47 / 80
シーズン1/第二章
教会の少女
しおりを挟む
【新暦3820年/第5の月/12日】
暖かな陽気に照らされ、じんわりと熱を蓄え始める石畳。その道を挟んで、石造りの建物が立ち並ぶ。どれもさほど背は高くなく、その背後には遠くまで連なる山脈が見える。
周りを自然に囲まれた、小さな街である。
また、辺りは静かで行き交う人々もあまり多くはないことから、この街が華々しく栄えた都市部ではないことが窺えた。
とはいえ、寂れた街でもない。
街の中央通りらしいこの石畳の街道を歩く人は、確かにひしめくほどの数ではないものの、みな一様にその表情は明るく活気がある。都会らしい喧騒はないが、閑散たる田舎でもない。街自体は小さくとも、そこに暮らす人々の心は広く大らかなのである。
セパディア皇国の西部、イリアス地区。そのうち最も歴史の古い、石造りの街――アプルパリス。美しい街並みと、住人の活気と明るさが自慢の街である。
とりわけ街の明るさに一役買っているのが、街道の中央を足早に駆ける、とある少女だ。
カッ、カッ、とステップを踏むような軽快な靴音を鳴らす少女は、紺色の修道服を着ている。
上下一続きの服に、肩までかかる大きな白い襟。修道服のタイプとしてはベールではなくフード。フードを被った少女は、その端から淡い水色の髪先をちらつかせる。そして少女の瞳は、深い水底を覗き込んだときに見るような色濃い碧眼である。
「おや、ルミナちゃん。おはよう」
「おはようございます!」
四十代ほどのふくよかな女性が、笑顔で少女に挨拶をする。ルミナ、と呼ばれた少女は、幼さを前面に押し出したような活発な笑顔で挨拶を返した。
少女がやって来たのは花屋だ。色とりどり、様々な種類の花が取り揃えられた店はまさに華々しい。多数の花の香りで満たされた室内は、ともすれば香りがきつすぎると感じる者もいるだろうが、少女にはむしろこれが心地よかった。
「今日はどれにする?」
「そうだなあ、うーんと……」
陳列された花々はどれも鮮やかで目を引かれる。少女は吟味するように、それらをじっと見まわす。
「じゃあ、これ! これください」
少女が指差したのは、青い花だった。
少女の瞳のように鮮やかな青色だ。懐からがま口財布を取り出し、代金を支払う。代金を受け取った女店主は手際よく花束を包むと、溌剌とした笑顔を向ける少女にそれを手渡した。
花屋を出た少女は、また石畳の道を歩く。途中、行き交う人々にもれなく声をかけられる。その度、少女は元気な笑顔を振りまいていた。
小さな街の中で、この少女を知らぬ者はいないだろう。
一つは、彼女が飛び切り明るい性格であり、誰とでも気さくに話すので、街の住人のほとんどと親しい仲であるから。
そしてもう一つ。
彼女が今歩いている、街の中央通り。その先の突き当りには、周囲の建物に比べて頭一つ高い建物がある。趣のあるレンガ造りのそれは、セパディア皇国の中で最も歴史ある教会堂だ。街唯一の教会はまさに街の中心であり、もっとも住人が集まる場所といえる。
少女は、そこで暮らしている。
慈悲深きジャルダン聖教会は、捨て子や身寄りのなくなった子供たちを保護し、各地の教会堂で育てている。理由は問わず、孤児はもれなく教会堂に預けられ、十八歳になるまで面倒を見てもらう。
水色の髪に碧眼のこの少女――ルミナは、この街の教会で育った。現在、このモルガノット教会堂で暮らす孤児は彼女だけだ。
街の中心、モルガノット教会堂。当然、そこで暮らす少女ルミナのことを知らない住人はいないわけである。さらに彼女自身、それはもう飛び切りに明るい性格であり、誰とでも気さくに話してすぐにでも親しくなれる性分であるから、むしろこの街で彼女のことを認知せずに暮らすことなど不可能とさえ言える。
「ただいま帰りました、ローマン神父!」
「おかえりなさい、ルミナ」
青色の花の束をその手に抱えながら、少女は教会の本堂に入った。身廊の奥、祭壇の方で神父が台座の掃除をしていた。
五十を過ぎた頃の、細身で朗らかな男である。眼鏡をかけた男は、きれいな花を持つ少女ににっこりと笑んだ。
ローマン。
もう十年もこの教会堂で神父を務めている彼は、ルミナにとってはまさに父に等しい。まだ乳吞み子だった時点からこの教会堂で預けられることとなり、以来、ずっとここで、この街で、育ってきた。
