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シーズン1/第二章
□あくあついんず□⑤
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夜の海岸。
淡い月明りは心許なく、辺りは薄い暗がりに包まれている。岸から先、遠く続く海は、照りつける光がない以上もはや深い闇の世界だ。
――そんな暗き深淵から現れたそれは、まさに地獄からやってきた魔物のように思える。
大きな、黒い卵。
二メートルほどあるだろうか、巨大な卵である。海中から立ち上った水柱の中から現れ、水柱が引いた後、そいつはそのまま宙に浮いた。
「なになに、なにあれっ!?」
水萌が、わたわたと騒ぐ。
夜中の海岸で一人スクール水着という格好でも、恥じらう余裕はない。海から突然、謎の物体が現れたのだ。
黒い卵はじっとりと水に濡れて、緩やかな丸みの上に滴を滑らせている。
それが異様に怪しく映り、少女の顔を強張らせる。
『敵だ……。さっそく来やがったんだ』
「てて、敵って……! さっき言ってた、せーたい兵器、とかいうやつ? アレが?」
地上侵略を目論む、海底のテロリスト。そいつらは、独自に作り出した生体兵器を用いて地上に攻め入るつもりなのだと、この海岸へ来る道すがらぬいぐるみの彼から聞いた。
いま目の前にあるあの黒い卵が、その兵器なのか。
「でっ、でも、敵が来るのは二週間後とか言ってたじゃない!」
『ああ。そのはずだった。確かな情報筋でそう聞いていたんだが。……もしや俺が地上へ出たのを悟られて、追手を寄越したのか。生体兵器もまだ完成していないはずだが……』
オスティマがそう言ったのと同時。黒い物体に、パキ、と、亀裂が入った。一筋、二筋……亀裂が広がり、やがて『殻』が割れ始める。
おぞましい、気配がした。
『ミナモ、アレを見るな! 岩陰に隠れろっ!』
オスティマが叫んだ。――バケモノの姿を、いきなり少女に見せてしまうのは酷だと判じたのだ。
水萌はびくっと肩を震わせると、すぐに彼の言う通りにした。全く状況が呑み込めないが、とにかく急いで、近くの岩陰に姿を隠したのだ。
割れかかった殻を押し破り、中から、怪物が姿を現した。
ずるり、と、細長いモノが伸びてきた。蛸の足のような赤っぽいモノが、うねうねと蠢きながら殻を破って出て来る。一本ではない。二本、三本、と……。やがて卵が大きく割れ開くと、それらの足の付け根――太い胴体が露になった。
ディアニアという、特殊な古生生物がいる。
細長く、骨格を持たない柔らかな胴体に、左右に対となった足を持つ、いわゆる『足つき蠕虫』のような体である。足には細かな棘が連なり、頭部には目はなく、吻と、一対の棘がある。
目の前の怪物は、そのディアニアと酷似した姿をしていた。
ただし決定的に異なる点がある。化石として発見されたディアニアは6センチほどの体長であるのに対し、今、卵から這い出て複数の足を地に着けたこのバケモノは、一メートルを優に超える大きさなのである。
中身を失って空になった卵は、ゴトン、と地に落ちたかと思うと、どろどろと溶けて消えていく。酸で溶かされたように煙が立ち上った。
その薄い煙が、バケモノの足元に立ち込める。
まるで舞台に焚かれるスモークのようである。ただし淡い月明りだけでは演者を囃し立てる明るい演出効果もなく、ただただ怪しさが増すばかりだ。
夜の海岸で、宙に浮く赤いドラゴンのぬいぐるみと、棘のついた何本もの足で地に立つバケモノが、対峙する。
(な、なにっ? 何が起こってるの……っ!?)
