が出来なかった途端にまた棘のある言い方をする。やはりどうにも都合のよいやつだ。水萌は、む、と不満そうな目を向ける。
すると、そのとき。
「水萌ちゃーん。もう髪乾かした?」
コンコン、とノックの音がして、すぐに水帆の声が扉の向こうからかけられた。
「へっ?」
突然声をかけられて、水萌は驚き――つい集中を切らしてしまう。
ばしゃっ。と。
それまでドラゴンの形で押し固められていた水の塊が、水萌の意思による制御を失ってしまう。宙に浮いていた水塊は、すぐに破裂し、丸テーブルを中心に水が広がる。……水萌も、盛大に水を被ってしまう。
「…………」
ついさきほど乾かした髪が、また、ずぶ濡れだ。
「水萌ちゃん? ねえ、ドライヤー使いたいんだけど」
幸い、水帆は扉を開けないままで声をかけてきている。
今入室されてはたいへんだ。
部屋に水がぶちまけられているし、何よりドラコが動いているところを見られてしまう。水帆が無遠慮に部屋に入って来ることがなかったのはひとまず幸いなれども、現状は、悲惨である。
「ちょっと待ってて! ……い、今から乾かすとこだからっ!」
水萌は少し悔しそうな顔で、扉の向こうに向かってそう言い、すぐにドライヤーのスイッチを入れた。
/
オスティマに会った初日。自由に『水精錬金』を操れたのは、彼との魂リンクの儀式を経た直後で、力が活性化していたためだった。
そのときの再現ができるようになるため、水萌は特訓を開始したわけである。
水を媒体にして自在に金属を精製するという、『錬金』――かの術の神髄へはまだ至れていない。だがその初歩たる、『水の操作』は体得した。
依然、一体どのような原理で水が動くのかは水萌自身にもさっぱり理解できないが、とにかく漠然とした『感覚』としてそれを行える。
力の引き出し率が上がり、今は40%。
力というのはすなわち、幼い頃に『海龍のウロコ』に触れて得た力のこと。水帆にも同様に宿る力だ。
二人は、今まで恣意的にその力の影響を受けてきた。
運動能力や学習能力が飛躍的に上昇した。激しい運動をしてもさほど疲労感を覚えないし、特に努力するまでもなくテストでは満点を取れる。優秀な双子として、街で彼女らを知らぬものはいないほどだった。
ここ数日の特訓にて、かの石の力を意識的に引き出せるようになった水萌――当然、それに伴って学習能力・運動能力などは、今まで以上に底上げされることになる。
最も顕著だったのは水泳技術だ。
かねてから水帆と二人そろって上級生にも勝るほどの記録を出していたが、そこから更に水萌だけが記録を伸ばし始めたのだ。
今まで競り合っていた水帆に対し、わずかに差をつけている。ほんのわずかとはいえ、二人にとってこの差は何より大きい。
また新たに自己ベストを更新した水萌のもとに、先輩たちがわっと集まり称賛する。
持て囃される水萌を、水帆は「むむ……」と悔しそうな顔で見ていた。
/
クラスの学級委員長の号令のもと、二十余名の生徒たちが一斉に立ち上がり、そして礼をする。礼を以ってホームルームが終了すると、すぐに教室内は騒然とし始める。放課後である。
「水萌。部活いこ」
クラスメイトであり、同じ水泳部である藤岡千里が、さっそく水萌のもとへ駆け寄って来てそう言った。なにやら彼女は張り切った様子である。
「どしたの千里。なんか、ずいぶん張り切ってるね」
水萌も彼女も水泳が好きで水泳部に入っているわけで、いつも部活の時間を楽しみにはしているが、今日は一段と気持ちが高ぶっている様子なのである。
「水萌、聞いてないの? 今日から、特別顧問の人が来てくれるんだって」
「特別顧問?」
部の連絡では聞いていない。どうやら急きょ決まったことらしい。一部の部員が顧問の口から直接その話を聞いたらしく、この日中に部員内で噂が回っていたのだ。
藤岡はいち早くその情報を耳にし、部活時間になるのを心待ちにしていたらしい。
「でも、どうして特別顧問が来るのがそんなに嬉しいの?」