当然、彼以外にも多くの関係者や先達の子らにも世話をしてもらってきたが、それでもやはりローマン神父こそが彼女にとっての親なのである。
「さっそく、花を交換しておいてくれるかい」
「はい!」
ルミナが買いに出ていた花は、本堂入り口のところに飾るためのものだ。礼拝に来た教徒を迎えるために入り口には常に花を飾っており、おおよそ三日に一回ほどのペースで新たな花に取り替えている。新しい花を買いに行くことも含め、花の管理はルミナに一任されている。
元々花瓶に差してあった赤い花から、さきほど買った青い花へ。
慣れた手際で、花瓶の花を取り換えるルミナ。古い方の花は、しかしまだダメになったわけではない。
「これ、また私の部屋に持ってっていいですか?」
「ああ、いいとも」
まだきれいな花を捨てるのは気が引ける。ルミナは、古い方の花を毎度自分の部屋に飾りなおしている。この赤い花も、今から部屋に持っていく。
ただし、この赤い花よりも以前に取り換えた花が、まだ彼女の自室にはきれいなままで残っていた。しかも、さらにその前の花もまだかろうじて生きているのだ。
そんな調子で、多い時では五種類や六種類ほど花で部屋が彩られることとなる。それだけ部屋の景観は華々しくなるが、本堂入り口の花も含めて多くの花の面倒を同時に見ることにもなるのでさすがに大変だ。
そのような状況になり得るのは、ひとえに、彼女の花の管理技術が卓越しているからこそである。
水やりや、花瓶の水の交換といった作業、その『勘』が良いのだ。他の者がやるよりもずっと花が長生きする。それはルミナも自負するところである。
ルミナは急いで赤い方の花を自室の花瓶に差しに行くと、すぐに戻って来て本堂内の掃除を始めた。
掃除は毎日やっていることだが、今日は特に気合を入れてやらなければならない。本日は午後から礼拝があるのだ。街の人々が清らかな心を携えて祈りを捧げにやって来るというのに、その教会堂が清潔でなくてはどうするか。神父以下、モルガノット教会堂に勤める他の教職者たちも目を見張るほどの張り切りようで、ルミナはせっせと動き回った。
ルミナは、ジャルダン聖教会の庇護のもと、この教会堂で育てられてきた。当然、ジャルダン聖教の敬虔なる信徒である。教会のために働くのは義務だ。
強制されたものではない。彼女自身の意思である。
孤児である自分が幸福な日々を送れているのは紛れもなく教会のおかげだ。単純に衣食住を提供されていることはもちろん、教会の関係者はみな優しいし、教会堂で暮らすから街の住人たちとも関わりを持てる。
この幸せな生活環境は、教会が自分を拾ってくれたからこそ得られたものである。
多大な施しを受けている分、少しでもお返しをしなくてはならない。
当然の意思である。
ルミナだけではない。各地の教会堂で暮らす子らも同様に、そのような精神で以って進んで教会の仕事を手伝うものである。
そして、教会育ちの子らは、十八歳になって育ちの教会堂から巣立ったのちには、そのまま教会関係の仕事に就くことが多い。これも当然、強制されるものではないが、それまで教会の恩恵を受けて育ってきた者がそののちも教会へ貢献しようと考えるのは自然である。
ルミナもそのつもりだ。
教会を巣立った子らが進む道は一般的には大きく二つ。司祭や修道女など聖職者になるか、または教会が抱える正義執行機関・ブルック騎士団に所属する騎士となるか。――あるいは三つめもある。中央教会直属の極秘の任務遂行機関があるのだとかルミナは聞いたことがあるが、その道へと進むこともあり得る。
いずれにしても同じことだ。どの道に進むべきかはまだ決めあぐねているものの、将来、教会のため――ひいては皇国民のためになる仕事に就く。少女は、すでにそう心に決めていて、今、教会の仕事を一生懸命手伝うのはそのための備えと思っている。
/
モルガノット教会堂の裏手には、森が広がっている。
それほど大きい森ではなく、遊歩道がぐるりと回っているので散歩には最適だ。
午後の礼拝が終了し、その後の片付けも終えたのち、夕食までに自由時間を与えられた。ルミナは自室の花の水遣りをしてから一人外に出る。特に散歩をしようと意識して出たわけではなかったが、特に目的もなくふらふらと歩くのならそれはすでに散歩だ。