水萌は、少し離れた岩の影に身を隠している。バケモノの姿は見ていない。ここから顔をのぞかせても、暗くてよく分からない。
あるいはそれで幸いであったかもしれない。
卵から出現したバケモノ――足はついているものの、大きく見れば蠕虫のようなあの薄気味悪い姿は、通常、少女が直視できるモノではない。なればこそオスティマは、水萌に身を隠すよう促したのだ。さすがにまだ戦いの心構えもできていないだろう内に、早々にトラウマなど植え付けてしまってはまずい。
もはや魂リンクを交わした彼女には、今後、戦いの宿命を負ってもらわねばならないのだから。
あれこそ、戦うべき敵なのだ。
『まさか、こんなに早く対面することになるとは思わなかった……!』
オスティマはそう言って舌打ちした。ぬいぐるみの素材では、チッ、という音は出ないが。
水萌と出会い、まだ魂リンクの儀式を終えたばかりだというこのタイミングで敵がやって来たのはまさに時期尚早。
まずい状況である。
……ただ、一つ幸いであるとすれば、本当に今まさに儀式を終えたばかりのタイミングだったこと。
背後の岩陰に隠れている水萌は、スク水姿である。――彼女の服を水着へ変質させたのは、他の誰でもないオスティマだ。
本来、『大いなる海の力』を持つのは水萌であり、その力の行使は彼女にしかできない。
ただし魂をリンクさせた直後で力が活性化され、余剰分と言うべきか――力の一部が、オスティマの中へも流入してきている。今なら、オスティマも大いなる海の力の恩恵を得られる。彼にも『水精錬金』を扱えるのだ。
いくらなんでも、水萌はまだ戦う心積もりなど出来ていようもないだろう。
だが、彼なら。
敵との戦いのために、体さえ捨てて地上へ出てきたほどだ。もとより覚悟はある。
生体兵器『海蟲』。
その姿を実際に見たのは初めてだったが、おぞましい姿を前に怯むこともない。
卵から這い出て、地に降り立ったバケモノはまだ動きを見せない。オスティマは、つぶらなアクリル素材の瞳をキリリと光らせた。
『見せてやるぜ、古代アトランティスの神秘の術――【水精錬金】!』
はたして目の前のバケモノに言語を理解するほどの智恵が備わっているかは疑わしいが、オスティマは堂々と宣言した。
そして、意識を集中させる。
ぬいぐるみに瞼はないが、目を閉じて神経を集中させているような雰囲気だ。
ざざざざざ――と、オスティマの周囲に水が巻き起こった。すぐ近くの海からではなく、岩肌の地面から水が生じたのだ。
まっすぐ渦巻いていた水柱は、ぐねり、と曲がる。
渦の先が鋭くとがる。そして、バシャァ、と激しい音を立てながら敵に向けて推進していった。まるで水製の槍が投擲されたようである。
依然、ピタリと止まったままのバケモノは超速で迫りくる水槍を回避する素振りすら見せず、そのままモロに直撃を喰らう。
水が弾け、勢いに押されてディアニアに似た奇怪な生物は後方へ吹き飛ぶ。だが、オスティマの放った水槍はまだ動きを止めない。
敵に衝突して大きく広がった水が、そのまま網目のように枝分かれすると、今度は無数の細かな槍へと変化する。
吹き飛んだバケモノは、まだ地面に落下していない。細かな水槍の先を宙に浮いた敵に一斉に向ける。そしてすぐに放たれた。
さきほどは敵に衝突して散った水だが、今度は硬質になっていた。凍り付いているわけではないのに、水槍の表面はがっちりと硬い。
その無数の槍が、四方八方からバケモノの体に突き立っていく。
細長い体にいくつも足を生やした異形の体に、針山の様に細かな水槍が突き刺さっている。ここへ至ってもまだ動きを見せないバケモノ。もしやすでにこの攻撃で絶命したのかとも思えるが、オスティマはまだ手を緩めない。