確かに、それによって自身の技術向上を期待できるという意味では喜ばしいことかもしれないが、本来ならば「厳しい人だったらいやだな」なんて多少憂鬱に思ってしまうものではないだろうか。
水萌の素朴な疑問に対し、友人はにやりと笑って答える。
「だってさ、その人、うちの顧問の知り合いらしいんだけど……若くてイケメンの男の人だって、噂になってるんだよ!」
水泳部顧問の女性教師は、コーチとしては割合に厳しい方だ。それはこの学校の水泳部が強豪として名を轟かせる所以でもあるだろうが、やはり部員にとっては温和なコーチである方が好ましい。
本日やって来るその特別顧問は、国体にも出たことのある実力者であるらしい。顧問の口から予めその男性の名を聞いた部員たちは、ネットでその名を調べ、顔写真を確認していた。
掲載されていた写真に写る男は、いわゆる『爽やかイケメン』であった。さらに性格も実に温和な男であると評判らしい。
「へえ」
その話を聞いても、水萌はあまり関心がなさそうだった。
自分には特別顧問など必要ないなどと驕っているためでは決してなく、単純に……異性に興味がないのだ。この友人や他の部員たちのように、新たなコーチが爽やかだとかイケメンだとかで胸をときめかせたりしない。
異性への憧れや、ましてや恋心なんて、水萌にはまだよくわからない。
だから、部活が開始され……顧問の女性教師に紹介されたその男を見ても、水萌は特に何の感慨も抱かなかった。
「どうも、みなさん。今日からコーチとして来させてもらいます、上井戸諒といいます。よろしく」
二十代半ばほどの若い男で、確かに爽やかな顔立ちである。少しだけ明るめの茶髪は、かえってその爽やかな雰囲気を助長する。
部員たちは改まった挨拶の場で騒ぎ立てたりはしないが、内心では、黄色い声援を向けている。期待通りの爽やかな青年で、しかも物腰も実に柔らかい。彼に指導を受けられるなら願ってもないことなのだ。
水萌にとっては、どちらかと言えばあまり気は乗らない。
正直、この場に異性の目があることが少し恥ずかしい。
この年頃の女子ならば、より女性らしい体型に成長する時期であり、それゆえ異性に体を見られることに抵抗を感じることの方が多いだろうが、水萌は逆だ。
まだまだ子供体型で、一向に女性らしい体の凹凸を得られないのがコンプレックスなのだ。それを見られる方が恥ずかしい。大きな胸の膨らみを持っていれば、むしろ他人に誇示したいくらいだ。
もちろん、いずれにせよ彼が、十歳ほども年の離れた自分たちに対して劣情を抱くような無節操な男には見えないが。
部員たちが順々に泳いでいき、その姿を新たなコーチ上井戸が確認していった。あるいは彼女らのそれぞれ自己ベストなどの記録表もチェックする。さすが国体にも出場経験のある水泳選手、まだ具体的な指摘がなくともその目がすでに頼もしい。
一通り生徒らの泳ぎを見て、改めて召集された。上井戸は色々と全体的なアドバイスを述べたのち、彼は言うのだ。
「とくに素晴らしいのが、一ノ瀬さんですね」
彼の言葉に、二人の少女がぴく、と反応する。
「おっと。一ノ瀬さんは双子か。水帆さんもかなり有望ですが、水萌さんは特に素晴らしい。次の大会、上位を狙えるでしょう」
名指しされ、ぴし、と居直る水萌。どうリアクションして良いのかは分からず、いささか緊張した様子で男性コーチを見る。
「一ノ瀬さんたちは、お二人ともスクールにも通っていないのにこの泳ぎとは驚きです。特に水萌さん。大会までに、あなたを重点的に見ていきたい。……いいですか?」
もちろん全員を指導しますが、と念は置きつつ、上井戸は左目下に泣きボクロを携えたショートヘアの少女に熱い視線を向けるのだ。
それほど、彼女に高く期待しているらしい。
「へ……っ?」
かつてないほど注目を受けて、戸惑う水萌。
なにやら、自分の世界がこれまでとは劇的に変わってきているような――そんな不思議な感慨を、水萌は抱いていた。
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