太陽は地平線の方へ向かってゆっくりと動き、そろそろ夕暮れを予感し始める頃だ。道に落ちる少女の影が、少しずつ背を伸ばし始めている。
今日の夕食はなんだったかな、などと考えながら、のんびりと森の道を歩く。
張り出されているメニュー表はいつも朝に確認するのだが、今日は忙しなく動き回っていたせいか献立内容を忘れてしまった。確か、嬉しいメニューだったはずだが、失念だ。
献立内容を思い出せないもどかしさと、早く食の悦びを得たいという焦燥感と、そんなことを考えていたら急に襲ってきた空腹感とを携えながら、少女は穏やかな遊歩道を歩く。
街の中央通りを歩けば必ず人に会う。街の人々と明るく挨拶を交わしながら歩くのも気分が晴れて良いものだが、こうして一人でのんびり静かに歩くのも気が落ち着いて良い。
物心ついた頃からモルガノット教会堂で生活をしていて、周りには神父他、教会堂の関係者がたくさんいた。教会で暮らしていれば、街の人々とも毎日のように接することとなる。
そんな、周囲に他人がいる環境というのはルミナにとって幸せである。一人で時間を過ごすのは苦手だ。いわゆる寂しがり屋なのである。
しかし、反して一人でのんびりとするこの空気感も実は好きなのだ。頭を空っぽにしてふらふら散歩などしていると、なんだかとても気が安らぐ。
他人といるのが幸せだとは言え、子供ながらにも気苦労はある。いつも周りに誰かいる、それが当然の生活だからこそこうして、ふと一人になってみると爽やかな解放感が得られる。
一人では寂しいが一人でいるのも好き。どうあがいても解消できない矛盾だ。
むう……、と、自分というのはどうにも難儀な性分の有しているものだと、自分に呆れ、唸る。
そうして歩いていると、いつの間にか森の奥の方まで来てしまっていた。木々に挟まれた狭い道から、一気に開けた場所に出る。
森の中の、湖だ。
澄んだ青色の湖を緑の木々が囲う。湖畔を一周するのに、ゆっくり歩いても三十分かからないほどの小さな湖だが、この青と緑のコントラストには自然の大らかさを感じざるにはいられない。
ルミナは、すう、と深く息を吸う。
体が中から洗われるような心地だ。
湖は、アプルパリス湖という。アプルパリスはこの街の名だが、街の名がそのまま湖につけられたのではなく、そもそもこの湖に寄り添うようにして成り立った街なのだ。それほど重要な湖である。
この湖のそこには、『神殿』がある。
湖面から覗いても、その影は確認できる。湖底になにか大きな物が沈んでいるように見えるが、それが神殿だ。
澄んだ湖の中に佇む神殿。さぞかし荘厳な光景であろうが、実際に湖に入ってそれを間近で見るということはできない。
ここは神聖な湖なのだ、こうして湖畔に近寄ることは制限されていないが、湖の中に入ることは固く禁止されている。不得心で遊泳などしてしまっては、街の住人から総叩きに遭うだろう。
「ふう……、そろそろ帰らないと。夕食に遅れちゃうな」
陽が陰り出したことに気付き、少女は呟いた。食事は時間厳守だ。時間に遅れては夕食抜きになりかねない。
そのまま踵を返し、来た道を戻ろうとする。……が、そのときだ。振り向こうとしたところで、視界の端に『なにか』が映った。
「――――っ!?」
ハッ、として、慌てて湖の方に向き直る。
湖の中心だ。
そこに、何かが浮かんでいるのだ。
ついさっきまではなかった。ルミナが帰ろうとしたちょうどそのタイミングで、静かに浮き上がって来たものらしい。
目を凝らし、驚愕するルミナ。
それは、人だった。
湖中から、人が浮かんできたのだ。背を湖面に上げ、動きがない。
「うそっ、そんな……!」
まさか水死体か? いやでも、まだ死んでいるとは限らない。
逡巡している暇はない。ルミナは躊躇なく、湖に向かって飛び込んでいった。立ち入り禁止の湖であろうが、人命がかかっているのでは致し方ない。
湖の遊泳は禁止だし、街の近くに海もない。実は、少女は『泳ぐこと』が初めてだったのだ。
それなのに、見事なクロールで湖の中心まで泳いだ。
無我夢中だったためにそんなことを意識していなかったが、なぜ泳ぎ方を知っていたのだろうか、それは彼女自身にもわからない。
湖に浮かんでいた人は、男性だった。まだ二十代半ばほどだろうか。……どうやら、水死体ではない。ぶくぶく、とあぶくが出ている。
「大丈夫ですかっ!?」
ルミナは男の肩を掴み、急いで顔を上げさせた。