『トドメだっ!』
オスティマはそう叫びながら、ドラゴンの羽をばっと開いた。
水の槍で針山のようになった敵生物。
その状態で、無数の水槍が一気に炸裂したのだ。水の爆発。それも体に突き刺さった水槍が炸裂するので、すなわち体の中から爆発を受けることになる。
ばしゃあぁぁぁぁんっ、と、激しい水音が響いた。
……さきほどから激しい水音が聞こえて来ていたが、さらに一際大きな爆発音が広がり、岩陰に隠れている水萌はびくっと肩を震わせる。
一体何が起こっているのか。確認したいが、『ミナモは見るな』と言われてしまった。……海から出てきた黒い卵。
なにかおぞましい怪物が入っているに違いない。
見るな、というのは、もしかすれば直視すると体が石になるとか目が腐るとか、そんなことなのではないだろうか。なんかそういうの、ファンタジーでありそうだ。――と、水萌は妙に曲解しており、戦闘の気配をひしひしと感じながらそれを絶対に覗くまいと、岩に背を預けたままじっとしている。
正直言えば、見てみたい。
確かに恐怖心もあるが、同じくらい好奇心もあった。今すぐそこで、普通の日常生活では決して目にしないような非現実的な出来事が起こっているのだ。
激しい水の爆発で、辺りは濃い霧に包まれていた。
『…………』
オスティマは、ふよふよと宙に浮いたまま、その霧を注意深く見ていた。
宙に浮く彼だが、心中は、浮かない。
水萌との魂リンクを受けて、彼女の中に宿る力が彼の中に流入してきた。それによって『水精錬金』を行えたが……完璧には扱い切れていない自覚があった。
水を自在に操り、攻撃を繰り出しているが……だが、かの術はもっと強力な攻撃を放てるはずなのだ。
水を媒体にして、金属を精製できる。頭に思い描くだけで、強力な武器を造り出せる。それこそ『水精錬金』の神髄であるはずだが、どうにもそこには至っていない。
古代アトランティスの神秘の術。
やはり、自分ではそれを扱えないのか。偉大な祖先の力を再現することはできないのか。そう思い、落胆してしまう。――そんな心が、隙を生んだか。
霧の中に、ゆらり、と影が動いたのを、見逃してしまう。
ふわり、と風が吹き、霧が運ばれる。……奇怪な怪物が再び姿を露にした。吹き飛ばされ、突き刺され、爆発させられた。それを受けてなお、バケモノは無傷だったのだ。
細長い胴体から伸びる足のうち二つを振るった。オスティマは反応が遅れ、それを真正面から受けてしまう。頭部に最も近い足が一対、ずるりと伸び進んできたのだ。通常の生物の常識を無視した動きである。
硬い足は、棘が連なっている。細かな棘をぬいぐるみの柔らかい皮膚に突き立てながら、二本の足は伸び進む勢いのまま、彼を突き飛ばした。
『んぐあっ!』
ぬいぐるみなので、痛みはない。だが不意打ちへの驚きで妙な声を上げてしまう。オスティマは後方へと吹き飛んでいく。
「あ……ドラコ!?」
吹き飛んだオスティマは、岩陰に隠れていた水萌の傍へぼとん、と落ちた。
『お、おうミナモ』
「大丈夫、ドラコっ!?」
『ああ。ぬいぐるみに魂を宿して正解だったな。まったく痛くねえや』
心配そうにのぞき込む少女に対して、へへへ、と笑って答えるオスティマ。だがすぐに笑みを止める。
『――って、ミナモ、あぶねえっ! 逃げろ!』
「へ?」
オスティマがぬいぐるみの腕で水萌の手を握り、引っ張った。その力では彼女の体を動かせなかったが、水萌はすぐに彼の意図を察し、自らの足で立ち上がって駆け出した。