「……げほっ、げほっ」
すぐに男はむせ返した。ちゃんと息がある。ひとまずルミナは安堵で胸を撫で下ろした。
「す、すまない……」
「ゆっくり、息して……。ひとまず岸まで一緒に泳ぎましょう、――ほら、つかまって」
ルミナは男に手を掴ませて、そのまま器用に足で水を掻いて岸まで泳いでいった。ここへ来て、少女は少し冷静になっていた。立ち入り禁止の神聖な湖に入ってしまっているという罪悪感はあるが、それは人命救助のために已む無しなのだと思えば拭える。
その上で感じるのは、水の心地よさだ。
……こんな時になんだが、少し、楽しい。冷たい水に浸かり、その中を泳ぎ進むのは、得も言われぬ心地よさを感じられた。
初めて『水泳』を行うはずなのに。
なぜか、とても体になじみがある。
「ふうっ……」
そんなことを考えているうちに、すぐに岸まで泳ぎ切った。
少女の手を借りて、男も陸へ上がる。
「ありがとう。た、助かったよ……」
ぜえぜえと肩で息をしつつ、男は少女に礼を言う。ブラウンの髪にしずくを滴らせる若い男は、俗的に言えば爽やかイケメンといった風体だ。
「いえ、大事がなさそうでよかったです」
当然、少女の方も髪先まで濡れている。紺色の修道服が、水に濡れて黒く変色した。
「君、教会の子なんだね。名前は?」
「名前、ですか? ……えっと、私はルミナ――」
名はルミナ。
改まるならフルネームを名乗るべきだろうか。
彼女は孤児だ。家の名などは知らない。
ただし、教会ぐらいの子らには名に関しての習わしがある。それぞれ、生活する教会堂の名を冠するのだ。十八歳になって教会を巣立ったのちにも、それは誇りとして名乗り続ける。
彼女は、その習わしに従ってのフルネームを名乗る。
「――ルミナ・モルガノットです」
名乗りつつ、少女は水に濡れたフードを脱ぐ。
少女の水色の髪は、肩口にかかるほどの長さ、いわゆるセミショート。その淡い水色の髪と、濃い碧の瞳のコントラストは実に美しく、思わず目を引かれる。
そんな少女の外見でもう一つ印象的なのが、目の下にちょんとついた泣きボクロだ。
碧眼の片側――左目の下に付された泣きボクロは、彼女の少女らしい魅力を引き立てている。
ルミナの顔は、波に揺れながら湖面に映っている。
水面に映る、ルミナ・モルガノットの顔。
反転しているので、水の中のルミナ――もう一人の少女は、右目下に泣きボクロがついているわけである。
暖かな陽気に照らされ、じんわりと熱を蓄え始める石畳。その道を挟んで、石造りの建物が立ち並ぶ。どれもさほど背は高くなく、その背後には遠くまで連なる山脈が見える。
周りを自然に囲まれた、小さな街である。
また、辺りは静かで行き交う人々もあまり多くはないことから、この街が華々しく栄えた都市部ではないことが窺えた。
とはいえ、寂れた街でもない。
街の中央通りらしいこの石畳の街道を歩く人は、確かにひしめくほどの数ではないものの、みな一様にその表情は明るく活気がある。都会らしい喧騒はないが、閑散たる田舎でもない。街自体は小さくとも、そこに暮らす人々の心は広く大らかなのである。
セパディア皇国の西部、イリアス地区。そのうち最も歴史の古い、石造りの街――アプルパリス。美しい街並みと、住人の活気と明るさが自慢の街である。
とりわけ街の明るさに一役買っているのが、街道の中央を足早に駆ける、とある少女だ。
カッ、カッ、とステップを踏むような軽快な靴音を鳴らす少女は、紺色の修道服を着ている。
上下一続きの服に、肩までかかる大きな白い襟。修道服のタイプとしてはベールではなくフード。フードを被った少女は、その端から淡い水色の髪先をちらつかせる。そして少女の瞳は、深い水底を覗き込んだときに見るような色濃い碧眼である。
「おや、ルミナちゃん。おはよう」
「おはようございます!」
四十代ほどのふくよかな女性が、笑顔で少女に挨拶をする。ルミナ、と呼ばれた少女は、幼さを前面に押し出したような活発な笑顔で挨拶を返した。
少女がやって来たのは花屋だ。色とりどり、様々な種類の花が取り揃えられた店はまさに華々しい。多数の花の香りで満たされた室内は、ともすれば香りがきつすぎると感じる者もいるだろうが、少女にはむしろこれが心地よかった。
「今日はどれにする?」
「そうだなあ、うーんと……」