数歩駆けてから水萌が振り返ると、なんと、それまで背を預けていた大きな岩が力強く砕かれた。……なにやら赤っぽく細長いモノが、岩を割り砕いたのだ。
「えっ、……あ、あれって……」
水萌は、長く伸びるモノの先を視線で辿る。ディアニアに似たバケモノの姿を、視界に収める。
『あれが、敵だ。……すまん。ひとまずここはミナモに見せないまま俺がやっちまおうと思ったんだが。せいぜいミナモの力を借りてるだけの俺じゃ、仕留めきれなかったんだ』
「あたしに見せないうちに? どうして?」
『どうして、って、そりゃお前……ああいうの、お前みたいな女の子にはちょっとこう、目に毒だろ。なかなかエグい見た目してるだろ』
「エグい……」
ずるずる、と、伸ばしていた足を縮め込んでいくバケモノ。その姿を、じ、と水萌は見る。そしてぽつりと言う。
「ううん。別に、大丈夫だけど」
『なに?』
「あたし、基本的に虫とか大丈夫なタチなんだよね。だから別に、アレを見ただけで気分が悪くなったりとか、そういうことはないかなあ」
特に強がりを言っているふうでもなく、ごく平然と言う水萌。
オスティマは彼女に敵の姿を見せてトラウマなど与えてしまっては事だと思って、岩陰に隠れているよう言ったのだが、どうやら全くの杞憂だったらしい。
『平気だってんならちょうどいい! いっちょ、お前の力でアレをぶっ潰してやってくれ、ミナモ!』
「えぇっ? いや、確かに虫とか殺すのも平気な方だけどさ、さすがにアレは……。だってあたしまだ……っ」
言いかけていたところ、ぞくり、と悪寒を感じて言葉を止めた。オスティマに向けていた視線を、すぐに敵へと向け直す。
――バケモノが、またも一対の足を、今度は水萌に向けて勢いよく伸ばして来ていたのだ。
その細長い足で少女の体を殴ろうというのか、はたまた締め上げようというのか、いずれかは分からないが、とにかく明らかな殺意を以ってぎゅんと伸び進んで来る。
「う、わあっ!?」
少女がつい先ほど言いかけていた続きは、こうだ。
『あたしまだ、戦い方とかわかんないよ!』
――と。
水萌は身の危険を感じ、思わず頭を隠しながら身をかがめた。
そんな少女の頭をめがけて、二本の足は勢いをなお増して伸びて来る――が。
ばしゃあああん、と。
突如、激しい水音が鳴る。……迫って来た二本の赤い足は、水の壁に遮られて動きを止めた。
「…………、え?」
顔を上げた水萌は、それを見てきょとんとする。地面から水が湧き上がって来て、薄い膜を張るように水萌とオスティマの周囲を球状に囲っていた。それがまるでシールドのように、敵の攻撃を防いだのだ。
「なにこれ。ドラコ、あなたが守ってくれたの?」
岩陰に隠れていたので、さきほどのオスティマとバケモノとの戦闘は目にはしていないが、彼が『水精錬金』なる術を使って水を自在に操っていたことは察知していた。
ではこれも、きっと彼のおかげだと思った。が、ぬいぐるみはふるふるとその顔を左右に振る。
『いいや、俺じゃない』
「あなたがやったんじゃない? え、じゃあ一体……」
『そりゃお前に決まってるだろ』
「あ、あたしが? え、あたしこんなことできないよ……」
『無意識でやったのか。さすがだな』
「え、え?」
『まあ、さっきも言った通り、儀式直後で力が活性化してるんだ。その恩恵を受けて俺でさえ術を使えたんだから……ミナモが使えないわけがないだろう』
いっそ自分のことの様に自慢げに言うオスティマ。
『水を自在に操り、あるいは物質を変質させ、さらには水を媒体にして金属を精製する奇跡の術、【水精錬金】。水の壁を造って防御するなんて序の口だろう。――さあ、反撃するんだミナモ!』
オスティマは高らかに言うのだが、水萌はまだ状況についていけない。
スク水姿の少女は、ぽかんと呆けた顔のまま――すぐそばでふよふよと宙に浮いているぬいぐるみと、遠く離れた先に多足で立つバケモノを交互に見ていた。
淡い月明りは心許なく、辺りは薄い暗がりに包まれている。岸から先、遠く続く海は、照りつける光がない以上もはや深い闇の世界だ。
――そんな暗き深淵から現れたそれは、まさに地獄からやってきた魔物のように思える。
大きな、黒い卵。
二メートルほどあるだろうか、巨大な卵である。海中から立ち上った水柱の中から現れ、水柱が引いた後、そいつはそのまま宙に浮いた。
「なになに、なにあれっ!?」
水萌が、わたわたと騒ぐ。
夜中の海岸で一人スクール水着という格好でも、恥じらう余裕はない。海から突然、謎の物体が現れたのだ。
黒い卵はじっとりと水に濡れて、緩やかな丸みの上に滴を滑らせている。
それが異様に怪しく映り、少女の顔を強張らせる。
『敵だ……。さっそく来やがったんだ』
「てて、敵って……! さっき言ってた、せーたい兵器、とかいうやつ? アレが?」
地上侵略を目論む、海底のテロリスト。そいつらは、独自に作り出した生体兵器を用いて地上に攻め入るつもりなのだと、この海岸へ来る道すがらぬいぐるみの彼から聞いた。
いま目の前にあるあの黒い卵が、その兵器なのか。
「でっ、でも、敵が来るのは二週間後とか言ってたじゃない!」
『ああ。そのはずだった。確かな情報筋でそう聞いていたんだが。……もしや俺が地上へ出たのを悟られて、追手を寄越したのか。生体兵器もまだ完成していないはずだが……』
オスティマがそう言ったのと同時。黒い物体に、パキ、と、亀裂が入った。一筋、二筋……亀裂が広がり、やがて『殻』が割れ始める。
おぞましい、気配がした。
『ミナモ、アレを見るな! 岩陰に隠れろっ!』
オスティマが叫んだ。――バケモノの姿を、いきなり少女に見せてしまうのは酷だと判じたのだ。
水萌はびくっと肩を震わせると、すぐに彼の言う通りにした。全く状況が呑み込めないが、とにかく急いで、近くの岩陰に姿を隠したのだ。
割れかかった殻を押し破り、中から、怪物が姿を現した。
ずるり、と、細長いモノが伸びてきた。蛸の足のような赤っぽいモノが、うねうねと蠢きながら殻を破って出て来る。一本ではない。二本、三本、と……。やがて卵が大きく割れ開くと、それらの足の付け根――太い胴体が露になった。
ディアニアという、特殊な古生生物がいる。
細長く、骨格を持たない柔らかな胴体に、左右に対となった足を持つ、いわゆる『足つき蠕虫』のような体である。足には細かな棘が連なり、頭部には目はなく、吻と、一対の棘がある。
目の前の怪物は、そのディアニアと酷似した姿をしていた。
ただし決定的に異なる点がある。化石として発見されたディアニアは6センチほどの体長であるのに対し、今、卵から這い出て複数の足を地に着けたこのバケモノは、一メートルを優に超える大きさなのである。
中身を失って空になった卵は、ゴトン、と地に落ちたかと思うと、どろどろと溶けて消えていく。酸で溶かされたように煙が立ち上った。
その薄い煙が、バケモノの足元に立ち込める。
まるで舞台に焚かれるスモークのようである。ただし淡い月明りだけでは演者を囃し立てる明るい演出効果もなく、ただただ怪しさが増すばかりだ。
夜の海岸で、宙に浮く赤いドラゴンのぬいぐるみと、棘のついた何本もの足で地に立つバケモノが、対峙する。
(な、なにっ? 何が起こってるの……っ!?)