陳列された花々はどれも鮮やかで目を引かれる。少女は吟味するように、それらをじっと見まわす。
「じゃあ、これ! これください」
少女が指差したのは、青い花だった。
少女の瞳のように鮮やかな青色だ。懐からがま口財布を取り出し、代金を支払う。代金を受け取った女店主は手際よく花束を包むと、溌剌とした笑顔を向ける少女にそれを手渡した。
花屋を出た少女は、また石畳の道を歩く。途中、行き交う人々にもれなく声をかけられる。その度、少女は元気な笑顔を振りまいていた。
小さな街の中で、この少女を知らぬ者はいないだろう。
一つは、彼女が飛び切り明るい性格であり、誰とでも気さくに話すので、街の住人のほとんどと親しい仲であるから。
そしてもう一つ。
彼女が今歩いている、街の中央通り。その先の突き当りには、周囲の建物に比べて頭一つ高い建物がある。趣のあるレンガ造りのそれは、セパディア皇国の中で最も歴史ある教会堂だ。街唯一の教会はまさに街の中心であり、もっとも住人が集まる場所といえる。
少女は、そこで暮らしている。
慈悲深きジャルダン聖教会は、捨て子や身寄りのなくなった子供たちを保護し、各地の教会堂で育てている。理由は問わず、孤児はもれなく教会堂に預けられ、十八歳になるまで面倒を見てもらう。
水色の髪に碧眼のこの少女――ルミナは、この街の教会で育った。現在、このモルガノット教会堂で暮らす孤児は彼女だけだ。
街の中心、モルガノット教会堂。当然、そこで暮らす少女ルミナのことを知らない住人はいないわけである。さらに彼女自身、それはもう飛び切りに明るい性格であり、誰とでも気さくに話してすぐにでも親しくなれる性分であるから、むしろこの街で彼女のことを認知せずに暮らすことなど不可能とさえ言える。
「ただいま帰りました、ローマン神父!」
「おかえりなさい、ルミナ」
青色の花の束をその手に抱えながら、少女は教会の本堂に入った。身廊の奥、祭壇の方で神父が台座の掃除をしていた。
五十を過ぎた頃の、細身で朗らかな男である。眼鏡をかけた男は、きれいな花を持つ少女ににっこりと笑んだ。
ローマン。
もう十年もこの教会堂で神父を務めている彼は、ルミナにとってはまさに父に等しい。まだ乳吞み子だった時点からこの教会堂で預けられることとなり、以来、ずっとここで、この街で、育ってきた。
当然、彼以外にも多くの関係者や先達の子らにも世話をしてもらってきたが、それでもやはりローマン神父こそが彼女にとっての親なのである。
「さっそく、花を交換しておいてくれるかい」
「はい!」
ルミナが買いに出ていた花は、本堂入り口のところに飾るためのものだ。礼拝に来た教徒を迎えるために入り口には常に花を飾っており、おおよそ三日に一回ほどのペースで新たな花に取り替えている。新しい花を買いに行くことも含め、花の管理はルミナに一任されている。
元々花瓶に差してあった赤い花から、さきほど買った青い花へ。
慣れた手際で、花瓶の花を取り換えるルミナ。古い方の花は、しかしまだダメになったわけではない。
「これ、また私の部屋に持ってっていいですか?」
「ああ、いいとも」
まだきれいな花を捨てるのは気が引ける。ルミナは、古い方の花を毎度自分の部屋に飾りなおしている。この赤い花も、今から部屋に持っていく。
ただし、この赤い花よりも以前に取り換えた花が、まだ彼女の自室にはきれいなままで残っていた。しかも、さらにその前の花もまだかろうじて生きているのだ。
そんな調子で、多い時では五種類や六種類ほど花で部屋が彩られることとなる。それだけ部屋の景観は華々しくなるが、本堂入り口の花も含めて多くの花の面倒を同時に見ることにもなるのでさすがに大変だ。
そのような状況になり得るのは、ひとえに、彼女の花の管理技術が卓越しているからこそである。
水やりや、花瓶の水の交換といった作業、その『勘』が良いのだ。他の者がやるよりもずっと花が長生きする。それはルミナも自負するところである。
ルミナは急いで赤い方の花を自室の花瓶に差しに行くと、すぐに戻って来て本堂内の掃除を始めた。
掃除は毎日やっていることだが、今日は特に気合を入れてやらなければならない。本日は午後から礼拝があるのだ。街の人々が清らかな心を携えて祈りを捧げにやって来るというのに、その教会堂が清潔でなくてはどうするか。神父以下、モルガノット教会堂に勤める他の教職者たちも目を見張るほどの張り切りようで、ルミナはせっせと動き回った。
ルミナは、ジャルダン聖教会の庇護のもと、この教会堂で育てられてきた。当然、ジャルダン聖教の敬虔なる信徒である。教会のために働くのは義務だ。
強制されたものではない。彼女自身の意思である。
孤児である自分が幸福な日々を送れているのは紛れもなく教会のおかげだ。単純に衣食住を提供されていることはもちろん、教会の関係者はみな優しいし、教会堂で暮らすから街の住人たちとも関わりを持てる。
この幸せな生活環境は、教会が自分を拾ってくれたからこそ得られたものである。
多大な施しを受けている分、少しでもお返しをしなくてはならない。
当然の意思である。
ルミナだけではない。各地の教会堂で暮らす子らも同様に、そのような精神で以って進んで教会の仕事を手伝うものである。
そして、教会育ちの子らは、十八歳になって育ちの教会堂から巣立ったのちには、そのまま教会関係の仕事に就くことが多い。これも当然、強制されるものではないが、それまで教会の恩恵を受けて育ってきた者がそののちも教会へ貢献しようと考えるのは自然である。
ルミナもそのつもりだ。
教会を巣立った子らが進む道は一般的には大きく二つ。司祭や修道女など聖職者になるか、または教会が抱える正義執行機関・ブルック騎士団に所属する騎士となるか。――あるいは三つめもある。中央教会直属の極秘の任務遂行機関があるのだとかルミナは聞いたことがあるが、その道へと進むこともあり得る。
いずれにしても同じことだ。どの道に進むべきかはまだ決めあぐねているものの、将来、教会のため――ひいては皇国民のためになる仕事に就く。少女は、すでにそう心に決めていて、今、教会の仕事を一生懸命手伝うのはそのための備えと思っている。
/
モルガノット教会堂の裏手には、森が広がっている。
それほど大きい森ではなく、遊歩道がぐるりと回っているので散歩には最適だ。
午後の礼拝が終了し、その後の片付けも終えたのち、夕食までに自由時間を与えられた。ルミナは自室の花の水遣りをしてから一人外に出る。特に散歩をしようと意識して出たわけではなかったが、特に目的もなくふらふらと歩くのならそれはすでに散歩だ。
太陽は地平線の方へ向かってゆっくりと動き、そろそろ夕暮れを予感し始める頃だ。道に落ちる少女の影が、少しずつ背を伸ばし始めている。
今日の夕食はなんだったかな、などと考えながら、のんびりと森の道を歩く。
張り出されているメニュー表はいつも朝に確認するのだが、今日は忙しなく動き回っていたせいか献立内容を忘れてしまった。確か、嬉しいメニューだったはずだが、失念だ。
献立内容を思い出せないもどかしさと、早く食の悦びを得たいという焦燥感と、そんなことを考えていたら急に襲ってきた空腹感とを携えながら、少女は穏やかな遊歩道を歩く。
街の中央通りを歩けば必ず人に会う。街の人々と明るく挨拶を交わしながら歩くのも気分が晴れて良いものだが、こうして一人でのんびり静かに歩くのも気が落ち着いて良い。
物心ついた頃からモルガノット教会堂で生活をしていて、周りには神父他、教会堂の関係者がたくさんいた。教会で暮らしていれば、街の人々とも毎日のように接することとなる。
そんな、周囲に他人がいる環境というのはルミナにとって幸せである。一人で時間を過ごすのは苦手だ。いわゆる寂しがり屋なのである。
しかし、反して一人でのんびりとするこの空気感も実は好きなのだ。頭を空っぽにしてふらふら散歩などしていると、なんだかとても気が安らぐ。
他人といるのが幸せだとは言え、子供ながらにも気苦労はある。いつも周りに誰かいる、それが当然の生活だからこそこうして、ふと一人になってみると爽やかな解放感が得られる。
一人では寂しいが一人でいるのも好き。どうあがいても解消できない矛盾だ。
むう……、と、自分というのはどうにも難儀な性分の有しているものだと、自分に呆れ、唸る。
そうして歩いていると、いつの間にか森の奥の方まで来てしまっていた。木々に挟まれた狭い道から、一気に開けた場所に出る。
森の中の、湖だ。
澄んだ青色の湖を緑の木々が囲う。湖畔を一周するのに、ゆっくり歩いても三十分かからないほどの小さな湖だが、この青と緑のコントラストには自然の大らかさを感じざるにはいられない。