水萌は、少し離れた岩の影に身を隠している。バケモノの姿は見ていない。ここから顔をのぞかせても、暗くてよく分からない。
あるいはそれで幸いであったかもしれない。
卵から出現したバケモノ――足はついているものの、大きく見れば蠕虫のようなあの薄気味悪い姿は、通常、少女が直視できるモノではない。なればこそオスティマは、水萌に身を隠すよう促したのだ。さすがにまだ戦いの心構えもできていないだろう内に、早々にトラウマなど植え付けてしまってはまずい。
もはや魂リンクを交わした彼女には、今後、戦いの宿命を負ってもらわねばならないのだから。
あれこそ、戦うべき敵なのだ。
『まさか、こんなに早く対面することになるとは思わなかった……!』
オスティマはそう言って舌打ちした。ぬいぐるみの素材では、チッ、という音は出ないが。
水萌と出会い、まだ魂リンクの儀式を終えたばかりだというこのタイミングで敵がやって来たのはまさに時期尚早。
まずい状況である。
……ただ、一つ幸いであるとすれば、本当に今まさに儀式を終えたばかりのタイミングだったこと。
背後の岩陰に隠れている水萌は、スク水姿である。――彼女の服を水着へ変質させたのは、他の誰でもないオスティマだ。
本来、『大いなる海の力』を持つのは水萌であり、その力の行使は彼女にしかできない。
ただし魂をリンクさせた直後で力が活性化され、余剰分と言うべきか――力の一部が、オスティマの中へも流入してきている。今なら、オスティマも大いなる海の力の恩恵を得られる。彼にも『水精錬金』を扱えるのだ。
いくらなんでも、水萌はまだ戦う心積もりなど出来ていようもないだろう。
だが、彼なら。
敵との戦いのために、体さえ捨てて地上へ出てきたほどだ。もとより覚悟はある。
生体兵器『海蟲』。
その姿を実際に見たのは初めてだったが、おぞましい姿を前に怯むこともない。
卵から這い出て、地に降り立ったバケモノはまだ動きを見せない。オスティマは、つぶらなアクリル素材の瞳をキリリと光らせた。
『見せてやるぜ、古代アトランティスの神秘の術――【水精錬金】!』
はたして目の前のバケモノに言語を理解するほどの智恵が備わっているかは疑わしいが、オスティマは堂々と宣言した。
そして、意識を集中させる。
ぬいぐるみに瞼はないが、目を閉じて神経を集中させているような雰囲気だ。
ざざざざざ――と、オスティマの周囲に水が巻き起こった。すぐ近くの海からではなく、岩肌の地面から水が生じたのだ。
まっすぐ渦巻いていた水柱は、ぐねり、と曲がる。
渦の先が鋭くとがる。そして、バシャァ、と激しい音を立てながら敵に向けて推進していった。まるで水製の槍が投擲されたようである。
依然、ピタリと止まったままのバケモノは超速で迫りくる水槍を回避する素振りすら見せず、そのままモロに直撃を喰らう。
水が弾け、勢いに押されてディアニアに似た奇怪な生物は後方へ吹き飛ぶ。だが、オスティマの放った水槍はまだ動きを止めない。
敵に衝突して大きく広がった水が、そのまま網目のように枝分かれすると、今度は無数の細かな槍へと変化する。
吹き飛んだバケモノは、まだ地面に落下していない。細かな水槍の先を宙に浮いた敵に一斉に向ける。そしてすぐに放たれた。
さきほどは敵に衝突して散った水だが、今度は硬質になっていた。凍り付いているわけではないのに、水槍の表面はがっちりと硬い。
その無数の槍が、四方八方からバケモノの体に突き立っていく。
細長い体にいくつも足を生やした異形の体に、針山の様に細かな水槍が突き刺さっている。ここへ至ってもまだ動きを見せないバケモノ。もしやすでにこの攻撃で絶命したのかとも思えるが、オスティマはまだ手を緩めない。
『トドメだっ!』
オスティマはそう叫びながら、ドラゴンの羽をばっと開いた。
水の槍で針山のようになった敵生物。
その状態で、無数の水槍が一気に炸裂したのだ。水の爆発。それも体に突き刺さった水槍が炸裂するので、すなわち体の中から爆発を受けることになる。
ばしゃあぁぁぁぁんっ、と、激しい水音が響いた。
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一体何が起こっているのか。確認したいが、『ミナモは見るな』と言われてしまった。……海から出てきた黒い卵。
なにかおぞましい怪物が入っているに違いない。
見るな、というのは、もしかすれば直視すると体が石になるとか目が腐るとか、そんなことなのではないだろうか。なんかそういうの、ファンタジーでありそうだ。――と、水萌は妙に曲解しており、戦闘の気配をひしひしと感じながらそれを絶対に覗くまいと、岩に背を預けたままじっとしている。
正直言えば、見てみたい。
確かに恐怖心もあるが、同じくらい好奇心もあった。今すぐそこで、普通の日常生活では決して目にしないような非現実的な出来事が起こっているのだ。
激しい水の爆発で、辺りは濃い霧に包まれていた。
『…………』
オスティマは、ふよふよと宙に浮いたまま、その霧を注意深く見ていた。
宙に浮く彼だが、心中は、浮かない。
水萌との魂リンクを受けて、彼女の中に宿る力が彼の中に流入してきた。それによって『水精錬金』を行えたが……完璧には扱い切れていない自覚があった。
水を自在に操り、攻撃を繰り出しているが……だが、かの術はもっと強力な攻撃を放てるはずなのだ。
水を媒体にして、金属を精製できる。頭に思い描くだけで、強力な武器を造り出せる。それこそ『水精錬金』の神髄であるはずだが、どうにもそこには至っていない。
古代アトランティスの神秘の術。
やはり、自分ではそれを扱えないのか。偉大な祖先の力を再現することはできないのか。そう思い、落胆してしまう。――そんな心が、隙を生んだか。
霧の中に、ゆらり、と影が動いたのを、見逃してしまう。
ふわり、と風が吹き、霧が運ばれる。……奇怪な怪物が再び姿を露にした。吹き飛ばされ、突き刺され、爆発させられた。それを受けてなお、バケモノは無傷だったのだ。
細長い胴体から伸びる足のうち二つを振るった。オスティマは反応が遅れ、それを真正面から受けてしまう。頭部に最も近い足が一対、ずるりと伸び進んできたのだ。通常の生物の常識を無視した動きである。
硬い足は、棘が連なっている。細かな棘をぬいぐるみの柔らかい皮膚に突き立てながら、二本の足は伸び進む勢いのまま、彼を突き飛ばした。
『んぐあっ!』
ぬいぐるみなので、痛みはない。だが不意打ちへの驚きで妙な声を上げてしまう。オスティマは後方へと吹き飛んでいく。
「あ……ドラコ!?」
吹き飛んだオスティマは、岩陰に隠れていた水萌の傍へぼとん、と落ちた。
『お、おうミナモ』
「大丈夫、ドラコっ!?」
『ああ。ぬいぐるみに魂を宿して正解だったな。まったく痛くねえや』
心配そうにのぞき込む少女に対して、へへへ、と笑って答えるオスティマ。だがすぐに笑みを止める。
『――って、ミナモ、あぶねえっ! 逃げろ!』
「へ?」
オスティマがぬいぐるみの腕で水萌の手を握り、引っ張った。その力では彼女の体を動かせなかったが、水萌はすぐに彼の意図を察し、自らの足で立ち上がって駆け出した。
数歩駆けてから水萌が振り返ると、なんと、それまで背を預けていた大きな岩が力強く砕かれた。……なにやら赤っぽく細長いモノが、岩を割り砕いたのだ。
「えっ、……あ、あれって……」
水萌は、長く伸びるモノの先を視線で辿る。ディアニアに似たバケモノの姿を、視界に収める。
『あれが、敵だ。……すまん。ひとまずここはミナモに見せないまま俺がやっちまおうと思ったんだが。せいぜいミナモの力を借りてるだけの俺じゃ、仕留めきれなかったんだ』
「あたしに見せないうちに? どうして?」
『どうして、って、そりゃお前……ああいうの、お前みたいな女の子にはちょっとこう、目に毒だろ。なかなかエグい見た目してるだろ』
「エグい……」
ずるずる、と、伸ばしていた足を縮め込んでいくバケモノ。その姿を、じ、と水萌は見る。そしてぽつりと言う。
「ううん。別に、大丈夫だけど」
『なに?』
「あたし、基本的に虫とか大丈夫なタチなんだよね。だから別に、アレを見ただけで気分が悪くなったりとか、そういうことはないかなあ」
特に強がりを言っているふうでもなく、ごく平然と言う水萌。
オスティマは彼女に敵の姿を見せてトラウマなど与えてしまっては事だと思って、岩陰に隠れているよう言ったのだが、どうやら全くの杞憂だったらしい。
『平気だってんならちょうどいい! いっちょ、お前の力でアレをぶっ潰してやってくれ、ミナモ!』
「えぇっ? いや、確かに虫とか殺すのも平気な方だけどさ、さすがにアレは……。だってあたしまだ……っ」
言いかけていたところ、ぞくり、と悪寒を感じて言葉を止めた。オスティマに向けていた視線を、すぐに敵へと向け直す。
――バケモノが、またも一対の足を、今度は水萌に向けて勢いよく伸ばして来ていたのだ。
その細長い足で少女の体を殴ろうというのか、はたまた締め上げようというのか、いずれかは分からないが、とにかく明らかな殺意を以ってぎゅんと伸び進んで来る。
「う、わあっ!?」
少女がつい先ほど言いかけていた続きは、こうだ。
『あたしまだ、戦い方とかわかんないよ!』
――と。
水萌は身の危険を感じ、思わず頭を隠しながら身をかがめた。
そんな少女の頭をめがけて、二本の足は勢いをなお増して伸びて来る――が。
ばしゃあああん、と。
突如、激しい水音が鳴る。……迫って来た二本の赤い足は、水の壁に遮られて動きを止めた。
「…………、え?」
顔を上げた水萌は、それを見てきょとんとする。地面から水が湧き上がって来て、薄い膜を張るように水萌とオスティマの周囲を球状に囲っていた。それがまるでシールドのように、敵の攻撃を防いだのだ。
「なにこれ。ドラコ、あなたが守ってくれたの?」
岩陰に隠れていたので、さきほどのオスティマとバケモノとの戦闘は目にはしていないが、彼が『水精錬金』なる術を使って水を自在に操っていたことは察知していた。
ではこれも、きっと彼のおかげだと思った。が、ぬいぐるみはふるふるとその顔を左右に振る。
『いいや、俺じゃない』
「あなたがやったんじゃない? え、じゃあ一体……」
『そりゃお前に決まってるだろ』
「あ、あたしが? え、あたしこんなことできないよ……」
『無意識でやったのか。さすがだな』
「え、え?」
『まあ、さっきも言った通り、儀式直後で力が活性化してるんだ。その恩恵を受けて俺でさえ術を使えたんだから……ミナモが使えないわけがないだろう』
いっそ自分のことの様に自慢げに言うオスティマ。
『水を自在に操り、あるいは物質を変質させ、さらには水を媒体にして金属を精製する奇跡の術、【水精錬金】。水の壁を造って防御するなんて序の口だろう。――さあ、反撃するんだミナモ!』
オスティマは高らかに言うのだが、水萌はまだ状況についていけない。
スク水姿の少女は、ぽかんと呆けた顔のまま――すぐそばでふよふよと宙に浮いているぬいぐるみと、遠く離れた先に多足で立つバケモノを交互に見ていた。
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13人の神がいる異世界《アタラクシア》にこの世界を治癒する為の魔術、異界人召喚によって呼ばれた主人公
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※表紙イラストはAIイラスト自動作成で作っています

三歳で婚約破棄された貧乏伯爵家の三男坊そのショックで現世の記憶が蘇る
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貧乏伯爵家の三男坊のアラン令息
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千変万化の最強王〜底辺探索者だった俺は自宅にできたダンジョンで世界最強になって無双する〜
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およそ30年前、地球にはダンジョンが出現した。それは人々に希望や憧れを与え、そして同時に、絶望と恐怖も与えた──。
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異世界召喚でクラスの勇者達よりも強い俺は無能として追放処刑されたので自由に旅をします
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クラスで授業していた不動無限は突如と教室が光に包み込まれ気がつくと異世界に召喚されてしまった。神による儀式でとある神によってのスキルを得たがスキルが強すぎてスキル無しと勘違いされ更にはクラスメイトと王女による思惑で追放処刑に会ってしまうしかし最強スキルと聖獣のカワウソによって難を逃れと思ったらクラスの女子中野蒼花がついてきた。
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45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
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2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
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スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
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小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
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