ルミナは、すう、と深く息を吸う。
体が中から洗われるような心地だ。
湖は、アプルパリス湖という。アプルパリスはこの街の名だが、街の名がそのまま湖につけられたのではなく、そもそもこの湖に寄り添うようにして成り立った街なのだ。それほど重要な湖である。
この湖のそこには、『神殿』がある。
湖面から覗いても、その影は確認できる。湖底になにか大きな物が沈んでいるように見えるが、それが神殿だ。
澄んだ湖の中に佇む神殿。さぞかし荘厳な光景であろうが、実際に湖に入ってそれを間近で見るということはできない。
ここは神聖な湖なのだ、こうして湖畔に近寄ることは制限されていないが、湖の中に入ることは固く禁止されている。不得心で遊泳などしてしまっては、街の住人から総叩きに遭うだろう。
「ふう……、そろそろ帰らないと。夕食に遅れちゃうな」
陽が陰り出したことに気付き、少女は呟いた。食事は時間厳守だ。時間に遅れては夕食抜きになりかねない。
そのまま踵を返し、来た道を戻ろうとする。……が、そのときだ。振り向こうとしたところで、視界の端に『なにか』が映った。
「――――っ!?」
ハッ、として、慌てて湖の方に向き直る。
湖の中心だ。
そこに、何かが浮かんでいるのだ。
ついさっきまではなかった。ルミナが帰ろうとしたちょうどそのタイミングで、静かに浮き上がって来たものらしい。
目を凝らし、驚愕するルミナ。
それは、人だった。
湖中から、人が浮かんできたのだ。背を湖面に上げ、動きがない。
「うそっ、そんな……!」
まさか水死体か? いやでも、まだ死んでいるとは限らない。
逡巡している暇はない。ルミナは躊躇なく、湖に向かって飛び込んでいった。立ち入り禁止の湖であろうが、人命がかかっているのでは致し方ない。
湖の遊泳は禁止だし、街の近くに海もない。実は、少女は『泳ぐこと』が初めてだったのだ。
それなのに、見事なクロールで湖の中心まで泳いだ。
無我夢中だったためにそんなことを意識していなかったが、なぜ泳ぎ方を知っていたのだろうか、それは彼女自身にもわからない。
湖に浮かんでいた人は、男性だった。まだ二十代半ばほどだろうか。……どうやら、水死体ではない。ぶくぶく、とあぶくが出ている。
「大丈夫ですかっ!?」
ルミナは男の肩を掴み、急いで顔を上げさせた。
「……げほっ、げほっ」
すぐに男はむせ返した。ちゃんと息がある。ひとまずルミナは安堵で胸を撫で下ろした。
「す、すまない……」
「ゆっくり、息して……。ひとまず岸まで一緒に泳ぎましょう、――ほら、つかまって」
ルミナは男に手を掴ませて、そのまま器用に足で水を掻いて岸まで泳いでいった。ここへ来て、少女は少し冷静になっていた。立ち入り禁止の神聖な湖に入ってしまっているという罪悪感はあるが、それは人命救助のために已む無しなのだと思えば拭える。
その上で感じるのは、水の心地よさだ。
……こんな時になんだが、少し、楽しい。冷たい水に浸かり、その中を泳ぎ進むのは、得も言われぬ心地よさを感じられた。
初めて『水泳』を行うはずなのに。
なぜか、とても体になじみがある。
「ふうっ……」
そんなことを考えているうちに、すぐに岸まで泳ぎ切った。
少女の手を借りて、男も陸へ上がる。
「ありがとう。た、助かったよ……」
ぜえぜえと肩で息をしつつ、男は少女に礼を言う。ブラウンの髪にしずくを滴らせる若い男は、俗的に言えば爽やかイケメンといった風体だ。
「いえ、大事がなさそうでよかったです」
当然、少女の方も髪先まで濡れている。紺色の修道服が、水に濡れて黒く変色した。
「君、教会の子なんだね。名前は?」
「名前、ですか? ……えっと、私はルミナ――」
名はルミナ。
改まるならフルネームを名乗るべきだろうか。
彼女は孤児だ。家の名などは知らない。
ただし、教会ぐらいの子らには名に関しての習わしがある。それぞれ、生活する教会堂の名を冠するのだ。十八歳になって教会を巣立ったのちにも、それは誇りとして名乗り続ける。
彼女は、その習わしに従ってのフルネームを名乗る。
「――ルミナ・モルガノットです」
名乗りつつ、少女は水に濡れたフードを脱ぐ。
少女の水色の髪は、肩口にかかるほどの長さ、いわゆるセミショート。その淡い水色の髪と、濃い碧の瞳のコントラストは実に美しく、思わず目を引かれる。
そんな少女の外見でもう一つ印象的なのが、目の下にちょんとついた泣きボクロだ。
碧眼の片側――左目の下に付された泣きボクロは、彼女の少女らしい魅力を引き立てている。
ルミナの顔は、波に揺れながら湖面に映っている。
水面に映る、ルミナ・モルガノットの顔。
反転しているので、水の中のルミナ――もう一人の少女は、右目下に泣きボクロがついているわけである。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説

せっかくのクラス転移だけども、俺はポテトチップスでも食べながらクラスメイトの冒険を見守りたいと思います
霖空
ファンタジー
クラス転移に巻き込まれてしまった主人公。
得た能力は悪くない……いや、むしろ、チートじみたものだった。
しかしながら、それ以上のデメリットもあり……。
傍観者にならざるをえない彼が傍観者するお話です。
基本的に、勇者や、影井くんを見守りつつ、ほのぼの?生活していきます。
が、そのうち、彼自身の物語も始まる予定です。
千変万化の最強王〜底辺探索者だった俺は自宅にできたダンジョンで世界最強になって無双する〜
星影 迅
ファンタジー
およそ30年前、地球にはダンジョンが出現した。それは人々に希望や憧れを与え、そして同時に、絶望と恐怖も与えた──。
最弱探索者高校の底辺である宝晶千縁は今日もスライムのみを狩る生活をしていた。夏休みが迫る中、千縁はこのままじゃ“目的”を達成できる日は来ない、と命をかける覚悟をする。
千縁が心から強くなりたいと、そう願った時──自宅のリビングにダンジョンが出現していた!
そこでスキルに目覚めた千縁は、自らの目標のため、我が道を歩き出す……!
7つの人格を宿し、7つの性格を操る主人公の1読で7回楽しめる現代ファンタジー、開幕!
コメントでキャラを呼ぶと返事をくれるかも!(,,> <,,)
カクヨムにて先行連載中!

半分異世界
月野槐樹
ファンタジー
関東圏で学生が行方不明になる事件が次々にしていた。それは異世界召還によるものだった。
ネットでも「神隠しか」「異世界召還か」と噂が飛び交うのを見て、異世界に思いを馳せる少年、圭。
いつか異世界に行った時の為にとせっせと準備をして「異世界ガイドノート」なるものまで作成していた圭。従兄弟の瑛太はそんな圭の様子をちょっと心配しながらも充実した学生生活を送っていた。
そんなある日、ついに異世界の扉が彼らの前に開かれた。
「異世界ガイドノート」と一緒に旅する異世界

三歳で婚約破棄された貧乏伯爵家の三男坊そのショックで現世の記憶が蘇る
マメシバ
ファンタジー
貧乏伯爵家の三男坊のアラン令息
三歳で婚約破棄され
そのショックで前世の記憶が蘇る
前世でも貧乏だったのなんの問題なし
なによりも魔法の世界
ワクワクが止まらない三歳児の
波瀾万丈

貴族家三男の成り上がりライフ 生まれてすぐに人外認定された少年は異世界を満喫する
美原風香
ファンタジー
「残念ながらあなたはお亡くなりになりました」
御山聖夜はトラックに轢かれそうになった少女を助け、代わりに死んでしまう。しかし、聖夜の心の内の一言を聴いた女神から気に入られ、多くの能力を貰って異世界へ転生した。
ーけれども、彼は知らなかった。数多の神から愛された彼は生まれた時点で人外の能力を持っていたことを。表では貴族として、裏では神々の使徒として、異世界のヒエラルキーを駆け上っていく!これは生まれてすぐに人外認定された少年の最強に無双していく、そんなお話。
✳︎不定期更新です。
21/12/17 1巻発売!
22/05/25 2巻発売!
コミカライズ決定!
20/11/19 HOTランキング1位
ありがとうございます!
平凡冒険者のスローライフ
上田なごむ
ファンタジー
26歳独身動物好きの主人公大和希は、神様によって魔物・魔法・獣人等ファンタジーな世界観の異世界に転移させられる。
平凡な能力値、野望など抱いていない彼は、冒険者としてスローライフを目標に日々を過ごしていく。
果たして、彼を待ち受ける出会いや試練は如何なるものか……
ファンタジー世界に向き合う、平凡な冒険者の物語。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる